文字数 5,007文字

    六月二十二日(金)晴れ

 この世界には、様々な仕事がある。
 職業に貴賎はないとか言われているけど、それでもやっぱり、全部が全部平等とは言えなくて、やり甲斐のある立派な仕事もあれば、やればやるほど悲しくなってくる切ない仕事もある。
 さしずめこれは、切ない仕事の代表格だ。
 尾沼寧々子は、しみじみとそう思った。
 寧々子は鈴鳴駅の前に立っていた。駅舎からバスターミナルへ向かう広い歩道の真ん中だ。道の向こうでは、大勢の乗客を乗せたバスが引っ切りなしに出入りしている。
 年々人口の減っている地方都市でも、中心駅の周辺はそれなりに栄えている。片側四車線の目抜き通りに沿って、そこそこ高いビルが建ち並び、県下最大級の繁華街を作っていた。まだ日が高いので、のんびり静かな印象もあるけど、なにしろ今日は金曜日だ。夜になれば、酔客たちの活気が渦巻き、それ相応にギラギラと賑わってくるだろう。
 寧々子は、セミショートの頭に真っ赤なサファリハットを乗せ、蛍光イエローのウインドブレーカーを羽織っていた。
 人通りの多い駅前で、やたらに目立つ格好をして、いったいなにをしているのか?
 そう問われれば、『ビラ配り』と答えるしかない。
 でも、それじゃ足りない。正確な仕事内容を表せているとは思えなかった。
 寧々子がしている仕事を、一字一句正しく書くとこうなる。
 ビラを差し出すけれど、道行く人に無視されて、誰にも受け取ってもらえない仕事――これが心に堪えて、ついつい大きな溜め息が零れてしまうのだ。
 人間て、こんなに冷たい生き物だっけ……。
 なんだかもう、人を信じることができなくなってしまいそうだった。
 相手に悪気がないことはわかっていた。だって、自分もそうだったから。街を歩いていて、前方に『ビラ配り』や『ティッシュ配り』の姿が見えると、ほとんど無意識に避けて進んだ。無視する気持ちも、冷たくあしらっているつもりもなかった。
 そもそも、同じ人間だとは認識していなかったのかもしれない。電柱とか、ポストとか、バナナの皮とかと同列な、障害物の一種だと考えていた。
 邪魔だから避ける。ただそれだけ。これっぽっちの悪意も抱いてなかった。
 そうしたことがわかっているからこそ、寧々子は余計に惨めだったのだ。
 駅前を行き交う数千の人々が、自分のことをただの障害物と認識している。血の通った人間じゃなくて、ヴィヴィッドカラーの電信柱だと思われている。
 想像してみると、すごく怖かった。自分の体がみるみる縮み、人の足に踏みつぶされてしまうんじゃないかって、そんな気分になる。得体の知れない不安とチクチクと背中を刺され、姿勢がだんだん前のめりに傾いてしまうのだ。
「よろしく、お願いしまぁす――」
 誰にも届かない声が、人の流れに飲み込まれていく。
 寧々子は疲れていた。減らない紙束の重みで、左の肩がじんじんと痺れている。朝からずっと、五時間もここに立ちっぱなしだった。
 その間に、無数の人々が寧々子の前を素通りした。スーツ姿の男性に無視され、子供を連れた主婦に避けられ、女子高生の集団には軽く笑われた。
 杖を突いたお婆さんに至っては、向こうからこちらへ近づいてきたくせに、配布しているのがティッシュではなくただのチラシだとわかると、騙されたとばかりに舌打ちをして離れて行った。
 もういやだ。心も体も限界だ。そろそろ休憩にしよう。
 寧々子は、派手な帽子を引っぺがすように脱ぐと、歩道の端へと移動した。そして、柳の木に立てかけていたトートバッグを拾い上ると、そのまま駅に向かって進みはじめた。

 駅内の高架橋を通り抜け、反対側の西口へ出る。
 西口の広場には、郷土の偉人を象った銅像が三体と、水圧の貧弱なしょぼい噴水があった。寧々子は噴水を取り囲むように配置されたベンチの一つに腰を下ろした。
 駅前よりも空が澱んで見える。空気もどこかくすんでいた。駅前とは対照的に、西口一帯は寂れきっていた。ビルのテナントにはシャッターが下り、歩いている人の表情もどことなく暗い。これが地方の限界と思い知るべきなのか、表と裏では雰囲気がガラッと違ってしまうのだ。
