六、今日の行動も日記のためです

文字数 16,828文字

 朝早く目が覚めた。昨日は布団に入らず、パソコンの前で眠ってしまったらしい。時計を見ると、まだ午前四時だ。シャワーを浴び、朝食を作る。食事が済んだら、昨日作ったキャッチコピーと企画意図などをまとめたデータを印刷して、封筒に入れる。これは朝イチの郵便で、ピアニカクラフトへ郵送する。
その準備が終わると、今日の面接のイメージトレーニングだ。今日は二つの面接が入っている。ヤマベスーパーと、オルガンジョーズの二社だ。オルガンジョーズは、ちょうど何日かの候補から選択できるようになっていたので、ヤマベと同じ日にまとめたのだ。
「早いな」
 出かける準備が整った父が、明の部屋をのぞいた。「おはよう」と挨拶すると、父はブルーのネクタイを投げつけた。
「今日、面接なんだろ? それ、付けていけよ。お前が持ってるネクタイ、ろくな柄じゃないからな」
「そうかな」
 スーツにかけてあった、水色ストライプのネクタイを見る。これでも悪くない気がしたが、少し顔を赤くしている父の様子で、これがプレゼントだと悟った。つくづく宇宙人である。素直にくれると言えばいいのに。
「ありがと」
礼を言うと、静かに部屋のドアを閉め、今日も会社へと出かけていった。もらったネクタイを手にすると、ふと父の心がわかった気がした。なんだかんだ言って、結局甘やかしてくれてるな。嬉しい反面、「いつまでも子供扱いされてたまるか」という強い思いがわいてきた。俺は、泣いても笑っても、就職する。自立するんだ。
 アイロンをきれいにかけたワイシャツに袖を通す。ボタンを留め、ネクタイを締める。自分のにするか、もらったネクタイにするか最後まで迷ったが、父からもらった新しいネクタイをつけることにした。甘やかされるのは今日までだ。父に育ててもらった。その父を踏み台にして、明は大きく羽ばたこうとしていた。


 九時四十分。まずはヤマベスーパーの面接だ。今日の会場は、明の家からわりと近い位置にある、ヤマベスーパー本社で行なわれた。入り口の前にあるイスに座って待っていると、先日会ってお茶をした大塚と再会した。
「大塚さん、来たんですね」
「ええ、受かったら来るでしょう?」
 二人は他の社員に聞こえないくらいの小さな声で話した。
「どうやら、落ちた人はほとんどいないみたいですよ」
 明は驚いて、大塚の横顔を見た。やはり、彼女が言うように、ヤマベスーパーは人気がない企業のようだ。だが、そんなことはどうでもいい。人気があろうがなかろうが、内定が欲しいのだ。
「田口さん、どうぞ」
 時間だ。名前を呼ばれた明は、大塚に頭を下げた。
「お互い受かったら、また会いましょう」
 これ以上、いらない情報は欲しくなかった。


 案内の女性が二回ノックした。それに続いて、大きな声で「失礼します」と明は応接室に足を踏み入れた。長机の前に、パイプイスが一つ。面接官は、やはりこちらも説明会のときの男性と同じくらいで若かった。
「根(こん)武(ぶ)大学法学部法学科、田口明です。本日は宜しくお願い致します」
「どうぞ、座ってください」
 その言葉を合図に席につく。手は軽くこぶしを握り、膝の上だ。誰がこんなことを決めたのか知らないが、面接のときにはこの姿勢がベストらしい。明は「記念撮影かよ」と心の中で毒づいた。
 しばらく、無言の時間が流れる。聞こえるのは、面接官の頭をかく音と、溜息だ。
「じゃあ、一分間で自己PRをお願いします」
「はい」
 適当に流れを決めたのではないか、と不安もあったが、ここはやるしかない。「よーい、ドン!」と小さくつぶやき、気合を入れると、明は喋り始めた。
「私は、ひとつ自分の中で目標を決めると、それに向って努力し続ける根性があります。十四年間、日記を続けているのも、その一つです。ささやかな目標ですが、私は一生日記を書いていきたいと思っています。実際、インフルエンザに罹ったときも、犬に腕を噛まれて怪我をしたときも、ペンを握り続けてきています。この根性は、日記という私的なものだけではなく、きっと御社でも長く勤めあげるという面で役に立つ能力だと思っています」
 履歴書には、弁当屋のアルバイトのことを書いた。だから、口頭で伝えたのは日記のことだ。大して面白いことではないが、継続してひとつのことを続けられる能力。ここの会社は若くして出世することができる。反面、早期離職が多いから、年配の社員が少ないのではないか。だからこそ、「長く続けられる根性」が評価されるのでは? そういったロジックから導き出した言葉を、一分間に要約して述べた。早すぎず、遅すぎず。はきはきと明るく。自分でも胡散臭いほどの笑顔を作っていることに気づき、複雑だった。
 面接官は、それでも顔色ひとつ変えず、次の質問に移った。
「弊社への志望動機ですが、『店内のレイアウトを自分の手でしてみたい』と書いてありますが、具体的にはどんな風にしたいか、考えていますか?」
 ボールペンで耳の後ろをかきながら、明の左側に座っている面接官がたずねた。
「私の家の近所にある、貴社の店舗を例にしますが……ここでは他のスーパーが近隣にあり、ターゲットの差別化を図る必要があると思います。他店は、自転車でも行ける立地から、小さな買い物がしやすいですが、大きな商品の買い込みはできない。駐車場のスペースもありませんし。だから、ここでは『大きい』・『多い』をキーワードにした商品のコーナーを作ったり、また、車で来店するお客様は、お子様連れの可能性も高いと思うので、通路を広くとったりできたらいいと思います」
 むずかしい顔をした左側の面接官が、またボールペンで耳の後ろをかいた。右側の面接官は、「まあ、面白い案ですね」と無味乾燥な声で言って、チェックを入れた。
「最後に何かありますか?」
 面接の時間は十分間と、メールが送られてきた時点でわかっていたが、こんなに早く終わるとは。ともかく、最後の質問は必ずしようと決めていた明は、口を開いた。
「二年間で店長になれると説明会ではお聞きしましたが、実際、それほど責任がある仕事に就くということは、プレッシャーも大きいと思います。今まで店長を経験された方は、このプレッシャーをどう解消されてきたのでしょうか」
 面接官たちが、お互い顔を見合わせた。二人の目線に、明も視線も加える。すると、今度は発言権の譲り合いが始まり、結局右側の面接官が答えることになった。
「やっぱり、オンとオフの切り替えをちゃんとすることですね。ずっと仕事のストレスを溜めこんでたら、休めないですよ。家ではゆっくりする。些細なことだけど、それがプレッシャーの解消に繋がると思いますよ」
 発言している間、ずっと明の履歴書に目が向けられていた。語尾だけ強調して、明の顔を見る。「これでいいか」と、迫るような目つきだった。
「他に何か。ないならこれで終了しますが」
「はい。ありがとうございました」
「結果は明日、電話かメールでお知らせします」
 形式通りに席を立ち、お礼の言葉のあと頭を下げる。ドアを開いて退室すると、明は目頭を押さえた。頭が痛い。緊張からだろうか。
 本社を出ると、大きく息を吸った。
「オンとオフがたやすく切り替えることができたら、病む人も少ないだろうけど」
 人がいないことを確認して、明は言葉を吐いた。面接ストレスで嘔吐する学生もいるが、彼もその中の一人だった。


