文字数 4,707文字

「守……高槻守とは、ガキの頃からの付き合いだ。小中高と同じで、当時はよくつるんでた。今は顔も見ねぇがな」
 駒野はそう言うと、手元の中ジョッキに目を落とした。フリーザーで冷やされすぎたか、持ち手の部分にまで白い霜が付いていた。
 二人は居酒屋にいた。これから今生の別れを交わそうってときに、誠一郎が選んだのは、風情の欠片もないチェーン店だった。感傷よりも、車がおける駐車場を優先しやがった。タッチパネルで頼んだ酒を、バイトの学生がぎこちなく運んでくる。駒野の前にはビール、誠一郎の前にはウーロン茶のグラスだ。まだ六時だってのに、個室の戸が開くたび、若い連中の騒ぐ声が聞こえてくる。こいつと飲む最後の酒が、これほど味気ないものになるとは。いや、いっそこいつらしいと思うべきか。駒野は諦めたように息を吐き、冷たいジョッキを呷った。
「疎遠になった原因は、やはり二十年前の?」誠一郎が口を開く。
 駒野はジョッキを置き、シャツの袖で口を拭う。
「おい、時間と暦だけはなぁ、正確に把握しろ。教えたはずだな? 他のことはどうでもいいからってよ」
「どうでもいいことはありません」
「ああそうかい。だったら気をつけろ。正確には、十八年前の九月十日だ」
「それは、はじまった日ですか? それとも、終わった日ですか?」
 そのとき、店員が注文した皿を運んできた。テーブルに身を乗り出していた誠一郎が、上半身の力を抜き、店員を見やった。だが、駒野は違った。目の前の若い刑事から目を逸らさなかった。そのまま、店員が去るのを待たずに、注文の品を暗誦する棒読みの声に被せて、言った。
「はじまった日だ――」
 あの夜、日勤を終えて独身寮でくつろいでいた駒野は、夏美からの連絡を受けて、高槻守の屋敷へ急行した。
 そう、ただの家じゃない、お屋敷だ。今はもう跡形もないが、守の生家は立派なお屋敷だった。団地で暮らす駒野とは大違いだ。あいつは最初から恵まれていた。社長の息子として生まれ、背も高く、頭も良かった。駒野の持たないすべてを持っていた。挫折を知らない自信家で、稀に尊大な態度を見せることもあったが、駒野の前ではいい奴だった。群れ寄ってくる級友や後輩の中でも駒野を特別扱いして、いつも側に置こうとした。どうしてあんな男が、自分なんかを親友と呼ぶのか、当時から不思議でしょうがなかった。
 玄関で、青い顔をした夏美が待っていた。その怯えた様子から、恐ろしいことが起きていると悟った。夏美に通された部屋には、先客がいた。身なりのいい老人だ。老人は、怒りを抑えるように拳を握り、畳のへりをじっと見つめていた。
 夏美が、隣の部屋へ通じる襖を開けた。その部屋に、守が倒れていた。毛布を掛けられ、仰向けの姿勢でイビキをかいている。そしてその隣、鏡台の置かれた付近に、真っ赤な血痕が飛び散っていた。
「なにがあったのですか?」誠一郎が言った。
 同じことを、駒野も尋ねた。夏美は、すべてを話した。
 守が、酔いに任せて娘の秋菜に手を上げた。その拍子に秋菜は鏡台の角で頭を打ち、かなりの出血があった。泥酔した守を家に残して、夏美は車を走らせ、娘を病院へ連れて行った。奇跡的にも頭の切り傷だけで済み、脳に影響は見られなかった。今は意識もあり、念のため病院で安静にしている。
 そうやって、淡々と今夜の出来事を語った。そしてすべてを話し終えると、夏美はおもむろに、着ていたブラウスの裾をめくりあげた。白い腹に、赤黒い痣が、幾重にも滲んでいた。
「そんな男とは別れろ。子供を連れて今すぐ帰ってこい」
 振り向くと、背後に老人が立っていた。侮蔑を露わにして、酔ってイビキをかく守を見下していた。
 それはできないと、夏美は答えた。別れるのだけは嫌だと。子供から父親を奪いたくない。酒さえ飲まなければ、いい夫なのだから。だからお願い。
