第一章 喫茶探偵 1

文字数 10,042文字

 それは、強烈な陽射しが照りつける、ある初夏の日のことである。『四季(しき)』という名の喫茶店の店先で、右手にホースを握りしめているひとりの少女が、左手をかざして、ぬけるような青い空を見上げていた。丁度、白く輝く太陽に吸い込まれるように、一筋の飛行機雲がゆっくりと描かれていくのが見えた。五月にしては真夏を感じさせる陽気のために、その少女の額には、うっすらと汗がきらめいていた。
「ふう、今日もやけに暑いわね。今年の夏も猛暑になるのかしら」
 少女の周りには誰もいなかった。どうやら、独り言のようである。
 視線を地上に転じると、遠くに陽炎が揺らめいている。猫が一匹、涼し気な表情(かお)で少女の目の前を横切ってゆく。黒い猫であった。しばらくその様子を眺めていた少女であったが、なにかを思い出したかのように細い眉があがった。
「いけない、いけない」
 少女は蛇口を捻って、店先にある小さな花壇に植えられている様々な色彩のマリーゴールドに、たっぷりと水を撒き始めた。小さな七色の虹が、少女の黒い両の瞳に浮かんで、そして、やがて、消えていった。
 少女の名前は冬木(ふゆき)シオリという。十六歳の高校一年生である。今日は平日であったが、朝から喫茶店でアルバイトに勤しんでいる、少し問題があるようだが、しっかり者でもある少女であった。
 シオリの髪には、赤と黄と青の三色のメッシュが入っている。そのことで高校では、要注意人物というレッテルを貼られていた。しかし、シオリはメッシュを横に置いておけば、どこにでもいる、少し勝ち気な女子高生に過ぎなかった。試験(テスト)の点数は余裕で及第点であり、取り立てて問題を起こしたこともない。しかし、教師から見れば、髪に三色のメッシュを入れていること自体が大問題であったため、生活態度は良くはなく、評価は低かった。そのことについて、シオリは全く気にもとめていなかった。今日も朝から学校にも行かずにアルバイトをしており、悪いことをしているという後ろめたさは、ほんの少しはあったものの、毎日ではなかったので、それほど気にはしていなかった。まだまだ若く、幼い少女であるようだ。
「おーわりっ」
 ひと通り水を撒き終えると、体感的に、少し暑さがやわらいだように感じられた。楽しそうに鼻歌を歌いながら散水道具を片づけると、シオリは、『四季』のドアを開けて店内に戻った。冷房(クーラー)によって冷やされた空気が心地よく感じられた。その空気を震わせてシオリの耳にまで達したのは、この喫茶店の店長である、服を着ていてもわかるような筋骨たくましい、今年四十四歳になる四季(よつき)ゲンイチロウの深い深い嘆きの声であった。
「お前は阿呆(あほう)か?」
 低いが、よく通る声であった。カウンターを挟んでゲンイチロウと向い合うようにして椅子に座っていた、前髪の長い若い男が不満そうに手を払った。
「大の大人をつかまえて、阿呆はないでしょう、阿呆は」
 若い男は目をつむり、嘆かわしそうに何度も顔を振っている。その言動は、非常に落ち着いた調子であった。若者は、冷水を呷るように飲み干すと、コップをカウンターに置いた。少し力が入っていたのであろう、瞬間、コップと氷とが澄明な和音を奏でた。
 若者の名前は夏目(なつめ)ナオトという。歳は二十一。本人が主張しているように、年齢的には大の大人であった。
「一度、二度ならまだしも、五度も六度も同じことをいわせる奴を、阿呆と呼んでなにが悪いっ!」
 ゲンイチロウには、ナオトの落ち着いた所作が、かえって癇に障ったようである。こめかみの青筋がひくついて、眉根を寄せて、怒声を浴びせかけた。それを目にしたシオリは、いつものようにゲンイチロウを落ち着かせるために声をかけて、なだめにはいることにした。
「店長ー、あんまり怒ると、また血圧上がりますよ」
 シオリの言葉を継いで口を開いたのは、ナオトであった。
「そうそう、シオリのいうとおりだ。まあまあ少しは落ちつけって。あんまり怒ると、本当に血管いっちまうぞ。マスター」
「誰のせいで、そうなっとると思っとるんだっ!」
