7.

文字数 3,248文字

 我らが太陽系の含まれるこの天の川銀河が宇宙の全てではない。そんな当たり前のことに人類が気づいたのは案外と最近のことだったりするらしいと、この夜に知った。

 遠くにぼんやりと、まるで夜空に付いた擦り傷のように霞んで見えた別の銀河たちは、長く天の川銀河の内部にあるものと考えられ、星雲と呼ばれていた。それが多くの論争や観測を経て天の川銀河の外、遥か彼方の宇宙空間に浮かぶ別の銀河系であるということで人類の意見が概ね一致したのは、十九世紀後半のことだ。日本の年表で言えば大正時代の終わり。関東大震災よりも新しい歴史だったりする。

——一八九四年、日清戦争が起こった年にはね、自然科学分野における基本的な法則や事実は既に全て明らかになっていて、今後の科学に出来るのはただ精度を高めることだけだなんて演説をぶった物理学者もいたらしいの。だけどそれは大間違いだった。まだまだ思春期すら抜け出せていないような若者が世の中のことを分かったつもりになってしまうみたいに、その科学者も自分たちの若さに気づいていなかったんだろうね。人類なんて宇宙の歴史の中では生まれたての赤ん坊程度の存在ですらないのに。でも、大人になれば世の中が分かるのかって言えば、それも違うと思う。視野が広がれば広がるほど、遠くが見えるようになればなるほど、分からないことは増えていくはずだもの。

 かぐや部長はそんな中学生にはしては達観して冷めた視点と、純粋に星空を愛する心を併せ持った女の子だった。

——ただ綺麗だなと思って見上げるだけでいいんだよ、星空なんて。でもね。こうやって眺めていると、もっと知りたいってわたしは思っちゃう。星に(まつ)わる神話や伝説でもいいし、ビッグバンだのヒッグス粒子だの科学的な分野でもいい。アポロ、スペースシャトル、はやぶさ。いくら人類が宇宙に向かって手を伸ばしたところで、わたしたちにとっては星なんて所詮眺めているだけの存在なんだから。

——宇宙旅行が実現したとしても、どうせ俺たち庶民には届かぬ夢だ。かぐやみたいな美人だったら金持ちのIT社長でも捕まえて連れて行ってもらえるかもしれないけどな。

 三年男子がそう茶化したのを受けてかぐや部長は、宇宙に行けるならそれでもいいかもと笑った。

——女たらしの成金社長が飛ばすハーレムみたいな宇宙船だったとしても、チャンスがあるなら乗ってみたいわ。

 思い浮かんだのは、かぐや部長を含む複数の水着の美女が成金社長を取り囲むリムジンみたいな宇宙船だ。今も昔も想像力が貧困なのだ。

——俺たちはそのロケットを下から指を咥えて見上げるだけだよなあ。

——成金社長の下僕でいいから乗せて欲しいよ。

——途中で社長だけ宇宙船の外に放り出してやればいいんだ。

——そうね。そしたら一旦地球に戻って来てみんなを乗せてあげる。

 それは天体観測などとは呼べない、ただただ夜空を見上げながら馬鹿話をするだけのキャンプだった。

 最初に先輩が言った「宇宙を見る」という言葉が相応しい、馬鹿話にはもったいない夜だった。普段の街の空からは想像もつかない、テレビやプラネタリウムでしか見たことのないような空を埋め尽くす星々。それは星空というよりも宇宙を感じさせた。地球は宇宙空間に浮かんでいる。そして、そこに寝そべって背中を預けている自分たちも宇宙の一部と化している。そんなことを感じさせてくれるほど、宇宙に近い星空だった。

 とはいえ、そもそも天文になど興味のない男が、部長が美人だからという不純な動機で参加したキャンプだ。いくら星空が見事でも、すぐ隣に並んで寝転んでいるかぐや部長の存在が集中力を()いでいた。

 顔は正面、つまり空に向けたまま、視界の隅っこに何とかして部長を捉えようと躍起になった。黒目を思いきり右に寄せて、それでもぎりぎり輪郭らしき曖昧なものを捉えられる程度だったけれど、その曖昧なものすら実は単なる妄想だったのかもしれない。

——かぐやの家の犬はケプラーっていう名前なんだぞ。

 三年生の一人がそう指摘すると、かぐや部長はその前に飼っていた犬はティコだったと笑った。

——どんだけ宇宙オタクなんだよなあ。

 自分以外の四人が笑った。
 ティコって何だ?
 ケプラーって天文学者だったっけ?
 ケプラーの法則ってあったよな?

