第5章 立花ゆり 1/3 ベビーカー

文字数 27,060文字

小説・新党こどもの未来

第5章 立花ゆり
 1/3 ベビーカー

喫茶オルゴールの扉から一歩踏み入れていつもの席を確認した時には、やはり八坂刑事はこちらを睨んで座っていた。黒縁の眼鏡の奥にくぼんだ目がぼんやりと見えるようすは、悪役の目を漆喰のごとく塗りつぶした劇画調であり、離れて対峙していると誰もが睨まれていると感じてしまう。もちろん本人には、そんなつもりは露ほどもない。
「立花さん、珍しいですね、20分も遅れるなんて、電車の遅延でもありましたか。でもあなたのことだから、遅れそうな時にはマスターに、一報入れそうなものだけど。マスターも、気をもんでいましたよ。」
喫茶オルゴールのマスターは白髪を後ろに束ね、カウンターに立ってサイフォンの準備を始めている。そのポニーテールはずっと、彼のトレードマークだったことを、ユリはよく知っていた。
20分近くも遅れた事に、ユリ自身も驚いていて、なぜかうまく説明できない。駅前の街頭演説に足を止めていた事、オルゴールへは5分前にはついていたはずだったこと、政治家としては若く自分と同年代の好感度の青年だったこと、そして、頑張りますの一点張りではなくて経済の状況や地盤である選挙区の改革案などを具体的な事案について理解していただこうと務めているしゃべり口は、滑らかだった。つまり、政治家の知り合いもなく、便宜を払ってもらった経験などなおさら無い自分が、何に引っかかって30分近くもの間立ち尽くしていたのか、どんな話を期待してそんなに待っていたのか、待つ価値があると感じて聞き耳を立ててしまっていたのか、さっぱりわからなかったのである。
「彼は代議士になるべくして歩んできて、地盤を引き継いで立候補した新人ですから、たしかに立花さんのように地元にそれほど関心のない人の気をひくような演説には、程遠いようです。単に立ち姿に見とれていたとか、ありませんか? そういえば、子供を守るというスタンスは、立花さんとの共通項なんでしょう。だいぶ以前から彼は、新党こどもの未来を立ち上げようと準備していますし、それなりの活動もずっと続けていますから。」
なるほど、学校改革案など子供たちの政策の話も確かにしていた、けれどそんなことはどの政党もさまざまな考えを議論しているだろう、新党で何か新しいことを始めるのだろうか、それは千差万別な子供たちの環境にどれほど有効なのか、考えるほどに混乱してくる。遅刻してしまったのはなぜなのか、ちょっとでも正当化できそうな理由は何も思い出せないのだから、ユリはただ申し訳ないと謝るほかなかった。
・・・
八坂刑事は、立花ユリの非凡な才能に目をつけて、半年ほど前から子供を守る為に、タッグを組んでいる。市民を犯罪から守るのが刑事の仕事であるように、子供を犯罪から守るのがこの二人の仕事であって、特に幼児虐待から子供を守る点においては、短い期間でその実績は群を抜いていた。非凡な才能に加えての熱心さから、ユリは首都圏の児童相談所から舞い込んだ相談にまで、広く関わるようになっていたのである。子供の中には、子供自身で犯罪や暴力に対処しようとする者もたしかにいる、でもそうした稀なケースを底上げしていくことなど到底できることではない。一方的に守ることが前提にあり、子供たちが一方的に守られる側にあることは、未来永劫変わることはない。ところが、守られていない子供が多いというねじれた状態も、やはり未来永劫変わることがないようにも思われ、それは政策やシステムで是正できそうもないことのように、ユリには感じられてしまう。そうした感覚を共有できている八坂刑事は、ユリにとって稀有な存在だった。もし八坂があの街頭に立って聞き耳を立てていたら、同じように遅刻してしまうほどの内容を、聞き分けられていただろうか。
「じゃあやっぱり、ただ見とれていただけ、だったんでしょうね。そういうファンが、いっぱい集まっていたでしょう。駅前で、あれだけの人を集められる代議士はなかなかいないから、それにまだ39歳だから、上を目指してほしいと思ってサポートする若手代議士も、大勢いるようですよ。」
たしかに魅力的ではある。しかしなぜか、雰囲気は色あせた黄色いアジサイのように、奥の上座に収まってしょげているように、ユリの目には映っていた。疲れて見えているのかもしれないけれど、はっきりと強く、良くとおって響き渡るその声とは、対照的であった。彼は若いのにユニークで、自分の主張をはっきり発信しているって、ユリでさえそんな評判は聞いたことがあったから、八坂の意見を求めてみた。
美無遊一の主張はユニークという枠を超えて、民主主義や議会制度にそぐわない無鉄砲なものだと、八坂時之は定義している。まだ旗揚げしていない新党ではあるが、彼がたったひとりで、議員生活当初からその名を使って活動してきたのが、新党こどもの未来、根本的にありえない主張がそこから始まっている。なぜなら、こどもは選挙権を、有していない。その主義主張に相まって、ほかの議員さんと比較しても特に推進力がある分、協調性がないと見られるふしもあるらしい。
「異質な推進力は、持っているみたいですよ。実は、わたしは彼とは縁があって、今日も彼の警護という名目のついでに、ここへ寄ると上へは報告してあるんです。他のSPが張り付いていますから、私の出る幕なんてないんですがね。この打ち合わせが終わったら、合流するつもりでいます。」
・・・
ようやく本題の打合せ案件について協議あるいは反省会が始まった10:30ころ、マスターが熊のモチーフを彫り込んだひし形のオルゴールとともに紅茶のように透き通ったアメリカンを、運んできてくれた。私の「にがくないコーヒー」という注文をうけ、散々苦労してやっと口に合うと認めてもらえた、香りだけのオリジナルモカである。深呼吸すると、その香りが肺を満たし、カフェインが胸いっぱいに吸収されて行くのかもしれない、と思ったりする。
「これはきっと、オルゴールですね。でももしかして、角砂糖が入っていたりとか、するんじゃないですか?」
「いいえ、これは新潟の旧家の遺品整理で、マスターが見つけてきたものなんですよ。一流の料理人だから、一流のケータリングには遠くまで呼び出されて、手伝ったりしているんです。そんなだから顔も広くて、オルゴールの掘り出し物があれば、かならず声がかかるってわけなんです。おもしろいでしょう。マスター、どうもありがとう。。。でもだいじょうぶ。今日は大丈夫だから、心配かけてごめんなさい。」
待ち合わせに遅れてきたことが気になって、心配でしょうがないのだろう。中学生のころからかれこれ20年、心配のかけどうし。情緒不安定な私から離れてしまうことなく、諦めることなくずっと心配してくれているのは、親友のすみれとマスターの二人なのだ。ある時、学校から帰宅した後にどうしようもなく落ちこんでいる時、フラフラとオルゴールへ向かったのはいいものの、着いてみると臨時休業だったことがあった。外席が並ぶテラスの端に座り込んでしまうと、再び立ち上がる気力はなく、頭の中が空っぽなことだけを感じ取ることができる、何も出来ない放心状態、それがもう終わることがなくて自分が消えていく感覚、そんなことがあった。定かではないが、たしか犬の吠える声が聞こえ、誰かに声をかけられた気がする。そして後から聞いたところによると、警察からマスターへ連絡が入ったそうだ。当然実家にも連絡が入ったはずだが、マスターが駆けつけるほうが早く、実家へもマスターがうまく対応してくれたようだった。もう10時を回っている。今日はずっとこの店にいたらいい。時が解決してくれることもある。そう言って、手際よくパスタを用意し、サンドイッチも冷蔵庫に入れ、カウンターと厨房は光で満たしたまま、彼は帰っていった。ずっと泣いているのを見て、警官は誰かに乱暴されたのかと思ったかもしれないが、マスターにはそうでないことがわかっていたに違いない。ずっと涙が止まらない、店の隅の席に突っ伏したまま、何も考えることなく、ただただ泣き続けていた。鳩の鳴き声が聞こえ、気が付くと長椅子に横たわっている自分がいて、起きなくちゃと言い聞かせる自分の意思が、日の出と一緒に目を覚ました。確かに、時が解決してくれたのだろう。ここは時の流れが遅い。時がゆっくりと流れ、30分が3時間に感じられる場所なのだ。オルゴールをそばに置くことと同じように、この店でただただ座っていることも、マスターが見つけてくれた私の心の回復法。
