第八章 交渉、あるいは強迫 3

文字数 13,695文字

 風間グループ本社ビルは、市街地の中心部にそびえ立っていた。地下五階、地上四十八階という本社ビルは、他を圧するように威容を放っていた。その姿はまるで、他を睥睨する巨人を思わせた。
 ビルの前に立ったナオトは、巨大なビルを見上げた。上部の方はかすんで見えた。
「卒倒しそうな高さだな」
 キョウジがナオトの肩を軽く叩いた。
「今から気を飲まれていては、戦いには勝てんぞ」
 ゆっくりと歩き出したキョウジの後を、ナオトは追いかけた。
 受付で名前を告げ、用件を話すと、ナオトとキョウジはしばらく待たされた。待たされるのは時間を無駄にすることであり、時間を無駄にすることは勿体無い。キョウジは、内線で確認を取っている受付嬢の隣にいる、もうひとりの受付嬢に根ほり葉ほり尋ね始めた。
「懲りないな」
 ナオトは呆れたように、ため息をついた。
「しばらくお待ちください。すぐに担当の者が参ります」
 キョウジは確認を終えた受付嬢にも声をかけ始めた。すっかり話し込んで、ようやくという頃合いになって担当者が現れた。残念なことに、キョウジの望みは叶えられなかった。しかも、担当者は年配の男性であったのである。
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ」
 見るからに紳士である。風間源蔵の筆頭秘書だと、その紳士は語った。ふたりは男の後をついていった。エレベーター前で、しばらく待たされた。エレベーターは三基ある。右のエレベーターの扉が開いた。乗り込もうとしたナオトは男に止められた。なんでも、直通のエレベーターがあるという。さすがに、巨大企業の会長ともなると、それぐらいの特別扱いはあってもおかしくはない。それになにより、これは面会者への配慮の意味合いが強いものであった。
 左手のエレベーターの扉が開くと、男性は乗り込んで、ふたりの客人を招いた。エレベーターに乗り込むと、男性は最上階のボタンを押した。正確を期するのであれば、パネルには最上階のボタンしかなかった。足がふわりと浮き上がる感じがして、エレベーターは高速で最上階へ登っていった。
 ナオトは無言で、現在の階数が点灯する表示盤を見ていたが、意識は、別のものに向けられていた。昨夜のことを思い返していたのである。キョウジと今日のことについて綿密に打ち合わせている。風間源蔵が会うと決めたということで、まずは、第一関門はクリアした。後は、手札で勝負する。決意を込めた輝を瞳に宿して、ナオトは現実の世界に意識を戻した。最上階の文字が点灯すると、ナオトは表情を引き締めた。一方、キョウジは今にも口笛でも吹きたそうにしている。
 ドアが開くと、男性は常時開放のボタを押してからエレベーターを降りた。エレベーターから真っ直ぐに通路が伸びていた。男性に先導されるように、ナオトとキョウジは赤色系の毛氈を踏みしめて進んだ。
 正面に大きな扉があった。精緻な意匠が凝らしてある特別な扉であった。男性はインターフォンらしきものに声をかけた。
「おふたりをお連れいたしました」
 間もなく、扉が自動で開いた。
 ただただ、眩しかった。太陽の光を浴びて、部屋の奥、外界と接する巨大な窓ガラスの前に、ひとりの人物の陰が見えた。どうやら、外を見ているようである。ゲンイチロウ並の、大きな背中であった。
 恭しく一礼した筆頭秘書は、隣室へ消えていった。
 部屋の内部にあるテーブルやソファー、椅子、額縁や調度品の数々には、精巧な意匠が施されていた。すべてが一級品である。感心しきりのナオトと違って、キョウジは、それらには一切興味を示さなかった。キョウジの眼は部屋の内部にいる人物に注がれていた。
 怪物、風間源蔵であった。その風間源蔵が、計算された身ごなしのように、非常にゆっくりと身体ごと振り返った。外界の光があるせいかもしれないが、光背を負っているように見えた。
「よくぞ参られた。わたしが、風間源蔵だ」
 どう受け取ってよいものか、ナオトは考えた。風間源蔵の跡継ぎの慶一とトラブルを抱えている者が、どの面下げてやってきたのか、と非難しているとも取れるし、その気概を称揚しているとも取れる。そのひとことだけで、奥が深い。考えすぎだろうかとも思ったが、答はでなかった。
