二、モラトリアムでいられるほど、甘い世の中じゃなくなった

文字数 10,041文字

 真っ青な顔で学校までたどりつくと、約束の時間を大幅に遅れてきた松木に心配された。
「いや、なんでもない。いつものことだから」
 それだけ言うと、松木は察したらしく、苦笑いを浮かべた。
「大変そうだな、お前。いっそ家出れば?」
「できるならそうしてた」
 一人暮らしを考えたことは何度もある。だが、今のバイトだけじゃやりくりできないし、第一貯金の三十万だって、将来的には大学進学費用の一部として、父に返すものだったのだ。それを考えると難しかった。
 図書館のPC端末室につくと、想像以上に混んでいた。昼休み近くになると、動画サイトを見にくる学生が多いのだ。そんな中、運良く一台空いていたパソコンの席に松木が陣取ると、さっそく学生番号とパスワードを入力した。
 明もドア付近にあったイスを運んできて、それに座り画面を見る。松木が開いたのは、大手就活サイト『トクナビ』だった。
「えーと、まずはアカウントを作らないといけないんだな」
 ぶつぶつ呟きながら、新規登録をクリックする。個人情報の入力が終わると、今度は在
学している大学名だ。
「『学歴なんか関係ない』って言い張る企業が多いのに、こうもあからさまに聞かれると、
な」
 松木が、五十音順に並んでいる大学名から、自分の大学を探しながら複雑な表情をした。
「うーん、ひとつの指針になるのはわかるけどさ」
 明もなんだかすっきりしない気分だった。
 企業が大学を気にする理由のひとつは、高校時代にどのぐらい努力して、それが反映さ
れたかがわかりやすく見ることができるのではないかと思った。勉強でも、運動でも、結
果を出した人はいい大学にいける。だけども、それを指針にするのはどうなのだろう。学
歴差別なんて古いと言いつつも、結局は気にしている会社もあるのだと、つい後ろ向きに
なってしまう。
 画面から目をそらしていた明に、松木が問いかけた。
「志望・希望するタイプって、お前ある?」
 上に説明が書いてあった。どうやら自分が「どんな会社で仕事したいか」ということら
しい。明は腕を組んだ。いきなりそれを聞くのか。会社というものが一体どんなものかよ
くわかってないというのに。
ありがたいことに選択肢がいくつかあったので、松木はぶつくさ言いながら適当に「研
修が充実している会社」、「雇用が安定している会社」。最後に「社会貢献できる会社」を選んだ。研修が充実していれば、自分のレベルを上げることができる。雇用は当然安定していて欲しい。いきなりクビにされては困る。
「……なあ、『社会貢献』ってなんだ?」
「知らね。けど、世の中の役には立ちたいじゃん?」
 明の質問に、松木は大雑把な返答をした。彼の言うことは大まかだが、わかる。世の中の役に立つためだけに働いている人がいるなら敬意を表したい。だが、実際に働いている人は、本当に世間のために働いているのか? 自分の食いぶちを稼ぐために働く。それが根底にあるだろう? 社会貢献なんて、きれいごとにしか聞こえない。自分のために働いて、結果、社会のためになっている。そんなものではないだろうか。なのに、『社会貢献するために働きましょう』という企業もいる。なんだかおかしな話だ。
 松木は、ラジオボタンをクリックして、次のページへいく。登録だけでも結構面倒くさそうだ。今度は「希望する業種」を選択するよう表示されていた。
「業種ねぇ」
 横の大柄な彼は、困った顔でパソコンを見つめる。明は軽く訊いた。
「興味のある仕事って、ないのか?」
「うーん、翻訳とか、やってみたいな」
 翻訳か。確かに松木は英語が堪能だ。それこそ、ネイティブスピーカーと言ってもわからないと思う。そんな彼が、なぜ三流レジャー大学と揶揄される大学にいるかというと、他の科目が壊滅的だったからだ。一年のブランクがある明と、成績が壊滅的な松木は、ギリギリの成績で入学してきたもの同士、波長があったようだ。
 しかし、画面にある選択肢は、生命保険や銀行、ITなど、細かい仕事の種類ではなかった。松木はとりあえず「旅行」と「マスコミ」、「広告・出版」を選択した。
 まだ入力は終わらない。次は「希望する職種」とある。
「さっき「業種」を選んだのに、何が違うんだ?」