「わかったわかった。まあまあ、少しは落ちつけって」
 怒りをあらわにしている相手に、怒りの原因である当の本人が「落ち着け」といっても逆効果であることを、ナオトは経験から学んで知っていたが、ゲンイチロウの健康を本気で心配しているのもまた事実であったのだ。なにより、給料を払っていただく相手であれば、心配するのは当然ともいえた。ナオトはコップを手にすると、氷をひとつ口に含んで噛み砕いた。ゴリッとこもったような音がした。
「そうですよ、店長、少しは落ち着かないと。病院の先生にいわれてるんでしょう、血圧が高過ぎるって。安静にしていないとダメですよ」
 シオリはナオトの脇を通ってカウンターに入ると、ゲンイチロウの側に立った。相変わらず、楽しそうに鼻歌を歌っている。
「血圧が高いのはな、外的要因によるところが大きいんだ。まったく、なんでこう揃いも揃って、わしの体調を悪化させるような奴らばかりなんだ。まったく」
 ゲンイチロウは、深く長いため息をついた。そのため息が終わる前に、ナオトが反論した。
「そういう連中を集めたのはマスターでしょうに。マスターの人を見る目がなかったって、そういうことじゃあないのか?」
 ナオトの指摘は事実であった。ナオトにしてもシオリにしても、ゲンイチロウの勧誘(スカウト)によって『四季』で働くことになったのである。つまり、いわば、ナオトにいわせれば自業自得ということになり、現実に自分がゲンイチロウの体調悪化の一因であるのを認めてもいるのだが、まったく悪びれなかった。
「わしの目に狂いはない。狂いがあったとすれば、お前さんの人並み以上の面の皮の厚さだ」
「阿呆で鉄面皮だなんて、救いがないな」
「お前のことをいっとるんだっ! 冷静に論評するな。バカタレが」
「バカタレが加わったみたいだよ。シオリ、どうしたらいいんだ? おれは」
 ナオトがシオリに話を向けると、シオリの鼻歌が止んだ。
「そうだ、あたし、いいこと思いついた」
 そういうやシオリは、今までとは違うメロディーの鼻歌を歌いながら、ウォッカやジン、トマトジュースや柑橘系のジュースなどのいくつもの瓶や缶をカウンターに並べ始めた。それを目にしたナオトは、急いでカウンター席から腰を浮かせた。
「あっ、そうだそうだ。用事があったんだった。いかんいかん」
 シオリがシェイカーを手にしてカクテルを造り始めた。その手並みは、一流のバーテンダーを思わせるほど様になっていた。その様子を横目に、ナオトは、その場から逃げ出そうとしたのだが、ゲンイチロウに上着の襟を掴まれて、強引に席に着かせられた。
「おい、マスター、放せって。非常に大切な急用を思い出したんだ」
「そいつは気が合うな。わしも重要な急用があってな、ちょいと店番を頼む。こいつは上意だ。よって反論はなしだ。従ってもらうぞ」
「そんな横暴な。都合の悪い時だけ上司面するなんて、そういうのを卑怯というんじゃないのか?」
 ナオトとゲンイチロウが互いに店番を押しつけあっていると、シェイカーの音が止んだ。その時の静寂は、ふたりの背筋に冷たいものを感じさせるのに充分であった。シオリを見ると、できあがったカクテルをカクテル・グラスに注いでいた。運が良いのか悪いのか、ちょうどふたり分あった。怯えたような目を向けるナオトとゲンイチロウに向かって、シオリは屈託のない笑顔を見せた。
「ねえねえ、ふたりとも、これ飲んでみてよ」
 ナオトとゲンイチロウは、目を見交わしてから、無言のまま、引きつったような笑顔をシオリに向けた。
「前にいってたじゃない。もう少し手を加えれば、夜の看板メニューなるかもしれないって。だ、か、ら、それぞれの分量を少し変えたり、別のお酒やジュースを加えてみたの。名づけて、シオリ特製(SSC)カクテル・バージョン一・一一」
 シオリが自信満々に、左手を腰に当てて右手を突き出してVサインをしていた。
「そう、なのか……」
 ゲンイチロウの声は、心なしか、震えているように聞こえた。
「そいつは、期待ができそうだけれど……」
 ナオトの声も、心なしか、震えているようである。
「自信作なんだ」