 源蔵が一歩前に踏み出した。そして二歩目。近づいてくる源蔵の容貌が、次第に明らかになっていく。短い顎鬚に、奥深く鋭い眼光、背が高く、胸板が厚い。武闘派だが、頭のキレる風貌であった。八十二歳だというが、年齢以上に若く見えた。
 キョウジが一歩前に進む出て、源蔵の双眸にまっすぐに目を据えた。
「おれの名前は春海キョウジという。以後お見知り置きを」
 ナオトは、軽く一礼してからキョウジに並んだ。
「わたしは、夏目ナオトといいます」
 源蔵がさらに一歩踏み出した。
「噂は聞いている。喫茶探偵事務所『四季』の探偵に、相違ないか?」
「ああ、相違ない」
 キョウジが不敵な物言いをした。源蔵が興味深そうに目を細めて、キョウジを睨みつけていた。圧倒的なまでの威圧感をナオトは感じた。
「君たちはわたしの客人だ。まずは、座られよ」
 源蔵の言葉にキョウジとナオトは従った。上質の革張りのソファーであった。ナオトは思わずよろけてしまった。その様子を見て、源蔵は口の端を少しつり上げた。
「ふたりとも、いける口かな?」
 源蔵は戸棚からワイン・グラスを手に取った。ナオトは断ろうとしたが、キョウジは遠慮をしなかった。
「いいねえ、いただきましょう」
 源蔵は小さなワインセラーを開けて、置かれているワインの瓶を代わる代わる手にしては、銘柄やラベルを確かめている。
「奮発するとしようか」
 ワインセラーから一本のワインを取り出し、ソファーの間近に立った源蔵は、ふたりを見下ろすように立ち、テーブルにワイン・グラスを置いた。ワインの封をナイフで切り、コルクをゆっくりと抜くと、グラスに注ぎ込んだ。
 六分目ほど注がれると、源蔵が顎をしゃくってふたりにワインを飲むように勧めた。キョウジは、ワイン・グラスを掴むと鼻先に当て香りを嗅ぎ、次いで目の高さに上げた。
「こいつはビンテージものだね」
「ほう、わかるかね」
 源蔵がソファーに腰を下ろした。
「香りが違うね。それに、非常に澄んでいる」
「うむ」
 源蔵は満足そうにうなずいた。その後、驚いたように眉が少し上がった。キョウジが一息にワインを飲み干したのである。細かいマナーなどは、この際無視することにしたのであろうか。ナオトにはキョウジの内心を推し量ることができなかった。翻ってナオトは、少し口に含んでから、グラスをテーブルに置いた。ほんのりとした酸味を舌に感じた。
「たしかに、美味いな」
 心の内で、そう感心したものの、ナオトは黙ったまま源蔵の一挙手一投足を見逃すまいと、警戒していた。
「もう一杯、飲むかね」
「断る理由がないね」
 キョウジは、この日、作法とか遠慮とか慎ましいとかいう言葉をどこかに置いてきたようであった。勧められるままにワインを呷った。
「おい、酒を飲みに来たわけじゃあないだろう」
 さすがにナオトは諌めたものの、キョウジは構いはしなかった。
「心配しなさんな、これしきの酒でつぶれたりはせんよ」
「つぶれられてたまるか。もう充分、舌も満足しているだろう」
 ナオトは火照っている頬に触れた。まだ、二口ほどしか口をつけていなかった。
「はっはっはっ、君は人生を損している。旨い酒に、美しい女。せっかく生まれてきたんだ。一度しかない人生、楽しまないと、勿体無い」
「そうだぞナオト、せっかく生まれてきたんだ、人生楽しまないと勿体無い、こいつは箴言だね」
 ナオトは頭を抱えて逃げ出したくなった。
 しばらく源蔵とキョウジがワインを酌み交わしていた。黙って見ていると、打ち解けているようにも見える。しかし、よくよく観察していると、腹の探り合いをしているようにも思えた。キョウジが何杯目かのワインを飲み干すと、グラスを一旦テーブルに置いた。
 ナオトは少々戸惑っていた。今のところ、源蔵はただの酒好きにしか見えなかったからである。キョウジとの会話も、酒と女についてばかりである。しかし、源蔵がただの酒豪であるはずがない。こうやって対面していても、どこか威圧感を感じるし、なにか違和感を感じる。懐の深さは当然としても、気のおけない相手には、どうしてもなれそうになかった。
「君は、酒は苦手かね」