 地下鉄の通路は蒸し暑かった。地上の熱風が入りこみ、喉が苦しい。階段を上がり、外に出ると、今度は直射日光だ。紫外線で目が痛い。ハンカチで額の汗を拭い、携帯の地図を見る。現在位置はすぐわかった。オルガンジョーズは、大門駅から数分歩いた位置にある。
 この会社に問い合わせをしたとき、「今年の採用は営業しかないが、履歴書を送ってくれれば見る」と言われた。正直、書類選考だけでも受かったのは奇跡的だった。何か縁がある気がして、胸が高鳴る。近くの自販機で、オレンジジュースを飲み、集中力を高めた。柑橘系の香りは集中力アップに効果的だとテレビで言っていたからだ。

『面接直前なう。東京タワーが近い』
 
携帯でつぶやきを投稿してみる。最近ちまちまと始めてみたものの、フォロワー数はゼロ。本当にただの「つぶやき」でしかない。だが、それが楽だった。
 携帯の電源を切ると、ネクタイの結び目を締めなおす。緊張。腹はぐるぐると鳴るし、頭は痛い。それでも、ここは落とせない。絶対ものにしてみせるんだ。
 下唇を舐めると、エレベーターの三階のボタンをゆっくり押した。


 エレベーターを降りると、入り口のドアは開かれていた。設置されているモダンな電話で名前と学校名を伝えると、すぐに女性が出てきた。
 案内された場所は、ひとつのテーブルに四つのイスがある、小さなミーティングルームだった。誰もいない。今日の面接が個人なのかグループなのかわからなかったが、ともかく一番乗りだった。カバンを下に置き、ハンカチで首元と顔を拭くと、少しだけ冷静になれた。気持ちが熱くなっていたのは、外気と関係があったのだろうか。落ち着くと、今度は胃がきりきりし始めた。なんてこった。大切な面接の前に、絶不調。胃薬や整腸剤は持ち歩いているが、こっそり飲むのは気が引ける。ここは気合で我慢するしかない。
 痛みと闘っているうちに、二人目、三人目の学生が部屋に入ってきた。どちらも男性で、汗だくだ。一人は緊張からか、表情が固まっていて恐い。もう一人は彼とは真逆で、気持ち悪いほどリラックスしていた。こうして腹を押さえている明に気づきもせずに、お茶をごくごくと飲み、携帯をいじっていた。
 二回、軽快なノックが聞こえた。携帯をいじっていた学生が、すばやくカバンの中に投げこむ。
「太田さん、田口さん、面接室へお願いします」
 太田、と呼ばれた携帯いじりの学生は、返事をして勢いよく立ち上がった。緊張どころか、今にも鼻歌でも歌いそうな雰囲気だ。明は彼に続いて、ゆっくりと立ち上がる。
 書類選考までは、何とか就活に楽しみを見出すことができていたというのに、いざ面接となると、ポジティブ思考なんて吹っ飛んでしまった。何も考えていないのに、体調が悪い。昨日は早く寝た。悪い夢も見ていない。何が悪い? 
「おっと!」
考えこんでいたら、ミーティングルームのドアが閉じかけ、挟まりそうになった。そこを手で押さえて助けてくれたのが太田だった。にかっと笑って、「すいません!」と言う。今のは明らかに自分の不注意だったのに。
「じゃ、行きましょうか!」
 だらだらしてるやつだと思った。面接待ちで、携帯をいじってるなんて、どうかしてると思った。なのに、ここ一番になると、変な自信がにじみ出ている。
――負けそうだ。
全身が「ここから逃げたい」と訴えはじめている。面接は勝ち負けではないとわかっているのに、彼にはすでにノックアウトさせられた気分だ。
通路の窓から見える、外の風景を見た。ビルが立ち並んでいる。外は相変わらずの灼熱地獄だ。今この窓を突き破って、飛び下りたら。体は三階の高さから落下し、コンクリートのフライパンの上で焼かれるだろう。逃げることは不可能だ。だったらもう、やるしかない。最初からわかっていた。今度逃げたら、次はない。夢だったコピーライターという職をあきらめる。一度あきらめたとき、どうなった? 大学へ更に逃げ場を作り、そこで何もせずにぼーっと四年間過ごしただけだった。これは最後のチャンスなんだ。父にも懇願したじゃないか。「チャンスをくれ」と。
「逃がしてたまるか」
 口の中でつぶやくと、太田とともに会議室のドアを開けた。
「どうぞ」
