文字数 4,961文字

     六月二十七日(水)

 鈴鳴西署の『けいさつ相談室』には、心和ませる風景画が飾られていた。鮮やかに緑が芽吹く春の牧場で、栗毛の馬が仲むつまじく寄り添っている。クリーム色の壁紙と、肌触りのいいウール地のソファ。部屋の隅には観葉植物の鉢植えが置かれ、小さな子供が同伴するときのため、絵本やヌイグルミも背の低い本棚に準備されている。リラックス効果の望めそうな小道具が、これでもかと詰め込まれていた。
 生活安全課の婦警たちが、気を利かせて用意したものだった。
 警察という組織が、市民に対して、いかにストレスと威圧感を与えているか。そのことを省みれば、こうした配慮が当然必要になってくるのだ。
 それがあちらの言い分だった。
 同じく、生活安全課の刑事である徳島誠一郎は、そうした考え方に疑問を抱いていた。相談者が署で緊張を覚えることのなにが悪いのか、理解できなかったのだ。
 警察官の仕事とは、犯罪を抑止し取り締まることだ。そして、あらゆる犯罪は善良な市民の身体を傷つけ、その生活を崩壊させる危険を孕んでいる。警察の怠慢や初動ミスが、幸せな家庭を奈落に突き落とすこともあり得る。手抜かりは許されないのだ。警察官たるもの、常に万全の熱意と緊張感をもって、市民の相談に耳を傾けなければならない。
 と同時に、相談にくる市民のほうも大いに緊張するべきだ。誠一郎はそう思っていた。今後の人生を左右する重大な岐路になるかもしれないのだから、肩の力を抜けばいいというものではない。一億の大金が動く住宅ローンの契約に、鼻歌交じりで判を押すお父さんがいるだろうか。そこは冷や汗を掻いておくべきではないか。
 ストレスを省くということが、現代社会では絶対善として語られている。多くの場面でそれは正論なのだろう。しかし、すべての緊迫感やストレスを悪者とし、この世界から追放せんとする思想や運動には、間違っても賛同できない。真っ向から対決するつもりだった。
 だから、同僚の婦警がヌイグルミを持ち込もうとしたときも、誠一郎は張り切ってこれに反対した。緊張感が薄れるので止めてくださいと、頭まで下げた。
 すると、巨大なクマを抱えた中年の婦警が、誠一郎を見下すように言ったのだ。
「相手を威圧するのがそんなに気持ちいい?」
 あまりに心外なことを言われ、誠一郎の頭は真っ白になり、なにも言い返せなかった。権力を振りかざして悦に入るなど、考えたこともない。いやそもそも、平の刑事に権力などない。昔のことは知らないが、情報に恵まれた現代の市民は、警察ごときに一々怯えるほど脆弱ではないのだ。
 現にどうだ、この状況を見れば明らかではないか。誠一郎はどこか勝ち誇ったように前を見る。
 今まさに、誠一郎は相談に来た市民から無視をされていたのだ。
 清涼感のある短髪に、グレーのスーツを折り目正しく着こなし、凜と背筋を伸ばした誠一郎の前で、二人の相談者は内輪の言い争いを続けていた。
「いい加減にわかって下さいな。お義父さんは騙されているんですよ」
 骨張った顔をした初老の女性が、諭すように言った。語尾に近づくと声が甲高くなり、少し耳が痛かった。きめの細かいソバージュヘアーを頭に乗せ、丸メガネをかけていた。
「だがな、手紙には貴文の名前があった。筆跡も同じだ。本人に間違いない。大丈夫だ」
 隣に座る小柄な老人は、手に持った封筒を顔の前に近づけ、しきりに肯いている。
「二十年も前に失踪した貴文さんの字が、どうしてわかるんですか」
「貴文は息子だ。見ればわかる。大丈夫だ。信じろ」
 老人はいかにも人の良さそうな目を女性に向ける。長い眉毛が八の字に垂れ下がって、常に泣いているように見える。女性は、当てつけるように大きな溜め息を吐くと、前に置かれたコーヒーのカップを両手で持ち上げた。レンズの奥の小さく萎んだ目には、憐れみの色が混じっていた。
 さきほどからずっとこの調子で、二人は同様のやり取りを繰り返していた。二日前に届いた手紙を巡って、意見が平行線を辿っていたのだ。
