第4章 草莽アカデミー 3/3 デッキチェア

文字数 31,757文字

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「君は、犯罪者になりたいように見えるな。」
「そうかもしれません。」
「でも、君の供述には裏が取れないところがあってね、君の期待通りには動かないみたいだ。」
「残念だなあ。」
「君は多分、嘘はついていない。正直に順を追って証言しているんだろう、それはわかっているんだが、裏が取れない部分は起訴しても先が見えている。君の思うような罪状には、ならないだろう。」
「刑事さんの手柄になるんでしょう、それでいいじゃないですか。」
「そうかもしれない。けれど、そんなことすると怒り出したり、機嫌を損ねる人がいてね、すんなり行かない。」
「クロベさんていう人に言われて、あなたに聴取してもらうことにしたけど、失敗でした。」
「それも全て、分かっていたことだろう。君は頭がいい。」
取り調べ室で八坂時之は、この被疑者に一度だけ会った。黒辺未知成の表現通りで、歪んでいるけど透き通っている、八坂刑事にもその妙な表現がなんとなく理解できた。この20歳そこそこに青年が歪んでしまったのには理由がある、それも未知成の調査と苣木莞爾の考察から掴むことができていた。
そして八坂の目に映ったのは、独立独歩で全てが一人の中で完結してしまう人間、何かに秀でているわけではない、超一流な部分はないが全てが一流な人間、しかし世の中の流れには全く関心がなくて運命をその通りに歩もうとする人間、そんな奇妙な人格だった。何も隠そうとせず、真正面から向かってくるから、そうはっきりと感じられた。
「窃盗の罪は証明できない、計画された犯罪はない、ただ成り行きで間接的に関わってしまった分は無罪とまでは言えない、刑務所に入ることはないが前科者になる。それで満足してもらいたい。」
「相手は訴えてくるでしょう、間接的とはいえひどいやつだと思っている、被害者意識はどうなるんです。」
「その点も、君の期待からは遠のいてしまう。訴えるつもりはないらしい。」
「どんな親なんだ、子供のために訴えるべきだろう。」
「君のことを、悪い人間だとは思っていないんだろう。私もそう思う。」
「せっかく頑張ったのに。」
「それなら、もっとはっきりわかる犯罪、例えば白昼に監視カメラのある場所で店員を殴って、品物を盗んで逃げればよかったんだ。そんなスマートでもなく思考のかけらもないことは、君は嫌いなんじゃないか。だからこういう結果になった。」
「わかったようなことを言って、何もわかってない。」
「いいや、君に関わった優秀な人たちがみんな、君は悪い人じゃないと言っている。草莽ユニットのみんながね。この名前を覚えておくといい。」
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草莽アカデミーという、教育機関の改革を推進する一般財団法人がある。その組織を束ねる苣木所長がプレゼントしたミサンガは、息子の俊の心をつかんでいた。
俊はそれを足首につけて登校し、毎日誰かに自慢している。自慢するためにソックスは短いものを選ぶようになったし、緑と黒の編み紐が目立つように白いズボンを好んではくようになった。ただあたし達が知っていて、俊が知らないこのミサンガの秘密が二つある。ひとつは、セレクションしたのが苣木所長ではなくて黒辺さんであること、もうひとつは微小なGPSが編み込んであること、こちらも「何でも手に入れられる」と豪語している黒辺さんの手配によるものだった。それでも、多少の指示を出していた統括者の苣木所長は、俊に毎回お礼を言われてご満悦である。
誘拐騒ぎがあったからGPSが必要だ、そのみんなの一致した見解を受けて構築されたこの秘密を、あたしは母親として一生の間黙っていて、決して俊に知らせることはない。
「勅使河原さん、シュン君はまだ気づいていないでしょうねえ。」
「はい、それを知っているのはチサキ所長のほかには私と、黒辺さんと八坂刑事の4人だけ。」
「それにしてもあれから3か月、八坂さんのチームでもなかなかあの犯人を捕まえられないみたいだし、決着は何年も先のことになるかもしれませんねえ。」
「はい、シュンは嬉しそうにしてますけど、1年もしたら飽きて来るんじゃないかしら。」
「その時はまた、何か考えましょう。中学生になったら、スポーツウォッチをして登校しても、見とがめられることはないでしょう。それにしても、なかなか心配は消えないでしょうねえ、なんといっても今は黒辺君だってGPSで監視付きなんだから。」
「過保護よねえ、フフフ。」
3か月前は、俊の前で普通にしていることが難しく、笑顔でいることなどできない時期が続き、入院して点滴する始末だったけれど、やっと普通に会話できるようになったし冷静に思い返すこともできる。警察が以前から追っていたその犯人は相当な知能犯で、姿をくらましてしまって今は足取りがつかめなくなっていた。
あたしにはまだ一つだけ、心に重くのしかかっていることがある、四人以外にもう一人この秘密を知っている者がいる、当の犯人だ。彼がもし、俊に事実を告げたらどんなことになるだろうか、予想がつかない、だから彼の口を封じなければならない。私以外のみんなは、そんなふうに思いが及んでいるのだろうか。
八坂刑事は当然、警察の捜査本部の第1線に立って、この犯人を追っている。ただ、「この犯人は知能犯だから感情で動いたりしない、紳士だから約束は守る。こちらが余計な動きをしなければ、100%安全だ」と結論づけていて、あたしの感覚との温度差は大きい。
そして八坂刑事は、もう安心だというメッセージをこめて、今は我が家の縁側で揺れている大きなデッキチェアを、わざわざ送ってきたのかもしれない。電話では「事件は終わりました、椅子を送りますのでゆったりしてください」と、言っていた。
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デッキチェアは、あたしと俊が並んで座れてしまうほど大きなもので、樫の木でできているのだそうだ。木目を際立たせる透明な塗装は高価なアンティーク感があり、庭へ出入りできる廊下に置くことにした。オプションとして付いている弓なりの板を足に履かせて、探偵用のロッキングチェアへと組み替えることもできる。なかなか、凝った作りだった。これも黒辺さんによる手配なのかと聞いてみたところ、そうではなくて「八坂さんが見つけてきた」と言っていた、おいらの専門外なのだそうだ。そうと聞いてもう一度眺めてみると、なるほど八坂さんにはピッタリな大きさだとわかる、もしかしたら八坂さんが愛用していたのかしら。あたしには似合わないし、この家にも不釣り合いみたい、軒下に大きなウッドデッキでもあればそこに置くのが似つかわしい。
こんな椅子を家に持ち込んだら、あの人はどんな顔をしたかしら。生きていたら、きっと1か月くらいかけてウッドデッキを設計して、完成するのにさらに2か月くらいかかったんじゃないかしら。俊が生まれるとわかってから家を建てるぞと決断するまでは早かったけど、その次の建築士さんとのやりとりには半年以上かかってしまって、家の完成は俊の誕生日には間に合わなかった。けっしてあたしとの意見が合わなかったわけじゃない、あたしは庭に植える木を選んだのと、壁紙の色くらい。あのひとは、毎日何かしら思いついては建築士さんの意見を聞いていた、いろいろな家を見て参考にしてといった類ではない、この部屋には蛍光灯が必要だろうか無くてもいいかもとか、洗濯機はなぜお風呂のそばなのかとか、南風の時期と北風の時期や風の通り道、寝心地のいい場所はどこだろうとか、そんな感じだった。
天窓をたくさんつけたいから平屋にしようといい始めた時には、庭が狭くなってしまうから2階建てにしましょうと意見したことは覚えている。結局、天窓を付けたのは東側の玄関から入ってそのまま靴でも入っていける応接室、納品業者として独立したときにはそこを小さな事務所として使う計画まで頭の中にあった、でも実現しなかった。今は、俊の勉強机が置かれている。1階は応接室も含めてすべて床は板張りで、北側にキッチンを配した大きなリビングと西側に寝室、そして天窓から着想したサンルームともいえる長くて広い廊下をリビングの前に配し、今まさにその日当たりも風通しもよい場所にデッキチェアが居座っている。
キッチンの横に駐車スペースへと通じる4枚サッシと小さな縁側をデザインしたのは、いかにも不自然で普通ではありそうにない、その場所には勝手口の扉を付けるくらいが適当だろうから、建築士さんも首をかしげていた。「まあノースライトという考え方もありますからそれなりにデザインできるんですけど、これだけ開け広げた作りだと空き巣は喜ぶでしょうねえ。空き巣犯のほとんどは、昼でも夜でも北側から近づいてきますから、わざわざ侵入経路を作ってあげているみたいなものです。」
でもあの人は、うちには盗まれてもかまわないものばかりだ、といって気に止めはしなかった。
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二階は北側に細い廊下と、それに面して和室が3つ並んでいる。和室どうしは引き戸で区切られていて、その戸を外すと大広間になる旅館風のしつらえだ、広々としているのが好きなのだ。将来また子供を授かれば、区切った部屋がそれぞれ子供部屋になるはずだった。そうはならずに今でも、俊の遊び場としていろいろなものが散らかっている。
小学校1年生の時に同じクラスになった彰君が、仲良くなってうちに遊びに来るようになり、ドタンバタンとプロレスごっこを繰り返していた。そして疲れると、二人そろって眠ってしまう始末、あの人が見たらうれしそうに眺めながら一緒に寝ころんでいたことだろう。
彰君のおかあさんが仕事帰りに迎えに来ても目を開けず、初めて泊っていくことになったのは秋のことだった。別のクラスになってからもずっとそんな調子で、同じ塾に通っているからその帰りには必ず寄っていく、こんな友達ができたことは我がことのようにうれしいものだ。そしてクラスではいつも、この二人の周りに輪ができていた、屈託のない性格で角のない喋り口調、誰からの言葉もそのまま受け取って深読みなどしない、普通の素直な小学4年生だ。