 長いソファーと小さな一人用のソファーが二つ、低いテーブルを挟んで設置されていた。制作会社だが、そんなにインテリアに凝ってはいないらしい。普通の応接室、といった感じだった。
「座って」
 金髪の、ブランドポロシャツが似合うダンディな中年男性は、佐藤と名乗った。履歴書と二人の座った位置を照らし合わせ、手を組む。
「太田くんは営業で、田口くんはコピーライターか。ああ、問い合わせしてくれたんだって?」
「はい」
 できるだけ元気な声を出したつもりが、上擦った。唾液を口の中に満たし、乾燥を防いで次の質問に備える。
「太田くんは、大学でバンドやってたんだ」
「はい。私はギターを担当しておりましたが、それ以外にも、ライブハウスへ足を運んでもらうために、インターネットで曲を無料配信したり、自分たちでリーフレットを作り、それにSNSやつぶやきを連動させて、少しでも興味を持ってもらおうと工夫しました」
 何気ない一言から、自己PRに繋げる技。しかも内容は具体的だ。また胃がきりきりしてきた。水が飲みたい。
「田口くんは、バイトを四年間続けてきたみたいだけど、他には何かある?」
 言葉に詰まった。明の大学での引き出しの数は少ない。「他には?」と聞かれて、すぐに思い浮かばず、目が泳ぐ。金髪ダンディは、その様子を見逃さなかった。すかさず厳しい視線を送る。ここで何も言えなかったら、落ちる。それだけは阻止しないと。
「大学で、ではないのですが、高校卒業してから、コピーライター養成講座に通いました。そこで勉強したときは、ただコピーを書くだけではなく、実際の商品を手にとってみたり、ターゲットを自分の中で設定して、それに合わせて書くように努力しました」
 動かない頭を無視して、窮地に立たされた自分の口が、勝手に動いた。早口だったが、聞き取れただろうか。言い終えると、目の前が真っ白になった。言えた。結果がどうであれ、何とか乗り切った。
 佐藤氏は、「へぇ」と先ほどの鋭い視線を緩め、明の顔をゆっくりと眺めた。変な顔をしていないだろうか。冷や汗で額が湿っているのがばれないだろうか。
 明の不安を知らない佐藤氏は、次の質問に移った。
「じゃ、太田くんから、弊社の志望動機ってのを教えてくれないかな」
「御社を志望したのは、大勢の人と接することができると思ったからです。普通の企業でも、人と接することはできますが、御社のような少数精鋭のクリエイターが集う会社と、クライアントの架け橋をすることで、一対一の人間関係ではなく、日本中を巻きこんだ大きな出会いが生まれるのではないかと私は考えています。私は、その礎になりたいと思い、この度志望致しました」
 爽やかすぎて、めまいがする。きらきらしたオーラが、紫外線のように目にしみる。太田がいい受け答えをするたびに、こちらの難易度が上がっていくような気がする。頼むから、そんないい笑顔で佐藤氏の気持ちがよくなる言葉をささやかないでくれ。
「ありがとう。次、田口くん」
 きた。隣の太田は安堵の表情で自分を見ている。佐藤氏も、こちらを注視している。はっきり言って、自分は太田のような爽やかなスマイルも下手だし、面接官にウケがいい志望動機も述べることはできない。こうなったら、奥の手だ。
「私は問題児だと自分で思っています」
 佐藤氏の目が点になった。太田も何事かと驚いている。構わず、明は続けた。
「メルヘンな送付状、自己PR、キャッチコピーの冊子。こんなものを送りつける学生は少ないと思います。ともかく私は、人を驚かせることが大好きです。人を驚かせるために、いつも自分を新しい方向へ変えていこうと考えています。ですが、自分で変化しているかどうかもわからないですし、それを認めてもらう場所もありません。だから私は、人に評価してもらう場所を探しています。私の全てにダメ出ししてください。そこから新しいものを生み出していきたいんです。御社が革命を望むのであれば、問題児である私を欲してください!」
 佐藤氏と太田は呆気にとられた。志望動機かどうかも理解できない内容。きれい事がいえないのなら、情熱だけだ。相手にインパクトを与えてやる。明の大きな賭けだった。


