第5章  立花ゆり 2/3 ぬいぐるみ

文字数 33,419文字

また私のカゲ、踏んだ、踏まないで!
走っちゃダメなんだぞ!
アー、小鳥が飛んでる!あれはコーモリだよ。エー!
キャー!アハハ!
下校する小学生たちを廊下の窓から眺めるのが、ここで働き始めてからずっと、日課となっている。集団下校が、だんだんと学校方針として定着してきて、にぎやかさも増してきた。時にはずっとうつむいて石蹴りしながらトボトボと歩く子もいるし、小さな子が追いついてくるのを待つ子もいる、時に自転車に乗って見回るお巡りさんの声が大きく響くのも心地よい、雨の日は同じ色の帽子が目隠しされてカラフルな傘の色が重なる優雅なパレード、ずっと飽きずに眺めていられる。ときには快人さんと一緒に眺め、笑い声をきいている。
こどもは笑う。いつも誰かと笑っている。
おかあさんが微笑むと、こどもは笑い返す。
おとうさんが大笑いすると、こどもの笑いは止まらなくなる。
なぜそんなふうに、笑えるのだろうか?理由はない。何の理由もなくただ、笑うことができる。
鳥が飛ぶのに理由はなく、日が暮れるのに理由はない。
・・・
3年ほど大学で助手をしてから、最初に歯科助手として務めたのが快人さんが開業したばかりの、この私鉄駅前の歯科医院だった。あれから何年たっているのだろう。当時は実家から通っていたが、今は隣のマンションに住んで、家事に割く時間のほうが多いくらいになっている。朝食と昼食はマンションで快人さんといっしょにとり、午後から助手を務めて、夕食は駅ビルなどですますか、お弁当を買って帰ったりする、そんな穏やかな毎日を過ごしている。そんなかで朝食の時間は、登校時間なのでやはりふたりで、通学の様子を眺めて楽しんでいた。小学生はきちんと並んで登校するから夕方とは打って変わっておとなしい、中学生の中には部活の話など大声でしゃべる子がいて、こちらのほうが見ていておもしろかったりする。
「快人さん、裕太君の様子を見に行くので、助手のお仕事、今日は休ませてください。ここでは私の噂を知っている人も多いし、あまり診察室に現れない方が、その方がいいとも思っているんですけど、あなたはそうは思わない?ちょっと遠いけど、夕方には戻ってこられるはずです。すいません。」
このひとは、なぜ私なんかと結婚したのだろう、私も再婚するなんて考えもしなかったけれど、快人さんは今も変わらず不思議な人だ。当時、最初に一緒に仕事した時も、時折あらわにする感情がユニークであり唐突でありそれでいてなぜか的確と思わせられて、誰に対しても自然と平行線を保っている、そんな雲の上に居る人だった。それは今も、変わらないみたい。スポーツマンではないからカッコいいと言うと言い過ぎだけれど、八坂刑事と比べても劣らないほど背が高くて、当時から女性の患者さんは多かった。ちょっと不器用で、お世辞でも腕がいいとは言えないけど、誠実に仕事をこなす、創造性に欠けるインドア派、外見上は雲の上の仙人とはかけ離れて、そんなコントラストが光となり影となって、本当の姿を隠しているみたい。そんな不思議な雰囲気はなぜ生まれてくるのか、その答えは未だ隠れたままで、見つけられていない。
「昔から、天草寺家のお嬢さんのことを知らない男子学生は、市中の学校にはいなかったと思うよ。隣町にも知っている者は多かったに違いないし、最近増えた男性の患者さんは、君のファンだった人たちなんじゃないかな。悪い噂をする人もいるし、気にしない人もいる、そんなふうだと思うよ。」
美しいひとは損だ、この人はそれを体現し、嫌々ながらそれを身に纏ってしまっている。それは、今後も変わらないかも知れないけれど、穏やかな世界をさらに纏うことができたら、少しは変わっていくことができるかも知れない。多くの人は、嬉々として美しさを纏い、一握りの賢い人を除いて自分から穏やかな世界を放棄する選択をしてしまう。波瀾万丈をトレードマークとすることが自慢なのかも知れないけれど、自らに対しての自慢であれば誰が知る由もなく、何かを手にした満足感とは違うかも知れない。誰かがその波乱万丈を共有したときに、その誰かに自慢するものは何もなくなり、穏やかになれるはずだと自分は信じる。美しいひとが美しいままで、美しい世界の中にただ、たたずんでいられる、たった一人ではなく、その季節に咲き誇る花畑の一輪のように、そうあってほしい。
・・・
八坂刑事の強引さには時々、閉口することがある。今日は電車を乗りついで3時間、やっとお昼前に最寄り駅の、ノンちゃんとの待ち合わせ場所にたどり着いた。ノンちゃんは自称22歳、でも15-16歳と判別できる節がある、学校を休んできたのだろうか。
こんにちは、今日は、学校はお休みなの?