「おかあさん、アキラは最近いじわるで困るんだよなあ。ヘンなんだよ。」
「あら、このあいだは元気に、こんにちはって言ってたわよ。」
「あんなに怒鳴ることなかったのに、イライラしているっていうのかなあ。」
「なにかあったのかしら、今度保護者会の時にアキラママに聞いてみましょうか?」
「俺のことも、ど突くようになったし、あれじゃあみんなに嫌われちゃうよ。チカマチマイって女の子のこといじめるようになって、今日はランドセルを蹴りつけてとうとう泣かしちゃったんだ。頭悪いしおとなしいし、ダメな奴だからまあしょうがないんだけど、でもやりすぎなんだよ。背の高い女番長みたいなのがやめろってすごんでるんだけど、止められそうもなさそうになってきた。先生には言いたくないんだよなあ、先生が注意しても無駄な気がする、ヘンなんだよ。」
「そう、なにか最近嫌なことでもあったのかしら。」
「別に、勉強はちゃんとできてるし、塾でもいつも通り静かなんだけど。」
彰くんは麻衣って女の子のことが、気になっているのかしら、そう言おうとして止めにした。もしそうなら、教室の誰かが気が付くだろう、4年生なら気が付くはずだ。もしそうでないなら、俊にもわからない何かがある、やっぱりアキラママに聞いてみよう、今週の金曜日。
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次の日、俊の話を聞いてまた、うれしく微笑ましいひと時となった。何かしなくちゃいけない、そう思える子であることがとてもうれしく誇らしい。
「おかあさん、アキラは今日も放課後にチカマチのこと泣かせちゃってさあ。アキラはいじめっ子じゃないんだよなあ、絶対だよ、、、」
「そう、今週の金曜日にアキラママに聞いてみるわね。おかあさんも、絶対いじめっ子じゃないって、思うわよ。」
「ねえおかあさん、俺もいじめっ子じゃないよなあ。」
「えっ」
「俺もアキラといっしょに、おもしろがってチカマチに意地悪してたんだ、俺もヘンだったのかなあ。なんでおもしろがっていたのかわかんないんだけど、確かに面白かったんだ。」
「いつもと違うこと、ただそれだけのことが楽しいとかおもしろいって思うんじゃないかしら。いつもとちょっとだけ違うこと、おかあさんが小学生の時お墓でかくれんぼしたことがあってすごくおもしろかったことがあったの、だから次の日にもう一回やろうって言ってみんなを誘って同じようにやったんだけど、それほど面白くなかった、そんなことがあったわねえ。」
「うん、俺も面白くなくなってきたし、やっぱり泣かすのはよくないし、止めた方がいいって思った。だからアキラの肩に手をかけて引っ張ったんだ、なんだよっていうからもう帰ろうって言って、でもうるさいっていうから俺も一緒にやってたけどもうやめようよってまた肩を引っ張たんだ。そしたら俺の顔を見て、塾に行くんだったじゃあ帰ろうって言った。俺はもうやらないけど、アキラはどうかなあ。チカマチはいじめられっ子っていうか、ほかのヤツからも悪口言われたり除け者にされたりしてたけど、女番長のミノワがいるからまあ大丈夫なんだよ。アキラはいじめっ子になったりしないよなあ。」
「おまえは見かけによらず、心配性なのねえ。」
「だってヘンなんだよ、絶対に、、、」
「ヘンかヘンじゃないか、黒辺さんなら何か気が付くかしら、よくヘンなことに気が付くわよねえ。そんなに心配なら、割と真剣に相談に乗ってくれるかもしれないわよ。」
「真剣なクロベーなんて見たことないけど、たしかにヘンなことに気が付くんだよなあ。」
「いちおう、人生の先輩なのよ。」
「いちおうねえ、ヘヘヘ。」
あっけらかんとしているから誰とでも仲良くできる、それだけあればこれ以上何も望むものはない、あのひとはよくそう言っていた。あたしに向かって。
・・・
金曜日、学校の保護者会から帰宅すると、ピースがデッキチェアの上で丸くなって眠っていた。俊が小学校に通い始めてすぐに、親戚から引き取って育てることにした甲斐のマダラ犬の血を引くピースは、夜の闇の中では眼だけが光って不気味な雰囲気はあるが、ほとんど吠えることはなくて賢いオスの伴犬だ。
俊に弟がいたらいいなあと思ったり、俊が可愛がってくれるかなあとか、俊がしっかりお世話できるかなあとか、俊と3人で散歩したいなあとか、なによりもあの人が甲斐犬と一緒に暮らしていたことを自慢げに話しているのが耳に残っていて、あたしもいつか犬を飼ってみようかと思ったりしていたのだ。
ずっと普通に、鎖でつないで庭を歩き回れるようにしていたわけだけど、最近は家に中でも暮らせるように、ときどきほこりっぽい体をシャンプーで洗うようにしている。最初は遠慮していたが、玄関に置いた特性の人工芝を踏んでワンと一声吠えてから入ってくるようになった。それはまるで、俊がただいまと言って玄関を通る姿を、鏡に映したように思えてしまう。
そのシャンプーと人工芝は黒辺さんが見つけてきてくれたもの、というよりも彼が勝手に持ってきて使えと言って置いていったものだった。彼は基本的に動物が嫌いで、その匂いが我慢ならないのだそうだ。でもそのシャンプー、特に芳香性でもなくて、あたしには何のにおいの変化も感じられない。そんなあたしのことを、冷めた目で見下すようなところは、いつも癪に障る。当のピース本人には、かぎわけられているのやらどうやら。だからかならず、昨日はシャンプーしましたかと電話で訪ねてから、黒辺さんは家へやってくる。
あたしは誰かに聞いてほしいと思うことを独り言のようにしゃべるとき、ピースに聞いてもらうことが多くなっていた。デッキチェアに登って丸くなり目を伏せている、そして大きくて三角の耳を天に向かって伸ばしている、黙って聞き耳を立てているからあたしの話が吸い込まれていく気がしてしゃべりやすいのかしら、そういえばあのひとも聞き上手だった。
ねえピース、保護者会でアキラママとおしゃべりしたんだけど、アキラママもなんだかヘンだったわねえ。それに俊から聞いたこと、彰くんがイライラしてるみたいだってこと話してみたらびっくりしてた、そんなヘンな様子に気づいていなかったってことは、やっぱりアキラママもヘンなんじゃないかしら。
「いいえ、家では手伝いも普通にしてくれてますよ。イライラしている様子なんて、ちっともないんですけど。」
「そう、ミツヨさん仕事忙しそうだから、アキラくん寂しくなっちゃったのかとちょっと心配になって。うちのシュンがちょっとヘンて言ってて、まあ4年生ってそんな感じなのかしら。あたしはフルタイムってわけでもなくって学校の方の用事も別に苦にならないんだけど、ミツヨさんはどんどんお仕事増えていくみたいで、学校へ来るのも大変でしょう。あんまり無理しなくても、こっちはあたしがやっとくし、そうだアキラくんまた、うちに泊まって行ってもいいし、シュンも喜ぶわ。宿題見てもらえて助かるって、そんな感じだから。」
「そうよねえ、助けてもらえるのは私たちの方かも。学校の方はちゃんとやるつもりだけど、なかなか大変になってきて、パパが家のことちょっとはやってくれるけど、それでもアキラの方がよっぽど役に立つし、パパは役に立たなくてついつい怒っちゃう、怒られても平然としてるんだから尚更腹が立っちゃって、シオリちゃんそんなことなかった?今の方が、一人で気楽じゃない?そりゃあパパに死んで欲しいなんて思うわけないけど、二人でいる意味がなくなって来ちゃって、そんなことなかった?」
「さあ、あったかもしれないけど思い出せないわ。シュンが小さい時だから、今もあの人が生きていたらあたしもミツヨさんと同じようなこと、思ったかもしれない。でもあたしはいろんな仕事がこなせるほどスマートな頭じゃなかったから、ミツヨさんとおんなじってわけじゃないんでしょうねえ。
あの頃は多分、二人でいる意味っていうより、三人でいる意味ははっきりしてた気がする。三人でいるとそれだけで、一緒にご飯が食べられればそれだけで、公園にピクニックに行けたらそれだけで、未来のことなんてわからないけど多分ずっとこんな気持ち、ほんわかした気持ちなんだろうなあって、そんな感じだった気がする。
ああ思い出した、あの人は私と違ってずっと先を見てたんだなあって、思ったことがある。シュンが池の淵を歩いていた時、滑って落っこちそうになった時にすぐに手を掴んでいた、少し先を見ていたのよ。それでびっくりするような事をとつぜん喋り出して、もし二人とも崖から落ちそうになるようなことがあったら、一人しか助けられないとわかったら、悪いけどシュんの方を助けるよって、池の水面を見つめていっていた。もしも万が一なんてこと、あたしは頭にちらっとも浮かばないけど、そんなことまで考えるものなのかしらって、ただあたしもきっとシュンの方を助けるって、その時はすぐに心の声が聞こえてた。なんか、一人で喋っちゃって、ごめんなさい。」
「まあ、、ビックリした。うちのパパもそんなこと言ってたことあるわ。たしかアキラが小学校に上がった時だったけど、私が過労で倒れた時に会社休んでくれたことがあって、もし万が一って話をしてた。私を先に助けて次にアキラを助けるって、そう決めてるって言ってた、そんな万が一なんてあるはずないのにねえ。そんなこと、みんな考えてるのかしら。」
「バカなんじゃない、それともあたしたちがバカなのかしら?」
「知らず知らずに、バカが好きになっちゃたって事なの?」
「それでも、まあいいんじゃない。ハハ。」
たぶん、あんまりいいことがなくて、離婚が頭に浮かんでたんじゃないかと思うのよ、ピース。今の4年生のクラスって、半数は離婚した家庭だし、それでもいいかってあんまり悩む環境じゃないから、簡単に決められちゃうかもしれないし。でも彰くんはそんな環境だからって、離婚するのが普通だなんて思えなくて、万が一そんなことになったらって考えてもそのときはこうしようなんて決められるはずもなくて、知らず知らずに八つ当たりしてたんじゃないかしら。
もしあの人が今も生きていたら、アタシもそんなふうに悩んだかしら、ねえピース?