 冷や汗を拭いながら、ナオトは、自分の手元に差し出された不思議な色合いのカクテルに目を落としてから、どうしてもシオリに問いかけずにはいられなかった。
「えっと、その、ひとつ確認したいんだが、シオリさん、味見はしたのかな?」
 シオリは、威張るように胸を反らした。
「そんなのできるわけないじゃない。あたし、まだ未成年なんだから」
 確かにシオリのいうことは正しい。ナオトは、ぎこちない笑顔をシオリに向けた。
「そうか、それならば、シオリが立派な成年になってから、改めていただくことにしよう。うん、そうしよう」
「そうだな。ナオトがいうように、そのほうが、よいかもしれんな」
 ゲンイチロウは、ナオトの返答に乗ることにしたようである。しかし、シオリは引き下がらなかった。
「飲んでみて」
 シオリが微笑んでいた。悪意のない天使のような笑顔であったが、これまでの経験から鑑みると、そのカクテルには、悪魔のような凶悪な破壊力があるはずであった。ふたりが飲むことを拒んでいるのには、そういう理由があったのである。
「前にさ、あたしの造ったカクテルを飲んだら、ふたり共すぐに落ち着いたじゃない」
「それは、別の意味でおとなしくなったんだが……」
 ゲンイチロウが小声でつぶやいた。シオリには聞こえていたが、その発言の意味がわからなかったようである。
「なにかいった?」
 シオリは首を傾げることもなく、ゲンイチロウを見つめている。邪気のない瞳を向けられて、ゲンイチロウは、ナオトにすがるような目を向けた。一方、目を向けられたナオトは、ゴクリと音を立てて、一度、唾を飲み込んだ。
「真っ昼間から酒を飲むのは、倫理的に良くないだろう。日が暮れてから、いただくことにしよう」
 ゲンイチロウは大げさに手を打って、ナオトの意見に賛同した。
「うむ、そのとおりだな。ナオトのいうように、酒は夜に嗜むものだ。それに、仕事中の飲酒は特に控えねばならん。店主が酒臭い息でいるのは健全な喫茶店とはいえんしな」
 ナオトとゲンイチロウは目を見交わすと、各々重々しくうなずいて、少しずつシオリの側から離れ始めた。
「飲んで」
 シオリの口調は、まるで幼子(おさなご)を諭すような響きであった。
 うなだれて、「これまでか」と、ゲンイチロウが観念しようとしたとき、突然、ナオトが席を立つと、カウンター越しにシオリの両肩に手を置いた。そして、顎を引いて、少し顔を下げた。
「いいか、シオリ。よーく聞いてくれ」
 ナオトは顔を上げて、真っ直ぐに、シオリのよどみのない瞳を見つめた。
「この世にはな、知らなくてもいいことがあるんだ。知らなくてもいいことはな、あえて知ろうとしなくてもいいことなんだ。あえて知ろうとしなくてもいいことはな、知らなくてもいいことなんだ。わかるだろう?」
「なにがいいたいのか、ちっともわかんない」
 華奢なシオリの肩から手を放すと、ナオトは、目にかかる前髪を右耳から後ろへと梳いた。
「だろうな。おれも、なにがいいたいのかわからなくなってきた」
 ナオトは席に座ると、コップを呷って、もうひとつ氷を噛み砕いた。それから、なにもなかったかのように、カクテル・グラスを少し押しのけると、話題を転じた。
「それにしても、なんだな。相変わらずマスターには商才がないと見えるな。昼時なのに、おれ以外に客のひとりもいないのか」
 ナオトは店内を見渡してから、からかうような笑みを口元に浮かべた。
「マスターと呼ぶな、所長と呼べ。いつもそういっているだろう」
 ゲンイチロウは憮然として、一枚の紙をナオトに差し出した。
「それにな、こんな、ぼったくりバーのような請求書が受けつけられると思っとるのか」
 紙には手書きで、「経費一〇万円」と書かれてあった。
「領収書は添付してあるだろう? 問題はあるまい」
「お前のいう領収書とは、これのことか?」
 ゲンイチロウは、数枚の領収書をカウンターに激しく叩きつけた。店名や品目の欄が、黒く塗りつぶされている。シオリが横からその領収書を覗きこむと、呆れたようにつぶやいた。
「これは駄目だわ。ひどすぎる」
「シオリのいうとおりだ。こんな政治家の収支報告書か監査請求書みたいなもので納得ができるか」