 松木はここまできて、背もたれにぐっ、ともたれかかった。さっきからもう三十分以上
やっている。さすがに疲れたらしい。
 松木がうなりながら考えている途中、何となく時計を確認しようと視線を画面右下に移
したとき、明はあるワードを見つけた。
「コピーライター……」
一度は口に出し、再び心の中でつぶやくと、背中がぞくっとした。「コピーライター」。
ただの職業の一種なのに、聖書の大事な一文のように思えた。


 結局、三限前に登録できたのは松木だけだったので、明は授業が終わってからまたPC端末室を訪れた。一緒に授業を受けていた松木も一緒だ。
 明は個人情報や質問を適当に入力し、さっさと希望する業種のページに移動した。彼の希望はたったひとつだった。業種は「広告・出版」。職種は「コピーライター」。一度挑戦して、あきらめた夢。青二才上等。それでもやりたい。強い思いを込めて、確認ボタンをクリックすると、松木が驚いていた。
「お前が、コピーライター? なんで? 全然脈絡がないじゃないか」
「高校卒業してさ、一度目指したことがあったんだ」
 明はパソコンの電源を切り、松木をラウンジに移動するようにうながした。そこならコーヒーも飲める。口に苦いものを入れて、頭をリフレッシュさせたい気分だった。


 明が東京の私立高校に通っていたとき、「特別授業」と題するものが実施された。有名な講師をむかえて、現場での仕事を知るものだ。しかし、これは生徒のための授業ではなく、少子化社会で子供を集めるための大胆な宣伝活動の一部だった。そのため講師も、広告塔になれるような目立つ人間が選ばれた。
――そこで明は出会ってしまったのだ。緑の髪に黄色いTシャツの男、佐伯勝に。
 佐伯は講堂の壇上に登るなり、マイクも使わず大声で叫んだ。
「几帳面にノート出してるやつはしまえ! せっかく授業がないんだから、楽しくやろうぜ!」
 当時二年だった明は、その言葉にふきだした。「特別授業」の講師が、「授業はない」なんて、問題発言だ。
 生徒たちはざわついた。事前に配られた資料では、「コピーライター」と紹介されていて、いくつかのキャッチコピーが書かれていた。どれも街にあるポスターに、でかでかと載っているものだったが、それを書いた人物の顔を見るのは初めてだ。
 そんな有名なコピーライターの頭が緑。着ているものは黄色。目がちかちかするほどの原色。それでも嫌な感じはしない。むしろ、自由な服装の彼がうらやましかった。それに比べて、自分たちはどうだ。生徒席は真っ黒だったので、壇上の佐伯がライトに照らされると、余計にきらきらと輝いて見えた。
 「授業はない」と宣言した彼だったが、話の内容はしっかりしたものだった。広告業界でコピーライターがどのような立場なのかを詳しく説明し、実際どんな仕事をするのかも語った。
 キャッチコピーは、たった一行で消費者と商品を結びつける役割をする。要は架け橋だ。そのたった一行を作るには、ただ空想を広げるだけではまずい。クライアントと話し合い、どのように商品を売るか、また、どういったブランドイメージをつけるかを決める。その話し合いを元に、商品を分析し、ターゲットとなる人間の心をひきつける言葉を考えなくてはいけない。その言葉は、ときに真実をえぐり、ときにジョークを織り交ぜ、人々の心に語りかけるのだ。だからこそ、コピーライターは、様々な事象に敏感に反応し、「新しもの好き」、「お祭り好き」、「楽しいこと大好き」でいる状態がベストだと、佐伯は持論を展開した。
現に、佐伯が代表を務めている会社は『ロッキン・パンダ』といい、名前からしてふざけていた。しかも、大手の広告代理店とは違う、個人の制作会社で、あくまでフリーに活動することが目的。だから、キャッチコピーを考える以外にも、面白い企画があったら即実行することができる奔放さを備えていた。この会社は、佐伯が述べた三つのベスト状態を保っている、最高の会社なのだ。
「と、ここまではクソ真面目に話しましたが……」
 ひと通り話し終わると、佐伯はにやりと笑った。マイクが息の音をひろったのだ。一拍おくと、左手にこぶしを作り、ちらっと生徒たちを見た。明は佐伯と目があった気がして、びくりとする。その瞳には、明らかに炎が宿っていて、やけどしそうだった。
「いわば、俺にとって仕事はロマン! 男なら冒険しろ! 女なら夢を見ろ! ってことだ」