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土曜日に、黒辺未知成が勅使河原家を訪ねて来たのは、昼過ぎだった。草莽アカデミーの事務所へ納品業者として出入りしていた縁で、事務所職員の勅使河原女子と一緒に警視庁の八坂時之の手伝いをするようになり、イヤイヤながら警視庁へも足をはこぶようになっている。八坂刑事と草莽アカデミーの有志探偵たちとの繋ぎ役で、この日もその目的を携えて勅使河原女子の家へと、やって来ていた。
「クロベー元気?聞きたいことがあるんだけど、今日はだいじょうぶ?」
「ああシュン、だいじょうぶ。休日は、携帯の電源切ってるから。用事が済んだらまた、自転車でゲームセンターでも行くか。」
「黒辺さん、2足のワラジで忙しそうねえ。」
「言っときますけどおいら、詩織さんの草鞋も預かってるみたいなもんなんで、あんまり暇そうにしてないでくださいよ。今日はちょっと近くの河川敷まで、ご同行願いたいんです、探し物です。」
「そう、じゃあピースも一緒に連れていきましょうか、散歩なんでしょう。」
「俺が昨日シャンプーしたんだ、俺も一緒に行っていいだろう、クロベー。」
「ピー助おとなしくしていろよ、お前はときどき勝手に走り出すからなあ。」
「クロベー、ピースって呼ばなくちゃ機嫌悪くなっちゃんだから気をつけてよ。なあピース。」
ワン。
「おいらもクロベーって呼ばれると期限悪くなっちゃうんだって、知ってたか?」
「知らない。」
「ところで黒辺さん、探し物ってなんなの。」
「中学2年生の、女の子。」
その子は学校からの帰宅時に、途中下車してぶらぶらと時間をつぶしていたらしい。何をするでもなく、お金も持っていないので何もできるはずもなく、後に判明した供述によれば硬貨が落ちていないか探しながら歩いていたそうだ。自動販売機のお釣りが置き忘れていたことも、たまにあった。そして家に帰っても何もすることはなく、テレビもなく、母親は朝まで仕事で帰ってこず、食事もそこそこの毎日を送っていた。2日前に捜索願いが出されて足取りが追われている、家出の可能性が高ければすぐに打ち切られるだろう。
しかし今回、未知成が八坂の指示で動き始めたのは家出でない可能性が、あるからだった。女の子の足取りが、ある時点から監視カメラで追えなくなっており、ある時点から監視カメラを避けて移動し始めたと判断できた。本人の意思で、突然そんな意図的な動きができるようになるとは考えにくい。連れ去られて消えてしまった、その可能性があった。
・・・
足取りの捜索は、勅使河原家から3キロほどの養老川のサイクリングロード沿いで行われており、うっそうとした林が点々としていて民家から離れている部分が点在している。人通りが全くないと言うわけではなかったが、目撃情報はまったくなかった。女の子の名前は東条実那珂、いつも同じ道を散策するというわけでもなく、このルートを歩くのは初めてだったかもしれない。駅前や公共施設の監視カメラに写ってからそのサイクリングロードへ向かったと推測された、次の駅までの道順として誰もが選びそうな行程なのだ。そして、次の駅付近やそこへ至る経路の監視カメラに、その子の姿が映ったものはなかった。未知成たちがサイクリングロードに到着した頃、警察犬3匹による捜索が進んでいて、彼らもその後に続いて散歩して行った。
「ねえクロベー、シェパードってやっぱりカッコいいよなあ。スッと足が細くって。」
「警察犬ならドーベルマンがいいかなあ、尻尾が長いのがおいらは好きだなあ。」
「かっこいいからじゃなくって、ちゃんと仕事ができる性格とか、黒辺さんみたいに鼻が効くとか、悪者に向かっていけるとか、だからシェパードなんじゃない。」
「なるほどそうか、八坂さんはおいらのこと警察犬の代わりに使ってたんだなあ、きっと。」
「冗談よ、まったく、でも今度会ったときに八坂刑事に聞いてみたらいかがかしら。あの方、真面目な顔して「そうだ」って、いうかもしれないわねえ。でも、真面目な顔して冗談言ってるんだから、気にしないでね。」
「はいはい」
「ねえクロベー、あそこで止まっちゃったみたいだよ。」
「匂いが途切れたってことか、雨の日はなかったから匂いはちゃんと残っているはずなんだけどなあ。様子を見ながら横を通り抜けて、先のベンチに座ってましょうか。おいらはシェパードに近づきたくないから、自販機でジュース買ってからベンチに行きますよ。」
「女の子は、近くの民家へ引っ張って行かれたか、車に乗せられたか、川に入っていったか、ボートってことはあるかしら。」
「衛星画像だってハッキングしてるはずだから、八坂刑事だったらボートが夜中に移動したって見逃さないんじゃないかなあ。だから、詩織さんはこの件では最終兵器だって、おいらは思ってるんですよ。」
「あなたの冗談は、シャクに触るからやめてもうやめて。はやくジュース買ってきて、ピースにはお水がいいわ。」
「はいはい」
捜索隊の横を通り抜けてベンチに腰をおろすと、まもなくして警察犬3匹は民家やら川べりやらへ散ってやみくもに動き出していった。一旦途切れてからまた匂いが繋がることもあるのかもしれない、もしこのルートを歩くのが初めてではなくて前にも通ったことがあるなら、ちょっと離れた道にも痕跡が残っているかもしれなかった。近所へ聞き込みに向かう警察官もいた。
未知成なら気がついたかもしれないが、捜索隊の横を一行が通り抜けていく時、勅使河原女子の後ろをついて行くピースに異変が起こっていた。足をほんの少しスキップさせ、尻尾を斜めにまるで応援団が団旗をバツ字に振るように振り始めた。そしてシェパードの群れだけが、それに気がついていた。
・・・
黒辺未知成は、犬の動きを避けながら相当遠回りし、ベンチに近づくのに5分もかかってしまっていた。ふと見ると、小さな女の子がさようならと挨拶して、自転車で離れて行くところだった。ピースはベンチの横に座し、未知成の方をまっすぐ向いている、早くこいと言わんばかりだ。
「なんだよピー助、少し遅かったくらいで怒るなよ、おいらは味にうるさいんだ、最高級の水を探してたんだから文句言うなよ。俊は炭酸で詩織さんはあったかい紅茶でしょう、そしておいらはカルピスもどき、こっちが探し物してるみたいでしたよ。詩織さん、ピースのカップはどこですか?」
「ご苦労様。じゃあお水を入れるわよ、ピース。」
「そういえばさっき、女の子がここで自転車止めてたみたいでしたねえ。」
「俊と同じクラスの子なの。警察がウロウロしてなんだろうって気にしてたら、あたしたちがいたから尋ねに来たのよ。」
「そうか、俊の彼女なのか。それが今日の相談事ってわけか、ゲームセンターへ行ってる場合じゃないなあ。」
「おい、そんなんじゃねえよ。あいつはミノワリョウコっていって俺のクラスの女番長なんだ、口の悪いオオ女。そんな相談するわけないだろ。ねえ、おかあさん。」
「まあ俊の相談は別として、あたしも相談があるのよ、北側の縁側の板買っといたから、修理して欲しいの、あたしも俊も不器用だから。」
「嘘ばっかり、まあいいですけど。」
「それから、デッキチェアにクッション置いてるんだけどピースが座るようになってから、くわえて引っ張って落としちゃうのよ、だから紐で縛ってみたらピースが座らなくなっちゃって、クッション変えてみたけどやっぱり嫌いみたいでダメなの。ピースが気に入るクッション探して欲しいんだけど、なんでも探せるわよねえ。」
「もちろん、お安いご用ですよ、おいらにしか見つけられないでしょうねえ、きっと。」
「クロベー、そんなことで威張るなよ。たまたま嫌いなだけだろう。」
「じゃあ賭けるか、シュン。」
「やめとく、クロベーが本気になるとまぐれ当たりがよくあるから。」
「それが、まぐれじゃないんだけどなあ、いつかわかるよ。ヘヘヘ。」
黒辺未知成がペットボトルを飲み干したのを見計らったかのように、ピースはゆっくりと動き出した。ベンチにかけてあったリードを鼻で外して走り出し、シェパードを見渡せる位置で止まってワンと吠える。3匹の警察犬は、一斉に振り返る。それを感じたピースは数秒で50メートルほど走ってからまた立ち止まり、もう一度ワンと吠えた。
すると3匹の警察犬はその方向へ向かって走ろうとしてリードを思いっきり引っ張り、1匹だけは抜け出してピースの方へ走り出した。誰もが唖然としている中で最初に追いかけ始めたのは勅使河原俊で、再び駆け出したピースの後を必死で追う。次に詩織も、とりあえず反射的に走り始めている。しかし未知成はしばらく腰掛けたまま、置き去りのペットボトルとピースのカップを回収してから、やっと立ち上がった。
「やったなピース、何か見つけたんだな。」
・・・
ゆっくりと曲がるカーブでいったん俊が見えなくなってしまったが、やっと100メートルほど先で手を振っているのが見えてきて、あたしはいったん立ち止まった。とっさに走り出してしまったけど、あたしの足では必死に走っても50メートルで燃料切れ。俊がここで曲がったという合図のつもりで何度も指さしているのであたしも指さす格好してから大きな丸を頭の上に描き、足を止めた、もう動けない。すぐさま追いついてきた警察官に100メートル先を曲がったらしいと伝えて、もう自分の仕事は終わったとばかりに座り込んでいた。そうだ黒辺さんはどうしたろう、なんだあたしのほうが早いじゃないかと笑ってやろうと振り向くとゆっくりと歩いている、まったくもお、大笑いしている。ばつが悪くてしょうがなかった。