 そんなことを考えていることを悟られてはいけない。そう思うと右に寄っていた目玉が真ん中に戻った。
 頼まれて名前を貸しただけで天文には興味もなかったし、知識だってほぼ皆無だ。それで当然なのに、部長の前では知らないことを恥ずかしいと感じる自分がいた。

 だが、どうせ各務は知らないだろうと見透かされていたらしい。田口が口火を切って、それに三年男子が加わる形で解説が始まった。
 それによれば、ティコは十六世紀の貴族で天文学者。望遠鏡が実用化される以前に肉眼で観測をした、主要な天文学者としては最後の人物と評される存在らしい。

——決闘で鼻を切り落とされて、金属製のギビを付けていたらしいぞ。

——ギビって何ですか?

——義足とか義眼とかの鼻バージョン。義足の

で義鼻。

 誰かがそんなことを言ったけれど半信半疑だった。義鼻なんて聞いたことがなかったし、その後大人になってからだってティコ以外には聞いたこともない。

——ティコはね、デンマークの王様から贅沢な天文台を貰ったんだ。ウラニボリっていうその天文台には当時のデンマークの国民総生産の五パーセントを超える建設費用がつぎ込まれたって言われてる。立派な観測装置が設置されてはいたものの、当時はまだ全部肉眼による観測だったんだ。ティコの観測精度が誰よりも格段に高かったのは、鼻を取り外して顔をぴったりと装置にくっつけられたからだと言われてる。

 どうやら本当に鼻がなかったらしい。後に読んだ本にもそう書かれていた。

 日本でいえば安土桃山時代と重なる頃。当時はまだプトレマイオスなどが提唱した地球中心の宇宙観が広く信じられていた。地球こそが世界の中心にあって、太陽も含めて他の天体は全て地球の周りを回っているとする宇宙モデル。それは聖書の教えとも合致するため、教会や神学者にとっても都合のいいものだったらしい。対して、コペルニクスらが提唱した初期の太陽中心モデルには実際の観測データとは合致しない部分があったこともあり、広く受け入れられることはなかった。

——地球も含めて惑星は太陽の周りを回っているとした点でコペルニクスは正しかったけれど、彼にはいくつか致命的な思い違いがあったんだ。その一つが惑星の軌道は太陽を中心とする完全な円だと決めつけていたこと。そして、惑星の公転速度は常に一定だとしたことだ。完全な円の軌道と一定の速度。そんな、いかにもそうでありそうな思い込みを捨て切れなかったんだな。

 実際の惑星は楕円軌道を描く。ただし、おそらくは机上で描いてみたとしても肉眼では円なのか楕円なのか判別がつかないほど円に近い楕円だ。

——ティコの精確な観測結果は、当時通説だった地球中心モデルとは相容れなかった。

 けれどティコ自身は自分の観測結果から正しい宇宙の形を読み取ることなく、この世を去った。

——ティコの死後、彼が残した観測データを基に惑星軌道が楕円形であることを看破したのがケプラーってわけ。

 惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道を描く。それがケプラーの第一法則であり、その時、惑星と太陽を結ぶ線分が単位時間に描く面積は一定であるというのが第二法則だ。
 ティコ自身は正しい宇宙モデルに辿り着くことは出来なかったものの、その観測データを引き継いだケプラーが不完全な太陽中心モデルの誤りを正して完全なものへと導き、地球中心モデルに引導を渡した。

——だから最初の犬の名前はティコで、その後を継いだ犬の名前はケプラーなんだよ。

 ずっと黙って聞いていた部長がそう締めたところで、自分が聞かされていたのが天文学史ではなく、犬の名前の由来についての話だったのだと思い至った。
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