「それでは、来週の水曜日にまた御同行を、お願いします。都心から2時間かかりますけど、11時に現場に着けるように、乗り継いできて来てください。よろしくお願いします。ほかに何か気になることは、ありますか?」
「いいえ。。でも、あの、、あそこに見えるベビーカーが、あれが、気になっているんですけど、、。」
この一言が、永くてつらい一日の、始まりとなった。
・・・
あのゴミの集積所に置かれたベビーカーですね。何がそんなに気になるんです。いらなくなったら、放棄するでしょう。まあ、回収日ではない日に出されたのかもしれないけど。
折りたたまれていないのよ。それにフードがわざわざ被せられている。大きめのキーホルダーが付けられたままだし、小さめのタオルケットが敷かれたまま、どうして一緒に捨ててしまったのかしら。ベビーカーを慌てて捨てる理由なんて何も思いつかない、逆にいつまでも取っておく理由ばかり、もう一人生まれるかもしれないとか、兄弟や親せきにあげるとか、案外丈夫にできているからガタがきたってこともないと思うし、違うかしら。
八坂には、ユリの不安が即座に共有できた。立ち上がってマスターのところへいっていくつか質問し、すぐに戻ってくる。ユリはジッと動かずに、ベビーカーを見つめていた。もしもこの不安が正しければ、もう何もできることはなく、幼い命はすでに失われている。しかしそうであっても、八坂には、刑事としてなすべきことを、進める必要があった。収集日は1週間前だったとの情報から、ベビーカーが放置されたのはその後であり、その後の正確な日までは残念ながらマスターの記憶にはなかった。店の防犯カメラに窓越しから小さく写っている可能性があるので、チェックする仕事がユリに任せられ、八坂は外へ出て行って15分ほどで戻ってきた。町の防犯カメラを見つけ、映像を入手する手配とともに、交通系カメラのチェックを本庁の専門家に依頼し、近所でも数件聞き込みをした結果、日時と画像はかなり絞り込め、そして問題のベビーカーをチェックしてこどもの名前はユウトと割り出せていた。指揮系統を無視して強引に仕事を進める、そして誰よりも彼自身が強引にことを運ぶ、つまりとても優秀で、子供たちにとって心強い存在だった。彼自身が、そうあろうと、心に決めている。
ああわかったよ、権左、どうもありがとう。ユリさん、ユウトという幼児の母親は、映像などと絡めて、程なく特定できそうです。お店のカメラの映像の方はどうですか、どうやら一昨日の昼過ぎに廃棄されたようです。
ええ、映っていました。見てください。
それで、あなたの感想は?
わからないわ。もっと早くに直接母親に会えていたら、あなたの聞きたい答えがなんとなく割り出せたかもしれないけど、映像でははっきりとした心象は何もつかめません¬¬。
でも、悪い予感がするんでしょう。わたしも、そうです。
ユリはコクリと頷いた。
二人の意見が一致したということは、もうあなたの出番はなさそうだ。あとは私が引き継ぎます。
わかりました。でも今日は、あなたには警護の仕事があるんじゃなかったかしら。
もう美無には、連絡を入れておきました。ほかのSPもいるし、県警が駅前では交通整理もしているし、なにより彼も、ああいった場所でめったなことはしゃべらないと、心得ている。それから政治家としては珍しく、びっくりするくらい反射神経もいいんだ。それじゃあ、母親の身元の特定をして、調査の申請をして、県警との役割を調整をする、本庁で段取りを踏んでから、たぶん明日の朝には戻ってきます。ほかに、なにか気になることは?
いいえ。急ぐ必要はなない、、ですね。
・・・
しばらくの間は、ここに居よう。それほど動揺していない、そんな自分がいることに気落ちしてきて、そう決めた。チラホラとお客さんが増えてきたのでカウンター席へうつり、勝手に注文を取ったり、料理を運んだり、お店の手伝いを始める。カウンターに入って、ブレンドコーヒーの準備を始めようとしたら、さすがにマスターに止められた。私がそんなふうに自然に振る舞えるようになると、決まってマスターは近くで小言を囁き始める。ユリちゃんが時々ウエイトレスしてくれるもんだから、リピーターが増えた気がするよ。とやんわりと口火を切って、でもあの刑事は好きではないとか、刑事の真似事なんて早くやめないとまたとんでもないことが起こるとか、挙句には整形をして別の人間になれとか、そしたらここで雇ってやるとか、無茶だけれど、ちょっと的を得ていて悔しい、そんな気もする。マスターに会うずっと前から、私は別の人間になりたかった。それを私以上に理解している人がいることが不愉快でもあり、結局は今も変わらず別の自分を探し続けている自分さえ理解しきれていない、自分自身を時折嫌悪することもまだ続いている。でも今は、私がするべきことが見つかった気がしている、こうしたいと思っている自分がいることは、はっきりと理解できている。いや、やはりマスターの言う通り、理解できていないから危うい道を歩んでいるのかも知れない、けれどもう先のことを思い悩むのはやめてもいい、私自身はもう1歩も前へ進めないこと、それは疑う余地がない。マスターの言うことはいつも正しいけれど、もうどうしようもないし、過去も未来も変えようがない。私は、マスターとの会話の中心にあった命題を、そっと入れ替えてみることにした。
「ねえ、今朝駅前で演説していた美無って人、地元で商売してるマスターみたいな人にとって、評判はどうなの?」
「人気は上々、当選確実だろうねえ。でも、俺は好きじゃないよ。」
「え、なんでよ」
「頭が切れすぎて、裁判官みたいなところがある。弁護士じゃなきゃ庶民の側に立てないんじゃないかな、なんとなくだけど。どうやらこいつはうさんくさいってそんなふうに思ったら、あからさまに非難することもあるらしい。逆に、助けるべきだと思ったら、めっぽう頼りになるって言う評判だよ。つまりは極端なんだろうなあ。そういう、双刃の剣みたいなのは、扱いにくくて近くに置いておきたくないだろう。あんまり仕事ができなくたって、誰とでもうまくやっていける、御用聞きみたいな人柄の方が、俺は好きなんだよ。」
「じゃあ、地元のために働くって言っているのは、嘘なのかしら。」
「いいや、その公約ってやつを、嘘だとは俺も思ってないさ。地盤を大切にする雰囲気は、前任者と全くおんなじさ。」
詰まるところ、当選確実、問題はない、と言うことらしい。最後にマスターは、何もできないユリとは正反対、と付け足した。また、的を得ている。知らず知らず悔しいそうに、笑っていた。今日初めて、笑っていた。
・・・
昼食のお客が捌ける頃合いに、オレンジペコを注文してから、角砂糖二つと一緒にテラスの席へ移動する。もともとは4台ほどの駐車スペースだったところを、ウッドデッキ風に改修して丸テーブルが4脚、今日は日差しが強いので日除けが架けられていて、鉢植えや観葉植物が配置してあり、時間をつぶすリピーターの多い場所だし、おしゃれな空間として雑誌に取り上げられたこともある。サビれた商店街の中にポツンと立ち尽くした、不思議な憩いの空間、そんな雰囲気を愛でている者は私一人ではないだろう。