 面接が終わると、ビルの外で太田に声をかけられた。
「田口くんさ、大門駅使う? それとも浜松町?」
「行きは大門を使ったけど、帰りはJRで帰ろうかと思ってます……」
 携帯を片手に太田は、「なら駅まで一緒に行かない?」と軽快な口調で明を誘った。断る理由はない。明は彼の提案にのることにした。
「コピーライター職志望って聞いて、びっくりしたよ。募集は営業だったじゃん?」
 彼は初対面の明にもタメ口で、ずっと携帯を片手にしている以外は気さくで付き合いやすいやつだった。
「ダメもとで書類送ったら、どういうわけか面接までこぎつけたんだ。それより俺は太田くんのリラックス具合に驚いたよ。俺から見たら、全然緊張してるように見えなかったんだけど」
 素直に驚いたことを口にすると、太田は照れ笑いを浮かべた。
「変かもしれないけどさ、俺、人から自分のこと質問されるの、好きなんだよね。だから、今日の面接も超楽しかった!」
「え」
 普通、就活の面接といえば、緊張するのが当たり前だ。それを「超楽しかった」? 明は理解に苦しんだ。
「本当はさ、バンドで生計立てたいと思ってたんだよ。でも、それってすっげー難しいじゃん? 無理だってわかってたから、何度も妄想で『自分がビッグスターになって、インタビューを受ける』って場面を想定して楽しんでたわけ。面接ってさ、色々自分について質問してくれるんだぜ? 俺に興味を持って聞いてもらえるなんて、最高に楽しいじゃん!」
 明は楽しそうに語る太田をうらやましく思った。こんなに面接を楽しむことができるなんて。それに比べて自分の今日の面接はどうだ。緊張しっぱなしじゃないか。「不安だから、面白いところを探す」。そう自分は松木に言った。なのに、今日はいっぱいいっぱいだった。情けないの一言に尽きる。
「だけどさ、俺、田口くんの最後の志望動機にはやられたと思ったな」
 太田が言うに、明の言葉は志望動機というより、自分自身の売り込みに聞こえたらしい。実際そうだ。自分はまともなことが言えない。就活のハウツー本に書かれているような、おりこうさんな言葉で自分をごまかしたくなかった。例えそれが自分の首を絞める結果になったとしても、後悔しながら就活を終わらせるのは絶対嫌だった。
「でも、落ちるかもしれないよ。というより、落ちる」
 明が消極的な意見を口走ると、太田は笑った。
「そういうのは最後までわからないって! 現に、田口くん面白かったし。こういうのは、結局採用する側しかわからないんだから、落ちたらそのとき考えればいいじゃん! もうちょい楽に考えないと、就活鬱になるぞー」
 「楽に考えないと」か。松木に「楽観的」と言われたが、自分はまだまだだ。太田ほどの楽観主義にはなれない。が、それに近づきたい。少々のことでは追いつめられない精神が、彼には備わっている。そんな気がした。太田は面接を楽しんでいた。自分にもできるだろうか。人が呆れるほどの楽観的思考を、手に入れたいと思った。


 携帯の電源を入れ、新着メールの確認をすると、松木からメールが送られてきていた。内容を確認し、目を疑った。

『明日のバーべキュー大会、お前が参加するとは思わなかったよ。待ち合わせは十時に大学。一応お前は何かつまみ一品持参な!』

 バーベキュー大会? そんな話は初耳だし、行くなんてことも言ってない。なのに、なんでこんなことになっているんだ!
 急いで松木に電話すると、彼は寝ていたらしく、眠そうな声が耳に響いた。
「俺がいつ、バーベキュー大会に出るって言った?」
「んー、稲森が無料通話で教えてくれたぞ。明が珍しく行く気満々だって」
 稲森は何を考えているというのだ。確かに、明日は何も予定がないと言った覚えはある。でも、勝手にバーベキュー大会の出欠を出すのはひどい。
「稲森は? 行くって?」
「さあな。大体河野のこともあるしな。それより、稲森とお前が仲いいなんて、初めて知ったんだけど」
 まずい。変に勘ぐられると面倒くさい。一度電話を切って、帰宅したあともう一度かけなおすように言って、電話を切った。


「稲森! 明日のバーベキュー大会って、どういうことだ?」
 キッチンでポテトチップスを食べていた彼は、即座に立ち上がり。帰ってきたばかりでスーツ姿の明を目の前に、土下座した。
「頼む! 出てくれないか? それで河野の様子を何気なく見てきて欲しいんだ」
 そういうことか。稲森が田口家に来て、約二ヶ月だ。もう彼女も大分落ち着いただろうと思う。もう稲森が家にいることには慣れたが、さすがにこのままいつかれても困る。本当は彼自身が解決しなければならない問題ではあるのだが、相手は「包丁突き刺し」の前科がある。ここは慎重にいかなければ。
「見てきて、帰れそうだったら帰るんだぞ」
 呆れた口調で言うと、稲森はこくこくと頭を上下に動かした。