「はい詩織さん。喉乾いたでしょう。」
「ええ。」
「ピー助、見えなくなっちゃって、戻ってくるかなあ。どうしちゃったんだろう。」
「いなくなるなんて考えてもいなかったけど、そうそう迷い犬って警察よねえ。子供を探すのは手伝おうと思ったけど、犬を探すのなんてどうするのよ、ああそうか、警察犬が一緒だから大丈夫なのか、いやエーとそんな訓練受けてるかしら犬を探して連れ戻すなんて。黒辺さんあとは何とかしてよね、あなたなんでも見つけて探してこれるのよねえ、たしか。」
「何言ってるんですか詩織さん。犬は飼い主のところへ帰ってくるんですよ、昔からそうでしょう。でもたしか、飼い主に虐待されたりして嫌いだったら、帰ってこないこともあったはずだなあ。」
「そうね、じゃあ探さなくてもだいじょうぶだわ。」
「わかりませんよ、甲斐犬の血筋ってどうなんでしょう、甲斐の方まで帰巣しちゃうかも。そしたら、おいらの出番ですね。」
「大丈夫よ、絶対。」
「あーら、ちょっと不安になってきたでしょう。やっぱり行ってみましょうか。一休みしたら。」
座り込んでしまった時は、もう動けない一歩も動けないと頭の中の回路がショートしていたが、特段の命令なしに動き出せるものだと感心していた。たしか小学校の体育でハーハーいうまで走ったけど、それからはずっと高校の体育の時間でも本気で走ったことなんてない。
しまった、黒辺さんのしわざか、いやそれは100%ない。ピースのリードに、一度も触れていなかった。これまでに一度だって触れたことはないし、ピースが近づける位置にいたことはないんだから。
・・・
ピースには確かに、甲斐犬の血が流れている。秋田犬には出羽国の人たちと、土佐犬には土佐国の人たちと培ってきた絆がある。いくら訓練されているとはいえ、シェパードが日本で暮らすのはやっぱり無理があるんじゃないかしら。日本に慣れ親しんできた甲斐犬の方が、シェパードにとっては頼りになる存在で、その後を追いたくなってしまった、そんなふうに思うべきかしら。わかった、ピースはもうすぐ4歳になる、シェパードの方が若くてお兄さんを追いかけていった、そんな序列があるんだわ、きっと。
苣木所長は、こんな風に言っていた。狼と犬は違う種族なんですよ、だから別々に棲み分けている。それでも、南アルプスに犬の群れが迷い込んで狼に出会ったとき、戦いになるかどうかは私にも判断が出来かねます。ライオンが、とらえた獲物をヒョウのためにわざわざ置いていくってこともあるらしい。距離を置きながら近しい種族と一緒に暮らすことがあっても不思議でない。むかしむかし南アルプスへ迷い込んでしまった犬が、狼からその流儀を学ぶことだって、ないとはいえない。
そういえばあの人が甲斐犬が好きだったのは、小さい時に数匹の甲斐犬に囲まれて育った経験があったからだった。秋田犬のように整った毛並みの肢体ではなく、土佐犬のようにがっしりとした特徴もなく、黒光りしているわけでもないから頼りがいがありそうには見えない、そんな風ていになんとなくあの人は共感してしまうところがあったのか、自分と同じ平均レベルという感じがしたのか、もっと聞いておけばよかった。しかし反面、暗闇では眼光が鋭く、そんな時はこの犬のルーツはどうみても狼だと思わせられる、何かを内側に持っていてそれをずっと隠し持っている。狼のそばにいると、自分は狼を従えている人間なんだぞ、そんなふうに自信を持ててくるのかもしれなかった。
そんなふうに考えながら見てみると、ピースはもしかしたら牙のない狼かもしれないと思えてくる。狼ならシェパードを従えることができて当たり前、でも本当にそうだろうか、あのピースが?血筋だけで考え直すなら、ピースはシェパードの血も受け継いでいるってことかしら、そう考えるなら共感しやすいのはうなずける。
それにしても気になるのは、黒辺さんがずっとニヤついていることだ。あたしのことを馬鹿にするように、いろいろ茶化したくてニヤニヤしているのかと思っていたけど、いつものように突っかかってくる様子がない。ピースの行動に何か感じたから、あんなふうに面白そうに眺めているんだろうか。ヘンな事に気がついた時に、よくあんな表情をしている。ピースの気持ちが読めるってことかしら、いくらなんでもそれは考えすぎだろう、疲れて頭の回転が戻るまでしばらくかかりそうだ。
今までピースは、誰にも迷惑かけた事なかったのに、しばらくは謹慎させなくちゃ。
・・・
河川敷に沿って設置された公園を横切った先に住宅街へと抜ける細道、自然に踏みならした抜け道があって、整備されていない雑木林がしばらく続いていた。そして自転車が通れるくらいの多少広い道が、住宅街と川を結んで伸びているところの河川敷側に、捜索の場所が移されたのを見つけることができた。
ピースは腰を下ろし、俊がリードを握っていて、あたしは安堵の息を吐く。見たところ本格的な捜索というわけではなくて、警察犬が勝手に嗅ぎまわっていてすでに何か見つけたらしい。整備事業でだいぶ前に植えられたのであろう、雑木林と道の間の2メートルほども幅のあるつつじの植え込みの中に落ちていた、いや捨てられていたのだろう定期券、捜索願の出された中学生の持ち物に相違なかった。
「とうとう手がかりが、見つかったのね。」
「ええ、なんかビックリですね。」
「このあたりは住宅もまばらだし、川への道を使う人も少ないんでしょう、いったん整備したらほったらかしって感じかしら。ごみが捨てられっぱなし、誰にも注意されそうにないから安心して捨てられるわねえ。聞き込みしても、期待薄みたい。ねえ黒辺さん、川に向こう側には倉庫とかあるみたいよ、監視カメラないかしら、遠いけど。もう調べたかしらねえ、八坂刑事は?」
「ああ、なるほど、まだかもしれません、おいらが見ておきますよ。」
「そんなことまでできるようになったの、偉いわねえ。」
「なんたって、準公務員ですから、何でも自由自在ですよ。」
「それじゃあ、ここのゴミもう少し調べてみてくれない、なんかゴミじゃなさそうなモノもありそうよ、もちろん捨てられたんでしょうけど。」
「そりゃあ、警察の仕事でしょう。おいらはちょっと、、、」
「でも、もうひきあげちゃった、目的のものはあれだけってことでしょう。まあ、あなたみたいに偉い人には頼めないわよねえ。」
まずは、雨ざらしで色褪せてはいたけれど明らかに高級なブランド物のバッグがあったし、小さな化粧ポーチはそのバッグに似つかわしくない別の人のものだ。それからもっと気になるのは、ゲーム機と食事用のプレート、半分に割れたクリスタルと大きめのミニカー、同じ人のものではないかしら、ほかにもあるかもしれない。
その定期券が見つかったってことは、姿を消した女の子が何もできずに連れ去られたケースを考えれば、犯人が捨てていったことになるから他にも犯人の痕跡がありそうなものだ、もうちょっとちゃんと調べればいいのに。
家出したケースしか念頭にないのかもしれないけれど、それならなんで大事な定期券を捨てたりするかしら、もう帰らないつもりというメッセージなんていう推測はこじつけっぽい気がするし。もういちど捜査する気はなさそうよねえ、あたしが勝手に拾っていったら叱られるかしら。たしか捜査対象なら黄色いテープで進入禁止にするのをテレビでよく見るわ、だからここはおかまいなしってわけよ、なるほど、フフフ。
・・・
ボランティアの清掃活動は、地域ごとにいろいろな人たちや団体が行っている。俊の小学校にもそうした有志を集う時があるが、残念ながらピースが見つけた河川敷の生垣まではテリトリーに入っていない、そこで苣木所長に相談してみた。子供たちと一緒にゴミ拾いのボランティアをしてみたいんです、そう聞いてみたら大学生のボランティアサークルがあるから活動の方法を聞いたらいい、そのサークルの名前で届け出ればいいでしょう、ああそれからサークルのビブスを借りておくからそれを着て活動してね、そういう答えが返ってきた。案外、簡単だった。次の土曜日に、行ってみよう。
「シュン、次の土曜日の朝、ゴミ拾いのボランティアしようと思うんだけど、手伝ってくれないかしら、予定はなかったわよねえ。お願いします。」
「いいよ、500円で引き受けます、エヘン。ああそうだ、アキラがまた、いつでもいいから泊まりに行ってもいいかってさ。次の土曜日にしようか?たぶん手伝ってくれるんじゃない。500円で。」
「あら、いいんじゃない、ちょっと大変かもしれないけど、頑張ってくれるんでしょう?」
「そんなに大変だったら1000円だよなあ。」
「そうねえ、考えとく。ピースと一緒に行きましょう。」
「どこ行くの?」
「ピースが見つけた河川敷の生垣のところ、ゴミだらけだったでしょ、あそこに行ってみようと思うの。」
「わかった。ねえおかあさん、あそこ、ほんとにピースが見つけたのかなあ?警察犬よりすごいってことだよねえ、なんか不思議なんだよなあ、普段はおとなしくてゆったり歩いてる、なんにも興味ないみたいだしさあ。」
「お庭では、蝶を捕まえようとしてジャンプしてたこと、あったわねえ。」
「そうなの、そうかあ、能ある鷹ってやつなのかあ。かっこいいなあ、ピース。」
「シュンも、そうなんじゃないの?」
「そうだといいなあ、エヘヘ。アキラはたぶんそうだよ、あんまりしゃべんないけどそんな雰囲気するんだ。」
この子はいつもこんな風で、すがすがしい。だから学校でいろいろな子がいろいろな話題を振ってきても、壁を持たずにちゃんと受け付けられる。風通しが良いところに人は寄ってくる、おとなも子供もその点では変わるところはない。
