第四章 お茶会日和 3

文字数 5,183文字

 風間慶一は、想像した以上に用心深い為人かもしれない。ナオトにはそう思えた。なにより、常に都筑彰男を従えているからであった。
 街ゆく間に女性に声をかけたりしているが、彰男を帰らせることもせず、そのため、女性とふたりきりになることはなかった。今日、慶一の後をつけていて、結局、不貞の現場に遭遇することもなかった。
「と、すると」
 案外、間仲有佳里(まなかあかり)との結婚について、慶一なりに思うところがあるのかもしれない。そう感じたが、それを立証する証拠はない。証拠がなければ証明できない。証明できなければ、仮定に過ぎなかった。その仮定を証明するためにも、ナオトは証拠を手に入れなければならなかったのである。もちろん、そうではないであろう証拠でもかまわなかった。
 陽が西の方に傾いていた。繁華街は華やかで、喧騒に満ちた夜の装いを見せ始めた。街灯が灯り、色とりどりのネオンが輝き始めると、落日の速度がいや増したように、街並みはしだいに夜の帳に包まれていった。
 ナオトは今、高級レストランにいた。といっても、服装はラフでも構わない店であった。メニューを見て卒倒しそうになった。二千円もするパスタなどには興味はあるものの、収支についても考慮する必要があったため、仕方なく、もっとも安価なコーヒーを注文したが、それでも千円はする。いったいどんな豆を使っているのか、良心的な価格帯の喫茶店『四季』の関係者とあっては、腹立たしくすら感じた。それでも、出されたコーヒーをすすって、ナオトは独り言ちた。
「結構うまいな」
 ほのかな苦味を舌で味わいながら、ナオトの目は、あるテーブルに向けられていた。いうまでもなく慶一と彰男、それと、どこかで声をかけた女性たちであったが、とても楽しそうに歓談していた。
 話の内容はわからなかった。ナオトは近くのテーブルにつこうとしたが、彰男がいる以上は自重しなければならないため、遠くのテーブルについた。カナタの制作した集音マイクでも、あまりに遠すぎるため、役に立たなかった。これといった収穫はない。ナオトは店の時計に目をやって、時間を確認した。
「午後八時三二分か」
 終電までは、まだ四時間近くある。今朝は早く起きたこともあって、正直、眠たかった。しかも、まったく収穫がないということもあって、疲労の度合いは高い。この先、四時間も慶一の後をつけるのも、難渋しそうであった。しかし、ここで諦めて帰るわけにもいかなかった。夜はこれからであったからである。
「キョウジを呼ぶか」
 秀麗な含み笑いを浮かべているチャラい金髪男を脳裏にうかべた時、ナオトのスマートフォンが軽快な呼び出し音を鳴らして震えだした。液晶画面には「マスター」と表示されている。四季(よつき)ゲンイチロウからであった。
「なにかあったのか? マスター?」
「陣中見舞いだ。どうだ、なにかつかめたか?」
「いいや、大学では慶一は常に彰男といる。大学を出てからも同じだ。やはり、彰男を慶一から引き離す必要がありそうだ」
「そうか」
 スマートフォンの向こう側で、ゲンイチロウが渋い表情で唸っている様子が、ナオトの脳裏に鮮明に浮かんだ。ナオトは先ほど浮かんだ考えを口にした。
「それでなんだが、キョウジをヘルプで呼べないか? 正直、眠くてたまらん」
「そいつは無理だ。残念だがな」
「ん? キョウジになにかあったのか?」
「いや、いつものことだ」
 いつものことと聞かされて、ナオトは深くため息をついた。おおよその見当はついていた。キョウジらしいと思った。だからといって、カナタを呼ぶのは適当ではない。カナタは機械と情報と分析の専門であって、現場には不向きであったからである。ゲンイチロウも同じ意見であったようだ。
「一〇時までのシンデレラなら手が空いているが。どうする?」
 ゲンイチロウの言葉を受けて、ナオトは少し考え込んだ。
「そうだな、おれとしては、一〇分ほどでいいから仮眠したいだけなんだ。まあ危ないことは起こりそうにない。シオリの手が空いているのなら、寄こしてくれないか? 場所は『東都大学前駅』にある高級レストランだ」
 ゲンイチロウは、「高級」という言葉に引っかかったようである。苦言を呈された。
「わかっていると思うが、収支のことを考えろよ?」