「必要経費だよ。調査には色々と金がかかるんだ」
 ナオトはまったく悪びれなかった。当然、ゲンイチロウの声は荒っぽくなる。
「金がかからない方法で調査しろといっとるんだっ!」
 ゲンイチロウは、唾を飛ばしながら怒声を吐いた。それを避けながら、ナオトは、もう一度手を払った。
「この依頼人(クライアント)は確か、珍しく上客だったはずだろう? がっぽりと請求すればいいじゃないか」
「限度があるわっ! 限度が!」
 叱責されたナオトは、苦笑しながら肩をすくませた。
「収支ってのはな、黒字にならなきゃ稼業としては成り立たねえんだ。こいつは、経営のイロハだ」
「わかったわかった、以後、気をつけるよ」
 ナオトはゲンイチロウに向けて、軽くウインクした。
「それよりも、もうひとつ思い出したことがある。ちょっと失礼するよ」
「あっ、おい、こら、逃げるのか」
 ナオトは素早く立ち上がると、ゲンイチロウの非難の声を無視して通路を歩いていって、店の奥の部屋に向かった。シオリの、というよりも悪魔のカクテルの側を離れる、これは良い口実であったが、実際、用件があったのも、また事実であったのだ。
「ナオトー」
 悲鳴にも似たゲンイチロウの心からの叫びが聞こえた。
 奥の部屋には、ひとりの少年がいた。高価そうな顕微鏡を覗きこんで、極小のピンセットやドライバーを巧みに使用して、なにか制作していた。ナオトが部屋に入ってきたのさえ気づかずに没頭している。あるいは、そう装っているだけなのかもしれない。
「精が出るな、天才少年」
 ナオトが声をかけると、天才と呼ばれた少年は、一度、ナオトに不満そうな目を向けたが、なにもいわずに作業を再開した。その反応はいつものことであったので、ナオトはなにもいわずに座る場所を確保するために、書類やら説明書やら雑誌やらを積み上げたが、不安定極まりなく、すぐに崩れてしまった。しかし、一切埃は立たなかった。精密機械を扱う場所であるので、常に清潔に保たれているのである。部屋の主である少年の性格がよく表れていた。その天才少年が、手を止めずに鼻で笑ったようである。
「いい加減、勉強して下さい。ナオトさん」
「悪い、悪い」
 崩れた書類などを積み上げるのを諦めて元の場所に置くと、ナオトは室内に目を走らせた。
 部屋の奥にワーキングデスクが置かれてあり、その上に三台のモニタが並べられていた。左右のモニタは、少し角度をつけて八の字になるように置かれている。椅子に座った人が、少し目を動かすだけで、それぞれのモニタに正対できるように並べられているのである。デスクトップ・コンピュータは起動してはいなかった。真っ黒なモニタには、少年の姿が映り込んでいた。
 壁には、「節電」と書かれている紙が貼ってあった。『四季』のマスターであるゲンイチロウの手によるものである。「意外と達筆だな」と、目にするたびに、ナオトは感心してしまうのであった。
 左手の壁際にはガラス張りの収納庫が置かれていた。雑然と細々した電子部品やコンピュータのパーツなどが収納されている。雑然と、とは、本人以外の者の評価であって、当人には、どこになにが置かれているのか一目瞭然であった。
 右手の壁際には少年が今使っている長テーブルが置かれており、直径一センチメートル大のボタンとイヤホンが置かれていた。ナオトは、それらを手に取った。
「これが、頼んでおいた集音マイクか?」
 ナオトの質問に、天才少年は小さくうなずいてみせた。しかし、顕微鏡から目を離すことはしなかった。
「さすがは天才少年だな。こんな小さなマイクで音声を飛ばすことも出来るのか」
 感心しきりのナオトに向かって、少年は嘆息してから不平を口にした。
「いい加減、その少年っていうのやめてもらえませんか? 自分はもう十八歳なんですよ」
 天才ということには触れないところが、らしいとナオトは思った。
「十八歳といえば、もう選挙権があるんですよ。青年というべきだと思いますけれどね」
「そいつはそうだが、司法の場では特定少年っていう、なにやらわかりづらい用語にされているがな」
