06 家須さんと水
文字数 2,217文字
教室に入ると、台風が来るはずだったのに、とどこか気が抜けたような空気が広がっていた。窓の外には雨は降っておらず、学校から離れた場所に、黒い雲が見えるだけだった。
しかし予鈴が鳴るころ、また雨が振り始めた。みるみるうちに、窓を揺らす強い風がよみがえり、雨はたたきつけるように降っていた。
家須さんがいるのに、どうなっているのだろう。
そう思ったのだが、家須さんの席には誰もいない。
思い返してみると、来る途中に見かけただけで、まだ学校の中で家須さんの姿は一度も見ていないのではないか。
ついに家須さんは姿を見せないままチャイムが鳴り、担任が現れた。
なにか連絡を受けているのか、出席を取るとき担任は、家須さんの名前をとばしていた。ホームルームで担任が話していたことはほとんど頭に入ってこなかった。
やっとホームルームが終わり、僕は席を立って静かに担任を追った。
「先生」
担任は立ち止まって振り返った。
「どうした」
「あの」
僕は担任のそばまで行った。
「家須さんは、休みですか?」
「家須になにかあるのか」
「来る途中、見かけたので」
「気分が悪いから保健室で休んでるそうだ」
「そうですか」
僕は担任が見えなくなってから、保健室に向かった。
「失礼します」
ノックをして戸を開けると、保健室の先生はいなかった。
中に入っていく。カーテンが閉まっているベッドがあった。
「家須さん?」
僕は小声で言った。
「……岩本くん?」
小さな声が聞こえた。家須さんのものだ。
「具合が悪いって聞いて」
「うん。もうすこし休んでから教室に行くね」
「保健の先生は?」
「さっき電話がかかってきて、職員室に呼ばれたみたい」
「そうなんだ。カゼひいたの?」
「ううん。学校についたら、なんだかくたくたで。私、台風が来ると、よくそうなるの」
「そうなんだ」
台風を避けるのは、家須さんの意志にかかわらず、自動的に発動するものなのかもしれない。
「あの、これ、もし良かったら」
僕はカバンから、昨日買ったバターロールの袋を出した。カーテンのすき間から差し入れる。カロリーが不足しているのだとしたら、これで元気になれるかもしれない。
「ありがとう。あの、中まで持ってきてくれる?」
「あ、うん」
カーテンの端をつまんで、ゆっくりと開いた。
ベッドの頭側は奥にあり、家須さんは体を起こした。ブレザーは脱いでいて、一番上までボタンを留めた、真っ白いシャツを着ていた。保健室のベッドだから誰でも利用できる空間なのに、家須さんの部屋にやってきたような気持ちになって、前に出す足に力が入った。
家須さんの荷物は、ベッドの下のカゴに入っていたので、バターロールの袋もそこに収めた。
「あの、お礼を」
家須さんが言う。
僕は首を振った。
「寝てなよ」
「すぐだから。悪いけど、水をくんできてくれる?」
「水?」
薬でも飲むのだろうか。
言われた戸棚にあったコップを出し、水道水を入れた。透明なコップに透明な水がたまっていても、見た目ですぐわかる。それはいつも不思議だった。そこに、屈折率などの説明をされたところで、僕は百パーセント納得したことはないように思う。頭の中で分類し、ラベルを貼っておくだけだ。
「ありがとう」
家須さんは弱々しく微笑むと、受け取ったコップの水を見る。
そして、僕に差し出した。
「どうぞ」
家須さんは言った。
「え?」
「飲んでみて」
僕はコップを受け取る。どういうことだろうか。
そう思ってよく見ると、液体がさっきよりも黄色がかって見えた。
家須さんは微笑んで僕を見ている。
コップに唇をつけ、液体を口にふくんでみた。
「ん」
口の中いっぱいに、ブドウの香りが広がった。同時にあまずっぱい味も。新鮮なマスカットの果実がたったいま、口の中でつぶれて液体になったかのようなおいしさだった。
「どうかな」
家須さんはすこし心配そうに言う。
「おいしい」
「よかった」
ブドウそのものを液体にしたようなおいしさというだけでなく、ブドウ自体の質も高いように思えた。贈答用の箱に堂々とならんでいるブドウが感じられる。
あっという間に飲みほしてしまった。
そのとき、背後で戸の音がした。
「ごめんねー」
足音が近づいてきて、カーテンの間に白衣の女性が姿を見せた。
「あら? あなたは?」
「あ、ええと、家須さんのクラスメイトです。様子を見に来ました」
僕は小さく何度も頭を下げた。
保健室の先生は僕に対して、すこしうっとうしそうな顔をした。
「女の子が寝てるところに入ってくるのは、どうかと思うけど」
「すいません。すぐ行きます」
僕はコップを水道で軽く流して、先生にわたした。
「なに?」
「水を飲むのに使いました」
そう言って僕は保健室を出た。
廊下を歩きながら、口の中にまだ残っているブドウの香りを感じた。
てっきり、家須さんが水からつくり出すのは赤ワイン、もしくは同じような色のブドウジュースだと思っていたけれども、まさかマスカットの方のブドウジュースだとは思わなかった。