風の吹き込む方から現れたお客さんを、目を細めて追いかけ、ハッとした。駅の方角からスーツ姿の二人連れが歩いてきて、店へのアプローチにさしかかった時に、一瞬だけ目があった。紛れもなく、美無遊一代議士だった。おそらく選挙活動が終わったところなのだろう、カウンター席に腰掛けてくつろぎながら食事を始めている。屈強なSPがそばにいるのだから、否応なしに目立ってしまう。彼に気がついたお客は、ちょっと話しかけたり、握手して一緒に写真を撮ったりしていった。背丈は170cmほどだろうか、不思議とそれより小さく見えて、若く、いや、幼い雰囲気が漂っている。愛想笑いではなく、営業スマイルでもない、わだかまりなくずっとニコニコしている、政治家としては得な、八方美人の雰囲気を持っている、会社にいたら上司や先輩から可愛がられるにちがいない、息の詰まるような会議でも、誰かが問い詰めようとする場面でも、その矛先は彼を避けていくに違いない。マスターの、さっきのコメントとは、逆さまなのだ。もしその雰囲気が緻密に計算されているものだったとしたら、その仮面に誰も気がつかないのだったとしたら、おそらく本人も気がついていない先天的な詐欺師なのかもしれない。マスターは嫌いだと言っていたけれど、そのマスターでさえ、ウキウキしながらサービスしているのだから、奇妙な光景だった。
彼は何かを、隠している。6歳ほどの子供を連れた母親が彼のファンらしく、店の外で待っていて熱っぽく話し始めた時、その幼い雰囲気の正体がわかったような気がした。彼はしゃがみ込み、その目線は6歳の子供よりも低くなって、子供を見上げるようにして笑った。背中越しなので顔は見えず、本当のところはわからないけれど、確かに笑っていたのがそのオーラから感じられ、そしてその笑顔は、その子の笑顔を映し取ったものだと、はっきりとわかった。つまり彼は、大人の愛想笑いを移し取り、営業スマイルを移し取り、彼をみて笑うその笑顔をそのまま映し取っていることになる。母親の影になってしまって、視界には入っていないけれど、その子の笑顔がたしかに私には伝わってきた。この人は、子供の心が見えている。だから大人に対しては、、詐欺師になれる。
・・・
「立花さん、今情報が入ったんです。」
13時少し前、オルゴールの店内の電話が鳴って、呼び出された。
「そちらにまだいらしたんですね、よかった。今から中道小学校へ、私より先に行っていただけますか。悠斗くんには、1年生のお兄ちゃんがいたんです。大島恭吾くん、まだ学校にいます。私よりも早くつけるはずです。」
「わかりました、時間を稼いで、絶対に帰宅させません。」
一昨日に異変があっても、何か変だと思っても、1年生の子であればきっといつも通りに過ごしているだろう。そうだとすると先生も異変には気がつかない、仮に恭吾くんが怪我を負わされているとしても、いつも通りに見えるだろうし、友達から何か聞かれても大丈夫と答えている姿しか、浮かばない。誰かが何かに気付いても、自分自身が何かに気づいても、すぐに次の関心ごとが生まれてきて、過ぎ去ってしまう。何度も、何度も、大丈夫が繰り返される、繰り返された結果として気付きにくくなり、それが伝染していく。いつの間にか、小さな綻びを見つける注意を怠り、放棄してしまう。大きな綻びが、すぐそこに近づいているけれど、確たる事実はベビーカーが廃棄されていたことだけで、私の言葉がそうした日常を凌駕できるほどの力が、あるわけもない。絶対に帰宅させないために、どんな手を打つことができるか、1時間ほどの時間を稼ぐには、どんな手があるか。そうだ順番が間違っていた、まずは恭吾くんに会うことにハードルがある、すんなり合わせてもらえるだろうか、八坂刑事が学校へ話を通してくれているはずだが、私のような前科者をよろこんで会わせるはずも無く、そうなると困ってしまう。遠目から、その姿を確認させてもらうのが精一杯かもしれない。その次に、もし全員が下校となった場合に備えて、強硬手段を講じる、さあどうしようか。
タクシーで校門をくぐり、校庭脇の事務室で要件を告げて、担任の宮脇先生を呼び出してもらう。ちょうど下校の準備が始まり、帰宅前には間に合ったが、あと30分ほどは時間を稼がないと、、。宮脇先生には子供たちに対して、「順番に下校するから、今日は最後の方になる。ちょっと待ってて」と告げてもらうこととし、私は入口で待っていた。案の定、10分もすると宮脇先生は戻ってきて、言い訳が始まった。
「そろそろ子供たち痺れを切らしてるんですけど、それに子供の帰りがあまり遅いと親御さんから電話かかってきますし、お稽古事がある子たちだけでも返していいですか、恭吾くんに聞きたいことがあるってことでしょう、他の子は、なぜ一緒に待ってるんですか。」
なぜか? 警察官が恭吾くんの所に来る、そうみんなが知ったらどんなことになるか。恭吾くん一人が残されたら、みんながどう思うか、大丈夫だと思っていたのが間違いだったと思い悩むことになりはしないか、一緒に帰宅できないと知ったら一緒に残ろうとするかもしれない。警察が来るという異変を、この先生はなんと思っているのだろう。
「そうですねえ、それでは私が八坂刑事に電話して、下校を許可していただきましょう。多分、私が恭吾くんの様子を確認しましたと言えば、電話でOKと言ってくれると思います。教室の外からでいいので、どの子が恭吾くんか、教えていただけますか。」
ここまではうまくいった、子供たちを帰宅させるが職務なのだから、その手段はどんな手段でもOKなのだという思考が先生には働いている。それにしても小学校の廊下とはこんなに、狭く細かっただろうか、もはや記憶の奥に仕舞われて再び出そうとは思いもしなかった風景、もう自分には縁のないはずの風景を目の当たりにして、私自身の心身も狭い空間へ入り込んでいく心もちになっていた。問題の1年生の教室は一階にあり、パタパタとスリッパの音をさせながら近づき、廊下側に宮脇先生と立って教室の中を覗き込んだ。男の子が十五人、女の子が十四人、女の子が一人少ない。ボックスにはランドセルが綺麗に並んで置かれ、大きなワッペンを貼り付けるのが流行っているらしい。テレビのスイッチを入れることも稀な生活を送るようになっていたので、どんなキャラクターかわからないものばかり、恐竜の好きな子がいることは見てとれた。きっと毎日、テレビ番組の話題が、にぎやかに飛び交っていることだろう。
・・・
「前から3列目、窓際で寄りかかっている、あの子が恭吾くんです」。そう言われるまでもなく、すぐに目に飛び込んできた。「わかりました。じゃあ八坂刑事に電話しますね。」
同時に、子供たちの目に宮脇先生とユリの姿が目に映ったのだろう、何人かが声を上げた。
先生そろそろ下校しても、いいんじゃないですか。別に俺は、どうせ校庭で遊ぶからどっちでもいいけどなあ。先生その人だあれ?その人が来るのを待ってたわけか。一緒に下校する人?
「この人は、ええと、、、」
「私は今度この学校に来る、新しい先生で、ちょっと様子を見にきただけ。よろしくお願いします。」
ヘー! 先生、背が高いね。 どこから来たの?
やはり新しい先生には興味が向く。一方の宮脇先生は、空いた口が塞がらない。その隙に教壇の方へ進み出て、たちばなユリ、と名前を書いてしまった。もう引き返せないし、引き返させることもできはしないだろう。あと15分ならなんとかなる。
この中に、ユリちゃんはいるかな。先生と同じ名前の子、いるかな。いないみたいねえ。それじゃ、すみれちゃんとかみずきちゃんとか花の名前の子は、いるかなあ?
あたし、ももか、桃の花だよ。
そう、いい名前ねえ。
あたしのお母さんの名前、ユリだよ。おんなじ。
宮脇先生は、諦め顔を通り越して、子供たちの楽しそうな様子に見入っていた。子供たちの楽しさは、大人にも確実に伝わっていく。どんな大人に対しても、やはりそうだった。長い時間、子供たちを集中させて授業を続けるのはなかなか難しい、とよく耳にする、もちろん千差万別な子供たちを全員集中させるテクニックはないかも知れない、ただ子供たちが喋るのに任せておけば、自然と同じ方向へ足並みを合わてしまっている、つまり何もしなくても良いのかも知れない。ユリは、自分が本物の先生だという錯覚の中で、とてもリラックスして、次の言葉が自然と見つけられていた。そうこうして居るうちに、教室を見回してオルガンに目をつけた。
先生はオルガンが弾けるんだよ、見ててね。
だいぶ昔のテレビアニメのテーマソング、でもみんな知っていた。よろこんでくれた。
知っている曲を、思い出しながら奏でて、ちょっと口ずさんでみた。みんなが近づいてきた。
次は、みんなが知っている曲、なにがいいかな。
ドラえもんは?