「ああ、わかっている。それよりも、シオリはどうなんだ?」
 ナオトはマスターの反応を待った。どうやら、『四季』でシオリと話しているのであろう。返事はすぐに返って来た。
「わかった、シオリを向かわせる。だが、忘れるなよ。あくまでも一〇時までだからな」
「もう少しでいいから、おれのことを信用してくれ」
 ゲンイチロウの(くど)さにうんざりしたように呟きながら、ナオトは通話を終えた。
 スマートフォンをテーブルに置くと、ナオトは冷めたブラックのコーヒーを胃に流し込んだ。それから両手で頬を叩いて刺激を与えると、目を瞬かせて首を素早く振った。睡魔が、今にもナオトを支配してしまいそうであったのである。
 ナオトは手を上げると、近くのウェイトレスに声をかけて、濃い目のアイス・コーヒーを注文した。アイス・コーヒーが運ばれてくると、慶一たちに動きがあった。どうやら店を出るみたいである。ナオトはアイス・コーヒーを一息に飲み干すと、慶一たちから少し遅れて席を立った。
 店を出たナオトは、あたりを見渡して慶一を探した。背が高い彰男の姿はすぐに見つけることができた。慶一たちは、ある雑居ビルの地下に続いている階段を降りていったようである。ナオトは、スマートフォンを取り出して、シオリに連絡を取った。シオリは直ぐに電話に出た。
「シオリか? マルタイが移動した。『東都大学前駅』近くにある、雑居ビルの地下にあるスナック・バーに入った。名前は『千歳(ちとせ)』という」
「わかった。今、駅についたからバーの前で待ってて」
「おう。慌てなくてもいいからな」
 ナオトは通話を終えると、『千歳』の入り口に続いている階段の前で待つことにした。すると、ひとりの若い男が近づいてきた。
「おや、そちらのお兄さん。どうです、うちにはいい()が揃っていますよ、さあさあ」
 客引きの男であった。客引き行為は条例で禁じられていたので、ナオトは軽くあしらった。
「いや、人と待ち合わせなんだ」
「そうですか」
 サバサバした反応であった。客引きの男が別の目標を見出したようで、ナオトの側を離れた。なにくれとなく客引きの男を目の端にとどめて、ナオトは眠気を払うように顔を振った。シオリはすぐに姿を見せた。どうやら走ってきたようで、息が上がっている。
「悪いな、急に呼び出して」
「ううん、それは構わないけれど、ここって怪しいバーじゃないの?」
 スナック・バー『千歳』は雑居ビルの地下にあった。確かに、シオリの想像通り、怪しく思えた。
「かもしれない。しかし、後を追うしかない」
 ナオトが険しい表情で階段を見下ろすと、シオリがナオトの横に移動して、腕をからませてきた。シオリは無邪気に笑ってみせた。
「彼女のふりをしなきゃね」
「そうか?」
「兄妹でスナック・バーなんておかしいじゃない?」
「それは、そうかもしれないが」
 必要以上にくっついてくるシオリに、ナオトは年甲斐もなく動揺してしまった。ナオトはキョウジと違って、あまり異性に対して免疫があるほうではなかったのである。
「じゃあ、行きましょう」
 なぜかシオリにエスコートされて、ふたりは階建を降りていった。壁には街金やヘルス店、怪しげなマッサージ店などのいかがわしい張り紙が雑然と貼ってあった。あまり、環境はよろしくはなかった。
 階段を降りると、一畳半ほどのおどり場になっていた。入口のドアの前に立ったナオトは、一度深呼吸をしたが、シオリは躊躇することもなく、堂々とドアノブに手をかけた。
「行くわよ」
 ドアは押すタイプであった。シオリはゆっくりとドアを開いた。二畳ほどの空間があり、右側にもうひとつドアがあった。今度は、ナオトがドアを開いた。
 店内は薄暗かった。照明は暖色系の灯りで統一されており、非常に落ち着いた感じがした。流されている音楽はボサ・ノバである。音量も程よい。店の雰囲気は悪くはなかった。非常に落ち着いた、品の良い、大人をターゲットにしたような雰囲気であった。
 バーテンダーは、口ひげを生やした、中年の紳士に見えた。店に入ってきたナオトたちに目を向けたが、なにもいわずにグラスを磨いている。
 店内を見回したナオトは、困惑し、怪訝(かいが)し、警戒した。シオリを呼んだのは間違いであったかもしれないと後悔もした。なぜ後悔したのかは、単純で明快で不可解な理由からであった。店内に、慶一と彰男、そして女性たちの姿がなかったのである。