学校なんて、とっくの昔に卒業したんだけど、前にもそう言ったでしょう。忘れたの?何かおかしい?
なぜかムキになる、そんなところがおかしくて、会うたびに笑ってしまう。前に裕太くんを訪問した時はスラックスにエキスパンダー、ラフなジャケットにグレーのニットの帽子をかぶって、私のボディガードを装っていた。メイクして、あるいはもしかして薄いフェイスマスクをして、黒っぽいスカーフのいでたちは、男性のS Pと見られていたに違いなかった。今回は30歳過ぎの、長い髪を後ろに畳んでピン留めしたツーピースの質素な女性、白いスニーカーで看護師に化けていた。病院の匂いがしてくる。間違いなく、同じ人物だとは気が付かれないだろう。ノンちゃんは監視役で、ここ数ヶ月、裕太くんの家に張り付いている。住宅街の一軒家にいる裕太くんを、普段は数ブロック先のアパートの一室から様子を伺い、時折巡回したり、おばあさんに変装して杖代わりのキャリーカートに15分くらい腰掛けて、軒先から物音や会話を聞いたりしている。もちろん、常駐している訳ではないだろう。
八坂チームのメンバーには、ノンちゃんの他にも特殊な技能者が集められていた。八坂刑事がリクルートした、世間離れした人たち、何人いるのだろう。ユリが知っているのは、情報屋の沖網さんと電気屋のヘッドウィグ、まだ会ったことがない沖網さんはいわゆるホワイトハッカーで、違法捜査が専門なのだから呆れてしまう。八坂刑事とノンちゃんは、沖網さんからの虐待を疑われるとの情報を得て動き始め、ユリは依頼されて数回、裕太くんを訪問している。他にも訪問先、つまりユリの受け持ちはいくつかあって、母親と子供に面会する、危険度を判断する、八坂刑事と対応を検討する、そんな穏やかな日常とは距離を置いた仕事に関わっていた。
・・・
ねえ、ユリさん。もう2週間も裕太くんの様子が掴めていないのよ。1週間前に児童相談所の担当者が来ていて、裕太くんの寝顔は、玄関越しから見えたって言っていたけれど、3週間前にユリさんと交番のお巡りさんと一緒に来た時も、寝たきりの様子だったでしょう。お母さんは、午後に数時間パートに出ているだけで、ずっと二人だけで過ごしている、その間ずっと静かでテレビの音も漏れてこない、嫌な雰囲気なのよ。変でしょう、異常でしょう、、生活感がないのよ。
今回も3週間前にも、八坂刑事は同行しなかった。だから、強権的な行動は取れなかったけれど、今日はどうしても部屋へ上がり込まないと、子供の様子を健康状態を確認しないといけない、ノンちゃん同様にユリも心にそう決めていた。ユリの判断では、最初に二人に会った時から保護すべき方向に傾いていたけれど、児童相談所の見解も八坂刑事の判断さえも、緊急性はないし改善するだろうとの方向を、支持していたのである。その見解の相違は、どこから生じるのか、ユリ自身にも説明が困難な謎であり、誰の理解も及ばない邪悪の糸の一端を感じ取る感性、母親の心の奥に入り込める希少なパスを持っている一人なのだと、思わずにはいられない。そうした感性を持った人種はたった一人のはずはなく、他にも多くいるに違いない、でもその感性は次第に薄れ、忘れられてしまう種類のもので、逆に鋭く強く湧き上がってくる亜種とでも言えるものを具有する者は稀有であるのかも知れない。今のノンちゃんは、そんなユリと同じ感性を持って、二人を見ていることははっきりしている。しかし、そんな感性の奥底へ沈んでいくノンちゃんを、ユリは見ているのが辛かった。ノンちゃんの行く末が、八坂に握られているままでいいとは、ユリには思えなかった。
・・・