 老人の名前は、柴田清といった。郊外の一軒家で一人暮らしをする隠居老人だ。
 子供は独立し、連れ合いにも先立たれ、孤独な生活を送っていた。そんな柴田老人の家に、とある手紙が届いた。手紙の差出人は、柴田貴文となっていた。二十年前に家を出て、それっきり音信不通になっていた柴田老人の三男だ。手紙には、謝罪の言葉と、後悔の念が書き連ねられてた。
 柴田老人がこの手紙をどんな気持ちで読んだのか、想像に難くはなかった。
 涙の一つも流したのだろう。その涙が目を曇らせたのか、老人は微塵の疑いもなく、これを本物の手紙だと信じ込んでしまった。
 手紙の結びには、貴文の必死の訴えが刻まれていた。トラブルに巻き込まれて、どうしても金が必要なのだという。代理人の住所を記すから、そこに現金二百万円を送ってくれ。必ず三日以内に送ってくれ。
 そう書かれていた。
 典型的な、成りすまし詐欺の手口だった。
 家族にとって幸運だったのは、老人がこの手紙を、他の二人の息子へFAXで送付したことだった。消息のわからなかった三男の無事を、兄弟にも伝えてやりたかったのだろう。
 そこから、家族総出の説得がはじまった。
 だがそれでも、柴田老人の盲信は揺るがなかった。業を煮やした家族は、警察に頼ることを思いついた。この判断は、決定的に正しいものだった。警察に相談すれば、詐欺の被害を未然に防げる。事件は解決したも同然だ。家族の誰もがそう考えただろう。長男の嫁の敦子も、それは同じだった。
 老人に付き添って、芝居がかった調子の声色を作っているが、本心では、それほど危機感を抱いてはいない。その顔にはどこか余裕が見てとれた。
「あのね、私はお義父さんのためを思って言ってるんですよ。こんなの、詐欺に決まってるじゃないですか。オレオレ詐欺とか振り込め詐欺とか、ありふれた話ですよ。どうしてこんな見え透いた手口に引っかかるんですか」
 なんの役割も与えられず、ただ観客になっていた誠一郎は、敦子の言葉に、あることを思い出した。同じセリフを、かつて自分も口にしたことがあったのだ。刑事になって間もない頃の話だ。
「どうしてお年寄りは、こんな見え透いた手口に騙されてしまうんでしょう?」
 誠一郎の素朴な疑問に答えてくれたのは、駒さんだった。
「なに言ってんだ、徳島。んなもん決まってんだろうが。ジジババ共が、信じてぇからだよ」
 駒野伸一巡査部長。シャツの襟をだらしなく開き、裾のよれた背広を着て、脂ぎった髪に無精髭を生やしていた。酒に焼けた汚い声で唸り、常に愛想の悪いしかめっ面をして、暇さえあれば競馬新聞と睨めっこをしている。昭和の刑事という時代に取り残された称号が、そのまま当てはまってしまうような男だった。
「誰にも必要とされず孤独に生きてきて、やっと誰かに頼られたんだ。しかもお前、大事な息子が助けを求めてる。んなもん、信じるしかねえだろ。疑えば、イヤでも孤独な現実が目に入ってくるんだ。な? そういうこった。信じることは美しいことだ、なんて言うヤツもいるけどな、冗談じゃねえよ。信じるなんてことは、身勝手でろくでもない、惨めなことなんだよ」
 被害者を愚弄するような物言いに、誠一郎は反感を抱いた。内容までは覚えていないが、血気に駆られて反論を試みた。だが、駒さんの暴論を打ち負かすことはできなかった。
 言い方はともかく、駒さんの言うことがすべて間違っているとは思えなかった。振り込め詐欺の犯人は老人の孤独につけ込んでいる。人から頼られること、必要とされること、それ自体への渇望が被害者の中にはあって、卑劣な犯人はそれをまんまと利用し毒牙にかけているのだ。だからお年寄りは、こんな見え透いた手口にも簡単に騙されてしまう。
 柴田老人の中にも、そうした思いがあるはずだ。手紙を受け取って、読んでみて、なによりもまず、嬉しかったのだ。二十年ぶりに連絡を寄越した息子が、無事に生きていた。そして、自分を頼ってくれた。信じたいに決まっている。これを疑うことは、目の前に現われた息子を再び失うことと同じなのだから。自分が同じ立場でも、きっと信じただろう。誠一郎はそう思った。
