第6話

文字数 1,794文字

 こんなことがあった。靖男と居酒屋で飲んでいた時のことだ。荷物を横の椅子に置いていたので、比等志は足を通路にはみ出して座っていた。靖男はトイレに立って席を外していた。横を通った男が比等志のつま先を踏んだ。男はちらりと比等志を見たが、そのまま通り過ぎようとした。比等志は「おぃ、待てよ。痛いじゃないか」と、呼び止めた。男は怪訝そうな顔をして振り返り、「おまえが足を出していたからだろうが」と言い返してきた。
「なんだと、人の足を踏んでその言い草はないだろう」比等志は立ち上がった。「一言詫びるのが礼儀ってもんだろ」
 そこへ靖男が戻ってきた。靖男はすぐその場を判断した。
「おい! 俺の舎弟が何かしたか」
 相手の顔間近に自分の顔を持っていき、上から睨みつけた。それだけで男は萎縮した。比等志に謝ると、そそくさと店を出ていった。
 男が去ると、比等志はことの経緯を話した。
「足をはみ出していた俺も悪いんです」
「いや、そこで引いちゃだめだ。足を踏んだことを謝らないのが悪い。言って当然だよ。おまえ強くなったな」
 靖男は嬉しそうだった。
 いざとなったら靖男がいる、ということもあって言ったのだが、このことは比等志にとって思い切った言動だった。以前なら何も言えず足をテーブルの下に引っ込めていたはずだ。他人に物怖じすることがなくなってきた。
 比等志の両親は当初は心配もしたが、むしろ安堵するようになった。うじうじして頼りなく、下手をすれば引きこもりになりそうな比等志が見違えるほど変わったからだ。また、靖男の母親が靖男を捨てて男と逃げたこと、父親もあまり構ってくれなかったことを聞き同情もし、好意的に接してくれた。
「ま、比等志は俺の世話になっていると言うし、俺は比等志の親の世話になっている。金が無いのは二人ともだがな。自分の車は売っちまったんだ。ハハ二束三文だった。
 と、いう訳で、このCDの持ち主も、車の持ち主も俺らの知らない奴さ」
 靖男の言葉に、純子は怪訝そうな顔をしている。
 靖男は、今度は比等志の方を向いた。
「比等志、もうこの車のことも話してしまえよ」
「いいんすか?」
 比等志は問うように応えたが、靖男に促されるまでもなく、人に話したくてうずうずしていた出来事だった。
「最初から順に話すね」
 比等志は笑顔を作ると、競馬のことから話し始めた。
「あのさ、競馬って、レースを観戦するだけでも楽しいけれど、馬券を買うのと買わないのでは面白さがまったく違うんだ。うん、例えば、オリンピックで日本の選手が出る競技は、観ていてワクワクするだろう。それと同じ理由だよ。いや、それ以上だ。競馬の場合は当然だが馬券を買った馬を応援するよな。その興奮度は凄いんだ。発走前なんか腹の底から湧きあがってくるんだ……」
 比等志は競馬の解説から、純子を助けるまでのことを、自慢話のように語っていった。
 二人の奇譚を純子は頷いたり、驚いたりしながら聴いていた。さすがに拳銃が出てきたところでは、「大丈夫なの?」と顔をしかめた。パトカーに追われた時の話になると手をたたいて笑った。

「そうなんですか。お金を使ってしまったんですか」
 聴き終えると純子は言った。「そんな風に使い切ってしまえるなんて、羨ましいな」
 そしてしばらく考えていたが、運転席と助手席のシートの間に顔を寄せてきた。
「ねえ、わたしのお金をあげる。母から取り上げて」
「へっ?」
 今度は二人一緒に目を丸くした。
 純子の話はこうだ。
 純子の母親は父親の後妻だ。純子が中学三年の時に来た。継母の割には厳しくて、私生活にもうるさい。服も派手なものは買ってくれない。小遣いを父親は月二万円と決めてくれたのだが、継母は多く持たせるのは良くない、と七千円に減らしてしまった。残りは預かっていることになっている。しかしその金も自由に使うことができず、欲しいものも買えない。父親に話しても真剣に取り合ってくれないどころか、継母の味方さえする。
 今日はとうとう口論をしてしまった。そして隙をみて継母からキャッシュカードを持ち出してきたのだ。だが、暗証番号までは聞きだすことが出来ないでいた。
「お兄さんらがわたしを脅かしていることにして、母から暗証番号を訊きだそう」
「はぁ?」
 比等志も靖男も呆気にとられた。
「もちろんわたしが後で本当のことを話すから大丈夫よ。もともとはわたしのお金だもの」
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