 とは言え、鈴鳴駅のこんな侘しい一面も、寧々子は嫌いじゃなかった。たしかに暗くて憂鬱だけど、だからこそ、腰を落ち着けて休むには持ってこいの空間なのだ。
 寧々子は隣に置いたトートバッグから、スーパーのビニール袋を取りだした。昨日の夜に買ったオニギリが二つ入っている。紙オシボリで手を拭いてから、半額シールの貼られたラップを剥がし、コンブのオニギリにかぶりつく。湿った海苔の香りが鼻を抜けて、ようやく人心地ついた。
 ほっとして目を落とすと、ぐにゃっと開いたバッグの隙間から、分厚いチラシの束が覗いている。
 ダメだとわかっていても、つい、考えてしまう。これを全て配り終えるためには、どれだけの時間が必要になるだろう。
 束の間見えた気持ちの晴れ間にあっという間に雲がかかった。食べかけのオニギリを掴んだまま、寧々子は再び溜め息を漏らしたのだった。
 もしもこれが、時給九百円のアルバイトだったら、割り切ることもできただろう。
 金のために嫌々やってるんですよー、という説明口調のオーラを発して、のらりくらりと仕事をこなす。呼びかける声に気持ちが入っていなければ、無視されたときのダメージも少なかったはずだ。
 でも、寧々子が配っているのは、自分の店を宣伝する手作りのチラシだった。
 短大を卒業した寧々子は、今年の春に便利屋を立ち上げた。開店からそろそろ二ヶ月が経とうとしている。
 べつに、甘い見通しを立てていたわけじゃない。普通に就職するよりも遙かに困難な道のりだってことはわかっていたし二年や三年は赤字が続くことも覚悟していた。
 それでも――と、寧々子は今さらながら反省する。やっぱり、宣伝広告に関しては甘い考えを抱いていたのかもしれない。宣伝なんてインターネットで十分だと、高をくくっていたのだ。
 今の世の中は、折り込みチラシなんかよりも、SNSを介したクチコミのほうが遙かに効率的な宣伝効果を生んでいる。ネットを使った宣伝戦略――その点に関しては、若い寧々子のほうが他の事業者に対して優位に立てるはずだ。
 そう考えた寧々子は、一日中PCとにらめっこをして、思いつく限りの宣伝活動を行ってきた。山と積んだハウトゥー本に従って、ブログの頻繁な更新やらSEO対策やらステルスマーケティングやら、自分でもなにをしているのかわからないほどの高度なテクニックを駆使して、店の宣伝に励んできた。
 その結果がこれだ。
 家族や友人から頼まれたお手伝いを除外すれば、事務所に寄せられた依頼はゼロ。いまだに一件の電話もかかってはこなかった。
 つまるところ、ネットの世界もこの世知辛い現実と同じなのだ。宣伝するにはお金がかかる。資金力のあるほうが圧倒的に有利で、先立つものがなければどうにもならない。その差は、足を使って地道に埋めるしかなかない。ビラを作って、駅前でひたすら配るしかなかったのだ。
 切ないとか惨めとか言ってる場合じゃない。やりたくなくても、やるしかないんだ。
 寧々子は自分に言い聞かせる。
 だって、しょうがないじゃないか。仕事がないならニートと同じなんだから。内定を蹴って、ワガママを貫いて、行き着いた先がニートだなんて、そんなの悲しすぎる。現状を打破できないのだとしても、打開するフリだけは続けていかなくちゃいけないんだ。
 二つ目のオニギリも食べ終えた寧々子は、ぼんやりと空を見た。
 上に広がる雲は、いかにも生っ白く貧弱で、雨の落ちそうな気配はない。
 なんで雨が降らないんだ。それでも梅雨か。この意気地なし!
 思わず、異常気象に八つ当たりをしてしまう。
 雨さえ降ってくれれば、ビラが濡れるからと格好の言い訳ができて、嫌な仕事もサボれるのに。そんなわずかな猶予さえ、天は与えてくれないのか。
 ビニール袋にゴミをまとめて、バッグをうんしょと肩に担ぐ。重い腰を持ち上げた寧々子は、もうどうにでもなれという気分で帽子を被り直した。
 のどかな広場を後にして、駅前の戦場へと舞い戻る。
 と、そのときだった。駅のほうから一人の少年が歩いてくる。
 なんだ、あれ?
