第4話
文字数 2,634文字
その後、いつの間にか私は眠っていたらしい。フローリングの上で夢を見た。地球かどこかもわからない真っ白な世界で、中学生の中野と散歩をする夢。「犬のもふもふした毛に埋もれたいんだ」と中野は真顔で言い、私たちはなぜか犬を探していた。探しながら見つからなくてもいいと感じ、手を繋いでいた。
いっそこのまどろみの中で死にたいと願いながら私は、人の気配で目を開けた。ここはたどり着いた天国、または地獄だろうか。そう思ったものの西陽は眩しく、身体は痛く、まだ地球は滅亡していないらしい。目の前に誰かの足があった。私は寝転がったまま視線を動かした。そこに立っていたのは、いるはずのない中野だった。何か言いたげに私を見下ろしている。
「……地球から出て行ったんじゃなかったの?」
スマホを見ると、中野を見送ってから2時間近くが経っていた。中野はしゃがみ、私は身体を起こし、同じ高さで見つめ合った。
「早見さん。帰れなくなった」
「え?」
至近距離から彼は淡々と述べた。
「僕を迎えに来るはずの社用ロケットが事故にあったらしい。どうやら爆破されたんだ」
「何それ」
「連絡があった。他の星の誰かに侵略者とでも間違えられたんだろうね。たまにあるんだ。こういう星域間トラブル」
どうするの? と尋ねようとしたものの、それより先に全身でどうしようと中野は訴えていた。突然、見放されたらしい彼。宇宙規模の迷子。可哀想な宇宙人だと、間もなく全滅する人類を差し置いて思った。そして、滅びゆく地球と共に死にゆく私。私たちは仲良く未来のない者同士だった。
「なんとか帰れないの?」
そう聞くと彼は首を横に振った。「もう、いろいろと間に合わないんだと思う」
「だからこのままここで終わりにするよ」
「おしまいって……」
「それに」
いつの間にか中野は悲壮感を消し去り、見たこともない瞳をしている。
「グラウンドに向かう途中に思ったんだ。僕は早見さんのことを置いていけない」
思いもよらない言葉に、私は返す言葉を失った。
「一緒にいてもいい? 彗星が来るまで」
私は頷いた。人生最後の都合のいいプレゼントだと思った。そして、この展開をどこかで待ち望んでいた自分を、心に鳴り響く警告音の正体を、滅亡までにやり残していた何かを、射抜くような中野の視線で知らされていた。彼の目は直視できないほど熱く、私の視線の先にはテーブルから転がり落ちた時計があった。時刻は17時32分。終わりまで4時間ほどしかない。彗星に並ぶ速度で今、私は何に落ちているのか、誰に言われなくてもわかる。恋だった。
**
「正直、人類に思い入れがあるわけじゃないよ。きっと早見さんと同じ」
「うん」
「だけど早見さんを失ったら、消えるのは早見さんじゃない。僕の人生の一部が消えてしまうんだ」
部屋に戻った私は、フローリングに伸びる宇宙人の影を見ながら、人生最後の告白を受けている。滅亡に勝るシチュエーションなんて人類にはないんじゃないか。今、他人と手を繋げない人なんていないんじゃないか。眩しい夕方の陽射しの中で漠然とそう思う。
「……そもそも、中野はどうして地球に来たんだろうね」
「初めはただの下見だったんだ。だけど本当はきっと僕は早見さんに会いたかったんだと思う。こんな感情だけが想定外」
一切、物怖じすることなく中野は言う。想定外という彼の言葉こそが私にとって想定外だった。なぜなら、これから世界に起こることを淡々と知らされた再会の夜。あの日、彼は雨が止むことでさえ知っていた。グラウンドでしたキスにも一切、驚いた素振りはなかった。
「中野はきっと、起こることなんてわかってるんじゃないの?」
「地球に起こることなら多少はわかるのかもしれない。だけど」
「何?」
「僕は、僕のことはよくわからないんだ」
交信するかのように手を握られ、思わず握り返した。それは待ち望んでいたのかもしれない手だった。私も全然、自分についてよくわからないのだと知らされる他人の優しい手。私はずっと自分から必要以上の意味を取り除きたいと願っていた。その方が傷付きにくく、死にやすいからだ。それなのに今、血の温かさも皮膚の薄さも吐く息も何もかもが必要なものに感じられ、恋の効用を確かめている。皮肉にも終末のおかげで。