 唐突に問われて、ナオトは答える前に二秒ほど間を空けた。
「人並み程度です」
 源蔵は首を横に振った。
「人間の歴史は酒と共にあった。そして、女が欠かせない」
 そんなものは必要がなかったかもしれないが、源蔵の言葉にナオトは共感できなかった。その横で、同じ穴の狢でもあるまいに、キョウジは何度もうなずいている。
「ほう、これまた箴言だね。さすがは、『風魔(ふうま)』一族の当主というべきかな」
 キョウジが軽く爆弾を投げつけた。源蔵は瞳だけを動かして、キョウジを睨みつけた。
「こっちの調べはついているんだろう? だからこそ、アポ無しのおれたちに会うことにした。腹の探り合いは、端から必要ないだろう。旨い酒も堪能したことだし、そろそろ、ビジネスの話でもしたいんだがね。いいかな?」
「ビジネス、か、ふん、そうだな」
 源蔵は、まずキョウジに眼を向けた。
「なにを望む。ビジネスというからには、君にはそれがあるのであろう。わたしの興をそそるものを提示できるのかな」
 キョウジが少し前傾姿勢になった。
「守秘義務、とまではいわないが、職業倫理というものはある。こちらの望むことを正直に話せば、依頼人の名前が特定されかねない。それは避けたい。つまり、なにを望むかは話せない、ということになる」
「それでは交渉の入口に立つこともできまい。話はこれまで、ということでよいのかな?」
「そうでもない」
「ほう、望むものを提示せずに望むことを叶える方法がある、ということかな? どういうカラクリでそれが可能となるのだ?」
「少し、話を飛躍させたいが、いいかな?」
「かまわない」
 キョウジは背中をソファーにあずけた。
「人間の歴史は酒と共にあった。そして、女が欠かせない。これは、先刻あなたが語った箴言、アフォリズムだ。まあ、あくまでも、男目線ではあるが、そのことは置いておこう。おれはそれに、もうひとつ加えたい」
「なにを加える」
「麻だ。中国の『詩経』に出てくる。エジプトでは紀元前五千年頃には既にあったそうだ。ギリシアのヘロドトスの『歴史』にも載っている。まさに、人間の歴史と共にあったといえるのではなかろうか」
「ほう、なかなかに博学だな」
「いや、おれの知識は広くはあるが深みがない。それに、簡単に調べられることだ。よって、物事の表層をなでているにすぎない」
「謙遜する必要はあるまい。その表層さえなぞらぬ者がなんと多いことか」
 源蔵が心から嘆いてみせた。ように見える。
「話はまだ続く。麻の葉や花穂を乾燥させた物を大麻という。ご存知であろう」
 源蔵は微動だにしなかった。
「大麻は、精神に作用し、開放感を生じさせる効果がある。海外では容認されている国や地域はあるが、この国では大麻取締法によって規制されている」
「いっていることはわかるが、意図がわからぬ」
「こう考えてもらいたい。あるモノを欲するとき、そのモノをそのまま提示するよりも、より多くのモノを得たいと過大に要求する。そして、相手と折衝して、こちらが譲歩したと思わせれば、相手も満足し、こちらも満足たる結果を得ることが可能となる」
「交渉術の初歩だな」
「そういうわけだ。ということで、後は任せた」
 キョウジがナオトの背中を叩いた。源蔵がナオトに眼を向けた。
「彼にした同じ質問をあえてしよう。なにを望む?」
「キョウジの言葉を繰り返します。職業倫理上、依頼人の秘匿は必要です。ですので、依頼人が特定されるような質問には答えることができません」
「では、わたしも同じ言葉を口にしよう。話は終わりでよいかな?」
「そういうわけにもまいりませんので、少し、別のことについてお話をしても構わないでしょうか?」
「かまわない」
「あなたは、われわれのことを、どの程度までご存知なのでしょう?」
 ナオトは源蔵の返答を待った。しかし、源蔵は無言であったため、切り口を変えた。
「アポイントメントを取っていないわたしたちに、なぜ会おうとしたのでしょうか?」
 ナオトは源蔵がなにかを話そうとするのを、今度はあえて遮った。