それはちょっと、弾けないわねえ。じゃあ、あなたは塵塚直幸くんね、ドラえもんは歌えるかな。先生も一緒に歌うから。
みんなが一緒に歌い出す。結局オルガンも必要はなかった。先生はただ、子供たちの見ている方向を見るだけですんでしまう、子どもの歌いたい歌を尋ね、子どもの様子を伺ってみて、よく理解できていない部分はどこかを探り、泣いている理由を聞き、誰かが喧嘩をとめるのを待ち、最後に少しだけ付け加える、子どもたちが笑うのを見守り、子どもが見つけた虫や草花をのぞき込み、熱が高くないか確かめ、一緒に歩き、一緒に走り、ビルを眺めながら風を感じる、寒くはないか暑くはないか、月の形を確かめて、砂山を作り、ウサギに餌をあげる、急に元気がなくなったりしていないか、友達と気まずくなっていないか、忘れ物が多くなってないか、服装を褒めてあげたり、給食を分けてあげたり、一人ひとりの毎日の変化に気をかける。勉強を教える暇が、果たしてあるのだろうか。これを勉強してみようと子ども自身が気がついた時、これほど嬉しいことはないに違いない。
・・・
アレ!パトカーが来たわよ。校庭の銀杏の木の下。ほら!
みんなが窓際へ殺到して静まり返り、宮脇先生も加わった。八坂刑事がパトカーから降りてきたところで、ユリはすかさずみんなに言葉をかけた。
あら、先生あのお巡りさん知ってるわ。パトカー見てみる?乗せてくれるかもしれないわよ。行ってみようか?
ワー、キャー、押すなよ、まってエー、、、 その後を、宮脇先生が追いかけていく。
みんなが一斉に走り出した時、窓際の恭吾くんを押しとどめて、一緒に歩いていくように促した。八坂刑事が窓際の二人に気がついて近づいてこようとするので、ユリは下駄箱の方を指差して、そちらへと歩き始める。
玄関で靴に履き替えている子供たちのところで、八坂刑事と鉢合わせすることになった。
八坂さん、子供たちがパトカー見たいって大はしゃぎになっちゃってるの、いいかしら?
見せて見せて、ワー、キャー
それじゃあまず、赤いランプをつけてみようか。よし、行こう!
お巡りさん、何しにきたの?一緒に下校するの?誰かを捕まえるの?
パトロールだよ。さっき、別の小学校に寄ってきたところさ、こうしてパトロールしていると、悪者は寄り付きたくなくなるって、ものなんだ。赤いランプも、警察がいるよっていう合図だから、このランプを見た悪者は何もせずに逃げていっちゃうからね。合図は大事なんだ。みんなは横断歩道を渡る時に、手を挙げたり旗をあげたりするだろう。あれは自動車に乗っているドライバーさんへの合図で、ドライバーさんはみんなのことを見ている。別に手をあげなくっても、車を運転している人の目を見て会釈してもいいんだ。渡るから止まってくださいお願いしまーす、とか、止まってくれてありがとう、とか、手をあげているから見ててね、とか、相手に合図しているっていうつもりでいてくださいね。ちゃんと合図しないでふざけていると、ドライバーさんにはよくわからない、学校でもちゃんと合図しないと、困っていても先生にはわからないし、どんな合図があるか、一度考えてみるのもいいかもね。みんな、今困っていることは、何かないかなあ。
何かってなあに?パトカー乗ってみてもいい?
パトカーに乗れるのは、お巡りさんと悪者のどちらかなんだけど、みんなはどっちがいいかな?
八坂さんは、子供たちに、困っているときには合図するようにと言いたかったのだろう、とユリには思えた。特に合図していない子がいることを知っていたから、その様子や異変に気づかないようではいけないと言いたかったから、そしてそんなことが日常茶飯事であると知って欲しかったから、黙っていないで合図する、どんな合図でもいいから。そんな気持ちで、接していたのだろう。
それじゃあ、おじさんが悪者になるから、お巡りさんは誰かな。大きくなったらお巡りさんになりたい子はいるかな?
はーい。
じゃあ君が、悪者の右手を持って、君が悪者の左手を持って、順番に後ろの座席へ入っていくんだよ。ほらこんな感じで。
今度は、俺が悪者をやってみようかなあ。
やって、やって。
・・・
ユリはその場を離れることを知らせるために、軽く目くばせをした。
「宮坂先生、ちょっときていただけますか?この子、ずっと左手をポケットに入れたままなんです。」
「それが何か?」
「恭吾くん、手をポケットから出して見せてくれるかしら。」
「それじゃあ先生、ゆっくりと恭吾くんの手をポケットから出してあげて下さいますか。ゆっくりと。」
イヤイヤをするので、仕方なく先生に手を動かしてもらうと、恭吾くんは顔をしかめ、シクシクと泣き出した。
「とりあえず保健室へ行きましょう。擁護の先生に見ていただかないといけません。」
宮脇先生も、ここにきてとうとう、青ざめて何も言わず、従うしかなくなった。子供を見る自分の目を疑わざるを得ない状況に陥ってしまった、想像だにしなかった事態、年配であってもこんな経験をする教師はそれほどいないから、誰も頼りにできない孤立感もあるはずだった。保健室まで歩くのに、どれほど時間がかかったかわからない。擁護の先生が、思った以上に落ち着いて対応してくれたので、ユリはパトカーの方へ戻った。
キョウゴがいないよ、先生。
恭ちゃんは、一緒に帰らないの?
恭吾くんは今、保健室でちょっと休んでいるところなの。今日は元気がなかったんじゃないかしら、、
うん、でもユリ先生、恭ちゃんは大丈夫って言ったけど。
給食も、いつもみたいに私のチョットあげたし。
そうねえ、元気になったら、先生がまた刑事さんにお願いして、もっとカッコいいパトカーに乗せてもらえるようにしましょう。お家に帰ったら、今日はパトロールの人が来てパトロールカーを見せてもらったって、お話ししてみてね。
パトロールカーって、パトカーのこと?
パトロールの人って、パトおじさんか?
なにそ!カッコ悪。へんなの!
・・・
こどもたちが大騒ぎをしながら下校して行った後で、二人は校長室で児童保護の担当者と面談することになった。まず、校長先生が口を開いた。
こどもたちに嘘をつかれるとは、どういうおつもりですか。保護者への説明はどうしたものでしょうか。困りました。
大変申し訳ありませんでした、でも、、、 (八坂刑事がさえぎって後を続ける)
本当に申し訳ありませんでした、全ては私の指示通りに動いていただいたことで、今回の場合、やむおえないことだったと認識しております。お立場、お察しいたします。
大体、警視庁の方がどんな捜査で小学生の、それも1年生の取り調べをなさるんですか。こんなケースは、聞いたことがない。仲井さんは、聞いたことがありますか?ああ、こちらは児童相談所の、仲井幸恵さんです。
こんにちは、仲井です。校長先生から、すぐにきて欲しいと連絡を受けました。児童虐待の兆候は全くございませんでしたし、いじめということも考慮に入れた方がよろしいでしょうか。
いいえ、虐待の可能性があり、なおかつ緊急性があって、介入させていただいた次第です。まだそれほど情報が出揃ってはいませんが、父親が単身赴任であり、お子さん二人の子育てで不安定な心理状態のお母さんと判断しているのですけれど、いかがでしょう。実際、お子さんにお会いしたところ、左手を負傷していらっしゃるようです。
まだ、お子さんからの聞き取りはこれからなのですけれど、担当教諭として自宅へお電話し、お母さんの様子を窺ってみました。最近いつもと違って元気がないようなので、ご家庭の様子をお母さんに聞いてみようと思いました、というふうに。そうしましたら、全く普通の、言い淀むこともなく、闊達にお話なさっていました。なんの兆候も感じられなかった、というのが正直なところなんですけれど、、、
全く普通、であれば疑われない、それは、、、 (八坂刑事がさえぎって後を続ける)
私は、警視庁でも特殊な部署におりまして、いじめも含めてこどもたちの安全を守ることを目的とした、それこそ通学路の点検や交通事故も含めて、全国的に活動するとともに情報収集しております。今年に入ってから大きく報じられた、お隣の県での虐待を受けた児童の保護にも関わっておりましたし、今回はどうか、私どもの提案を汲んでいただけないでしょうか。二日間、今から金曜日の夕方まで一時保護していただきたいのです。もし仮に、冤罪の訴えという最悪の方向にまで発展することになったとしても、皆さんが責任を負う必要はありませんので。
そうは言われましても、正式なルートではないし、学校としての正式な手続きも踏んでいませんし、何より子供の聞き取りも行っていないんですよ。お母さんが信用できないという兆候があればまだしも、ちょっと強権しすぎやしませんか。もちろん校長としては、警察からの要請や文章による手続きがあれば、従いますがねえ。