あれが白ワインだったとしたら、僕はいまごろ校内での飲酒を先生にとがめられていたのかもしれない。そう思うと、なんだかちょっと楽しかった。
しかし予鈴が鳴るころ、また雨が振り始めた。みるみるうちに、窓を揺らす強い風がよみがえり、雨はたたきつけるように降っていた。
家須さんがいるのに、どうなっているのだろう。
そう思ったのだが、家須さんの席には誰もいない。
思い返してみると、来る途中に見かけただけで、まだ学校の中で家須さんの姿は一度も見ていないのではないか。
ついに家須さんは姿を見せないままチャイムが鳴り、担任が現れた。
なにか連絡を受けているのか、出席を取るとき担任は、家須さんの名前をとばしていた。ホームルームで担任が話していたことはほとんど頭に入ってこなかった。
やっとホームルームが終わり、僕は席を立って静かに担任を追った。
「先生」
担任は立ち止まって振り返った。
「どうした」
「あの」
僕は担任のそばまで行った。
「家須さんは、休みですか?」
「家須になにかあるのか」
「来る途中、見かけたので」
「気分が悪いから保健室で休んでるそうだ」
「そうですか」
僕は担任が見えなくなってから、保健室に向かった。
「失礼します」
ノックをして戸を開けると、保健室の先生はいなかった。
中に入っていく。カーテンが閉まっているベッドがあった。
「家須さん?」
僕は小声で言った。
「……岩本くん?」
小さな声が聞こえた。家須さんのものだ。
「具合が悪いって聞いて」
「うん。もうすこし休んでから教室に行くね」
「保健の先生は?」
「さっき電話がかかってきて、職員室に呼ばれたみたい」
「そうなんだ。カゼひいたの?」
「ううん。学校についたら、なんだかくたくたで。私、台風が来ると、よくそうなるの」
「そうなんだ」
台風を避けるのは、家須さんの意志にかかわらず、自動的に発動するものなのかもしれない。
「あの、これ、もし良かったら」
僕はカバンから、昨日買ったバターロールの袋を出した。カーテンのすき間から差し入れる。カロリーが不足しているのだとしたら、これで元気になれるかもしれない。
「ありがとう。あの、中まで持ってきてくれる?」
「あ、うん」
カーテンの端をつまんで、ゆっくりと開いた。
ベッドの頭側は奥にあり、家須さんは体を起こした。ブレザーは脱いでいて、一番上までボタンを留めた、真っ白いシャツを着ていた。保健室のベッドだから誰でも利用できる空間なのに、家須さんの部屋にやってきたような気持ちになって、前に出す足に力が入った。
家須さんの荷物は、ベッドの下のカゴに入っていたので、バターロールの袋もそこに収めた。
「あの、お礼を」
家須さんが言う。
僕は首を振った。
「寝てなよ」
「すぐだから。悪いけど、水をくんできてくれる?」
「水?」
薬でも飲むのだろうか。
言われた戸棚にあったコップを出し、水道水を入れた。透明なコップに透明な水がたまっていても、見た目ですぐわかる。それはいつも不思議だった。そこに、屈折率などの説明をされたところで、僕は百パーセント納得したことはないように思う。頭の中で分類し、ラベルを貼っておくだけだ。
「ありがとう」
家須さんは弱々しく微笑むと、受け取ったコップの水を見る。
そして、僕に差し出した。
「どうぞ」
家須さんは言った。
「え?」
「飲んでみて」
僕はコップを受け取る。どういうことだろうか。
そう思ってよく見ると、液体がさっきよりも黄色がかって見えた。
家須さんは微笑んで僕を見ている。
コップに唇をつけ、液体を口にふくんでみた。
「ん」
口の中いっぱいに、ブドウの香りが広がった。同時にあまずっぱい味も。新鮮なマスカットの果実がたったいま、口の中でつぶれて液体になったかのようなおいしさだった。
「どうかな」
家須さんはすこし心配そうに言う。
「おいしい」
「よかった」
ブドウそのものを液体にしたようなおいしさというだけでなく、ブドウ自体の質も高いように思えた。贈答用の箱に堂々とならんでいるブドウが感じられる。
あっという間に飲みほしてしまった。
そのとき、背後で戸の音がした。
「ごめんねー」
足音が近づいてきて、カーテンの間に白衣の女性が姿を見せた。
「あら? あなたは?」
「あ、ええと、家須さんのクラスメイトです。様子を見に来ました」
僕は小さく何度も頭を下げた。
保健室の先生は僕に対して、すこしうっとうしそうな顔をした。
「女の子が寝てるところに入ってくるのは、どうかと思うけど」
「すいません。すぐ行きます」
僕はコップを水道で軽く流して、先生にわたした。
「なに?」
「水を飲むのに使いました」
そう言って僕は保健室を出た。
廊下を歩きながら、口の中にまだ残っているブドウの香りを感じた。
てっきり、家須さんが水からつくり出すのは赤ワイン、もしくは同じような色のブドウジュースだと思っていたけれども、まさかマスカットの方のブドウジュースだとは思わなかった。
あれが白ワインだったとしたら、僕はいまごろ校内での飲酒を先生にとがめられていたのかもしれない。そう思うと、なんだかちょっと楽しかった。