「今、中野がいてくれて嬉しい。ごめん。事故なんてないほうがいいに決まってるのに」
言い終わると同時に、中野は私を抱き寄せた。不慣れな惑星で事故に遭ったのだと思うと、同情心と同時に芽生えたばかりの愛おしさが募る。私たちは唇へ唇を重ねた。以前、グラウンドでしたキスが最後の始まりを迎えるものなら、今しているのは最初の終わりを告げるものだった。あらかじめ決められた終わりはなぜ、こんなにも心地良く人を苦しめるのだろう。地球に酸素はまだあるのに。唇が離れた後、私は思わず溜め息をつき、中野はのんびりとした口調で言った。
「なんで僕、地球滅ぼしちゃったかなぁ」
「仕事だからでしょ?」
「うん。だけど早見さんがいるし、この惑星は綺麗な部分も多いのに」
「それでも私、別に嫌じゃないよ。このまま全部が終わるの」
「なら良かった。早見さん、今さらだけど地球が終わるの、怖くない?」
「全然。……そういえば、中野もやり残したことがあるって言ってたよね」
「そうだね」
中野はそう言うと、私の身体を少しずつ押し倒した。私は重力を素直に受け止め、フローリングに寝かされた。最後に彼へひとつだけ尋ねたかった。本当に宇宙人なの? と。だけど、アパートという個人的な宇宙で幸福に漂う私たちには正体も何もない。突然、腑に落ちたような気がした。私たちは正体以上に大きな何かを、初めから伏せ合っているのだろう。出来れば永遠に隠したくて心や身体を着る。なのに時々、強烈に打ち明けたくなるから、困る。それも話したことのない秘密の言語で。
「さよなら」
私を撫でる中野の手が気持ちいい。彼にとってもそうであればいいと思う。次第に私たちからは言葉が引かれ、吐息の割合が増えていく。逃げ場は彼の瞳の中にしかなく、後ずさりする場所なんてどこにもない。目を閉じると、瞼の裏で現実より先に世界が燃えていくのがわかった。間もなく崩壊する現実の中、身体に届けられる、最後に限りなく近い音声。
「好きだよ。早見さん」
「うん」
生きててよかった。滅びるより愛する方が早くてよかった。彗星より先に落ちたキスを受け止め、腕を絡め、正体不明の宇宙人は私の中に射精する。
いっそこのまどろみの中で死にたいと願いながら私は、人の気配で目を開けた。ここはたどり着いた天国、または地獄だろうか。そう思ったものの西陽は眩しく、身体は痛く、まだ地球は滅亡していないらしい。目の前に誰かの足があった。私は寝転がったまま視線を動かした。そこに立っていたのは、いるはずのない中野だった。何か言いたげに私を見下ろしている。
「……地球から出て行ったんじゃなかったの?」
スマホを見ると、中野を見送ってから2時間近くが経っていた。中野はしゃがみ、私は身体を起こし、同じ高さで見つめ合った。
「早見さん。帰れなくなった」
「え?」
至近距離から彼は淡々と述べた。
「僕を迎えに来るはずの社用ロケットが事故にあったらしい。どうやら爆破されたんだ」
「何それ」
「連絡があった。他の星の誰かに侵略者とでも間違えられたんだろうね。たまにあるんだ。こういう星域間トラブル」
どうするの? と尋ねようとしたものの、それより先に全身でどうしようと中野は訴えていた。突然、見放されたらしい彼。宇宙規模の迷子。可哀想な宇宙人だと、間もなく全滅する人類を差し置いて思った。そして、滅びゆく地球と共に死にゆく私。私たちは仲良く未来のない者同士だった。
「なんとか帰れないの?」
そう聞くと彼は首を横に振った。「もう、いろいろと間に合わないんだと思う」
「だからこのままここで終わりにするよ」
「おしまいって……」
「それに」
いつの間にか中野は悲壮感を消し去り、見たこともない瞳をしている。
「グラウンドに向かう途中に思ったんだ。僕は早見さんのことを置いていけない」
思いもよらない言葉に、私は返す言葉を失った。
「一緒にいてもいい? 彗星が来るまで」