 翌日、うだるような暑さの中、バーベキュー大会は開催された。一応学科の面子が揃っているが、明は松木くらいしかよく話す友人はいなかったので、ビール片手に川面をぼーと見つめていた。
「おーい、焼けたぞー」
 ノリノリの学科の男子たちが声を上げると、水遊びをしていた女子たちが皿を配り始める。
 このくそ暑い中、余計に暑くなるようなことをして何が楽しいのだ。内心そう思っていても、今日だけは我慢だ。稲森の件もそうだが、基本的に大学内での交友関係は狭い。四年の七月下旬に思うことではないが、今日をきっかけに、何人かとちゃんと人間関係を築きたいところだ。自分も皿を受け取り、持参した一品のつまみを目立たないところに置いた。
 河野を探すと、彼女はゼミの女子と一緒に、焼きそばをつついていた。どう出ようか。いきなり稲森の話を聞くのは危険だ。できれば一緒にいる女子と、稲森の話をしてくれると助かるのだが。
 様子をうかがっていたところ、学科の他の女子から声がかかった。
「あのさ、写メ撮ってくれない? SNSにアップするからさ」
 明は携帯を手にすると、シャッターを押した。電子音が鳴って、撮影が済むと、映り具合を確認してもらう。
「うん、OK。サンキュー」
「田口はSNSってやってないの?」
 それを見ていた男子が、明と女子の間に割って入ってきた。あまり学科内でも友人と呼べる存在がいないので、妙に緊張する。一言に細心の注意を配る。
「SNSはやってるけど、大学での繋がりはないな」
「え、松木とも?」
 自分の名前が聞こえた松木が、その場に駆けつける。
「呼んだ?」
「いや、松木と田口はSNSで繋がってないのかって話」
 松木はその質問に、笑いながら答えた。
「いや、俺も明もSNSなんて面倒くさくなるタイプだから。というか、俺の場合は大学入ってから、一度か二度しかログインしてないからな。明もだろ?」
 話を振られた明は、松木の言ったことを一度肯定してからつけ足した。
「でも、最近は少し更新してるよ」
 その言葉に、周囲は騒然とした。
「え、どんなこと書いてんの?」
「っていうか、フレンドは何人くらいいるの?」
 学科のやつらの意外な食いつきにあたふたしながら、説明するのも大変だったので、自分のマイページをそのまま見せることにした。
「『七月三日 鳥のささ身、卵、ネギ、ジャガイモ、ほうれん草』……って、これ、日記?」
 女子が首を捻る。それもそうだ。日記というよりもメモ帳代わりに使っていたのだから。
「おいおい、もうちょい面白いこと書けよ。コピーライター志望なんだろ?」
 松木が失言した。コピーライターというワードに、周囲が過剰反応する。
「マジで?」
「田口、夢見てるなあ」
 明が松木をにらむと、彼は手を合わせて「口がすべった」と軽く謝った。
「そういうお前は就活どうなってるんだよ」
「せっかくバーベキューに来てるのに、水さすなよ」
 そうだ、そうだとどこからか野次が飛ぶ。数人の男女が明と松木を面白半分で取り囲んでいると、河野が鬼のような形相で、それを押しのけてきた。無言で明の手を引っ張ると、川べりの方へ連れて行く。その場にいたメンバーは、何事かと二人を見ていた。


「増崎のつぶやきで、『孝浩のツテでコピーライター志望の人間と会った』っていう投稿があったんだよね。それって田口くんのことだよね? 孝浩とそんなに仲良くなかったのに、どういうこと?」
 詰め寄られ、しどろもどろになる。まさかこんな形でバレるなんて。しかも彼女の手には、きれいに割れなかった割り箸がある。先端がかなり尖っていてささくれている。武器に見えなくもない。これで目でも突かれたら。そう考えるだけでもおぞましい。
「田口くん、孝浩匿ってない? それでなかったら、居所知ってるでしょ?」
 女の子に迫られている。悪い意味で。この状態を楽しめる人間はいない。いくら河野がかわいい女子でも、酒のせいもあってか目は据わっているし、包丁を男の枕元に刺せる人間だ。素直に言わなければ、こちらがやられる。でも、言ったら稲森はどうなる? 我が家まで追っかけて来ないだろうな。さすがにそこまでは庇いきれないぞ。
 色々な思考が頭の中をぐるぐる回って、まるでちび黒サンボに出てくるトラのようになってしまっている。どろどろのバターだ。
 うつろな目で河野の後ろに見えるバーベキューの集団を見ていると、彼女に襟元を引っ張られ、現実に戻される。
「そんなに言いたくないんだったら、言わなくてもいいよ。その代わり、これを渡してくれない?」
 彼女が手に持っていたのは、ハートのキーホルダーがついた鍵だった。河野は黙って明のてのひらに、鍵を置いた。
「これって」
「孝浩ん家の合鍵。もう行かないし」
 ずいぶんとあっさりしていた。あれだけ稲森の浮気を怒っていたのに。一体どういった心境の変化だというのだ。彼女の行動が不思議で、じっと見つめていたら、集団から一人の男が河野を呼びに来た。
「サエコ! 肉がなくなるぞ」
 学科内でも体育会系の好青年と噂の、飯村という長身の男が近づいてくる。その目には、明に対して敵対心のようなものさえあった。
「ヨウちゃん、ごめーん! 今行く!」
 彼女、飯村のことをいつから「ヨウちゃん」なんて呼び始めたのだろう。ああ、そうか。そういうことか。やっぱり女、恐るべし。
 余談だが、明の持ってきた自家製瓜の浅漬けは、意外に好評だった。