 寧々子はその場に立ち止まった。こちらへ向かってくる少年の容姿が、見るからに変なのだ。
 主に、頭の形が。
 最初は、ものすごく斬新な髪型をしているのかと思った。いまどきの中高生は思い切ったことをするんだなぁと感心した。あんな髪型、どうやって美容師さんに指定するんだろう、とも。少年が近づいて来て、黒い影が彼の地毛ではないことがわかると、今度は形の崩れた帽子を被っているのかと思った。
 でも違った。
 それは奇抜な髪型でも帽子でもなくて、なんと、猫だったのだ。
 尻尾の先まで真っ黒な猫が、頭に覆い被さっている。両方の前足を少年の顔の側面に垂らし、でろんと伏せるように前を見つめていた。そのだらしないポーズとは裏腹に、猫の表情はとても凜々しかった。気品漂う金色の瞳を、誇らしげにキリッと光らせている。
 一方の少年はというと、非常にやる気のない顔をしていた。生きることに疲れたという感じで、下を向いたままトボトボと歩いてくる。薄汚れたベージュのレインコートに身を包む姿は、やっとの思いで戦渦を逃れた難民のようだった。
 少年はこちらに一瞥もくれなかった。目を丸くした寧々子が、ずっとガン見をしているにも関わらず、無表情のまま、すぐ横を通り過ぎて行った。頭の上の黒猫だけが、訝しげな流し目を向けただけだった。
 いやいや、訝しいのはこっちのほうだよ。寧々子は、なおも少年の後ろ姿から目を離すことができなかった。
 なんで頭に猫を乗せてるんだろう? なにかの宣伝か? だとしたら効果は抜群だけど、それにしては、男の子の表情が暗すぎる。自分から好んで猫を被っているようには、とても見えなかった。まるで、誰かに命令されて嫌々猫を頭に乗せられたみたいな。まあ、そんなわけはないんだろうけど。
 立ちすくむ寧々子を置き去りにして、少年の姿が遠ざかって行く。
 そのとき、少年の腰の辺りから、なにかが地面に落下した。
 微かな音に気づいたのか、黒猫の細長い尻尾が、お下げ髪のように大きなリュックの上で波打った。だけど、少年は振り向かずにそのまま歩き続け、やがて角を折れて、ビルの影に見えなくなってしまった。
 寧々子は、なにかが落ちた場所へと駆け寄ってみた。そこにあったのは、百円ショップで売っているような、半透明のピルケースだった。乳白色で中が四つに仕切られている。蓋を開けてみると、同じ薬がぎっしり詰め込まれていた。無地の平凡なブリスターパックの中に、赤黒い色の錠剤が並んでいる。
 なんか、すごい色だけど、これ、なんの薬だろう?
 よく考えてみれば梅干しと同系統の色なのだけど、薬物と言うだけで妙に毒々しく思えてしまう。ドラッグストアで取り扱っているような、ありふれた市販薬でないことはたしかだ。なにか、特殊な病気の治療薬なのか、それとも。
 秋菜の脳裏に、あるニュースの映像が浮かんだ。
 この街で蔓延する危険ドラッグについて、注意を喚起する内容だった。ニュースを見たときは、自分とはまるで関係ない、他人事だと思っていた。
 でも、もし、これがその、危険ドラッグだったら?
 考えると、首筋が涼しくなってくる。
 寧々子は、道の向こう、少年の消えた方角を一度確認して、それからピルケースの蓋を閉めた。
 さて、この落とし物をどうするべきか。寧々子は考えた。
 交番に届け、速やかにビラ配りの仕事に戻る。それがもっとも常識的な選択なのだろう。
 でも、本当にそれでいいのか? 
 いや、よくない! 寧々子はぶるぶると首を振った。
 そうだ。これは市民の義務だ。ビラ配りをしたくないから言ってるんじゃない。街の平和のために、あの少年が危険ドラッグの密売人かどうか、確認しなきゃ。迷っている暇はない。
 必死で自分に言い聞かせ、寧々子は急ぎ、少年の後を追いかけたのだった。
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