「昔流行ったそうですね、ファジーという言葉が。この国の立法府は、いえ、正確には国民性というのかな。とかく曖昧なところがあると、自分は思いますよ」
「ああ、そうかもな」
 ナオトは適当に返事をした。ファジーという言葉を知っていることに驚きはしたが、国民性にまで言及されても正直困る。そこまで議論する気は、ナオトにはさらさらなかったのである。
 少年の名前は秋津(あきつ)カナタという。無口な少年であった。寡黙といいかえても良さそうだが、こちらは、より年長者に対して用いるべき言葉であるような響きがあった。
 カナタは口数が少なく、必要最小限のことしか話そうとしない。それにはちゃんとした理由があった。それは、ただ単純に、話すのが苦手であるからに過ぎなかった。そのために、ともすれば、誤解を招くことは一再ではなかった。しかし、ナオトにしてもゲンイチロウにしても、またシオリにしても、近しい間柄である相手とならば、打ち解けて話すことはできた。全く支障なくとはいい難かったが。
 ナオトは、集音マイクが仕込まれているボタンを指でつまんで、なにげなく部屋の明かりにかざしながら、カナタに尋ねた。
「こいつの使い方は?」
「イヤホンは普通に耳に押し込んでください。そして、マイクを拾いたい音の方に向けてください。そうすれば、マイクが音声を増幅して送ってくれます」
「なる、ほど。こんな小さなものでそこまで出来るのか。さすがは天才少年だな」
 ナオトは一度、感心したようにうなずいてみせた。その時、カナタはようやく顕微鏡から目を外して、ナオトに一瞥くれた。非常に、冷めた目をしていた。
「また少年といいましたね」
「天才青年じゃあしっくりこない。そうは思わないか?」
 ナオトの言葉をカナタは頭の中で反芻した。確かに、天才青年より天才少年のほうが箔がつくように思えた。しかし、それほど深い感銘もなかったので、何度も同じことをいいあっていることにさえ気づいてはいなかった。そしていつも、カナタは同じ言葉を繰り返すのである。
「それもそうですね」
 妙に納得したように応じておいて、カナタは、むっつりと口を真一文字に結ぶと、再び顕微鏡を覗きこんだ。ナオトはカナタが一心不乱に制作しているものに興味を抱いた。
「そいつは、なんなんだ?」
「ICレコーダーです」
「えらく細かいな。こいつと同じくらいの大きさじゃないか」
 ナオトは、ボタン大の集音マイクを裏返した。
「原理的には同じものです。違いは、マイクが拾った音声をメモリ・カードに録音するところです。やる気にさえなれば、もう少しですが小さくできますよ」
「カナタなら、ということか?」
「否定はしません」
 カナタは大真面目な顔をして、首肯した。
「完成までにはもう二、三日といったところかな?」
 ナオトはあてずっぽうにいったのだが、カナタは小さくうなずいて肯定した。
「ええ、どこかで暇でもつぶしていてください。その間に、完成させますので」
「暇をつぶせか、これでもおれは忙しい身なんだがな。それに、大人に対して使う台詞じゃあないな。あまりにも失礼じゃないか?」
「自覚してないんですか? 自分は立派な大人ではないと」
 かなり険のあるいい方であったが、ナオトは気分を害されたりはせず、困ったように右の頬をかいた。口の悪さは、カナタとは切っても切れない性質であったのである。カナタとは、そういう少年であった。
「邪魔したな」
 ボタン大の集音マイクを上着の胸ポケットにしまうと、ナオトは笑いを堪えるような表情で部屋から出て行った。
 店内に戻ったナオトは、カウンターにシオリ特製の不気味な色合いのカクテルがなくなっているのを確認すると、ほっと胸をなでおろしながらフロアに出て、なにごともなかったように、先ほど座っていたカウンター席に腰を下ろした。
 顔色の悪いゲンイチロウを目にして、ナオトは、優しそうな面上に意味ありげな笑みをただよわせた。そんなナオトの表情を目にとめて、ゲンイチロウは、恨めしそうな表情で文句のひとつでもいいたそうにしていたが、ハミングしながらカクテル・グラスを磨いているシオリが側にいることもあって、適当な言葉を探していると、店の入口のドアが開いてドアベルが鳴った。