 家に着いたのは午後八時を過ぎた頃だった。結局交友関係は広まったのかどうかよくわからないままに終わったが、稲森の件では収穫があった。
「だから、帰らないって言っただろ? それに内定だってもう出てるんだ!」
「どうしたの?」
 電話口で叫ぶ稲森を尻目に、帰宅していた父に状況をたずねる。
「どうやら親御さんからの電話らしい」
 かりんとうをつまんで口に入れる。他人の家庭の事情に介入する気はさらさらないらしい。それも当然だ。ただでさえ、彼女から追われて匿っているという特殊な事態なのだ。だが、それも今日で終わりだ。河野は稲森と切れた。合鍵もここにある。飯村という新しい彼氏と思われる人間もいる。彼女がこれ以上稲森に突っかかってくることはないはずだ。
 電話を切って、難しい顔をしている稲森の目の前に合鍵をぶら下げると、はっとしたように顔を上げた。
「これは?」
「河野に今日渡すように言われた。もう大丈夫なんじゃないかな」
 受け取ると、彼は安心したように穏やかな笑みを浮かべた。しかし、すぐに難しい表情に変化して、大きな溜息をつく。
「なんだよ、家に帰れるんだぞ?」
「そうだ。家に帰れるんだ。というか、家に帰れと言われてる」
 明は首を傾げたが、知則はすぐに稲森の身に何があったかを把握した。今日もともに晩酌をしていたらしく、手前にはビール缶がある。それに口をつけると、また小さく「あーっ」と声を上げ、稲森にも飲むように勧めた。明はその場に座って、ことの成行きを見守ることしかできない。いつも明るい稲森に漂う、暗い雰囲気。違和感があった。
「卒業したら、帰郷して酒屋を継げって。今までだったら絶対嫌だった。でも、おじさんと飲んでるうちに、それもいいのかなって気もしてきて、正直迷ってる」
 明の顔に、理解できない、書いてあるらしく、父が鼻で笑った。それがまた不愉快だった。実の息子より、稲森と一緒の方がよっぽど親子らしい関係を築いているのが悔しかった。 
――悔しい? 何を今更。もういい大人が、親を取られたなんて思うこと自体、幼稚だ。腹が立って、こっちも鼻で笑ってやった。二人から鼻で笑われたと思った稲森が、眉毛を八の字にして交互に顔を見ている。それから吹き出して、今度は大笑いを始めた。
「ほんっと親子だな。おじさんも明も、どっちもどっち」
 明と知則はお互いの顔を見合わせた。明の顔のパーツは、どちらかといえば昔から母の明子に似ていると言われていた。だが、細く鋭い目や、不恰好のくせに高さだけある鼻、薄い唇は、よく見ると父に似ている気がしてきた。
 稲森はビールを一口飲むと、思い出を心の引き出しから大切に取り出すように、ゆっくりと語り出した。
「小さい頃は一緒に働きたいって、二人で仕事のあとに一杯飲もうって約束してたんだ。それを今更思い出した。最悪だ」
 明はウーロン茶を注いで飲んだ。酒は飲めないが、何か飲んで、気分だけでも酔わないと話を聞いてやれなかった。内定を持っている人間が、今になって何で実家のことを考えるのかと問えば、自然と答えは出る。決まっているからこそ、迷うのだ。これでいいのか、本当に後悔はしないのか、と。
「だからって、一度決めたんだから、迷うことはないだろ? 実家にだって、休みには帰れる。店が潰れそうってわけでもないんだし」
 明が言うと、神妙な面持ちで稲森は首を横に振った。
「潰れそうなんだ。親父の体調が最近思わしくなくて。元から持病があったんだけどさ。お袋は、俺の手で店を閉めて欲しいって言ってる。俺はどうしたらいいんだ」
 稲森は頭を抱えた。こんな彼は初めて見る。ゼミでの彼は、いつも自信に満ち溢れ、自分がオシャレだと思う格好を堂々とした、どちらかというと鼻持ちならぬタイプだった。嫌味なやつではあったが、一番に内定を取り、順風満帆だったはずだ。なのに、ここに来て大きな落とし穴にはまった。
 明や知則がどうこう言って解決するような安易な問題ではない。明が閉口していると、知則がビールの最後の一滴を飲み干し、缶を置いた。
「内定式まで、まだ時間はあるんだろう? できるだけ早く、解答を見つけるんだな。そうでないと、周りに迷惑がかかる」
 至極真っ当な意見だけを述べて、知則も黙った。稲森は静かにうなずくと、仮住まいの自分の部屋に戻っていった。
最後に決めるのは、稲森本人だ。東京での就職を棒に振るかどうかも、決定権は彼自身にしかない。内定が取れなかった人間は、彼の様子を見たらどう思うだろう。こんなことになるなら、最初から就活なんかするなと蔑むだろうか。それとも、他人や企業に迷惑をかけるなと文句を言うだろうか。内定のない明は、どちらの気持ちにも共感できずに、宙ぶらりんな感情をもてあますだけだった。