 壇上の炎が、爆弾の導火線にとび火した瞬間だった。


「それって憧れだけじゃないか」
 オレンジジュースを飲む松木が、呆れた顔をした。それも予想済みだ。まだこの先がある。アイスコーヒーを口にして、明はそれに返事した。
「高校を卒業して、俺、一年間空白だろ? 話してなかったけど、バイトしながら週一で広告の専門講座に通ってたんだよ。そのあと、コピーライター職に絞って就活もしたんだ」
「げっ、マジかよ。それがなんで大学にいるんだ? しかも法学部って」
「ある会社の面接でさ、言われたんだよ。『コピーは、字が書ければ誰でも書けるもんだ』って。正直ショックだった」
 高校二年からの夢が打ち砕かれ、現実を突きつけられた瞬間を思い出し、暗い影を落とす明を目の前に、松木は首をかしげた。
「コピーってよくわからないけど、書いても目を引くものじゃないといけないだろ? 誰でも書けるっていうのは違うんじゃないか?」
 明は静かにうなずいた。
「うん。だけど、面接した人が本当に言いたかったのはそういうことじゃない。要するに、欲しかったのは『面白いコピーが書けるやつ』だったんだ」
 その意味を知った明は、自問自答した。自分にそれができるのか。今まで書いた自作キャッチコピーを見直し、コピー年鑑を何度も読み返した。気になる広告とその商品は必ず手に取り、誰にあててコピーが書かれたのかも考えた。
 そして、下した結論。今の自分にはできないかもしれない。独学から始めた勉強。ひとりよがりの勉強からは、何も得ることはできなかった。真っ黒になったノートと、教科書代わりの本たちは、本棚の奥へとしまわれた。
夢を失った男の力は、驚くほど弱くなる。明は、高卒のまま仕事に就く自信が持てないほどにまで陥った。
「それで大学に? あきらめ早いなぁ。それに、学校を逃げ場にしちゃ、ダメだろ。真面目に勉強してるやつに悪いって」
 モラトリアムを理由とした入学。すべりこみでも入れるなら、どこの大学、どこの学部でもよかった。真面目に受験した、自分より一歳年下の生徒たちへの罪悪感がなかったといえば嘘になる。
もっともな松木の意見に、明が閉口していると、稲森が声をかけてきた。
「松木、今日の講義のノート、貸してくんない? あと、先週のも。出てなくってさ」
「この学校で勉強してるやつ、本当にいるのかな……」
 明のつぶやいた皮肉は稲森の耳に届いていた。メガネをくいと持ち上げ、にらむ。
「ああ、田口は無駄に欠席しないからね。よっぽど暇なんだ?」
 明に対抗するかのごとく、嫌味を言う。稲森に向けた言葉ではなかったが、結果的にあてこすりになってしまったことを気にして、明は口ごもった。
「大体、就活してたら講義受けられないって。松木も田口も動かねぇの? 二人とも就職浪人する予定じゃないんだろ?」
「でも、お前は内定出てたよな」
 松木がたずねると、稲森は笑ってごまかして、空いている席に座った。ショルダーバッグからペットボトルのウーロン茶を取り出すと、それをのどに流しこむ。
「稲森が内定出たところって、どんな会社だ?」
「IT企業の営業職。松木たちはないの? 希望の会社とか」
「明は、コピーライターになりたいんだって。俺は未定」
 突然自分の夢を暴露された明は、コーヒーでむせた。咳きこむ目の前の男に呆れつつ、稲森は吐き捨てるように言った。
「広告業界ってこと? 大手の採用はもう募集とっくに終わってるだろ。それに、うちの大学から大手に入ったやつなんて、聞いたことないぜ?」
 お前には無理だ。そう言いたいのが手に取るようにわかった。広告業界は、やはりやり手の人間が多いと思っているようだ。明るく積極的でバイタリティ溢れるやつ。それに対して明はどうだ。暗く、消極的でやる気がない。二年から同じゼミだったが、明はいつもクラスの輪からはずれていた。そんな人間が、コピーライター? 誰もが笑うだろう。それを承知した上で、自分は志望する。
咳が落ち着くと、明はハンカチで口元を拭い、稲森を見た。
「制作会社に応募しようと思ってるんだ」
 ふうん、と相槌を打ったが、興味はなさそうだ。すぐに他の話題を出してきた。
「それよりさ、今日三年生対象の就活セミナーがあるらしいぞ。とりあえず、受けてみたらどうだ?」
「今更じゃないか? 俺たちが出ても」