私は頷いた。人生最後の都合のいいプレゼントだと思った。そして、この展開をどこかで待ち望んでいた自分を、心に鳴り響く警告音の正体を、滅亡までにやり残していた何かを、射抜くような中野の視線で知らされていた。彼の目は直視できないほど熱く、私の視線の先にはテーブルから転がり落ちた時計があった。時刻は17時32分。終わりまで4時間ほどしかない。彗星に並ぶ速度で今、私は何に落ちているのか、誰に言われなくてもわかる。恋だった。
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「正直、人類に思い入れがあるわけじゃないよ。きっと早見さんと同じ」
「うん」
「だけど早見さんを失ったら、消えるのは早見さんじゃない。僕の人生の一部が消えてしまうんだ」
部屋に戻った私は、フローリングに伸びる宇宙人の影を見ながら、人生最後の告白を受けている。滅亡に勝るシチュエーションなんて人類にはないんじゃないか。今、他人と手を繋げない人なんていないんじゃないか。眩しい夕方の陽射しの中で漠然とそう思う。
「……そもそも、中野はどうして地球に来たんだろうね」
「初めはただの下見だったんだ。だけど本当はきっと僕は早見さんに会いたかったんだと思う。こんな感情だけが想定外」
一切、物怖じすることなく中野は言う。想定外という彼の言葉こそが私にとって想定外だった。なぜなら、これから世界に起こることを淡々と知らされた再会の夜。あの日、彼は雨が止むことでさえ知っていた。グラウンドでしたキスにも一切、驚いた素振りはなかった。
「中野はきっと、起こることなんてわかってるんじゃないの?」
「地球に起こることなら多少はわかるのかもしれない。だけど」
「何?」
「僕は、僕のことはよくわからないんだ」
交信するかのように手を握られ、思わず握り返した。それは待ち望んでいたのかもしれない手だった。私も全然、自分についてよくわからないのだと知らされる他人の優しい手。私はずっと自分から必要以上の意味を取り除きたいと願っていた。その方が傷付きにくく、死にやすいからだ。それなのに今、血の温かさも皮膚の薄さも吐く息も何もかもが必要なものに感じられ、恋の効用を確かめている。皮肉にも終末のおかげで。
「今、中野がいてくれて嬉しい。ごめん。事故なんてないほうがいいに決まってるのに」
言い終わると同時に、中野は私を抱き寄せた。不慣れな惑星で事故に遭ったのだと思うと、同情心と同時に芽生えたばかりの愛おしさが募る。私たちは唇へ唇を重ねた。以前、グラウンドでしたキスが最後の始まりを迎えるものなら、今しているのは最初の終わりを告げるものだった。あらかじめ決められた終わりはなぜ、こんなにも心地良く人を苦しめるのだろう。地球に酸素はまだあるのに。唇が離れた後、私は思わず溜め息をつき、中野はのんびりとした口調で言った。
「なんで僕、地球滅ぼしちゃったかなぁ」
「仕事だからでしょ?」
「うん。だけど早見さんがいるし、この惑星は綺麗な部分も多いのに」
「それでも私、別に嫌じゃないよ。このまま全部が終わるの」
「なら良かった。早見さん、今さらだけど地球が終わるの、怖くない?」
「全然。……そういえば、中野もやり残したことがあるって言ってたよね」
「そうだね」
中野はそう言うと、私の身体を少しずつ押し倒した。私は重力を素直に受け止め、フローリングに寝かされた。最後に彼へひとつだけ尋ねたかった。本当に宇宙人なの? と。だけど、アパートという個人的な宇宙で幸福に漂う私たちには正体も何もない。突然、腑に落ちたような気がした。私たちは正体以上に大きな何かを、初めから伏せ合っているのだろう。出来れば永遠に隠したくて心や身体を着る。なのに時々、強烈に打ち明けたくなるから、困る。それも話したことのない秘密の言語で。
「さよなら」
私を撫でる中野の手が気持ちいい。彼にとってもそうであればいいと思う。次第に私たちからは言葉が引かれ、吐息の割合が増えていく。逃げ場は彼の瞳の中にしかなく、後ずさりする場所なんてどこにもない。目を閉じると、瞼の裏で現実より先に世界が燃えていくのがわかった。間もなく崩壊する現実の中、身体に届けられる、最後に限りなく近い音声。
「好きだよ。早見さん」
「うん」
生きててよかった。滅びるより愛する方が早くてよかった。彗星より先に落ちたキスを受け止め、腕を絡め、正体不明の宇宙人は私の中に射精する。