「わたしは考えました。知られた事柄であるのであれば、そのコトを隠すことは逆効果になります。交渉しようとしている対象、この場合あなたですが、あなたの心証を悪くする可能性がある以上、あらゆることを知られていないと考えるのは賢明ではありません。ひとつひとつについて検証することは可能ではありますが、正直、面倒でもあります。なので、現在、われわれが知り得た情報と、そこから類推されるモノすべてにおいて、知られていると、わたしは考えることとしました」
 ナオトは更に話し続けた。
「その前提に立てば、あなたは、わたしがなにをしていたか。キョウジがなにをしていたか。他の仲間がなにをしていたか。すべてご存知ではないかと考えるのが、適当ではないかと仮定しました」
「過大評価であろう。わたしの腕は、それほど長くはない」
「しかし、少なくとも、アポイントメントを取っていない訪問者と会談の席を持つということは、ある程度、これは極めて小さなモノであれ、事の要に関すると判断した、且つ、われわれがなにを行おうとしているかはご存知でしょうが、どのように交渉の展開を図るのか、興味を持ったことは確かであると思いました」
「たしかに、興味はある」
「わたしに関することだけをお話します」
 ナオトは両手を開いてみせた。
「わたしは、御子息の風間慶一さんに近づきました。御子息はもちろん従者と思われる都筑彰男さんも、とても明敏な方です。加えて、とても慎重な為人です。わたしの評価は必要ないでしょう」
 ナオトは使用する言葉に気をつけていた。
「おふたりは、わたしが身辺を嗅ぎ回っていることに気づきました。不愉快に感じたのでしょう。わたしのことを少なからず調べたと考えられます。そして、わたしが探偵事務所の関係者、つまり探偵であることを知ったと思われます。そうであれば、探偵事務所のわたし以外の関係者のことも知り得たと考えられます。ただ、なにか問題が生じた場合でも、慶一さんに累が及ぶようなことは彰男さんはしないでしょう。彰男さんは慶一さんを守ることを第一に考えるでしょう。それで、『自分はお前を見ているぞ』と知らしめるために、彰男さんは警告と称して実力行使に及んだのでしょう。ただひとつ、読み違えたのはキョウジの格闘技術(センス)でした。キョウジとわたしを襲ったのは、単なるゴロツキです。彼らは自意識が高い。一方的に返り討ちにあったことに腹を立て、どうしても意趣返しをしたかった。ただ、キョウジには到底かなわない。だから、高校生の不良集団にわれわれの仲間を襲わせた。それでようやく、溜飲を下げることができた、というわけです」
「きみは先程から想像で物事を語っているように思える。なにか、証拠でもあるのかな」
「今回の件に関してだけではなく、あらゆる状況下で、御子息は関与しながらも前面には出てきません。主従の関係とは、大抵、主が望んだ際の助言や主が暴走することを諌めるものを指します。彰男さんは、わたしたちに連絡してきました。その時だけです、彼と話をしたのは」
「なにを話したのかな?」
「先程話した後半部分です、といいたいところですが、おそらく違うでしょうね」
「どういうことかね」
「彰男さんが、いえ、おそらく慶一さんが命じたのでしょう。警告程度であれば、大事(おおごと)にはなりませんから」
 ナオトは眼にかかる髪を後ろへ梳いた。
「あくまでも警告です。どのような君子であれ、自らのことを嗅ぎまわられれば不愉快です。自らの周りを飛びまわっているハエを払うために、行動(アクション)を起こした。望んでいる反応(リアクション)は、ハエが自ずから近づくのをやめさせることです。この場合、行動を起こした者が誰であるかを知らしめることも行動に付帯し、非常に意味あることなのです。慶一さんが決断し、反応を見るために命じた。彰男さんが直接、誰に命じたのかまではわかりません。ただ、最終的にわれわれを襲ったのは、ゴロツキと高校生です。高校生に関しては痴話喧嘩ですませられる。わたしとキョウジは、これでも成人男性ですので、少し痛めつける程度ですまそうと考えたのでしょうね」
 最後の部分は、昨夜のナオトの見解とは異なっている。よくよく考えた結果、病院送りまではやりすぎだと判断したのである。客引き男の言葉を鵜呑みにしてはいけない。
「ことの推移はわかった。それで、彰男の報告をわたしが聴いて、今、わたしは君たちと対峙している、そう申したいのだな」