この子は、他の子のすごさを見つけてすなおに憧れることができて、妬ましく思うことがない。子供はみんなそんな風だと思うけど、大人になると変わってくるんだろう。でも俊はきっとそのままだ、母親だからわかる。
この子は、ピースや彰君のように異能の爪を隠している。親バカだから、あたしはそう思う。
・・・
土曜日のゴミ拾いは、アキラママも来てくれて思いのほかはかどり、10時には終了できた。ゴミの量はというととんでもなく多くて、自転車の荷台にしばりつけた野外用収納ケースに詰め込んだ不燃ごみだけでも、家まで3往復分もあった。発泡スチロールやペットボトルなど仕分けしていって、持って行った5袋では足りず、反対側の植え込みまでは手が付けられなかった。結構古いラジカセが堆肥に埋もれていたり、傘も数本見つかり、子供たちはやった大物だといってはしゃいでいる。小学校のボランティアは多少のゴミが集まればよくて、親同士であるいは子供同士でおしゃべりして終わってしまうようなものだった。今回のように、生け垣をきれいにしよう、そういって本気になると様子が変わってきて、おもしろいのだろう。もう一回やろうと言い出すのだから、あたしも元気が回復してくる。帰り道に、ミツヨさんとも話ができた。
「ミツヨさん、疲れたでしょう、わざわざ来てくれなくてもよかったのに。」
「ええ、思ったよりしんどかったわ。今日は、シュン君が変わらずにアキラと仲良くしてくれてて、それが見れてよかったわ。家では、ウンとかフンとか、よくわからないところがあって。」
「そうなの?今日お泊りして行くって言ってたけど、なんかシュンにはずっと泊まっていいかみたいなこと言ってたみたい。」
「まあ。」
「ミツヨさん、自分でも怒りっぽくなったって言ってたし、アキラ君もいつまでもおんなじじゃないかもよ。シュンも最近なんか、周りのこと気にするようになったし、今週だったかアキラ君のことほめるのよ、なんかいつもいろいろ考えてるみたいだって。」
「まあ、知らなかった。それでこの間の話の続きなんだけど、パパの方も文句言ってきてケンカになってると思ってたんだけど、どうも私の方からけしかけるのが多かったみたい。やっぱりストレスってあるのよねえ、仕事に偏ってるとこうなっちゃうのかしら、シオリちゃんと喋ったりこんな風に何の利害もないこといっしょうけんめい夢中でやったり、いいのかもねえ。」
「あたしはねえ、ストレスって感じたことないのよ、フフフ、自慢じゃないけど。」
「いいわねえ。」
それから程なくして、俊から報告があった。彰君のヘンな様子がなくなったのだそうだ、そしてヘンに立派になった気がするんだそうだ、そしてさらに先のことだが次の学期には学級委員になった。
俊はピースには才能があるかもしれないと期待して、いろいろな芸を教えるようになり学校で自慢していたら、うちの犬にも教えてよと誘われるようになっていった。俊は俊で俊君は俊君、才能や資質がある子もいて才能を伸ばしてあげられる子もいる、あたしはそんな子供たちを見ていることができて、しあわせ者だ。
・・・
詩織は数日かけて、集めてきたゴミをより分けて観察していた。ペットボトルやビニール類などは毎週回収に来る業者にもっていってもらえばよく、ラジカセなどの燃えないゴミや傘などの大きめのゴミは大学生を呼んで回収してもらうことになっている。そして問題は、普通のポイ捨てではなくて棄てた意図が見え隠れする品が、何を意味するかだった。そんな品々が、最初に見て感じた時の2倍ほどになっていて、それはつまり今回の清掃活動が無駄にならなかったことに他ならない。
まず、そこにはないが定期券が同じ場所から見つかっていて、女の子の行方を探す手がかりとなっている。
次に、なぜ捨てられたのか分からない品々が庭に置かれていて、どうやらふたつに分けられそうだという直感からおおまかにより分けてみた。そして4つの品々は女性物と見られ、一つにはS.Koyamaと刺繍されていた、本人が捨てた化粧ポーチなのだろうか。中身が1セットそのまま入ったままであり、自分なら棄てたりしないと詩織は考えている、あの場所に誤って落とすことはないだろうし、別の場所に落としたのなら誰かがあそこまで運んだことになる、そんなことあるだろうか?他の3品も、本人が捨てた可能性はまずないだろう。
定期券を捨てたのが女の子本人なのか別の人間なのか、別の人間だという仮説を採用してみると、4つの品々を棄てた本人でない誰かは、たった一人の人物だと思えてきた。複数の人間が別々に何らかのルートで入手したとして、その終点が同じ場所にしかもゴミ箱ではなくてわざわざあんな場所まで持っていく、そう考える方が不自然だ。
一方で他の9つの品は、同じ人の持ち物だったはずと詩織は結論付けていた。子供の時から愛着があって棄てたくないもの、そんな共通点が見えていたからだ。棄てたくないから置いていった、どんな理由があったのか、なにか事情があったのかは察することはできなかったけれど、気が付いたことが2つある。10年も前に流行っていたフィギュアもあることから、ずいぶん前から棄てたくないものを置いていく習慣が続いている、そしてミニカーがあることから男の子だろう。
定期券と4品と9品、これらが同じ場所へ棄てられたルートは、客観的な共通性の薄さからみればいくらでも考えられる。しかし、同じ場所というたった一つの共通性から考え直してみると、乱暴ではあるにしてもたった一人の落とし主行き当ってもおかしくない、それが詩織がたどり着いた仮説だった。
「もしもし黒辺さん、頼みがあるんだけど、探しものよ。イニシャルS、ローマ字でKoyamaっていう人、女の人だと思うんだけどこの付近で何かの事件に関係してる人、いないかしら?10キロメートル圏内、25キロメートル圏内くらい。」
「ええ、いいですよ。1時間くらいで連絡しますよ。じゃあ。」
「エッ、何も聞かないのね?ああそうだ、10年前までかな。」
「はいはい、あのミナカちゃんを探してるんでしょう。じゃあ、待っててください。」
・・・
同じ場所へ、ゴミとは思えないあるいは大切なものを置いていった者は一人なのか二人なのか、その答えが出るのではないかと、詩織は期待していた。もし二人だった場合、女の子が自分で定期券を捨てていったという可能性が、排除できなくなる。もちろんあの生垣は、混沌としたゴミ捨て場だったというありふれた結論もありうるが、こと犯罪に関する限り混沌としているようでわかってしまえばシンプルなものだ。期待した答えが得られれば、次の仮説は頭に描けていた。
「詩織さん、小山園子っていう女性からひったくり被害の通報が上がってましたよ。あの警察犬が痕跡を見失った現場からだと7キロメートルってところ、なんか手がかりになりそうですか?ついでですけど、あの周辺てそんなに犯罪が多いわけじゃないから関連しそうなことも調べてみたんです。25キロメートル圏内で、10年前までで、似たような案件、あと3件ありましたよ。あそこから3キロメートルと4キロメートルと12キロメートルのところで、同じ手口のひったくり事件。」
「似たようなっていうと、ひったくり犯は自転車に乗った若い男で、被害者は女性かしら。」
「ええそうですよ、よくありそうなパターン、あの場所から南の方へバラバラとした位置でしたねえ。」
「取られたものに、ヘルメスの小型のバッグ、青っぽいのがあるかしら。」
「はいはいありますよ、エルメス。」
「そうそう、エルメス。」
「そうすると、どうなります?」
「ウーン、まだ詳しくは話せないんだけど、まずそのひったくり犯は悪人ていう感じじゃない気がする。それでそのひったくり犯は、女の子を連れ去った犯人と同じ人物な気がする。同じ方法で女の子からカバンを奪おうとして、何らかの事情で女の子を連れ去ることになってしまった。たとえば、女の子がすごくかわいかったからとか、女の子の足が速くて追いつかれて逆に脅されたとか、どんな事情なんだろう。」
「さすが詩織さん、いい感じですねえ。どうしてそんな考えになるのか、さっぱりわからないけど。それにおいらの知る限り、今の事情は空振りですね。がりがりに痩せてて、ほおがこけてるほどだから可愛いとはいえなさそうだし、走れても5メートルくらいじゃないかなあ。貧乏みたいなんですよね。」
「そうなの、でも一つはっきりしたわねえ。定期券は女の子本人が捨てたわけではなくて、別の人おそらくひったくり犯が棄てている。」
「いやいや逆でしょう、わざわざ身元の分かるものを棄ててるんだから、無理やり連れ去られるときにすこしでも頭が働けは被害者が手掛かりを落としていく、その方が分かりやすいんじゃないですかねえ。」
「だから、連れ去られたわけじゃないって仮説なの。何らかの事情があって、ついていったのよ、もしかして顔見知りだったのかしら。」
「ウーン、どうしてひったくり犯がそこに結びつくのか、さっぱりわからないなあ。」
「だから、まだ詳しく話せないのよ、ごめんなさいね。それでもう一つだけお願いしたいのは、二人乗りしてる自転車を衛星写真で探すことなの、やってくれる?」
「さっぱりわからないけど、できますよ。その女の子の学校は制服がなくて普段着だから、真上から見た衛星写真だと見分けることができなくって、二人乗りなら見分けられるでしょう。」
数日して、未知成から画像を見つけて足取りが掴めたとの連絡があった。もうすこし調べて、分かったことがあれば教えるといってからまた数日、時間が過ぎていった。