ちょうど1ヶ月前に、ユリは八坂刑事とともに裕太くんを見舞っていた。その頃、元気がなくなってポカが多くなった裕太くんを男の子たちがからかい、先に手を出した裕太くんを数名が反撃して怪我を負わせた。その事件が沖網さんの情報網に引っかかり、家庭環境がリサーチされ、学校や地域の環境も判断材料となり、要注意案件として八坂刑事のリストに載ることになったのだった。1ヶ月前、母親が疲れ果てた様子を見せていたこと、近所の聞き込みで長い間隣人からのサポートも行き届いていること、病院にもすぐに行ってケガの処置がなされていること、子供の聞き取りも母親の対応も問題ないこと、こうした状況は八坂刑事の心配を退け、逆に母親に同情するケースへ振り分けるに十分だったのだろう。その後、裕太くんが学校を休むことも多くなり、当然に児童相談所もチェックを怠らなかったのだが、その視点は学校でのトラブルと登校拒否という方向性だったから、ユリの不安が正面から取り上げられることはなかったのだ。母一人子一人の閉鎖された環境であることを知りながらも、そして普段は親を信用せずにかかる八坂でさえもそういう印象だったのだから、余人に危機を察知されようはずもない。そうした心証が大勢だったにもかかわらず、ユリの心には母親の異変がわずかに入り込み、鈍い鼓動と同期して頭が重くなる嫌な感覚に襲われてしまっていた。だから、どうしても不安だと八坂に訴えて、監視体制をとってもらったのだ。はたして今回の案件も、あらんかなその特異な予感は現実のものとなってしまう。
・・・
ねえ、ユリさん。ちょっと肌寒く、ない?
日差しも出てきて、暖かくなってきたみたいだけど、
ねえ、悪い予感しない?
大丈夫、今日は決着がつきそうな気がする。
ねえ、以前に私が監視していた現場で、2歳の子が助からなかったこと、聞いてる?
いいえ、でもあなたが殺した訳じゃない。殺した人を、憎めばいいだけ。憎めば、力が湧いてくる、そんな時もあるわ。だいじょうぶ、絶対に大丈夫だから、ね。
ノンちゃんの境遇は、ちょっとだけ聞いたことがある。友達は少なかったけど何不自由なく身の危険を感じることなど全くなかったユリとは正反対、小学校に通うようになってやっと自分の自由を見つけ、家に帰らなくてもいい方法そればかりを考え続けていた。誰もが、心を見透かされるのは好まないだろう、助けてほしいもうダメだと思っている心の内さえ知られたくない、そういうブレーキを自然とかけてしまっている。どこからかやってきた普通という枠が自分を押さえつけて、その枠を外れていることを知られることも恐ろしい。泣き叫べば楽になる、誰かに話せば楽になる、そんな簡単に楽になれるはずもない。元々小さかったその枠が、また少しづつ小さくなって、身動きができなくなっていくのだろうか。親がそばにいて、ただ見守ってくれている、ただそれだけあればその枠は大きくなって見えなくなり、何の不安もいだかなくなり、普通とは何かも知らずに済むのだろう。親がそばにいない不安、それだけはユリにも経験があって、共有できるものがある。でも、ノンちゃんの心を理解しようなんておこがましい事は、するべきではない。ただ、そばにいてあげるしかない。そんなノンちゃんの心のダメージに、たった一人だけ気づいたのが八坂刑事だった。中学生だと偽って新聞配達を始め、慣れてきたところで新聞の勧誘もするようになっていたノンちゃんが、八坂の目に止まっていた。二十歳そこそこで調子のいいセイルスマン風に装って新聞の勧誘をしていたノンちゃんを、窃盗事件の捜査をしていた八坂が調査し、偽名を使っていることもあって疑いが濃くなったのだ。そして職務質問したときに初めて、女の子だと知り、唖然としたそうだ。一方のノンちゃんは、権威の塊のような八坂を前にして、萎縮して怖さのあまりに、吐いてしまった。その怖がりよう、体の変調、言葉の混乱ぶり、それでいて受け答えの冷静さ、従順さ、こんな人格が壊れそうな一歩手前の子を、何人も八坂は見たことがあり、その心のダメージの程を見分けることができたから、しばらく面倒をみることになったのだった。それでも、こんな監視役なんてさせなくったって、もう少しまともな刑事に見つけてもらえたらよかったのに、なんて恨めしい運命で繋がっていることか。でも、繋がっていてよかった。