 そう言って、今度は駒野を見た。その目はどこか濁っていた。水が腐ったように汚かった。
「このままじゃ私、酔ったあの人に殺されるかもしれない。私だけじゃない。娘まで殺されるかもしれない。私は、昔のあの人に戻ってほしいだけなの。だからお願い。あなたの口から、嘘を吐いて――」
 あのときだ。三人の共犯関係が結ばれた。病院にいる秋菜は、祖父である老人が匿うことになった。そして、駒野は嘘を吐いた。翌朝目を覚まし、畳に残った血痕を見せられた守は、警察官であり、そして、親友でもある駒野の言葉を疑わなかった。
 それが、決して吐いてはいけない嘘だということを、駒野は知っていた。
「なぜ、そんな嘘を吐いたのですか?」
 駒野は厚焼き卵を箸で切り分け、ひょいと口に運んだ。
「さぁな。ああするのが一番だって、思ったんじゃねぇか。守のヤツにお灸を据えて、夏美さんを暴力から救うためにはな。あれだ、ショック療法ってやつか」
「それだけですか?」
「あ?」開いた口に、もう一つ卵を入れる。
「高槻夏美とあなたとの間には、それ以上の関係があったのではありませんか?」
 駒野は、笑った。
「すげぇな。ちょっと見ねぇ間に、ゲスの勘ぐりもできるようになったか」
「刑事ですから」そう言って、グラスを傾ける。
 そうした願望を、一度も抱いたことがないと言えば嘘になる。夏美のことは、ガキの頃から知っていた。女子校に通っている恋人だと、高校時代の守に紹介されたのだ。背は低いが美しい人だった。清楚で品があり、こちらの考えを窺うように、控えめに笑う姿が印象的だった。自分からアプローチをしようなどと思ったことはない。相手は裕福な獣医の一人娘だ。端から住む世界が違ったのだ。だが、そんな夏美だから、駒野は平静を保つことができなかったのかもしれない。腹部にできた痣を見せられたとき、駒野の中にあったのは、紛れもない正義感だった。少なくとも、駒野はそう信じてきた。不憫な母子を理不尽な暴力から救い、親友の中に住む猛獣を檻に閉じ込める。そのためなら、どんな嘘も許される。そう信じていた。
「そんな度胸があったらなぁ、この年まで独り身でいるかよ。欲しいもののために、人様の家庭を壊してまでな――」
 鈍い痛痒が、駒野の胸に走った。今日まで何度となく、感じてきた痛みだった。
「そうだ。そんなつもりは、これっぽっちもなかったよ、俺は」
 駒野は知らなかった。
 あれが夏美の復讐だとは、疑いもしなかった。いまだにそうだ。あれが同じ人間の発想とは信じられなかった。守の暴力によって、夏美が三人目の子を流産していたと知ったのは、すべてが終わったあとのことだ。あの夜の夏美は、すでに駒野の知っていた夏美ではなかった。
 自分がこの手で秋菜を殺した。駒野の嘘によって思い込まされた守は、その場に崩れ落ちた。
「高槻守のそんな姿を見て、あなたはどう思ったのです?」
 あの守が、俺の嘘に騙されて、畳に這いつくばり、みっともなく泣きじゃくっていた。自分が恵まれていることにも気づかず、美しい妻と、可愛い娘に手を上げた、罰当たりな男が、俺の吐いた嘘の前に、跪いていた。
 駒野は言った。
「そりゃ、なぁ。親友なんてのは、友情だけでやっていけるもんでもねぇだろ」
「わかります」誠一郎は小さく肯き、再びグラスを傾けた。
 嘘吐くんじゃねぇよ。駒野は内心で悪態をつく。白々しいこと言いやがって。お前にそんな気持ちがあるわけねぇだろうが。腹立ち紛れにジョッキを飲み干し、追加のビールを注文した。
 あの夜から最後の日まで、高槻家でどんなことが行われていたか、駒野は見ていない。
 ただ、あれ以来、守が禁酒を続けていることは電話で聞かされていた。以前の夫に戻った。そう話す夏美の声には、心からの安堵と喜びが感じ取れた。