児童相談所では、先ほど連絡を入れましたところ、お子さんの聞き取りをして、怪我をされていることが確認できたら、保護してお母さんには会わせない、それからお父さんに責任を持って引き渡す、という方針を指示されています。ただし、最終的な判断は、現場をよくご存知の担任の先生と校長先生の判断が優先されます。校長先生、よろしいですか。
あの、それではもし、恭吾くんが怪我の原因を喋ろうとしなかったり、お母さんのせいではないと言ったりしても、その聞き取りは採用なさらないでください、その点はどうかよろしくお願いいたします。
・・・
八坂刑事は借用したパトカーを返して帰路につき、ユリもタクシーで自宅へ引き返した。ただ、二人の心証には少し差があって、ベビーカーを見つけた時に完全に一致した見解以外には、温度差があった。八坂刑事は、できることは全て行ったので、校長は児童相談所の方針を支持するだろうと、確信していた。まず、隣の県で起きた事件について知っているふうであった、もっとわからずやの校長も見てきた八坂としては校長先生としては信用できるという心証へ傾いている、仲井女史は経験があるとは言い難いが逆に自分の意思では判断しないだろう、恭吾くんが怪我をしているという事実がある、何より例の事件と違うところはお父さんは当事者ではないから100%信用できるという点がある。そして二日後までには、正式な手続きを取って、二人の強固なそして悲しい見解が、証明されている。一方、ユリには多少の不安が残っていた、宮脇先生はパニックになっていて、自分の考えをまとめることができない様子だし、子供が喋らない気持ちを汲み取ることができるとは到底思えなかった。おそらくこれまではずっと、先生として何の問題もなく、今回初めて自分自身の抱いてきた先生像に傾きが生じ、自分が信じられなくなっている。きっと子供を信じられなくなっていて、彼自身の意見を聞かれても、自信なさそうにあやふやな回答に終始するに違いない。恭吾くん自身も気がついていない本当の気持ちを、代弁してあげられる大人は、彼だけなのに、、。そしてさらに、恭吾くん自身はお母さんが大好きな普通の1年生だということがはっきりと感じ取れるだろう、だからなおさらユリの不安は大きくなってくる、恭吾くん自身は帰りたいと言うに決まっている。
平穏に時間が過ぎていくことは、自分の世界が他人の世界の近くにあることを忘れさせ、隣の地域で起きた事件を遠くへ追いやってしまう、そんな危険をもたらしてしまう。ユリにはそれが、自分自身のこととしてよくわかっていた。でも、今回の当事者も、特に宮脇先生も、3年前のユリと同様にそんな危険には全く縁のない状態だと、無意識の中に落ち込んでいる。今のユリは、そんな世界に嫌悪感を持ち、絶望感を持っていることに気がつき始めていたから、平穏な時間が危険な方向へ激変する可能性があることに敏感になっているのであり、過敏すぎるほどになっていた。もしそんな危険な状態が自分のそばにあったとしたら、その時どんな行動をとるべきなのか、逆にどんなチャンスが自分に巡ってきたら、その時どんな行動をとるべきなのか、平穏の底で暮らしている者がその時一瞬で判断できるなんてあろうはずがない。平穏であっても、時間をかけられるときに、想像を巡らせておくべきなのに違いない、きっとそうしておくべきだったと後悔する、そうあって欲しくないとユリは祈る気持ちだった。
・・・
タクシーが自宅まであと少しの線路沿いの直線に入った時、携帯電話のベルが鳴った。
はい、ユリです。
すぐに、恭吾くんのマンションへ向かっていただきたい。あなたの方が10分か15分か早く着けるはずだ。すでに一番近い交番の巡査に、マンション入り口へ向かってもらっています。警官なら職務質問の権限があるし、彼に最善の策を指示していただきたい。まったく、あの校長を信用できそうだと思った自分がバカだった。怪我は左腕しかなかったことと、お母さんのせいじゃないと子供が言ったことから、担任の先生と児童相談所の仲井さんが恭吾くんを連れて自宅まで行き、お母さんの様子を見て判断しようということになったみたいです。それで、お母さんが「誰がこんな怪我をさせたのか、いじめでもあったのか」と怒り心頭の表情になって子供を大事そうに引き寄せて、まったく異常なく、いたって普通の対応だったそうなんです。だから、大丈夫だろうと判断してしまった。5分前のことです。児童相談所が私に、結果報告してくれて、本当によかった。
きっと、、、、、
きっと、何ですか?
きっと、私みたいな者の言うことを、素直に聞くほうがおかしい、そういうことなんでしょう。あの校長先生は、私のことを知っていたみたいです。そうでなければ、あの後すぐに確認したんでしょう。私が、自分の子供を殺してしまった女だって、こと。ねえ、八坂さん、私はあなたにとって利用価値があるのかも知れないけれど、双刃のヤイバなのよ。今回は私たちの負けかも知れない。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
まだ大丈夫。私はそう思っています。自宅マンションの前に、警察官を応援に呼びましたから、私の到着までは立花さんになんとかしてもらうしかありません。できますね。
ごめんなさい。もう帰りたい。
ダメだ!無理は承知なんです。ユリさんしか、無理強いできる人がいないんです。本当に申し訳ないけれど、警察官だってあてに出来なのが目に見えている。あなたは小学校でも機転を利かせて、なんとかしてくれた。とにかくマンションまで行って、警察官に指示をしてもらいたい。そうしないと、恭吾くんをまた友達のところへ戻すことができなくなってしまう。明日、もう一度みんなのところへ戻す、普通の学校生活へ戻すことが僕らの望みでしょう。あの小学校の教室へ、かならず戻せます。友達みんながそれを望んでいて、今はあなたを頼りにして待っている。もちろんできないと思っているのでしょうけれど、やってもらうしかほかに手立てがないんです。
お友達のところへ戻れる?戻れないかもしれない、、、
戻れます!そのために、まずは、あなたが恭吾くんの家へ向かうことです。私が運転手に住所を伝えましょう。いいですね。
運転手さん、この電話、聞いてください、行き先を変更します。どのくらいかかります?
20分くらいかなあ。はい、携帯、まだ話があるそうですよ。
立花さん、私はあなたを信用している。あの校長や、他の多くの人があなたを表面だけで評価して、信用しないのも理解できる、でもそんな人たちは関係ない、今のあなたは、子供たちに信用されている。子供たちは、あなたを信用しているんですよ。その信用に、応えなければいけないでしょう。今は、あなただけがみんなの頼りなんです。
自分がすべきことを、ユリは痛いほど承知していた。けれど自分のクリアな思考とはかけ離れて、心をコントロールできない、いやそうではなくて肢体をコントロールする心が消えかかっている、それが八坂刑事には見えていない、昔からユリを知っているマスターなら汲み取れるだろう彼女の心を、八坂には汲み取れないからすれ違ってしまっている。痛む心が、しぼんでいく、さっきユリが見た子供たちの顔が、暗闇の中へ消えていく。
タクシーの運転手の背筋が伸びて、車のスピードも上がった。
しかしユリの気持ちは、一向に浮かんでいく気配がなかった。もちろん八坂刑事に頼りにされていることは、自分の小さな自尊心をほんの少し大きく見せてくれている、でも覆いかぶさってくるストレスは心を潰し体力を奪っていく、どうしようもない、こんなことは今までにたくさんあって、なんとかやり過ごすのにいつも必死だった。こんなペチャンコに押し潰されている者に、なにができるのだろう。何かできると、八坂刑事は、本当に思っているのだろうか、もっと勇敢になる者が、いるはずではないのか。こんな頼りにならない者を、頼りにせざるをえないなんて、、かわいそう。
目を閉じて深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。深呼吸と共にコーヒーの香りを吸い込む、アールグレーの暖かい蒸気で肺を満たす、ずっと昔のルーティーンを思い出していた。今はカフェインを望むべくもなく、酸素で充すしかないけれど、今朝マスターがひいてくれたモカの香りが、記憶のシグナルをたどって脳幹を刺激してくれている。何度も、何度も、親しんだ香りを求めて、ゆっくりと心臓を動かしていた。
・・・
お客さん、着きましたよ。
アッ、ちょっと待って、それじゃあ四千円。お釣りはいいわ、急ぐから。
なんとか気持ちは持ち直していたけれど、足が動かず、吊り革を掴んでなんとか体を外へ移動して直立不動の態勢をとり、マンションを見上げた。
八坂刑事が言った通り、制服姿の警官がマンションの入り口で待っていて、ゆっくりと近づいてきた。
先沼巡査です。警視庁の八坂刑事は、約15分遅れて到着されると聞いています。それまで待ちますか?