「実は、そのことに関しては自信がありませんでした。われわれが、今日あなたと会うことを決めたとしても、あなたが会わないのであれば意味がありません。われわれは、帰るよりほかなかったのです」
「わたしは、まんまと君たちの誘いに乗ってしまったというわけか。それでも、彰男がわたしに報告を上げていなければ、会談の席を持つことはなかったかもしれない」
「その場合は、最初からやり直しです。われわれがあなたに会いたい理由を正直に伝え、正式にアポイントメントを取ってから出直していたでしょうね」
「なるほど、筋は通っている」
 源蔵は少し頷くと同時に瞼を閉じ、顎を上げると同時に瞼を開いた。ナオトは手札を切る。
「それで、われわれがなにを望んでるかについて述べさせていただきます。よろしいでしょうか?」
「いってみたまえ」
「あらゆる物事の前提として、われわれ『四季』のことを信用して頂きたいのです」
「ほう、つまり、わたしの関心を得たい、と申すのだな。大きく出たものだ」
「あなたがわれわれを信用するといえば、御子息も彰男さんも、内心はどうであれ、従うほかありません。今のところ、われわれの害となるのは、ゴロツキですが、彼らは条理によって動いているわけではありません。多分に絶対的でありますが主体的ではありません。ただこれは、より力を持っている者に命ぜられれば、相対化せさせることが可能となります。今回の件における主体は御子息でしょう。彼を得心させるだけの理由と上意があれば、手を出すことはできなくなる。繰り返しますが、あなたが命じれば、従うしかありません。つまるところ、あなたの関心を引くことが、われわれが以前と変わらない平穏な日常を送るために必要な、唯一の裏づけとなるのです」
「なるほど、よく考えられている。ただひとつ、君たちには越えなければならない高い障壁がある。このわたしの関心を引くことには成功している。が、信用を得るためには、なにかを差し出す必要があろう。なにを差し出すつもりかな」
 源蔵の言葉を受けて、ナオトは例の透明な小袋をテーブルの上に置いた。
「これをご覧下さい。なにか、おわかりでしょうか?」
「君がわたしからどのような言葉を引き出したいか、考えてみよう」
 源蔵は目をつむって、考えている。そのように見える。ナオトは隣りに座っているキョウジに向けて、隣室を顎で指し示した。キョウジはナオトのいわんとすることを理解していた。人の気配を感じるのである。
 源蔵の目が開いた。
「とりあえず、見当もつかない、といっておこう」
「あなたがお茶を濁すとは思いませんでした。なぜなら、その返答はどう考えてもおかしいと思われますので」
「続けたまえ」
「これは、そのモノと思しきモノです。先刻、キョウジが麻について語りました。であれば、この透明な小袋の中のモノは、そのモノと思しきモノであると考えるのが自然でしょう。これは、ある人物から得た証言によって、わたしが手に入れたモノです。その人物は、入手方法を教えられたと語りました。そして、そのモノと思しきモノの使用を勧められたそうです。入手方法と使用を勧めた人物の名は、都筑彰男です。大したものです。このモノを入手するには、簡単な謎を解かなければなりません。その謎が解けない相手は、不必要な存在になります。理に適う人物、道理をわきまえている人物、それを理解できる人物であるからこそ、誘導することは容易い。思いのままに操ることが可能となる人物、その判定のための、そのモノと思しきモノなのです」
「おもしろい。たしかに、先に麻の話を持ち出したのは、彼だ。一見無関係と思わせておいて、その実、わたしの思考を誘導しようとした」
 源蔵は理解していた。見当がつく、といった場合、ナオトが語った麻と思うのが自然であるという部分は、語る必要が無いということを。
「どうでしょうか? これでは、足りないでしょうか?」
「足りないな。君の表現を用いれば、そのモノと思しきモノが、確実にそのモノであるといえ得るのか、甚だ疑問だ。君自身が、そのモノの正式な名称を使用していない。それはなぜか。それが、そのモノではないからではないのか? 空言を信じて、取引は出来ない。それではわたしは、拙い音楽に合わせて踊り続ける道化でしかない」