・・・
玄関に現れた母親の心象が3週間前と同じではなく、心の内へ導いてくれる釣り糸がない、その軽くなった心象が逆に大きな違和感としてユリの脳裏に広がってきた。もし本当に母親の心が、みんなが期待していたように回帰していたとしたら、それが最も望ましいのだが、どうもおかしい、ひっかるところが欠けてしまっている。スラスラと最近の様子や、病院の先生の診断などおしゃべりが弾むし、看護師からの問診に対する受け答えもなんの澱みもない。この対応なら児童相談所のベテランの方々も、安心して玄関先から帰ってしまうのも納得できる。しかし、二人でお子さんに合わせてほしいと粘ってものらりくらり、それに先回は遠目から見えていた寝床が、今日は見えていなかった。
お布団は移動されたんですか?今日はやっと日差しも出てきたので、窓際の方ですか。
ああ、こちらの方でしょうか? 
看護師に扮したノンチャンが玄関を出て、様子を見ようと軒先を回って行こうとする。
いいえ、実は今日は行きつけのお医者さんのところで、点滴に時間がかかっていまして、、
そのお医者さんはどちらでしょう。どうしても今日は、お会いしないことには、看護師さんの報告を持ち帰る必要もあるんです。
それはあの、、ええと、、、
やっぱり、いるんですね!
初めて言い淀んだときに、初めて隙ができた。それを見逃さずに、二人で押し通ると、母親の言う事は本当で、裕也くんの姿はなかった。ユリは家の中を隅々まで探し、ノンちゃんは玄関の外で、すでに調査してリストを作っていた市内の病院へ、順番に電話をかけ始めている。このふたりの実力行使を見ても、なぜか涼しい立ち居振る舞いで、お茶をどうぞと声をかけてくる、この落ち着きようはなぜだろう。そうか、裕太くんとの生活が終わって、切れてしまった邪悪な糸は、ユリを心の内から締め出すことに成功していた、もうどこにもいない。それでも、もしノンちゃんの目を盗んで、どこかへ連れて行ったとしても、それならきっと警察が見つけ出す。この母親のことだから、行方不明の届出を出すかもしれない、そうしたら捜査のプライオリティが低くなる、そういう算段でいるかもしれない、でもそうなったら八坂刑事の執念に火がつくに決まっている。もしかして、そこまで計算に入っているとしたら、誰にもずっと気付かれずに隠せおおせる場所を、見つけたということなのか。
・・・
ねえ、あなた、どこの病院か教えなさい!
家の中にはいないわ。
看護師の声が、ほんの少しだけ幼い声色になっているのに、母親も、おそらく本人も気がつかなっかようだ。ユリは、玄関から上がってきた看護師の手から電話をとり、登録された電話番号のリストにざっと目を通してから、今度は家にあったパソコンで、検索を始めた。
これ、借ります。電話も。
ええどうぞ、でも何をするつもり。そんなに慌てて、
ねえ、ユリさん。わるい予感が、、、
大型犬を探すのよ、あなたも手伝って、諦めないで!
え?
車に撥ねられた大型犬の回収を依頼された施設、業者を探して、引き取りに行かなくちゃ。大型犬のぬいぐるみがないのよ、消えている。あなたは粗大ごみの回収場所へ、近くにあるはずよ、わかるでしょう。見に行ってきて!