私の指示を聞いてください。と言われませんでしたか。すぐに恭吾君のところへ行きましょう。
でも、、、
ユリは、住人がホールへ入るのに続いて、さっさと侵入してしまっていた。
3階だから階段で行きましょう。先沼さん、でいいかしら。
はい、でもやはり、待った方が、、、
一刻を争う、と言われませんでしたか?
ユリは、振り向くこともなく、短く答えながら階段を急ぎ足で登り、扉の前に立って、やっと一息ついた。さあどうすべきか、何も考えていなかった。周りを見渡し、小さなルーバーが空いていたので、中を覗き込んで血の気がひいた。ダメだ、間に合わなかった。玄関を入ったすぐの廊下に子供が倒れている。そのうつ伏せに倒れているこどものそばに、母親が立ちすくんでいた。ユリには、今の母親の頭の中が手に取るようにわかる。これ以上何もさせてはいけない。どうすべきか、目を閉じて考えを巡らす。
そんな蒼白となったユリの様子を見ていた先沼巡査が、ユリに肩をぶつけながら、続いてルーバーから覗き込んだ。大きく目を見開いた巡査が叫ぶ前に、ユリは素早く彼の口を手で塞ぐ。そのまま、音を立てないようにゆっくりと、窓から後退させて、彼の耳へ口を近づけて囁いた。声を出さないで、今考えているから、ちょっと待って。
先沼の目に見えているのは、ユリだけになり、食い入るように指示を待っている。
あなた、拳銃持っているでしょう。窓越しから、私が撃ってと言ったら、あの母親を撃てる?右肩を撃って倒せば、気絶するはずよ。
先沼は大きく首を振る。2回3回4回、首を横に振ってから、ムリですそんな、小さく弱い声で答えると共に、先ほどよりも大きく目を見開いている。八坂刑事の言った通りだった、拳銃を使おうという意志を持ったこともないのだろう、八坂刑事なら迷わず発砲しているに違いない、もし私なら発砲できるだろうか、恐ろしいことに「できる」と言う答えがユリの心から返ってくる、自分自身の右肩を狙って立っているもう一人の自分がいるのが、ユリには鮮明に想像できた。そうか、マスターは私と美無氏は正反対と言っていたけれどそうじゃない、私も諸刃の刃なんだ、もうマスターの知らない自分がここにいる、マスターの嫌いな諸刃の刃、私はこんな自分になりたかったのだろうか。
それじゃあ、管理人さんのところへ行って、合鍵を借りてきてちょうだい。さっきエントランスをあなたが制服姿で通ったから、管理人さんも気になってしょうがないんでしょう、ほら下から見上げているわ。それから、大きなハンマーかバール、何としても中へ押し入るの。わかる?管理人さんに話をして、ええと、3分で戻ってきてちょうだい。
先沼は大きく頷く、2回3回4回、そして階段を駆け降りていった。
母親に、これ以上何かさせてはいけない。明らかに異常だけれども、頭の中はいつも通り、あるいはいつも以上にクリアなはず、最も合理的な次の行動を模索しているはず。ユリはもう一度、ゆっくりと中を覗き込んだ、こどもが小さな声でうめいて、ほんのちょっと頭を揺らすのがはっきりと見えた、その次に母親が右足を少しだけ前にずらしていた。咄嗟にユリは身をずらして、呼び鈴を押していた。どうしよう。
はーい。どちらさまですか。
普通の声、普通の対応。まったく異常は感じられない。そうなのだ、表面的な異常と、深層の奥に潜む深すぎて自分の手から離れてしまっている異常さとは、その世界と出会って初めて、確かにあるとわかる、ほとんど全ての人々はそんな世界とは無縁な状態にある。
こんばんは、恭吾くんの忘れ物を届けにきたんですけど。うちの娘が、持っていってあげてって言うものですから。ももかです、同じクラスの、今よろしいですか。
とにかく時間を稼がなくてはいけない、1分でも、2分でも。頭になかった言葉が、すらすらと出てきていた。
じゃあ、そこに置いておいてくださいますか。ちょっと立て込んでいて、、
ああ、でも、ももかの言う通りかどうか、恭吾くんのものかどうか、確認してもらったほうが、いいかも知れません。ちょっとだけ、よろしいですか?
高崎さんでしたっけ。
え?ええと、いいえ、高野、高野ももか、、なんですけど。一度もお会いしてなかったかしら。
あらごめんなさい。ちょっと待ってください、今開けますから。
母親は、どうやら目隠しの屏風かなにかを運んでいるらしい。あと少し、次はどうしようかと考えを巡らすしっかりとした自分とは裏腹に、体を支えられなくなったユリは扉の横でうずくまってしまった。
ドアが空いた。
まあ、どうなさいました。
すいません、貧血で、いつものことなんです。すぐに良くなります。
まあ、本当に、顔も手も真っ白だわ。
そう言って、母親が玄関先で手をたむけてきた時、ちょうどその時、母親の目に警官の姿が写り、初めて落ち着きを失った。何としてもドアを閉めようとし、ユリを足で蹴倒したのである。一旦ドアが閉められたが、それでも鍵をかけられるよりも一瞬早く、先沼巡査がドアノブを引っ張る、さすがに女性の力よりも勝っており、母親はドアノブを持った手と共に前のめりに釣り出された格好となる。もう一度警官を直視し、そしてへたり込んで動かなくなった。
ユリと巡査と、何事かと測りかねている管理人とが一斉に玄関の中を覗き込むと、廊下の途中に屏風のスクリーンが置かれている。
先沼さん、恭吾くん動いていたわ、そのスクリーンの後ろ、確認して、早く!
先沼巡査が子供を確認してからうなずき、電話を手にした。
救急車、、救急車、救急車、救急車、、、
・・・
救急車の到着よりもわずかに早く、ほぼ同時に八坂刑事が現場に到着した。
「間に合ったのか?」
「ええ、何度かもうダメかと思ってしまったけど、なにかが子供に味方したのよ。最後の最後に、おそらく一瞬だけ逃げようとしたんだわ、母親から。何かのサインに気がついたけれどそれにずっと背を向けていた、その目がとうとうそのサインを直視できたのかも知れない。意識して気が付かないようにしていたけど、無意識にそれに気がついた。きっと何かが、ほんのちょっとだけ気づかせたのね。間に合ってよかった。」
「いや、まだ終わってないだろう。予定より数日早いが、全部終わらせよう。」
警察の到着より早く、ブルーシートが張り巡らされるよりも先に、八坂とユリと先沼の三人で現場の検証を進めていく。まず母親をリビングの椅子へ座らせ、そしてユリが語りかけた。私たち、今日の午後、恭吾くんの学校へ行ったんです。恭吾くんは左手に怪我をしていた。だから、児童相談所で一時保護していただけるように提案したんですけど、そうはならなかった。だからここにいる刑事さんの独断で、こちらへおしかける事になったんですよ。息子さんを失う事にならなくて、よかったですね。本当によかった。
八坂はリビングなどの部屋を物色している。何もかもが整然としており、家のことを何一つ疎かにしていないことが、よくわかる光景だった。息子さんは、今後お父さんが育てる事になります。お分かりですね。その写真に写っているのがお父さんですね。今連絡が取れて、こちらへ向かっています。お逢いになりますか?