「都筑彰男が教唆した、というのが事実であれば、彰男は刑法上の教唆犯にあたります。これだけでも、充分だと思われます。われわれは、この事実を破棄し、一切口外しないとお約束いたします」
「君はわたしの質問に答えていない。しかも意図的に。はっきりといってやろう、それは、大麻なのか?」
「少なくとも、わたしは、今あなたが語ったモノであると認識しています。それは、わたしに救いを求めた人物が、そう認識して今もってなお苦しみ悩んでいるからです。だから、そうであると思われるのです。そのモノと思しきモノのために、その人物は毎日怯えているのです」
情緒(じょうしょ)では、わたしを動かすことはできない」
「そうでしょう、わかっています。あなたを動かすには、もっと決定的ななにかが必要なのです。では、こちらをお聞きください」
 ナオトはスマートフォンを取り出すと、保存されていた「マルタイ〇一」の音声を再生させた。
「表情に現れていましたか、わたくしもまだまだ精進が足りないようです。申し訳ございません」
「謝る必要はない。ただ、いいたいことがあれば遠慮なく話せ。いつもそういっているだろう」
「はい、では、遠慮なく申し上げます。一〇月にはご婚礼が控えております。そろそろ、ご自重なされたほうがよろしいかと」
「知っているだろう、なんら問題はない」
「はい、わかってはおります。ただ、醜聞(スキャンダル)で最も印象(イメージ)を損なうのは色恋沙汰です。それに比べれば、失言などは軽いほうです。このようなことは、話さなくともおわかりかもしれませんが」
「取り返しのつかない失言というものは確かにある。女性蔑視の発言などがその最たるものだ。男女同権を声高に主張するフェミニストたちは、ここを先途とかさにかかって攻め立てる。まるで、鬼の首でも取ったかのようにな。違うか?」
「間違いございません」
「今までいくつも浮き名を流してきたが、ただの一度も孕ませたことがない。堕胎させるのは悪いイメージがつく。そんな失態(ヘマ)はせんよ。知っているだろう?」
「はい。よく存じております」
「ならばそういうことだ。問題はない。心配するな」
「承知いたしました」
 音声の再生は終了した。ナオトはスマートフォンをポケットに仕舞ながら、話を再開した。
「お聞きいただいたのは、御子息と都筑彰男さんとの会話です。おふたりに近いあなたであれば、聞き違えることはないかと思います」
 ナオトは、源蔵の表情の変化を見逃すまいと、源蔵の面上に視線を固定した。
「確かに気になる箇所はあります。この会話では、互いの名前が一切出てきていません。しかし、声紋鑑定の結果の確実性は高い、と評価されています。そして、改竄、もしくは編集に関しては、サウンドスペクトログラムという解析法により判定も可能です。つまり、改竄、編集していないと証明でき得るのです」
「君もなかなかに博識だな」
「恐縮です」
 お世辞か皮肉か、判断は難しい。源蔵の表情には変化がなかったからである。ナオトは、最後の仕掛を使うことにした。
「われわれには、ただひとつ、その行動をすることによって、とてつもない反響を生み起こさせる方法があります。しかも、われわれが有利なように意図的にベクトルを誘導することによって、確実に」
「それは」
「このそのモノと思しきモノがそのモノであるという鑑定結果、そして、この音声、と共に声紋鑑定の結果を公表します。ネット上に公開すれば、この情報は瞬く間に、全国、全世界に広がります。噂とは、必ず尾鰭がつくものです。可能性とは、そうかもしれない、というあやふやなものですが、それゆえに、範囲が広がり、それこそ、どのような結果が生じるのかは不確実なものです。もう、止める手立てはありません。だからこそ、怖ろしい。風間慶一さんと都筑彰男さん、そして、あなたに関する悪いイメージが際立つ。そのように誘導すれば、あなたに関してだけ申し上げれば、リスクは決して小さなものではないでしょう」
 源蔵がはじめて、表情を変えた。射抜くような激しい眼光である。
「わたしが世間で、どのように畏れられているか、君は知っているはずだ」