 尻ごみする松木とは反対に、明はその話に乗った。
「せっかくだから、出てみようじゃないか。 何か得るものがあるかもしれないぞ」
 明の一言に、松木は渋々とうなずいた。松木はまだ、就活に興味を持てないようだった。


「就活セミナー」は講堂で開かれると、稲森から教えられた。明たちが行くと、すでにかなりの学生が集まっていた。入り口で配布していたプリントを受け取ると、二人は後ろの席に並んで座った。参加者は秋から始まる就活に、万全の体制で臨もうとする三年生ばかり。四年や就職浪人の学生は、数人しか見受けられなかった。スタートダッシュしなかった上に、序盤でこけて立ち上がれないマラソン選手のような気分だった。
「これから就活セミナーを始めます。プリントは皆さん持ってますか?」
 舞台からの事務員の問いかけに、学生は無言だった。それを「持っている」と受けた事務員は、さっそく講師を紹介する。
「今日は就活アドバイザーの山本さんが来ています。山本さん、どうぞ」
 促すと、舞台袖から大きなホワイトボードを引きずった、三十代半ばくらいの男性が登場した。
「みなさん、こんにちは!」
 山本はマイクなしで叫んだ。だが、誰も反応しない。山本はもう一度大声で叫んだ。
「みなさん、こんにちは!」
 すると、今度は何人かの生徒が「こんにちは」と返した。
「皆さん、挨拶はコミュニケーションの初歩です。挨拶されたら返す。こんなこともでき
ないようだったら、就活始められないね」
明は苦笑した。的を射たことを言っているのだが、何かずれているような変な感覚。挨
拶ができなければコミュニケーションができない。それは事実だ。だがどうも、ライブのような、一体感を共有するためのパフォーマンスの一環にしか思えなかった。だとしたら見え透いた手だ。
山本はマイクを持ったまま舞台から降りて、通路をうろうろと歩き始めた。ちょうど列
の真ん中辺りにきたとき、突然生徒に質問した。
「就活に一番大事なものはなんだと思う?」
 マイクを向けられた女の子は、いきなりの問いかけに驚いたらしく、小声で「私?」と
友達に確認している。
「ええと、度胸ですか?」
 不安そうな回答。山本さんはその女の子の隣にも同じ質問をした。
「……度胸?」
同じだった。山本はまた通路に戻ると、歩きながら説明を始めた。
「確かに度胸は大事です。でも、それよりももっと大事なものがある。それがさっき言っ
た『コミュニケーション能力』です」
 コミュニケーション能力って、なんだ。まさかとは思うが、「空気を読む能力が重要」な
んてことを言い出すんじゃないだろうな?
 明は穿った目で、山本を見ていた。「空気を読め」。うんざりする言葉だ。空気を読むこ
とと、協調性は必ずしもイコールではないと思う。協調性は、意見の違う人間が、お互い
の話し合いで物事をうまく進めようとする力だ。それに対して、空気を読むことは、人の
顔色をうかがって発言するとか、間違っているとわかりながらも、穏便に事を済ますため
周りに合わせることではないだろうか。それじゃ、ストレスがたまっていくだけだ。空気
を読んで、息を押し殺しながら仕事をしている人間が多いのなら、電車の中で苦しい表情
を浮かべ、眠っている社会人がいるのも納得できる。
 もし、自分が「そうやって生きろ」と言われたら、全力で「NO」を突きつけたい。自
分は、いつまでも風を切って生きていきたいんだ。
舞台上の山本を注視していると、隣の席からいびきが聞こえた。松木を見ると、彼は開始直後だというのにすっかり寝入っている。明は口元を緩めた。松木にとっては聞く価値もないのだろうか。
山本は、就活で大事な自己PRやエントリーシートの書き方や、面接での立ち居振る舞いを説明した。どの場面でも多用された、「コミュニケーション能力」とは、自分のアピールしたい部分を、企業にうまく伝えるための力だった。彼の言う「コミュニケーション能力」は、本質的な考え方ではなく、技術的なもののように思えた。
 特にエントリーシートの書き方で「企業で働いている自分を想像する」と言われたとき、明の頭には疑問符がついた。「そこの会社で何をしたいか・何が自分にできるか」考えることは必要かもしれない。が、果たしてそれは本当に正しいのか? 「自分にはやりたいことがある。だから、この会社に入った」じゃ、いけないのか?