ノンちゃんはフラついて吐きそうに肩を落とし、それでも立ち直ってなんとか走り出した。ユリは、検索した電話番号へ、電話をかけ始めている。戻ってきた看護師の声が裏返っていることには、さすがに母親も気がついて、驚きを隠せなかった。そして、動揺し始めていた。
「すぐに、ぬいぐるみに気が付いたのね。」
「ええ私、同じことを想定したことあるから。」
ユリさん、いなかった。見て、きっとここよ、回収場所に張り紙がしてあった、電話してみて。
そちらに、ここ数日で運び込まれた大型犬の遺体は、ございませんでしたか?迷子になったうちの犬かもしれません、引き取りに伺いたいんです。回収場所は西町の4丁目でりんご橋の脇です。お分かりですか?
ちょっとお待ちください。。。ええ、今日の朝引き取ってますね。でも犬の死体は保健所でも確認するはずなんです。もうそっちへ運んだかなあ、ちょっと待ってください。
いえ待って、待って、それが待てないんです、話を聞いてください。いいですか!
はい、ええと、なんでしょう。
まず教えていただきたいのは、その保健所の連絡先なんです。もしそちらでなければ、急いで保健所へ向かいますから、絶対に処分していただかないように、私からすぐに連絡を入れておきたいんです。お分かりですか?
ええ、ええ、わかりますよ。最近はそういう飼い主さん、いますよねえ。電話番号は00-8322-0000。
ありがとうございます。それではまず、私はそちらへ伺います。急いで伺いますので、今あるならその場所から少しも動かさずに、そのままにしておいてください。よろしくお願いします。とても大事な、大事な、、わかってください。お願いします。
はい、ちゃんとそのままにしておきますから、気落ちせずに、じゃあ。
ノンちゃん、まずタクシー呼んで、次に八坂刑事に状況を話してちょうだい。

・・・
タクシーで15分ほど、ノンちゃんは無言だった。だから、私が喋り続けた。
「まだ、嫌な予感はそのままなのかしら、もしそれが当たっていても、それはあなたのせいじゃない。わかるでしょう。見届ける必要があるのよ。普通なら私たちの仕事じゃない、八坂さんの仕事だから、私たちは解放されているはず、でもそれを待ってはいられない、今回は。私も一人じゃ無理なのよ、だから助けてちょうだい。そうだ、まだ諦めないなら、集中しなくちゃ、そうだお巡りさんが必要ね。一番近くの交番のお巡りさんに、来てもらわなくちゃ。。私ね、どういうわけか、まだ大丈夫な気がするの、なぜかしら。以前にもそういう気がして、大丈夫だった時もあったのよ。ダメだった時もあったから、当てにならないとも言えるけど、、そして絶対にダメだって思った時は1度だけで、その時はダメダメだった。最初は八坂刑事に利用されて、すぐに諦めてた気がするけど、どういうわけか諦めたくなくなってきた。悲惨な渦の中にいルコとに慣れてきてしまったのかしら、そんな自分は嫌よねえ。どんどん嫌な自分になっていくのかしら、でもストップできない気もする、なぜかしら。。何も言ってくれないのね、ノンちゃん。」
私は念の為に、保健所にも話をしておくことにした。
「そうだ、保健所にも電話しなくちゃ。」
はい、保健所です。
事故で大型犬が、運び込まれていませんか?迷子になったうちの犬が、処分場からそちらへ移されたかもしれなくて、どうしても引き取りたくてお電話いたしました。今日なんですけど。
今日は、管轄内から2件ありました。どんな犬でしょう。
薄茶色でモフモフした毛並みの大型犬、1メートルにちょっと足りないくらいの。
ああ、大型犬はいませんねえ。モフモフした毛並みの犬もいませんよ。まだ先方に置かれているんじゃないかしら、あるいは搬送中かもしれませんね。
それでは、搬送されてきましたらそのままにしておいていただけますか、急いで引き取りに伺います。必ず本日中に伺いますので。

・・・
大型犬のぬいぐるみは、処分場に置かれていた。間に合った、母親の思惑は吹き消せたはず、でも間に合わなかった、もっと早く対処しなければいけなかった。担当者が袋を開け、ぬいぐるみとわかって怪訝そうに私たちの方を振り返る。