「怪物、ですね」
「その怪物を、今君は、脅迫している」
「否定はしません。ただ、精確を期するのであれば、わたしのキョウハクは、強く迫るものであって、脅して迫るものではありません。民事的な強迫です」
 源蔵がかすかに口元に笑いを浮かべた。
「わたしは、われわれが知り得る風間慶一さんと都筑彰男さんの情報を破棄します。ネットには公表しません。それと引き換えとして、あなたの信用を得たいと思っています」
「今のわたしの君たちに対する心象は最悪に近い。民事的とはいえ強迫には違いない。そんな君たちを信用でき得ると思うのかね」
「ビジネスの話、とキョウジがいいました。われわれが得たいモノ、あなたが得たいモノ、これが両立する方法は、非才の身であるために、これしか思い浮かびませんでした」
「ぬけぬけと、よく申したものだ」
 ナオトは黙したまま頭を下げた。
「つまり、こう考えていただきたいのです。われわれを信用していただけなければ、今この場でわたしが語った諸々の事柄は、真実を語っているのではなく嘘をついていることになる、と」
『そのモノと思しきモノは、そのモノである』、これが否定されて『そのモノと思しきモノは、そのモノではない』となり、『そのモノと思しきモノの入手と使用を勧められた』、これが否定されて『そのモノと思しきモノの入手と使用を勧められていない』となる。そして、『慶一と彰男の会話のデータをネット上に公開、公表しない』、これが否定されて『慶一と彰男の会話のデータをネット上に公開、公表する』となるわけである。
 つまり、ナオトのことを信用しなければ、そのモノではない。勧められていない。しかし、会話データをネットに公開、公表する、となるのである。
「逆についても、一応確認しておきます。つまり、われわれを信用していただければ、わたしが語ったことは真実であり嘘はない、ということになります」
『そのモノと思しきモノは、そのモノである』、これが事実となり、『そのモノと思しきモノの入手と使用を勧められた』、これが事実となる。そして、『会話のデータをネット上に公開、公表しない』、これが事実となるわけである。
 つまり、ナオトのことを信用すれば、そのモノである。勧められた。しかし、会話データをネットに公開、公表しない、となるのである。
「前のふたつの命題が事実であったとしても、みっつめの命題が成立することになります。つまり、われわれを信用していただければ、われわれは、入手したすべての情報を破棄し、公開しません。われわれを信用するほうが、大きなメリットがあるのではないでしょうか」
「どのような違法行為を働いていたとしても、それらの情報を破棄し、公開しないのであれば、わたしが取り得る選択肢はひとつしかない、というわけか。よくぞ練り上げた、といっておこう」
 源蔵はナオトと視線を交えた。ナオトは臆することなく、源蔵が醸し出す異様な絶対者の風格と対峙した。
「しかし、残念だが、君の論理は破綻している」
「どういうことでしょうか?」
「わたしは、前提として、他者の評判を意に介さない、ということだ。慶一と彰男、このふたりを切り捨てるというのも、選択肢のひとつとして、わたしは否定しない」
「その場合は、われわれが取るべき選択肢はひとつです」
 ナオトは瞬時に返答した。
「想定済み、というわけか」
「はい。あなたがわれわれとの交渉を、いえ、取引を拒絶するのであれば、わたしは、全力を持って、あなた自身が破滅するように、行動します」
「本気かね」
「信じるか、信じないか、は、わたしは関知しません。あなたが決めることです」
 ナオトは口をつぐんで源蔵の眼を見た。源蔵とナオトの視線が交錯した。これは、危険な賭けであった。しかし、風間源蔵が理によって動く手合であるのであれば、こちらの話に乗ってくるはずである。それでも、六分程度であろう。ナオトは右耳にかかる髪を後ろへ梳いた。
「君は良い眼をしている」
 ナオトは頭を下げた。
「冗談です。あなたが御子息を切り捨てることはあり得ません。たったひとりの血のつながった跡継ぎですから」
 ナオトはやんわりと語った。