 山本の就活セミナーは「ありがとうございました!」と礼をいう生徒の大声で終了した。
 明は府に落ちない説明と、学生たちの、まるで宗教団体に洗脳されたような礼に、いら
だちを隠せなかった。異様なまでの一体感。右向け、右。それに抗おうとするやつは、社
会人失格になるのだろうか。


 セミナーが終わったあと、松木と空き教室で話をした。曇り空には気づいていたが、窓
を見ると、雨粒がいくつかついている。降りだしたようだ。
「得るものはあったか?」
「勉強にはなったよ」
 淡々と答えた。さっきまでの会場の熱気とは裏腹に、松木と明は冷めていた。
 松木はさっき売店で買ったパンを食べながら、何やら考え込んでいる。
「どうした?」
 珍しく無言。しばらくパンに集中していた松木だが、食べ終わると真剣な顔で明に訊い
た。
「俺、わかんねーよ。社会貢献? 生活費の確保? 周りの目? それってそんなに価値
のあるものなのか?」
「価値があると思う人だっている」
 そっけなく言った。正直なところ、自分自身も答えはわからない。
生きるために金を稼ぐ。果たしてそれは就職しなければできないことなのだろうか。いちいち疑問を持ってしまうのは、自分が甘やかされている状態で、松木も自分と同じに近いところにいるからだと思う。それでも、質問をぶつけたい欲求にかられるのは、何もかもが手探り状態で、不安だからだ。彼は更に問いかける。
「じゃあ、それに価値を見出せない俺はダメな人間か?」
「そうは言ってないだろ」
 窓から流れる雨のリズムを聞きながら、お互い力なく笑った。情けない空の灰色が心情
を表しているかのようだった。このままだと、そのまま夜になる。待つのは真っ暗な闇だ
けなのだろうか。
 終身雇用の時代は終わったと言ってもいいだろう。働き方は変わりつつある。正社員の
数は減らされ、派遣や契約社員が増えている。例え、正社員として入社することができて
も、短期間で辞めてしまう人間もいる。今の学生はゆとり世代と揶揄されるが、時間だけ
のゆとりがあっても、心のゆとりは確実に失われている。会社が自分の生活を保障してく
れない世の中になった。小さなパイを分け合う精神を育むよりも、陰で相手の足を引張り、
パイ争奪戦に参加できないようにすることを教えるのが、今の社会だ。
 誰を目標に生きていけばいい? どうやって生きていけばいい? 立派な親を越えるた
め? 今の若者は、自由に夢を見ることができる。反面、目指すものは自分で探すしかな
い。果たして昔はそうだったのだろうか。皆でがむしゃらに働いて、やっとできたのが現
代だ。成長することを目標に、育ちすぎた大きなトマト。収穫することを忘れて、そのま
ま割れてしまったようだ。割れたトマトを放っておけば、そのうち害虫に食いつくされて
しまう。
「お前はなんでコピーライターなんだ? 一度逃げ出したくせに」
 毒も混ざっているが、事実だ。言われたことを素直に胸に留め、明は松木を見た。
「俺は、なんとなく生きるのが嫌なんだ。人と変わったことがしたいって訳じゃない。だ
けど、電車の中でしかめっ面したり、仕事以外のことに興味が持てない人間にはなりたく
ない。俺が憧れてる人みたいな人間になりたいんだ」
 堂々と宣言すると、松木は腕を思いっきり伸ばして叫んだ。
「あー、もう! こうなったら飲みに行こうぜ! 真面目な話なんて、しらふでしたくね
ーよ!」
 明は彼の提案を静かに断った。
「ごめん、ちょっと今、金なくてさ」
「お前、かなり貯めこんでたんじゃなかったのか?」
 少し間を置いて、あくまでも感情を出さずに返事をした。
「全部なくなった」