生垣で見つけた9つの品物が、そのひったくり犯のものであれば返してあげなくちゃ、大事なもののはずだから、そう詩織は思っていた。あの生垣を何度も訪れている、あそこに置いていった大事なものを確かめに行っている、なくなったと知ったら少なからず悲しい思いをするはずだ。それとも、きれいさっぱりなくなっていたら、過去をすっかり忘れて別の自分になることができるだろうか。いったい、どんな人なんだろう。
・・・
数日後、東条実那珂の失踪から数えてちょうど2週間が過ぎていた。
「もしもしシュン、いてくれて助かった、手伝ってほしいことがあるんだけど、今から来てくれないか。ピー助を連れて、」
「うん、いいよ。それって、500円コースかな。」
「ピー助の芸を見せてほしいんだ、おまえのミサンガをフリスビーみたいに投げて、ピー助が飛び跳ねてくわえるやつ、」
「ああ、あれは1000円コースですね、黒辺探偵。」
「わかったよ、うまくいったらプラス500円だ。頼むよ、ちょっと遠いけど、市民公園を通り過ぎて産業道路のファミレスのところまできてくれない?」
「ウーン、ちょっとどころじゃないねえ。ピースをかごに乗せて、自転車で行くかあ。」
未知成は衛星画像から、詩織に教えられた二人乗りの自転車を割り出して、ファミレスの近くに住んでいる若い男のアパートを見張っていた。なぜそうなるのかさっぱりわからないのだが、もしかしてもしかしたらその部屋に行方不明の女の子が軟禁されている、ということになる。
その男は自転車でアルバイトへ出かけたので、その間になんとか女の子の所在を確認したいと未知成は思っている。まだ詩織が言っていた何らかの事情というのがなんなのか、納得のいくような答えが得れれてはいなかったが、もしあの部屋にいるのならばこの2週間の間に逃げ出そうと試みて暴れれば、周りの部屋の住人は不審に思うはずだ。そして今、どういうわけか窓が開いている、締め忘れたのでなければ、戸締りする必要がなかったのだろう、玄関扉も空いているかもしれない、それは中にもう一人いることを意味する。
未知成は、何日も張り込むなんておいらの仕事じゃないと思っていたから、早く結論を出したかったのだ。詩織の仮説が間違っている、そういう結論が出たら次に進めばよい。警官だったら大家さんに交渉して、中に入れてもらえばすむのだが、この件はまだ八坂刑事には相談していなくて、勝手に動いてしまっている。
20分ほど待っていると、俊が現れた。
「ちょっと、ここの駐車場で練習してみるか?」
「いいよ、このミサンガ革ひもで縛るのが面倒だからゴムを付けたんだよ、そしたらゴム鉄砲みたいの飛ばせるようになって、フリスビーみたいに飛ばしてみようって思ったんだ。俺って、頭いいだろう、クロベー。」
「ああ、なかなかのもんだ、それじゃあ次は本番だ、今度は趣向が違うんだけど、ミサンガを飛ばしてあの2階の窓の中へ飛ばしてほしいんだ。あそこにどんな人が住んでる確かめなくちゃいけなくって、何日も張り込みなんてしたくないから、すいませんミサンガ飛ばしたらヘンな方へ行っちゃって、て謝れば手っ取り早いだろう。」
「ウーン、それで1000円かあ。まあいいけど、誰もいなかったらミサンガ戻ってこないよ。それはやだなあ。」
「いやいや、窓が開いているってことは誰かしらいるってことだろう、だいじょうぶさ。誰もいないようなら張り込みを続けるだけだから、おいらが数日のうちに回収しておいてやるさ。そうなっちゃったら2000円、どうだ。」
「ヘヘヘ、言ってみるもんだなあ。」
・・・
「じゃあシュン、打合せ通りに、いいな。」
「見ててね、こうやってゴムのところに右手の親指をひっかけて、左手の中指をまげて親指で挟んで引っ張るんだ。右手の親指を目標に向かって真っすぐだと、どういうわけか少しぶれちゃうから少しだけ左方向へ向けといて、左手の指でつまんだ力をゆっくり抜いていってから、ミサンガが左手を離れる瞬間にその手を左へ素早く回転させるんだよ。ほらね。」
「オオ、やった、プロフェッショナルだな。」
未知成が小さな声で囁いてから数十秒、ふたりにはそれより長く感じられ、シュンは息を止めていたことに気が付いてシャックリするように空気を吸い込んだ。窓際に女の人が現れて、周りを見渡している。
「すいません、すいません、ほらおまえも謝れって。」
「ごめんなさい、ヘンな方向へ飛んでっちゃって。ゴム飛ばし、してて。」
「すいません、投げてもらえますか。」
「ええと、こんな感じでフリスビーみたいに、、、」
女は何も言わずに、右手をしならせてミサンガを投げて返した、しかしそれは二人までは届かずに塀の中へ落下していく。アッ、3人とも心の中でそう感じたとき、思わぬ光景にさらに驚かされることになる。ピースが2歩の助走からジャンプして塀に登り、さらにヒラリと塀の中へと飛び降りながらミサンガをキャッチしていた。それは馬が審査官の前で優雅にステップを踏むように、何の余計な動作もない美しい所作であり、目の中に写し取られた映像が脳に伝わるまでもなく、感激して開いた口がふさがらない。ふさがらないうちに、まもなくピースはふたたび塀の上へと飛び上がり、ブロックの上を数歩あるいて飛び降りて戻ってきた。
「オオ、プロフェッショナルだな。」
「クロヒョウって、こんな感じじゃねえ。」
「まぐれじゃないか?もう一回、こんどは塀の上に向かってミサンガを飛ばしてみろよ、シュン。」
ミサンガを見上げたピースは、こんどは塀の壁を蹴り、片足を塀の上にかけてから宙を舞い、それを鼻にかけて戻ってきた。俊は思わず、ピースに抱き着く。そして未知成は、振り返って女の方を向いて、もう一度ペコリと頭を下げた。さすがは詩織さん、読み通りだ、東条実那珂で間違いない。
「シュン、もしかしたらピースはただ者じゃないかもなあ。他にどんな芸ができるんだ。」
「縄跳びができるよ、他にもいろいろ。大縄跳びをふたりで回して、それで何人も中に入って飛ぶだろう、そこにピースも入って飛べるんだよ。それができるのは今のところピースだけでさあ、他の犬にも教えてるんだけどまだ成功してないんだ。俺、動物の調教師になろうかなあ、どお?」
「なんだよ、宇宙飛行士になるんじゃなかったのかよ。」
「それがさあ、ミノワっていうオオ女が宇宙飛行士になるとか言い出して、自転車で体力付けて英語もできなくちゃいけないとか、3日くらいは何も食べなくても普通に仕事できないといけないとか、すごい大変らしいんだ。無理だろう。」
「そうかなあ、できるんじゃないか、プロフェッショナルだからなあ。」
「クロベーに言われても、なんかなあ。」
・・・
未知成は、俊とピースを家まで送ってから、すぐに取って返して高根雅史の帰りを待ち伏せた。バイトへ行くのを見送った時には遠巻きからだけれど、何も感じなかった。透明な暖かさは子供っぽいと感じられる一方、その透明さは深く落ち込んでいて何かを隠している、隠していることに自分でも気が付いていないかのように細くてまっすぐに伸びている。普通の人を総括するならば、透明であっても何らかの色があり、どれほど深くても戻ってくる道筋が複雑に感じられる。子供たちはその逆だ。
この男は、悪人ではないけれど、悪の道を探してさまよっている、でもそんな不可解な道筋が未知成には探し出せなかった。テニスの壁打ちのように単純に、絡まることなくまっすぐな線に収束する、周囲からは理解が及ばないだろう。夜遅く、10時を回ったころに帰宅したその男の前にいきなり立ちはだかってみたが動揺はなく、こちらの目を見つめてくる。おまえは俺のことを理解できるかと、問い詰めるようなまなざしだった。
「タカネマサシさんですね。おいらは黒辺っていいます。」
「ええ、そうですけど。」
「あなたに伝えるメッセージを頼まれまして、伝えたらすぐ帰りますんで、このままちょっとだけ。」
「なんです。」
「3つあるんですけど、あなたのことを見つけた賢い女性が言ってました。あなたは悪人ていう感じじゃない、ひったくり犯かもしれないけどそういう感じがするって。
次はおいらからなんですけど、警察はあなたを見つけられないかもしれないから、そろそろ交番へ出頭した方がいい。もう考えていると思うけど女の子は別の交番へ出頭するのがいいでしょう。
最後に、交番へ出頭したら色々聞かれて何と答えてもいいんですけれど、まず一番最初に、警視庁のヤサカトキユキっていう刑事さんと話したいって言ってください。七八のハチに坂道のサカ、チクタクチクタクのトキに白いユキ、その刑事さんならあなたの考えている浮世離れしたストーリーよりも、俗っぽくてちょうどいい世界を描いてくれます。たぶん、あなたでもびっくりしますよ。以上です。」
「そう、おかしなひとだなあ。普通の警官が来てくれた方がよかったのに。それで、あなたの名前は?下の名前。」
「ミチナリ。」
ぶっきらぼうさが、頭の良さを完全に消してしまっている。事は自分の描いたストーリーの通りにいつも運んでいる、だから周囲からは理解が及ばないのにちがいない。未知成には、そんな印象が残った。
・・・
あたしには、事件に対する関心はそれほどなかったけれど、黒辺さんはいろいろと細かく話してくれた。「詩織さんは知る必要がある」のだそうだ。他にも、草莽アカデミーの所長も含めていくつもの事件にかかわってはいるけれど、自分が探偵だとは思ったことはなくて、その点では黒辺さんたちの私を見る目とは隔たりがあるかもしれない。