 そして、一年後の八月二十五日。駒野は交番勤務の警官から連絡を受けた。
 すぐに観念した。嘘がバレたと思ったのだ。あんな嘘が、いつまでも続くはずはない。近く破綻が訪れることは、予想済みだった。殴られる覚悟で交番を訪れた。殴られた上で、お前の家族を守るためだった。そう言ってやるつもりだった。
 交番で待っていた守は、変わり果てていた。頬が痩け、目玉が飛びだしたように眼窩がくぼみ、十も老けて見えた。駒野を認めると、乾いた唇を震わせて、絞り出すように声を出した。
「秋菜が、秋菜がいなくなったんだ。昨日までは部屋に引きこもっていたのに、いつの間にか消えた。探してくれ。頼むよ。探してくれ」
 焦点の合わない目を上下させて、何度も何度も、駒野に合図を送ってきた。
 話を合わせてくれ。俺が殺した秋菜は、失踪したことにしてくれ。頼む。頼む。
 目で訴えていた。
「高槻守は、部屋にカップラーメンを残したそうですね。直前まで娘がその部屋にいたと見せかけるために、お湯を注いだカップラーメンをちゃぶ台に置いた」
 誠一郎の声には憐れみが感じられた。駒野も同感だった。憐れで憐れでしょうがなかった。
「信じられるかよ? あれでな、隠蔽工作のつもりだったんだ。大の大人が、警察の目を欺くために、あんな幼稚なことをしてみてよ。追いつめられた人間は、愚かなことをしでかす。わかっちゃいても、やりきれねぇよな」
 守をそこまで追いつめたのは、他ならぬ駒野の吐いた嘘なのだ。
「指名手配の逃亡犯がよ、どれだけのストレスを抱えて生きてると思う。そりゃ、ああいう連中の場合は自業自得だが。並の神経じゃあ、耐えられねぇのはわかるだろ?」
「恐ろしい復讐です」
 誠一郎の言葉に深く頷きながら、駒野はジョッキを傾けた。
「そのあと交番で、本当のことを話した。最低なドッキリの種明かしだ。お前は、秋菜を殺してない。爺さんの家に預けてただけだって。正直に打ち明けたよ」
「高槻守は、その話を信じましたか?」
 信じなかった。
 信じられるわけがなかった。
 守は取り乱し、交番の中で暴れ回った。さっきまで、秋菜がいなくなったと騒いでいたくせに、今度は殺したと喚きはじめた。俺が殺した。俺が秋菜を殺したんだ。なにを言っても聞こうとしなかった。
 警官に押さえ付けられ、やがて、ゼンマイが切れたように動かなくなると、駒野が車で病院に送った。
 後部座席にいる間も、守の悲しい告白が止むことはなかった。
 その夜、駒野は屋敷を訪れた。
 空っぽになった秋菜の部屋に、夏美がいた。
 夏美は、泣いていた。開いた窓から外を見つめ、滔々と涙を流していた。
 駒野が守を病院へ連れて行ったことを告げると、夏美はこう言った。
「無駄よ。呪いはもう、解けてしまったの」
 その口元が、満足げに綻んでいるように見えて、駒野は悲しかった。
 駒野が守ろうとした家族は、駒野の吐いた嘘によって、これ以上ないほど無残に引き裂かれてしまった。
 数日後、守は病院を出て屋敷に戻った。錯乱状態からは回復していたが、駒野の知るあの守には戻らなかった。怒りも、気力も、残されてはいなかった。
 会社は人手に渡り、代々の家も売り払ってしまった。
 その金で、今も細々と暮らしているらしい。駒野はその先のことを知らない。守の転居先には近づいたこともなかった。
 夏美は、その二年後に病死した。くも膜下出血だった。死後に大きな脳腫瘍が発見された。もしかしたら、あの悪夢のような発想も、腫瘍が見せた幻だったかもしれない。駒野はそう思いたかった。
 秋菜はそのまま、祖父に引き取られた。名字も広山に変わり、高槻秋菜という娘は、二度と戻らなかった。
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