 どういう意味か分からない、という顔をされたので、もう一度言う。
「なくなったんだ。金なんて、使わなくてもなくなるもんなんだ。それに、俺あんまり飲
めないって、知ってるだろ」
 これ以上、口を開くと愚痴が溢れてきそうだ。明は、「悪い」と教室を出た。
 金なんて、貯めても結局なくなるんだ。稼ぐためだけの人生。何だか寂しい気がした。


 家に帰ると、すでに父がいた。食事は済ませたらしく、また今日もキッチンでかりんとうを食べている。自分も何か食べようと、冷蔵庫を開けた。ほうれん草とハムがある。バター炒めを作ろうとエプロンをつけた。
 調理が終わると、父と向かい側の席につき、テレビの電源を切った。見ていた父は、息子を見つめる。
「話すことがあるだろ?」
 目線をほうれん草の皿から移すことなく、父に言った。明子のことだ。中学三年の頃からの放浪癖を、今更どうこう言っても意味がない。しかし、今回は違う。かなりの額の貯金を持っていかれた。しかも、彼女の口ぶりから察するに、このことは知則も知っているようだった。
「父さんさ、母さんが世界一周旅行に出ること、知ってたでしょ」
「知ってたが、何か問題あるのか?」
 また鼻にかりんとうを入れようとしてくるので、それを手で防ぐ。ふざけるなという意志は、態度で示す。父はやめると、それを口に放りこんだ。話す気はないらしい。それなら、嫌でも聞き出すまでだ。
「なんで、旅行を許可したんだ? あの人が旅行することは、もうこの際どうでもいいよ。だけど、俺の貯金を持ち出すなんて、異常だろ? 家の金まで渡して、何の得があるっていうんだ」
 ぼりぼりとかりんとうを噛み砕く音だけが響く。口の中のものをお茶で流すと、今度はだんまりを決めこむ。喋る気配はない。次のかりんとうを手にする前に、明はテーブルを叩いた。
「母さんも問題だけど、父さんもおかしいよ! ちゃんと質問に答えろよ!」
 知則の動きが止まり、口の端に笑みが浮かんだ。二十三年間蓄積した、父の行動パターンから推測する、彼の次の言動。何かろくでもないことを言うのではないかと、明は肝を冷やす。かりんとうを一本手に持ち、それを息子に向けた父は、古い冷蔵庫の機械音をかき消すぐらいの声で話し始めた。
「旅行を許可した理由? 決まってるだろ、面白そうだからだ! 外国語を一切話せない人間が世界一周だぜ? 俺だったら絶対無理! そんな無謀なこと、できるとも思わん。だけど、明子さんならできるだろ? 面白そうなことが自分にできないなら、他人にやってもらう。ついでにあの人、いるとやかましいからなぁ。疲れる、疲れる」
 呆気にとられた。「亭主元気で留守がいい」が、田口家の場合、「女房元気で留守がいい」ということか。この父はやっぱり宇宙人だ。社会的には立派なサラリーマンも、家族から見たら、変人だ。いや、鬼だ。女房を心で小ばかにした挙句、金を握らせて追い出すなんて。その鬼の息子が自分なのか。自分にも同じ血が流れていると思うと、ぞっとする。めまいがして、自室に移動した。
 ベッドに倒れこむと、そのまま枕に顔を押しつける。積みあがった問題から目をそらしたかった。就活と家族、そして金。金はまだ、最後の手段が残されている。父に土下座だ。
だが、その手段は、実家暮らしの一人っ子だからできるわけで、甘えを認めることになる。
さすがにもう、そんな甘えが許される年齢ではない。こうなったら全部の問題を、体当たりで解決していくしかない。旅立ちに向けて、準備をしなくては。
 明は開き直ると、ベッドから起き上がり、ノートパソコンの電源を入れた。


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