あたしは自分の気が付いたことを、おそらくはほとんどが当たり前のことをしゃべっているのに過ぎない。それがどうやら、役に立っているらしいことはよかったと思っているしうれしいことだけど、そこが自分の居場所ではないことは分かっている。居心地が悪いとか、違和感があるという事ではなくて、ちょうどこのデッキチェアのようにあたしには大き過ぎるのだろう。
「もしもし詩織さん、ちゃんと聞いてます?」
「ええ、その女の子が連続ひったくり犯についていってしまった事情でしょう。あたしがいくつか挙げてた事情、可能性のある事情はみんな外れていたみたいね。まさか、おなかがすいててお菓子につられるとはねえ。でも、その犯人が優しくてよかったんじゃない、本当に飢え死にしそうだったんでしょう。自転車でうしろから近づいて、肩にかけた布のバッグをさっと外していつもどおりに全速力で逃げようとしたら、バッグはまったく何も入っていない空の状態なのにその人は気が付いた。それで、なんだこの人はポーズでショルダーバッグを持っていただけかと思ってバックミラーを見たら、女の子が倒れていた。まさか、中学生だとは思わなかったんでしょうねえ、私服だから。」
「そう、何も奪ったわけじゃなかったから謝ればいいやと思ったし、全然立ち上がる気配がなかったからマズイと思ったって、言ってましたよ。手足が細くて頬がこけてて病気なのかと思ったけど、空腹だとわかったので持っていたお菓子を挙げて、それでも動けないのでもっと何か食べるかと聞いて自転車に乗せたそうなんです。普通なら救急車を呼ぶんでしょうけど、なんせひったくり犯が病院に同行して事情を聞かれるなんてのは、いやだったんでしょう。
頭が回る分考えすぎたのかもしれませんね、フラフラだったから自転車にちょっとぶつかったくらいの認識だとわかったようで、それなら元気になったら一人で帰るだろう。そんな感じで、家で食事を作ってあげたそうなんです。悪いやつなんだか、いいやつなんだか。」
「悪い人じゃないと思うんだけど、どうして2週間も女の子を家に帰さなかったのかしら。」
「それがややこしくて、その男がバイトへ行くから自分で帰れよっていって出て行って、深夜に帰ってきたら椅子に座って寝ちゃってたんだってさ。それでどう思ったかっていうと、どうせ自分はひったくり犯なんだから誘拐犯になってもいいかな、だってさ。」
「まあ、犯罪者になりたかったってことなの?」
「そういう願望があったんだろうって、八坂さんが言ってた。そういう人は、案外多いんだってさ。タカネマサシの場合は、父親も母親も世間体を気にするっていうか、息子には一流大学へ行って欲しかったらしくて、なんでも両親が決めて本人にはまったく選択肢が許されなかったらしい。そういう場合は、多くの場合は反抗期に暴力的になって復讐するんだってのが八坂さんの見解なんだけど、彼は頭がよくて将来の計算もできていたから、大学にはいかないという復讐をすることに決めた、さらには犯罪者になって復讐しようと決めたらしいんだ。すごいことを考えるし、それを実行するんだからただものではないでしょう。」
「犯罪者は世間的には悪者だけど、そんな風に見られても気にしない、自分で決めたことを実行する、そんな人なのねえ。あの生垣を見ていたら、そんな気がする。会ってみたいわ。」
・・・
「会うのは、当分無理でしょうねえ。連続ひったくりについては別にしても、未成年者を2週間も拘束したんですから、それは疑いようのない事実で、、、」
「女の子の家が貧乏だから、飢え死に寸前だったんじゃないの。情状酌量の余地はあるわよねえ。」
「おいらもそう思ってますよ、病院での検査でも暴力などの異常は何もなかったし、なにより女の子の方がまた食事に行きたいって、そう言ってるんですからおかしな展開なんです。母親もいたずらに騒ぐのは面倒だっていうか、酷いことはされていなかったっんだからいいというか、いい人みたいだしっていう始末なんですから。」
「ここまで聞いていると、訴えてから示談でお金のやり取りをするのは、いいんじゃない。高根氏は両親からお金を引き出せるっていう考えで復讐できて、女の子の方は生活費が手に入る。どお?」
「そんなケースが以前にもあったんですけど、八坂さんは乗り気じゃなくって、お金が絡むとものすごく時間がかかるから、できればそうしたくないみたいですよ。」
「なるほどねえ。それじゃあ八坂さん、どうするつもりかしら。」
「女の子の家出騒動に、タカネ容疑者が加担した。誘拐や監禁や性犯罪には当たらない。ただし、相手が未成年者と知っていて警察への届け出を怠ったのが罪で、それから定期券を廃棄してしまったのは証拠隠滅なのか騒動に積極的に加担したという意味合いなのか、まだはっきりしないけれどそれは罪に当たるみたいです。」
「難しいのね、でも前科者といってもそう重くはない、八坂さんはそうしたいんでしょうね。」
「ええ、それでまた難しいのが、ほぼ全部が彼の証言に基づいていて、その証言の裏付けのできない部分があるってことなんです。だからタカネ容疑者がひったくりをしたっていう事実が、まだ立証できないんですよ。ひったくりした品物はほとんどゴミ捨てに捨てたって言ってるし、ひったくりの日時やその様子も供述に一致してるんですけど、4つの品物を棄てたといっている場所にそれがなくって、まあ掃除されちゃったんだあと思うんですけど物証がないっていうのはどうも、、、」
「掃除されちゃったって、その高根氏へは伝えたの?どんな感じでした?」
「すごく驚いてましたよ、ずっと淡々としていた人には珍しく、予想外だったんでしょうかねえ。」
つまり八坂刑事は、ひったくりでの立件は難しいかあるいは意味がないと判断したのだろう、その点の罪は問われないというかうやむやになる。その点では、あたしのしたことは良い方向へ転んでいた。何年も前に届け出をしていた被害者たちにしても、取られたものがボロボロになって返ってきても嬉しくもなんともない、あたしだって忘れ物を届け出ても、数か月して見つからなければあきらめてしまう。
一方で、すごく驚いたという意味は自分の持ち物、それも大事な品物まで掃除されてしまったのかということを、知らされたからだろう。あたしのしたことの是非は、今は判断できない、だからいつか会って確かめなければならない。その時に、いいんですよあれから少し自分は変わりました、そう言ってくれれば返さずに持っておく。そして逆に、あれは大事な物だったんだと寂しさに暮れるようであれば、すぐに返してあげよう。
・・・
「ところで詩織さん、あれはどうやって知ったんです。小山さんの化粧ポーチとエルメスのバッグと、詩織さんが今持ってるんですか?」
「いいえ。」
「うそ、うそ、どこで見つけたんです。」
「嘘かもしれないけど、本当のことを言いたくないのよ。」
「あの、ピースが定期券を見つけた生垣、あそこを掃除したのってシオ、、、」
「しつこいわね!言いたくないって言ってるでしょう。八坂さんならそんな追求しないわよ。あたしの機嫌が悪くなるの、知ってるから。」
「機嫌の悪くなった詩織さんの顔、見たかったなあ。電話でなくて、直接話すればよかった。でもおいら、何にも聞かずにずっと詩織さんの使い走りしてきたんですよ。ちょっとくらい知る権利あるでしょう。」
「そんなこと言ったら、先にあたしを捜査に引っ張り込んだのは、黒辺さんじゃない。何の説明もなく。」
「はいはい、じゃあおあいこってことで、退散しますよ。」
「ああ、忘れないでね。あたしはいつか、その人に会いたい伝えたいことがあるから、そう八坂刑事に話しておいて。」
「OKです。」
なぜ、言いたくなかったのか、自分でもよくわからない。今は会いたくない、たぶんそれが理由だろう。誰かの世界に踏み込んでいくことは勇気がいることで、自分の世界に影響してしまう、それは俊の世界に影響してしまうことなんだと最近理解した。自分は犯罪の世界に近づき過ぎているし、俊も近づいてしまっている、そう感じられるようになった。今回のゴミ拾いは、遺留品の回収を手伝わせてしまったようなものなのだ。あたしは、あたしのしたことにがっかりしている。
それでも、高根という青年が気になっているのも事実だ。飢餓寸前の女の子を助けた、どんなシチュエーションであれそれを最優先させたのは、黒辺さんの話から察して両親の教育のたまものでは決してなかった、不思議でならない。往々にして頭の回転の速い人は損得で動く、今回はそうではなくて良心に従ったとしか言いようがない。
あたしや俊や黒辺さんならどうするんだろう、どんなシチュエーションであれ良心に従うと言い切れるだろうか、正直なところ自信がない。ただ、俊にはそうで会ってほしい、何か秘密が隠れているのであれば、会って確かめたい。もちろん、あたしに探し出せる秘密は、出てこないかもしれないけど。
・・・
家出少女通報義務違反の被疑者っていうことに落ち着いたみたいだし、黒辺さんたちもひったくりの確証が得られないままでいいみたいだし、そろそろ庭に並べたままのゴミ類を片付けようかしら。やっぱり、遺留品についてあたしが勝手に捨ててしまうのはよくないから、とりあえず盗品の4点はそのまま保管するとして、高根氏の持ち物は泥を落としてきれいにしておきましょう。
ああ、ここに名前があったわ、クリスタルにTakaneと彫ってある。これは高価そうに見えるから、もしかしたらもともとは本人の者ではなかったのかもしれない、父親が文鎮として使っていて息子にあげたとかかしら。真っ二つに割れているってことは相当な力で、壊そうという意思が働いた結果なのだろう。そして壊そうとしたのが母親だったなら、少し欠けるくらいでこんな風にはならない。父親が庭の置石に向かって投げつけた、そんな様子だったのではないだろうか、そしてそんなものは早く捨てて来いと言われて、外へ持ち出した。二つに割れて初めて、それが自分だけの持ち物になるなんて、さぞ悔しかったことだろう。