 週をまたいで月曜日。今日はテビロークの第一次選考だ。十五分前に到着すると、すでに多くの学生が集まっていた。今日は説明会を兼ねた選考ではない。ということは、グループディスカッションだ。席には名札が置かれている。学校名は書いていない。
 テビロークはセールスプロモーション専門の会社だ。コピーライター職ではなく、営業職の募集だが、SPツールの制作も手がけているところから、ここにも入りこむ余地はあると明は判断し、応募した。
 ホワイトボードの前に、三列の大きな机が置かれている。一列に六人座れるようになっていて、明は真ん中の列の、ホワイトボードから一番遠い席に座った。
 時間が来て、男女二名ずつ、計四名が入室する。
「本日は皆さん、暑い中お越しくださって、ありがとうございます。今日は皆さんに、こちらの商品二つを店頭で売る際、どうすれば売上が伸びるか考えていただきたいと思います。時間は十五分くらいで、最後に一人、代表を決めて発表してください」
 女性社員が、「あったかパスタ」という、実際にある商品を机ごとに配り終えると、ディスカッションはスタートした。
「最初に発表者とタイムキーパー、司会、書記を決めましょう」
 向かい側の、一番ホワイトボードに近い席に座っている女子が仕切り始めた。役割決めの提案ほど、どうでもいい発案はない。マニュアル通りの進め方に、明はあきれた。しかし、どちらにしろ決めねばならないことだ。タイムキーパーはすぐに決まった。時計だけ見ていればいい役だ。楽して点稼ぎにはもってこいだ。書記は一番初めの提案をした女子に決まった。何かの係りについていないと、という強い不安が、彼女に手を挙げさせたように見える。司会は、「じゃあ、俺やりますよ」と明の斜め前のいかつい学生が名乗りを上げた。いかにもできそうな男だ。係りは五人。自分か、もう一人の女子が発表を行わなければならない。どうするか迷っているうちに、残った女子が発表者に志願し、係りが決まったところで、話し合いが開始された。スタート時点から、明はまた出遅れた。
「これに、景品みたいなのをつけたらどうでしょう? パスタだったら子供も食べますよね? 親子で一緒に食べよう! みたいな」
「そうですね。親子向けなら、スーパーとか、そういったところで試食するコーナーを作ってもいいと思います。景品というか、おまけはそこで渡したりして」
「いいですね」
「ポスターの文面も、『親子で一緒に』をキーワードにするっていうのはどうでしょう?」
「あ、うん、そんな感じ」
 最初はまともに取り組もうと思っていた明も、最終的には頭が痛くなった。これがグループディスカッション? 一番に出した意見に、全員乗っかっているだけじゃないか! こうしている間にも、試験官は何やらわからない採点をしている。これで何がわかる。耳障りな白熱しないのんびりした話し合いを聞いて、適度に相槌をついているうちに、明はいらついてきた。
「あと三分で時間です」
 時計ばかりを気にして、ろくに意見を出していないタイムキーパーが時を告げた。自分も結局、何も言えていない。言ったら、『空気が読めない』のレッテルを貼られる。そうなることが怖くて、口を開くことができなかった。明らかにこの時点で、明の次のステップへの道は閉ざされた。
「時間です」
 試験官の合図で、場は静かになった。それでもまだ、話し合いの余韻が残っているらしく、ほんわかしたムードだ。「意見がひとつにまとまった」という達成感からだろうか。そうではない。初めから「意見はひとつしか出なかった」のだ。
 発表の順はじゃんけんで決められた。明のグループは最後だ。発表者の女子は、必死にノートに何かメモを書いている。他のチームの発表など、聞いている余裕はない。
 順番が回ってきた。席を立つ動作も、危うい。彼女は、自分の書いたノートを手に取り、チームの意見をまとめた。
「私たちのグループでは、『親子で一緒に』ということをテーマにして……スーパーで試食会を開いて、その……景品をつけようと考えました」
 一分もかからずに終わった。グループのメンバーから、彼女に対して様々な眼差しが向けられる。見下しているようなホワイトボード横の女子。呆れ果てて、今にも溜息をつきそうな男子。せっかくの成果を台無しにされたと非難する女子の目。司会をやった男子は、彼女をにらんでいる。
 彼女を擁護する気はさらさらなかったが、次第に腹が立ってきた。よくわからないが無性にいらつく。全てを壊してしまいたい気分だ。頭の中では、流行のロックがガンガンにかかっている。攻撃的な思考なのに、視界がやけにクリアだ。
 明は発言権もないのに、勝手に口を開いた。
「商品の特徴として、手軽・簡単に作ることができることが挙げられます。ですから、ターゲット層を主婦に設定して、それに伴ったPRをスーパーで行おうというのが私たちの考えです」
 空気が一気にピリッとした。室温も急激に下がった気がした。誰もがこの横柄な態度の学生に顔をしかめる。
「田口さん、発言は手を挙げてからしてくださいね」
 一番年長だと思われる、白髪混じりの試験官がぴしゃりと一喝した。一言つけ加えただけなのに、場の雰囲気ががらっと変わった。この試験は完全に落ちる。それでも明に悔いはなかった。