「いらっ――」
 そこまでいって、ゲンイチロウは「しゃい」という言葉を飲み込んだ。店に入ってきたのは、一般の客ではなかったのである。
 右の耳にだけピアスを付けた、若い男であった。首にはネックレスを下げており、それはピアスと同じブランドのものであった。金色の髪は純然たる後天的なものであり、眉まで金色に染めているという徹底ぶりには感心してしまう。名前は春海(はるみ)キョウジという。年齢は、ナオトとふたつ違いの二十三歳であった。
「あいも変わらず閑古鳥が鳴いているようだね。いつもいっているが、いっそのこと、思い切って店名を変えてみたらどうだい? 『探偵喫茶』って。『メイド喫茶』に間違えて、物好きな客が来ること受け合いだがね」
 キョウジの皮肉に対して、ゲンイチロウは、明らかに眉をしかめた。
「それがために、『喫茶探偵』と名乗っているんだ。物好きな客など端から相手にはしていない。うちはまっとうな喫茶店を自認しているんだ。どちらが裏で、どちらが表か忘れたわけではあるまい」
「まあ、どっちでもいいがね。しかし、背に腹は替えられないと、おれは思うんだけれどね」
「いいたいことは、それだけか?」
 ゲンイチロウが呻くように腹を押さえていった。キョウジは、呆れたようにナオトに目を向け、次いでシオリに目を向けたが、そのことには一切触れずに、ナオトに向かって拳を突きだした。ナオトがそれに応じるようにして軽く拳を合わせた。華麗な動作でナオトの横に腰をおろしたキョウジは、いつものように淡々と注文した。
「いいや、アイス・コーヒーを頼む」
「はーい」
 シオリが元気よく返事をすると、グラスにアイス・コーヒーを注いだ。氷を浮かべると、コースターにグラスを乗せて、ストローとガムシロップとミルクポットをキョウジに差し出した。一連の動作には、まったくといっていいほど無駄がなかった。
「シオリは、今日も可愛いいね」
「ありがと」
 キョウジの褒め言葉を受けて、シオリは素直に返事をしたが、真に受けたりはしていなかった。キョウジが軽薄であるのを知っていたし、可愛いとか綺麗だとかは、女性に対する挨拶としか考えてはいないことを知っていたからである。
「さて、では、いただくとしようかね」
 キョウジは、アイス・コーヒーに手を伸ばしたが、虚しく空を掴んだ。顔色の悪いゲンイチロウが、グラスを持ち上げて一息に呷ったのである。
「なんのつもりだ? おっさん」
「わしのことは所長と呼べ、いつもいっているだろう」
「へいへい、所長さまの仰せのままに」
 キョウジが軽くあしらうと、ゲンイチロウが眉間にしわを寄せた。
「他にいうことはないのか?」
「おっさんは、今日もいかついね」
「ありがと、とでもいうと思ったか?」
「いんや。おっさんにそんな可愛げがあれば、この店にも、もう少しは客が来るだろうよ」
「ぬかせ。副業ってのはな、儲からなくてもいいんだよ。趣味みたいなものなんだからな」
「へいへい、さいですか」
 キョウジは、ナオトの前に置かれている冷水の入ったコップを掴むと、一息に呷った。
「いやー、それにしても暑いね。五月でこれだと、夏場が思いやられるね」
 律儀にも、空になったコップをナオトの前に戻すと、キョウジは首筋に手を当てて首をひねった。ゴリっといった音がナオトにも聞こえた。
「シオリ、おれにもアイス・コーヒーを頼む」
「はーい」
 ナオトの注文を受けて、シオリは、再び元気よく返事をした。出来上がったコーヒーを注ぐだけなので、味が変わることは万にひとつもない。ナオトは安心してシオリの手際の良さを眺めていた。
「全員が揃ったところだ。新しい案件について説明しようか」
 ゲンイチロウは、少々呻きながら、ナオトとキョウジのふたりに交互に目を向けてから、最後にシオリに目配せした。シオリはゲンイチロウのいわんとすることがわかったようで、足を奥の部屋に向けた。自他ともに認める「天才少年」を呼びに行ったのである。
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