会って確かめたいことが、増えていく。
プラスチック製の小さな食事用プレートは、小学校に上がる前の幼い時分に使っていたものだろう。ひび割れている訳でもなく、半年ほど使ったきりに見える、明らかに安物に見えるので母親が新しいプレートを用意して使わなくなったということではないか、よくあることだ。そしてこれもよくありそうな事に、子供は小さなみすぼらしいプレートに愛着があって「これがいい」と言って泣いたのだろう、ずっと何日も思い出しては泣いたのではないか。しかし母親は自分が購入した新しいプレートが気に入っていて、泣いている方がおかしいくらいに思うだけ、捨ててしまえば忘れるだろうとゴミ箱へ入れてしまった。それに気がついた幼子はプレートを取り返して隠す事にした、家の中に隠しておいたのを見つかってまた捨てられたので家の外に隠す事にした。そんなふうに想像できないかしら。
本人にとってとても大切なもの、おそらく大切さのレベルが桁違いなのではないか、もちろんその人が特殊なのかもしれないけれど、大切なものは大切なものとして扱わないといけない。黒辺さんなら「捨てていい」と被疑者が言えば、捨ててしまうだろう。でもあたしは、捨てていいと言われても捨てないで持っておこう。
たくさんの観葉植物で囲まれた部屋で、太陽を浴びてぬくぬくと過ごしているボンボンのような黒辺さんには、こういう特殊な人の事情は窺い知れないんだろう。あれ、あたしの頭には、なんでそんな事情が浮かんでくるんだろう。
・・・
「ねえ、お母さん。今日、アキラがさあ、俺のことシュンシュンなんて呼び始めてさあ、恥ずかしくって弱ってんだよ。」
「パンダみたいで、かわいいんじゃない。」
「みんなが集まってきて、可愛い可愛いって笑うんだから、嫌なんだよ。」
「アキラくんがそんなふうにいうなんて、いつもと違うみたいで面白いわねえ。」
「違う訳じゃなくって、なんていうか、アキラはそんなやつなんだよ、普通っていうか。」
「ヘンじゃなくなったってこと?」
「うん、そうそう、普通になった、俺の気のせいだったのかなあ。」
「よかったんでしょう。」
「それがよくないんだよ、あいつ時々漫才氏みたいなこと急に思いつくんだから。」
「じゃあシュンも、漫才師みたいに返事を返したらいいのに。」
「そういうの無理なんだけどなあ、そういうの知っててアキラのやつニヤニヤ笑って俺のことみてるんだ。そしたらチカマチが、私もパンダだマイマイだって、それからもうひとり勝って子が、俺はショウショウだパンダ3兄弟だとか言って笑い出してさあ。誰かが、ショウショウはちょっと貧弱じゃねえか「ショウショウお待ちください」だなあとか言って。」
「ショウはパンダは嫌いなの?」
「それは好きだけど、それとこれとは別だろう。みんな真面目にやってくれなきゃ困るんだけどなあ。」
ヘンだったアキラくんが立ち直った理由は、あたしには察しがついた。もし俊の父親が生きていたら、あたしもアキラママのように悩むことがあったろうか、俊も彰くんのようにヘンになることがあっただろうか。俊は鈍感なところがあるからそうはならないかもしれない、いや俊であっても何かに気がつく、それがなんであるかわからないにしても違和感に気がつく、きっとどの家庭のどんな子も気がつく、しばらくしてそれが普通のことだと気がつく、普通だとわかっても違和感は消えない、そういう世界がある。
あたしは、あたしと俊はそういう世界とは無縁となった、それはよかったと誰かは言うだろうか。あたしは今、よかったと思っている。明日はどう思っているかわからないけど、あの人には3歳までの大声でわめく俊の姿が残っていて、迷いなくただ一生懸命に毎日楽しく接していたあたしの姿が残っている、それはとてもよかった。それ以上一緒に歩んでいたら、もしかして万が一の悪い方向へと足が向いていたかもしれないから。
・・・
ところであれから、俊の期待に反してピースは事件とは無縁に過ごしている。それもそうだ、俊はピースの才能を疑っていないようだけど、まぐれに決まっている。毎日ピースのそばにいるあたしの観察眼の方が、信ぴょう性があるに決まっている。
でも俊が一生懸命に風潮するものだから、ピースの信奉者は増えてしまって、最近は散歩するメンバーが4人になった。自転車をゆっくり漕ぎながらついてくる涼子ちゃんと、通学方向が同じで俊に守ってもらえると知って後ろをついて歩くようになった麻衣ちゃんと、そして彰くん、俊が誘うわけでもないけれどいつも3人が河川敷で待っていて、4人でウロウロとあっちへ行ったりこっちへ行ったり。挙句には、リードを離して「事件の匂いのする方へ行っていいぞ」ということになる。ピースも困っていることだろう。
「おかあさん、今日も何も事件はなかったよ。なんかないかなあ、ピースが活躍するような。」
「もうやめなさいよ。ピースが、困ってるんだから。」
「そんな事ないよ、クンクン何か探してるんだよ。いつも俺たちの知らない道を見つけて、こっち行ってみようって言って、連れて行ってくれるんだ。今日は蛇を見つけて、しばらく睨めっこしてた。どこかに事件はないかって、聴取てたんだよきっと。」
「そんなに何度も、近くで事件なんか起きやしないのに、今度はピースが事件起こしちゃうかもしれないわよ、もうそんなこと諦めた方がいいんじゃないの。」
「それがそうもいかなくて、勝ってヤツが一緒に散歩する事になった。勝の近所を散歩する事になったんだよ。ちょっと遠いけどいいでしょう。」
「まあ、ピースは人気者なのねえ。」
「そりゃあそうさ、縄跳びに参加できる犬はピースだけで、有名なんだ。」
あたしがそれを知る事になるのは、ずっと先のこと、そして俊たちは全然気が付かなかった事がある。ピースは河川敷に近い住宅街を散歩するときは、どんなルートを子供達が選んでもあの生垣には決して近づかなかった。そして、必ず立ち止まってマーキングする家が1軒だけあった、それは高根雅史の実家だった。
・・・
風が、北側へと抜けていく。自然と風に向かって顔を傾け、軒下の広い縁側風の廊下へと歩む。あたしの動線は狭く、日常の動きはいつもそんなふうだ。この家は、そんな風に居心地の良い場所があり、そして別の家のような異空間とも言える場所がある、後者は設計の時から10年後に居心地の良い場所になり20年後に居心地の良い場所になるはずだった、そんなふうに設計したはずだった。つまり、今は広すぎるのだ。
俊が大人になったら異空間はなくなるかもしれないし、狭いと感じるようになるかもしれない。流石に、30年後40年後まで考えて設計はしていないだろう、いやあの人は万が一まで考える人だった、だからピースのことまで考えに入れていたかしら。それはどうだろう。
今日は特別に、2階の物置状態の床間を少し整理して、座布団を一つ探す事にしていた。もう5年もの間ほとんど何も捨てる事なく、少しずつ古いものが貯まっている。ただ、1畳の床間からはみ出すほどまでは増えていない、大きな買い物はしていないし、壊れた家電は廃棄している。それでも俊は彰くんがくると、何かありはしないかとそこを漁っているらしい。
和室の床間は、仏壇を置くのにちょうど良い場所には違いないのだが、今のところそこは異空間であり、遠く離れた場所に位牌を起きたくはなかった。「ずっと近くにいる、お前もずっと近くにいてくれ」、あの人は最後にそれだけ言い残した、他のことは準備万端に整えていて何も言い残すことはなかったんだろう。だからあたしは、位牌を玄関に置き、外から帰ってきたらリビングのキッチン脇に置いている。2階に上がるときは、南側に置いた小さなテーブルまで持っていく。あたしの動線は狭いから、置き場所は3箇所もあれば十分なのだ。だから時々、俊はあたしの真似をして、位牌を2階へ持って行ってしまうことがある。
「ねえピース、これはどうかしら、茶色いから木目に合うし、薄っぺらいから座りやすいでしょう。」
捨てずにとっておいた年季の入った座布団を見つけてきて、デッキチェアに置いてみた。ピースは近寄ってクンクンと鼻を近づけてから、ヨッコラショと伸び上がり座布団の上で丸くなる。どうだろうと見ていると、一旦立ち上がって逆向きに丸くなり、私の目をしばらく覗き込んでから目を閉じて眠り始めた。よかった、これなら気にいると思ったのよ。
「ねえピース、捨てずにとって置いてよかったわねえ。黒辺さんより先に探し物を見つけちゃった、さすがでしょう。」
あたしはその横にうずくまって、ピースに目をやっている。ああそうか、このデッキチェア、ピースにだって大きすぎるけど、あの人にはピッタリなんだわ。
・・・

二千二十四年六月 T著 


登場人物
勅使河原 詩織 テシガワラ シオリ
勅使河原 俊 テシガワラ シュン
漁火 彰 イサリビ アキラ
漁火 光代 イサリビ ミツヨ
近町 麻衣 チカマチ マイ
箕曲 涼子  ミノワ リョウコ
東条 実那珂 トウジョウ ミナカ
高根 雅史 タカネ マサシ
黒辺 未知成 クロベ ミチナリ


第四章 
 1/3 夢の理り
 2/3 特異体質
 3/3 デッキチェア
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