「まずいな」
 ナオトは注意深く左右に目を走らせた。幾人かの客がいるが、その客たちすべてが怪しく感じられた。
 立ち尽くしたままのナオトは、シオリに引っ張られるようにして、カウンターの席に腰を下ろした。バーテンダーがナオトたちの前に近づいてきたが、無言のままである。このバーテンダーも怪しく思えた。
 早々に立ち去ったほうが賢明である。ナオトは速断した。シオリに声をかけようとしたが、シオリが口を開いたほうが早かった。
「コークハイとミルクセーキをひひとつづつ。あっ、それと、レタスサンドをひとつ」
 なにも知らないシオリが、メニューを見て、注文した。
 バーテンダーがふたりの前から立ち去ったのを見計らってから、ナオトはシオリに小声で囁いた。
「シオリ、来てもらって悪いが、今すぐ店を出て行ってくれないか?」
「なんで?」
「マルタイがいないんだ。おれが尾行していることに気づいたのかはわからないが、どうも、嫌な予感がする」
 ナオトは得もいわれぬ不安を感じていたが、シオリは平然としている。
「ナオトの予感って、そんなに確率が高かったかしら?」
「確率は低いかもしれない。一〇回に一回かもしれない。でも、その一回が今回という可能性は拭いきれない」
 シオリは安心したように微笑んでみせた。
「大丈夫よ。あたし信じてるから。ナオトはなにがあろうとあたしを守ってくれるって。こっちのほうがよっぽど確率が高いと思う」
 シオリは、全幅の信頼をナオトに寄せているようである。
「ああ、信頼してくれても構わない。だが、危険と知っていて、――」
 ナオトは口をつぐんだ。バーテンダーが注文の品を持ってきたのである。ナオトはバーテンダーに確認した。
「こっちのは、アルコールは入ってないんだよな?」
 バーテンダーは、ミルクセーキを見て黙ってうなずくと、ふたりの前から去っていき、元の場所につくと再びグラスを磨き始めた。
 ナオトはシオリの耳に顔を寄せた。
「いいか、おれがグラスをテーブルに置く。それが合図だ。おれに平手打ちをして、シオリは振り返らずに店を出て、まっすぐ駅に向かえ。いいな?」
 シオリが顔を振ったのを見て、ナオトはため息まじりに告げた。
「今は押し問答をしている場合じゃあない。いいな? シオリ」
 シオリは激しく首を横に振った。
「あたしたちは仲間でしょう? ナオトひとりを置いて、逃げるなんて出来ない。それに、考え過ぎかもしれないでしょう?」
 ナオトは黙ったまま、シオリを真っ直ぐに見つめた。有無をいわせぬ迫力があったが、シオリはたじろいだりはしなかった。
 ナオトはグラスを手にした。グラスを傾けてコークハイをひとくち口に含んだ。目はレタスサンドを頬張っているシオリの横顔を見つめたまま、ナオトはコークハイを飲み込んだ。ナオトはグラスをコースターの上に戻した。なにも起こらなかった。
「シオリ!」
 ナオトは立ち上がると、シオリの頬を引っ叩いた。驚きと痛みで大きく目を見開いたシオリは、無言で立ち上がると、ナオトに向かってミルクセーキをぶちまけた。口を真一文字に結んだシオリは、そのまま振り返ることもなく店を出て、階段を駆け足で上がっていった。
 客が失笑していた。痴話喧嘩かもしれないとでも思ったのであろう。それは、どうでもよかった。
 バーテンダーが差し出した手ぬぐいを黙って受け取ると、ナオトはミルクセーキを拭き取った。手順は異なっていたが、結果的にシオリを帰らせることには成功した。ナオトは安堵の溜息を漏らして、コークハイを傾けた。
「おれは、どうしようもなく不器用だな」
 空になったグラスをコースターに置いて、ナオトは、バーテンダーを呼ぶと、少し強めの水割りを注文した。それを一気に呷った。堪えきれない睡魔が襲ってきた。
 ナオトは我慢ができずにカウンターに突っ伏した。瞼が重たかった。目を閉じると、意識が遠のいていくのを感じた。次第に、深い眠りに落ちていった。
 ほどなく、心地良い寝息が聞こえてきた。目を覚ますまで、ナオトは眠り続けたのであった。
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