第14話:新年会と八重の桜と什の掟と会津魂

文字数 1,734文字

 時は遡って「さかのぼって」幕末、諸外国からの開国要求が高まった。日本国内は、開国派、攘夷派などの思想の違いによる分断が起き始めていた。この時代の転換期に、会津藩の砲術師範の家に生を受けた八重は、藩軍備の洋式化を目指す兄・山本覚馬や、その友である洋学者・川崎尚之助らの側で、会津そして日本の変化を感じていた。

 幕末の争乱により治安が悪化する京都警護のため藩主・松平容保が京都守護職に指命され、徳川将軍家への忠義を尽くさんと、会津は藩を挙げて倒幕派追討への動きに加わることとなる。それは後にいわれる「会津の悲劇」の序章であった。1868年9月22日、会津戦争終結。戊辰戦争に敗れた会津藩は「逆賊」と世間に罵られる中、八重と会津の仲間たちは新たな生き方を模索していく。

 家名再興を許された旧会津藩は、極寒の地に斗南藩をたて、飢餓や財政に苦しみながらも山川浩を中心に果敢に生きて行く。八重とその家族は兄・覚馬の生存を知り、覚馬を頼って京都へ渡った。そこで鉄砲に変わる「学問」という新たな生きがいを得る。幕末の動乱で尚之助との別れを体験した八重だが、アメリカ合衆国から帰国した新島襄と出会い、心を開き、結婚する。

 キリスト教に根ざした学校を作ろうとするも、偏見を持つ人々の反発に遭い葛藤する新島襄を支えたのが「ならぬことはならぬ」の精神を持った八重。従来の会津の教えを「良いものは良い」と発想を転換、肯定的に捉えて邁進し同志社英学校の開校にもこぎつける。その後も、二人の夢は同志社大学設立へと向かうのである。「ジョー」「八重さん」と呼び合う。

 この風変わりな夫婦が、明治という新たな時代を駆け抜ける。NHKドラマ『八重の桜』「やえのさくら」を下館家の4人が、毎回見ていた。その中でも會津藩校・日新館の什の掟―じゅうのおきて「ならぬことはならぬものです」には、心を打たれた。同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていた。

 この集まりのことを会津藩では「什 『じゅう』」と呼び、そのうちの年長者が一人什長「座長」となった。毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が、次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から、今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。

一、年長者「としうえのひと」の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言「うそ」を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいじめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人「おんな」と言葉を交へてはなりませぬ
「ならぬことはならぬものです」

 什により、一つ二つ違うところもありましたが「『戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ』はすべての什にあったわけではないようです」、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通でした。そして、「お話」に背いた者がいれば、什長は、その者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」した。

 事実に間違いがなければ、年長者の間で、どのような制裁を加えるかを相談し子供らしい次のような制裁を加えました。
一、無念「むねん」一番軽い処罰です。みんなに向かって「無念でありました。」と言って、お辞儀をしてお詫びをします。「無念」ということは、「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、まことに残念であります。」という意味でした。

二、竹篦「しっぺい」いわゆる「シッペ」です。制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか又は手の甲に加えるか、何回加えるかを決めました。仲が良い相手だからと力を抜くものがいれば、什長は厳しく目を光らせ、すぐにやり直しを命じました。

三、絶交「ぜっこう」一番重い処罰です。これを「派切る『はぎる』」と言い、いわゆる「仲間はずれ」でした。めったに加えられる罰ではありませんでしたが、一度「絶交」を言い渡された場合には、その父か兄が付き添い「お話」の集まりに来て、什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができませんでした。
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