 帰りの足取りは軽かった。やけっぱちだった。それでも、もう発言してしまった。過ぎたことはしょうがない。グループのみんなに迷惑をかけたかもしれないが、空気を読んであの場に同調したくなかった。ああ、ちくしょう。好き勝手したのに、罪悪感がわいてこない自分が、歯がゆい。自分がきれいな人間じゃないことを自覚させられる。こんなことが続けば、社会人になれやしない。自分はなんてダメ人間なんだ!
 苦悩しながら東京駅に向って歩いている途中、携帯が震えた。登録していない番号だったが、市外局番で地元からだとわかった。そうなると、思い当たるのはひとつだ。
 予想通り、ヤマベスーパーからの連絡だった。二次選考も無事通過し、三次面接の日程を調整する。道の端に寄って、手帳を広げる。夏の予定はバイト以外、ほぼない。就活三昧だ。七月の最後の週のひとつに印をつけると、携帯の通話ボタンを切った。
 携帯を出したついでだ。メールのチェックもしてしまおう。すると、『次回選考のご案内』というタイトルのメールが届いている。内容を確認すると、ピアニカクラフトからだった。どうやら、十円チョコやミスミホーム、ヨンダのキャッチコピーの課題が通ったらしい。次回は面接のようだ。いくつか候補の日程が挙げられている。家に帰ったら、さっそく返信しなければ。

『東京なう。地下街でフラペチーノ買って帰る』

 ついでのついでで、つぶやきに書きこみをすると、フォロワー数が地味に増えていた。どういうつながりか明には知りえなかったが、少しばかり不気味に思えた。不特定多数に見られる恐怖。先ほどの書きこみがすぐに反映される。自分が東京にいて、地下街でフラペチーノを買って帰ることなんて、世界に発信する必要がある情報なのか? 
むなしくなって、携帯を乱暴に閉じた。


 ピアニカクラフトの面接の日は、バイトがあった。そこを何とか頭を下げて、他のシフトの人と変えてもらった。それに、ここまで来て、絶対に落とせない。面接での緊張は、ヤマベスーパーよりもオルガンジョーズで体験済みだ。あのとき会った、太田のように、自分のことを興味深く聞いてくれる貴重な人物とこれから会える。そう考えると、少しリラックスできた。
 ピアニカクラフトは、青山の奥まった場所にある、小さなビルの二階と三階だ。メールでは、二階に来るように指定されていたので、エレベーターの四角い「2」のボタンを押した。
 インターフォンを鳴らすと、すぐに男性社員が現れた。Tシャツにジーパンと、ラフなスタイルだ。
「こちらでお待ちください」
 通された場所もきれいだった。オルガンジョーズとはまた違った雰囲気で、こちらの会社はインテリアにも凝っている。ただ、不思議な形をして座りにくいイスで待たされるのは辛かった。
 しばらく経って、会議室らしき場所に移動させられた。軽くノックをして、形式通りの動作で部屋に入る。
「どうぞ」
 黒ぶちメガネは履歴書と資料を見ながら、明の顔を確認せずに座るように促した。
「それじゃ、自己PRしてもらおっか」
 軽い口調だが、目は笑っていない。目だけじゃない。明の全てを拒否するような気合さえ感じるくらいだ。これはまさか、「よくわからないけど第一印象最悪」という、一番酷なパターンではないだろうか? 自分のことを興味深く聞いてくれる貴重な人物。そんな空想は消滅した。それでも、第一印象すら変えることができずして、内定なんて取れやしない。明は腹に力を込めて、口を開いた。
「私は、度胸だけは誰にも負けません! 御社のキャッチコピーの課題を書く際も、必ず取材をしてから取り組みました。ショールームや駄菓子屋、住宅展示場など場所は様々ですが、飛びこみのような形で話しを聞くことができます。もし、御社に入社す……」
 ペースが乱れた。相手が一切瞬きもせずに、こちらを凝視している。目で殺されそうだ。一度小さく咳をして、喉の調子を整える。
「もし、御社に入社することができましたら、積極的に様々な人とコミュニケーションをとって、いい広告を作っていきたいと思っています」
 終わった。終わったのに、何も話してくれない。全くの無反応。よかったのかわるかったのかさえ、わからない。居心地悪そうに座っていると、大きい溜息のあとに声が聞こえた。
「いい広告って、何」
 まずい。具体案がすぐに浮かんでこない。
「た、例えば、景気が悪いこの時勢、購買意欲をわかせるような広告があれば、少しは人々の財布のひもも緩くなりますし……」
「それって、モノありきの話だよね? それなら公共広告はどう? 大体さ、最近は広告にすぐ人が反応するって時代でもないよね。ネットで評判見てから買う。君もそうじゃない?」
 明は声を失った。何を言っても太刀打ちできない、絶望感。頭の中が真っ白になった。そのあとのことは覚えていない。「不採用の場合は書面でご連絡します」という言葉だけが頭の中をいつまでもさまよっていた。
 三日後、トルコからの母の陽気なポストカードとともに、ピアニカクラフトから不採用通知が届いた。

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