何の反応もない。先沼が口を挟んできた。
「これがお父さんで、もう一人、弟さんですかね、妹さんですかね?」
「ああ、どこかに隠れているのかな、かくれんぼしているか、眠っているか、君、部屋中探して見てくれるかい、押入れの中とかも。」
「了解しました!」
刑事の、警視庁の刑事の指示を受けて、先沼巡査はテキパキと動き出した。これがいつもの彼なのだろう。
「お母さん。あなたは数日前に、ベビーカーを廃棄されましたね。監視カメラに映り込んでいました。なぜ、廃棄されたんでしょう?」
テーブルへ視線を落としていた母親が、初めて目を上げて、八坂の方を見据える。
「なぜ?食事の準備をして、部屋を片付けて、時間が空いたから、だと思います。」
「おそらくあなたには、なぜだかわからない。もしかしたら、廃棄したことも、覚えていないのかも知れない。でも、あなたが廃棄してくれたおかげで、ここへ辿り着くことができた。あなたが、あの場所へ廃棄してくれたおかげです。」
「あの場所って?」
「隣の駅の駅前に廃棄してあった。見つかりたくない、隠したい、そう思って少し遠くまで運んだんでしょう。最低な人だ。きっと、重い罰を受けてもらう。もう2度と、息子さんには合わせない。決して、会わせませんよ。」
「おそらく、あなたの時間は反対に巻き戻っていたのかもしれません。恭吾くんがいなくなったら、次はあなた自身もいなくなる順番だったのでしょう、私にはわかる気がします。でも、時間はもう巻き戻りません。弟さんがお兄ちゃんを助けたんです。弟さんと、ベビーカーを廃棄したあなたが、恭吾くんを助けたんですよ。」
ウ、ウワー、ドシン。八坂刑事の言葉が荒くなってきた時、先沼の大きな声と倒れて転がる音が響いてきた。
ケ、刑事、八坂刑事、来てください。遺体です。コ、子供の。
八坂刑事は彼のそばへ行って肩を叩き、そして巡査の横へ座り込んだ。
これで、、、全部、終わった。ご苦労。
・・・
八坂刑事と一緒に、まだ開発が進んでいない南口駅前でタクシーを降り、それぞれの列車に乗ろうと歩みを進めていた。
子供は一命を取り留めたので、八坂は使命を果たし、安堵していることだろう。
よかったわね、間に合って。あと少し、1時間でも遅れていたら間に合わなかった。
明日にはお父さんが病院へ着くから、私がお見舞いへ行って事情を説明してみることにする。子供の面倒見てあげてもいいし、お節介だけど。子供のお葬式も、そんなこともしてあげたい。
それから学校のみんなにも、話をして説明したほうがいいかしら。しばらく小学校、恭吾くんはお休みしなくちゃだし、体が治っても学校行きたくないかもしれないし。それに、私は先生じゃないって、謝らなくちゃ。
お母さんの方はもっと心配。きっと誰も心配してくれる人はいなくて、逆に周りから標的にされてしまうのは、目に見えている。お父さんは、きっと頼りにならないわよねえ、今までお母さんの様子に気がつかなかった。
あのベビーカーはどうなるのかしら。証拠品なんでしょうね、きっと。
そうだ、忘れてた。あの巡査、相当ショックを受けてたわ。まだこれから、この事件のことであちこち振り回されるでしょうねえ、大丈夫かしら。
しばらく喋ってみたが、八坂は黙ったままだった。
私はローカル線で2駅、八坂は新幹線で都心へ帰る。
あの子にとっては、弟を亡くしてしまい、お母さんはずっと一緒にいられるはずもなくなり、お父さんが仕事を続けるなら転校することになるだろうし、そうでなければ親戚に面倒見てもらうかもしれない。特殊な事情だから、然るべき施設に入ったほうがいいかもしれない。その場合はあなたが助言してあげてね。でも成長して中学生高校生になったら、弟がいなくなった理由とか何から何まで重荷になって、とんでもない十字架を背負うことになる。お父さんも同じことだから、よっぽど気丈な人でなかったら逃げたくなるだろうし、あの子にとって明るい材料はほとんどない。今日の小学校の先生を見た限りでも、手に余ってオロオロするだけだろう。
ほんのちょっと歩調が遅れ、やっと八坂が口を開いた。静かな口調と裏腹に、いつものように尖った単語を連発する。
「とにかく家族は信用できない、父親と二人とか、小さなネットの中ではだめだ。大きなセイフティネットの中で、長く監視する。」
「でも、長く監視しても、明るい材料がない限り、運よくそんなシーンに出会わない限り、そして明るい世界に気づけば、思い出さずに生きられるかもしれないけど、なかなかそんなケースなかったんじゃない。八坂さんは警察のデータ見たことあるんでしょう。今回よりも悲惨なケースの方が多いんじゃないの。あの子の息がまだあると確かめられた時、こんなに嬉しいことはなかったし、ホッとして脈打っていた鼓動が遠のき、気も遠のくほどだった。でも今、冷静になってあの子の立場とこれからを考えてみると、いっそあのまま死んでしまっていた方が、、」
半歩遅れていた八坂の方へ振り返って、言葉を続けようとしたが遮られ、はっと思った次の瞬間には路上に額を滑らせていた。
痛い。
でも、なぜか叫び声は出なかった。なぜこうなったのか驚いて、びっくりして見開いた目が顔を硬直させ、喉を詰まらせてむせかえっていた。
大丈夫ですか。申し訳ない。
すぐに八坂にだき抱えられ、周りの数人が遠巻きからこちらを覗き込んでいる。私の横顔へ、左に立っていた八坂の右手が無造作に飛んできたのだった。まだ声が出ない。まだ、何を言っていいか見当がつかない心境でいた。一方八坂は、すぐ右側で立ち止まっていた学生風の若者に、声をかけていた。
あなた。あなたの位置から何が起こったか見ていたでしょう。一部始終。
イヤイヤ、何も見てないよ。オレ何も関係無いからね。
待ってください。証言してほしいんです。
いやいや、よく見てないよ。痴話喧嘩なんだろうし。証言するって、何するの。
駅前に交番があるから、今の様子を見たままに喋ってほしい。
だから見てないよ。もういいだろう。オレが殴ったことにでもするつもりかよ。
不可思議な会話である。私を抱き起こすと同時に、低い姿勢で学生に歩み寄り、後退りをするところを構わず、腕を掴んでしまっていた。足が長いしリーチも長い、何より警察官だからできる技だと思い、思わずおかしくなってきた。やりとりを見ていた年配の女性が近づいてきて、私の肩を抱えて起こしてくれた。その目は、八坂刑事を睨みつけ、私を引き離そうという使命感が見てとれた。それもおかしかった。
八坂が言った通り駅前には交番があり、案の定、駐在がこちらをうかがっている。そちらに向かって3人で歩き出している様子は、現行犯の学生を捕まえて向かってくる、勇敢な捕物に見えることだろう。
・・・
学生は観念して聴取に応じ、今度は恰幅のいい50前後の駐在が怪訝そうに時計を気にし出した。こんなことに時間を取られたく無い気持ちはわかるし、私も早く帰りたい。しかし、八坂が警察手帳を取り出して二人に見せたので、そうもいかなくなった。警視庁の方でしたか、と駐在の態度は一変して俄然聴取の取り方が、丁寧になってしまった。学生の方も唖然として、余計に語りにくくなり、しきりに私に目を向けてくるので、仕方なくかいつまんで説明することとなる。
まず自分は刑事のアシスタントとして、今日の事件に同行した。タクシーで駅に着いて、それぞれ列車で帰路に着くところだった。捜査の反省というか振り返りを独り言のように話しかけていると急に、左の頬から平手打ちにあって、前のめりに倒れて左腕を路面に挟むと共に左の額をアスファルトへ擦り付けてしまった。見せてくださいと促されてハンカチをそっとずらし、思わずイタイと言って八坂を睨んでいた。ここでやっと思い出したように駐在は救急箱を取り出してきて、恐縮そうに応急処置をしてくれたので、ハンカチをしまってもう一度八坂を睨んでみた。抱き抱えられて、申し訳ないと言葉をかけられた時に見ることができた目の光は、すでに彼方へ消えてしまっている。
「あなた、この刑事さんに手を掴まれてさぞ怖かったでしょうね、私を引っ叩いた時も怖そうだったかしら?」