「刑事さんも、なんとか言ってやってくださいな」
 敦子がこちらを見た。ようやく観客席の自分にも出番が回ってきたか。誠一郎は気を引き締め直すように姿勢を正した。
「こんなものにお金を支払ったら、恥ずかしくって表を歩けませんよ。わかりきった詐欺ですもの。刑事さんの口からも言ってやってください、お願いします」
 そう言って、深々と頭を下げてくる。
 誠一郎は、テーブルの上に広げられた手紙に目を落とした。
 つい先週も、振り込め詐欺の実行犯が逮捕されたばかりだった。遠い他県での話ではない。まさにこの鈴鳴西署の管轄内で、誠一郎の所属する生活安全課が、身柄を確保したのだ。稚拙な手口に呆れながら追いかけてみれば、そこにいたのは年端もいかない十代の若者だった。こうした詐欺グループは構造化が進んでいて、下っ端の実行犯を逮捕しても、計画を立てた主犯の黒幕にまでは繋がらない。自分たちは闇の中に紛れたまま、金で釣った捨て駒をいいように走らせている。
 なりすまし詐欺が大きな社会問題となってかなり経つが、似たような卑劣な犯罪が今もなお蔓延っている。これ以上の被害者を出さぬよう、警察は不断の努力で注意を喚起し続けなければならない。
 この手紙も先ほどのケースと同じように、詐欺師によるものだ。そう忠告してやるのが、正しい判断なのかもしれない。だが。
 手紙から顔を上げると、敦子だけでなく、柴田老人もこちらを見つめていた。
 左右から、祈るような思いが向けられている。強烈な重圧を感じた。どちらの味方をしても、もう一方を失望させることになるのだろう。
 この決断は、今後の人生を左右する、重要な選択となる。
 こんなとき、駒さんならなんと言うだろう。誠一郎は、ふとそんなことを考えた。
 駒さんは、新人だった誠一郎の教育係だった。かといって、べつに尊敬していたわけではない。むしろ、軽蔑に近い思いを抱いていた。常に全力で実直にを信条とする自分とは、はじめから反りが合わなかったのだ。不真面目な勤務態度に、こんな風にはなりたくないと、辟易していたほどだ。許されるなら、他の立派な刑事に師事したかった。
 だが、上からそう決められてしまったのでは仕方がない。誠一郎には、他に頼れる相手がなかった。なにをするにも駒さんの指示を仰ぎ、教えを乞い、そうして今の自分があるのだ。
 刑事として必要なことは、すべて駒さんから教わった。
 信じることは、身勝手でろくでもないことだ――そう言い切る駒さんなのだから、きっとこの場面でも、正しい決断をするのだろう。
「こんなもんを信じるなんて、バカだろ。詐欺に決まってんじゃねえか」
 人の気持ちを考えようともしない、根っからの皮肉屋だった。自分は風采が上がらないくせに、思い上がったようなことばかり言って、周囲を鼻白ませていた。
 そんな駒さんの残した、ろくでもない語録集の中で、たった一つだけ、誠一郎の心に響いたものがあった。
「刑事なら、正しいことをしたいなんて思うんじゃねえぞ。いいか、徳島。正しい道を選ぶよりもな、恥ずかしくない道を行けよ」
 なぜ、急にあんなことを言い出したのか。誠一郎は不思議だった。
 ――それは、あなたの本心ですか?
 昔のように直接尋ねてみたかった。
 だが、駒さんはもういない。これから先は何事も、一人で決断しなければならないのだ。
 誠一郎はネクタイを直し、ソファの上で再び姿勢を整えた。
 本当にこれでいいのか。最後まで後悔せず、信じることができるのか。
 自問自答の末、誠一郎は真っ直ぐに前を向き、胸を張った。
「私の意見を述べます。これが息子さんからの手紙だと、あなたが信じていらっしゃるなら、最後まで信じるべきです。私は、それが最善の選択だと、信じています」
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