「慶一さんにはふたりの姉がいますが、その婿には『風間』の姓は与えられてはいません。婿養子ではないということです。わたしが入手した系譜によれば、六親等内の血族と三親等内の姻族、つまり、あなたの親族に『風間』姓を与えられている男性は慶一さんしかいません。もちろん、娘や孫娘を跡継ぎにすることもあなたの裁量では可能です。ですが、あなたが高齢にして授かった慶一さんに大きな期待をかけていることは、疑う余地がありません。間仲グループを取り込むために慶一さんを好餌、道具として利用したことは確かですが、その価値があるからこそ行えた手段、といえるでしょう」
 慶一に価値がある限りは切り捨てることはありえない、とナオトは論旨を述べた。
「よく調べ、よく考え、よく述べた。見事、といっておこう」
 源蔵はソファーに背中をあずけた。
「君のような若者と会うのは久しぶりだ。話ができてよかった」
「ありがとうございます」
 源蔵の眼がキョウジを捉えた。キョウジは不敵な笑みを浮かべている。
「君は格闘技を極めているそうだが、その綽然たる態度は、腕っ節では負けないという自信から出ているモノではなさそうだ」
「お褒めに預かり恐縮です。しかし、おれはなにひとつ極めていないし極めたいとも思っていない」
「なぜかな?」
「極みの極致というモノには到達し得ない。常にそこへ至る道を進まなければならない。到達したと思った時点で極めることから下りている。人の一生は短い。なら、やりたいことをやるだけだ」
「君のいうとおりかもしれない」
 源蔵は遠い目をした。
「実に有意義な時間であった」
 源蔵が呼び鈴を鳴らした。隣室から、先ほどナオトとキョウジを案内してくれた筆頭秘書が現れた。
「細かい内容は、後日、取り決めたいと思う。無論、君の言葉を信用することは約束しておく」
「はい」
「ふたりをお送りせよ。丁重にな」
「はい。かしこまりました」
 筆頭秘書は恭しく頭を垂れた。
「では、失礼する」
 キョウジは、最後までキョウジらしく振る舞った。その横で、ナオトは、ほっと胸をなでおろした。
 ナオトとキョウジは会長室を後にした。源蔵はその様を最後までずっと見ていた。扉が閉まると、隣室から、不機嫌な表情の慶一が彰男を従えて現れた。源蔵は、息子を見ようとはしなかった。
「情報というモノ、重要さ、扱い方、効果的な利用、使用、出すタイミング、お前たちにとっても得るものが多かったはずだ」
「本当に、あいつらを信用するのか?」
 慶一が渋い表情で疑問を口にすると、源蔵の鋭い眼が息子に向けられた。
「まずはその口当たりを戒めよ。人は威迫のみによって膝を折るとは限らない。しかも、お前のは虚喝にすぎない。わたしを越えたければ、まずは言行、素行を改めよ。火遊びは、自ら放ったものであれ、己に火の粉が降りかかる可能性があることを心せよ」
 慶一は探るような目を父親に向けたが、心の内を読むことはできなかったようである。
「情報化が進んだ現代では、それにふさわしい尺度が必要だ。硬直した考え、古い体質にとらわれているようでは、正確な決断は下せない。それに、この世は常に流動的で柔軟性が必要でもある。起きてしまったことには機に望み、変に応じて対処しなければならない。それに、夏目ナオトに春海キョウジ、実におもしろい若者たちだ。そして、見かけによらず腹が座っている。このわたしを、徹頭徹尾、脅迫したのだからな」
 慶一は苦虫を噛み潰したような表情で、舌打ちした。その傍らに控えていた彰男が、深々と頭を下げた。
「源蔵さま、慶一さま、これはわたくしが招いた失策です。いかような罰でもお受けいたします。どうぞ、わたくしを処分なさってください」
「いや、慶一の決断に従ったまでであろう。的確な助言はできなかったかもしれないが、まあ、いい。今のわたしは気分がいい。喫茶探偵『四季』か、おもしろい連中ではないか。ああいった若者が、まだ、こんなご時世にいるとはな。正直、()すには惜しい。ふっふっふっ」
 源蔵は、恐ろしいほどの眼光を放つ瞳を閉じると、高らかに哄笑した。笑い声が会長室の壁や天井に乱反射して、その場にいる者たちの耳の奥を恐ろしげにふるわせた。
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