「この刑事さん、半歩くらいあんたの後ろを歩いていて、急に立ち止まったんだよ。あんたも立ち止まって振り返って、、その途端に急に叩かれた。棒立ちで右手だけフワッと振った感じだったけど、大男が右手を振り回したわけだし、1mくらいは吹っ飛んだんじゃないかな。ちょっとだけ、1秒もないくらい棒立ちのままだったけど、自分でもびっくりしたみたいに動き出して、あんたを抱き上げてたんだよね。他にも、何人も見ていたと思うよ。」
「本当にすまなかった。多分、意識が飛んでいたんだと思う。」
「こんなことがよくあるんだとすると、流石に調書にも書かないわけにはいきませんけど、時々意識が飛ぶって書いておきますか?」
「いいえ、そもそも訴える気もないし、それは私がもらって帰ります。」
私はそう言って、書きかけの調書をひったくってバッグへ隠してしまった。
「じゃあオレ、もういいでしょう。」
3人は立ち上がったが、八坂はまだ立ち上がらない。しばらく、何かに思いを巡らし、時計を見てやっと立ち上がった。そして歩き始め、吐き出すような言葉を発したのは、改札を抜けた頃だった。
「覚えている限りでは、2度目なんだ。」
「別にいいのよ。私が言ってはいけないことを口にしてしまったのはわかっている。あなたが同じこと言ったら、私も殴っていたかもしれないし、2度と組まないと思ったに違いない。私が悪かったのよ。ごめんなさい。」
やはり八坂は私よりもずっと以前に決心して歩み始め、無意識に別の自分が現れるほど強い意志に縛られている。彼自身はそうとわかっているのだろうか、どうもまだわかっていない、別の自分とまだ会話できていないのだろう、もし3度目があるとしたら無意識に銃口を向けているかもしれない。3度目は決してあってほしくないと、真剣に思った。もちろん3度目があるとは限らず、もう無意識の中へ入り込むことはないのかもしれないけれど、もし仮にその銃口が今回の私に向けられていたら、私は今日命を失っていた。不思議と冷静に映像が見えてしまう、銃口が向けられたのが私ならそれはそれでよかった、過去も未来も変えようがないと思って過ごしていた毎日だったから。でも、別の私ならばその銃口を跳ね除けたかもしれない、どうやら今日ちょっとだけその片鱗を見せた別の私の方へ自分の気持ちが引きずられていく気がしている、もっと近づいて入れ替わりたいと思うほどに、いったい何に引きずられているのか、暗い闇の底へ自ら進んでいこうとしているのか。その姿は、マスターが思い浮かべている別の私とは、かけ離れていて匙を投げられてしまう程の異様な姿なのかもしれない、それは嫌だ。マスターに嫌われてしまう覚悟なんて、私にはない。それに、八坂刑事のような強い意志を持ち得ようなんて、思いもよらない。けれど、その私は明らかに八坂刑事と同じ方向を向いていて、今はその後ろ姿を追いかけている。その別の私とは、たぶん彼を追い越して、そして殉職するまで追い越させない、そんな考えを巡らせることができる自分なのだ、果たしてそんな私はほんとうに存在するのだろうか。
・・・
やっと帰宅できた。もう10時に近い。
最近は、こんなふうに八坂刑事の手伝いに駆り出されることが少なくない、快人さんには迷惑なはずなのに、何も言わない。苦にしていないのかしら。それよりも何よりも、なぜこんな女と結婚なんて、、、
「ただいま。」
「おかえり。」
「遅くなって、ごめんなさい。」
「また、大変だったみたいだねえ。八坂さんから、申し訳ないって、お詫びの電話が入ったよ。でも1年生の子、助かったみたいでよかった。話を聞きたいなあ。」
「ええ、今日は朝早くから一日中、快人さんをほったらかしにしてしまって、ごめんなさい。」
私は、朝の駅前の出来事から、順を追って思い出しながら喋っていた。何かを自慢するわけでもなく、淡々と、悲しい結末を知りながら歩んだ重い足取りを、淡々と。
「そうか、それじゃあその大きな絆創膏は、八坂さんの仕業なのか、電話で何も言わないなんてずるいなあ。苦情を言わなくちゃ。でも、危険な目にあったんじゃなくて、安心したよ。」
「そうなのよ、いきなりで、びっくりしたわ。でも私、言ってはいけないことだって、分かりきっていたのに口から出てしまったの。最近、子供たちとおしゃべりすることが多くなって、私も少しおしゃべりになったのかも知れないわ。」
「君が、子供のようにおしゃべりしてくれるの、僕は好きだよ。」
「今日は、自分でもびっくりしたわ。これまでは、問題の母親と会って様子を見て、感じたことを八坂さんへ伝えるだけだった。不思議と母親の感情が自分の感覚を動かすのがわかってしまって、それが役立っていたんだと思うけど、今回は、母親に会ったのは最後の場面だけ。なぜだか、母親でない何かに、感覚が掴まれていたみたい。私、変でしょう。」
「変かもしれない、ほとんどの人はそう思うだろうね。でも僕は、少数派なんだ。変だなんて思わない。仮に変だとしても、素晴らしい感覚なんだと思う。」
「少数派ってどれくらい、いるのかしら。」
「どれくらい、、、多数決で負けちゃうくらいだろう。」
「八坂刑事の「親は信用できない」っていう口癖もそうよねえ、独特で常識的とはいえない、少数派。でも彼も頭がいいから、今日の児童相談所の担当者や校長先生には、決してそんなふうに発言しなかったわ。言葉を変えて「子供を信用する」と言っても、たぶん角が立つんでしょうねえ。なんて会話すればいいのかしら。そんな時、八坂さんはなんの躊躇もなく、常識的な言い回しが出てくるんだから、図々しいったらなかったわ、まったく。」
「僕はあの人、好きじゃない。妥協できない人だ。少数派の中の少数派、つまり一匹狼なんだ。」
「最初に八坂さんに会った時も、睨み合ってたわよねえ。覚えてる?背比べしてるみたいだった。」
「僕は191センチ、1センチ勝ってる。」
「フフフ、オオカミのせいくらべ、おもしろい。フフフ。」
「僕のおばさんのことは、話してなかったかなあ。時々みんなの考え方と違った意見を喋り出すから、いつも変だと思われちゃうってことがあったんだ。でも僕はおばさんの言葉を、逃げずに聴いていた。そうしたらそのおばさんは、そんな時は僕に向かって喋り出すようになったんだ。でも嫌じゃなかったよ。真剣に一生懸命に喋っているんだから、ぜんぜん変じゃないよ。そうだろう。きっと、街頭演説していた時の美無遊一も、そんな感じだったんだろうと思う。君はそれに気がついた。僕は、この代議士はあのおばさんと同じだなあって思ったことがあってね、もちろん桁違いに政治的なことを発言しているんだけど。同じ場面に出食わしても、気づく人もいれば気づかない人もいる、不思議なんだけど、何故かある時そんな感覚がフッと顔を出すんだろうね。」
「私が気がついたのは、子供と気が合う人だってこと、そんな人が政治家になって、何かできるのかしら。八坂さんも言っていたけど、選挙権を持っているのは大人なんだから、政治家は大人の権利を考えるのが普通よねえ。子供を持った親の権利なら、考えるってことだわ。」
ああ、そうだった、やっと思い出した。脳裏に、朝の遊説の美無遊一代議士の言葉が、思い出せなくてもどかしかった言葉が、不意に蘇ってきた。「親の権利を制限していく」、いやたしか「大人の権利を制限していく」だった。言葉はそのまま私の耳から流れていったけれど、まさにその通りと同期した心は、私の足の動きを停止させていた。政治とは無縁で、単純明快な、美無遊一が見つけた答え。でもどれほどの聴衆の心に、同様に響いていたのかはわからない。一言だけ口を滑らせていたに違いない、誰の耳にも残らなかったはずだ。私でさえ常識的な回路が優先していて、忘れるべきだという信号が灯っていたのかもしれない。そうだった、やっと思い出した。
「ねえ、やっと思い出した。美無遊一が、駅前で喋っていて、思い出せなかったこと。」
「そうか、実はね、ちょうど話をしようと思っていたところだったんだけど、彼の考え方が僕にはよくわかるんだ。僕は、入党しようと思ってる、新党こどもの未来。どう思う?」
「え?」

2023/4/22 T著 

登場人物
美無 遊一 ミナシ ユウイチ
立花 ゆり タチバナ ユリ
八坂 時之 ヤサカ トキユキ

第5章 
 1/3 ベビーカー
 2/3 ぬいぐるみ
 3/3 吊り橋
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