「回収に行った時はてっきり犬だと思ったんですけど、お目当ての大型犬じゃなかったですね、でもかなり目方はあったんですよ。」
二人に変化がないことに気がついて、それならばと担当者はファスナーを開けてみて、すぐさま数歩飛び退いて首を振り、きびすを返す。口を開いたまま、トボトボと歩き出す。ノンちゃんにまだ看護師の自覚があれば最初に近づく役割であったろう、しかし私がチラッと覗き込んで促そうにも直立不動で動きそうにない、意を決して私がゆっくりと裕太くんの方へ近づいていった。担当者の方へ大きく声をかけ、その勢いから自分しかいないという自覚を覚え、なんとか役割を果たすだけの力はありそうだった。
「お巡りさんがもうすぐ来ますから!。もう連絡していますから!」
今は私しかいない、なぜか迷いはなく裕太くんの方へ、まっすぐに進んで行けた。担当者の方には嘘をついて悪いことをてしまった、本当にびっくりさせてしまって申し訳ない、頭の中は冷静で冷え切ってしまっているんだなあと、思わずにはいられなかった。しかしてその冷静さは一蹴され、秒針がまた時間を追いかけ始めた。
「ハッ!!息があるわ、ノンちゃん、息がある!」
バタンと崩れ落ちる音、ノンちゃんの気配が消えた。私も驚きで息が止まり、気が遠くなりかけていた。しらんでいく世界へ入っていくのを思い留めさせるために、知らずしらずに自分の指をファスナーに挟んだ。なんとかしなくちゃ、私しかいない、。やっとの思いで担当者に追いつき、息があること、死んでいないこと、温かい部屋に運ぶこと、救急車を呼ぶことを指示した。そのすぐ後に、駆け足で近寄ってくる警察官を目にし、安堵の疲労感が押し寄せて気が遠のいた。ああ、一つ指示を忘れていた、母親に連絡してはいけない、誰も関係者に会わせてはいけない、私がそばに行くまでは、決して。
・・・
私が気がついた時、裕太くんは救急車で運ばれた後で、それから救急車の中で手が尽くされてもう回復に向かった後だった。私のそばには、例の看護師さんがついていてくれた、例のお巡りさんと処理場の方々がまだゴタゴタと落ち着かないまま、何をするわけでもなくザワついている。こんなことが、世の中に起こるものなのか、小さな子供が遺棄されるなんてこと、そう思って混乱している様子はどの現場でも同じように感じられる、そんな様子を見ていて同じように混乱しているわけではない自分が、恨めしかった。私が目覚めたことに気がついて、近づいてきていいことをした凄い事をしたと褒める者もあった、でも誇れるものなどありはしない、こんな役回りを誰かが引き受けなければいけない世の中が悲しく、虚しいと感じられる。でも落ち込んではいられない、早くそばへ行かないと、またどこかへ攫われてしまいそうに思われた。まだ終わっていない、そう感じられてしょうがない。
わたし、どれくらい気を失っていたかしら。
20分くらいかしら、みんな訳が分からないから二人の目を覚まそうと頑張ったらしいんだけど、私の方が早く気がついて、だからユリさんの方はそっとしておいて欲しいと言っておいた。
裕太くんは?
体温が低かったけど、温めれば大丈夫だろうって、本当によかった。本当にびっくりして、わたし、倒れちゃった。嬉しかった。ユリさんのおかげ。
子供は生きようとする、そこに理由はないから、案外強いのかもしれない。あなたみたいに。それじゃあ私たちも、裕太くんのところへ行きましょう。まだ安心できないでしょう。絶対に母親に渡してはいけない、そうでしょう。
・・・
今回は危険なシグナルがすくなかったから、誰もがそれほど心配していなかった気がする。ノンちゃんもほとんど心配していなかったのかしら?離婚していることで1ポイントくらい、交際相手はいないし、外出してネグレクトするわけでもない、元夫からの慰謝料が多少あるから経済的なストレスもない、児童相談所の応対も問題なかったし、心配すべきポイントは、客観的にはほぼなかった。
そうかなあ?外出しないという点ではちょっと不自然なほどだったから、普通の精神状態からは偏っていたんじゃないかな。テレビの音が漏れ聞こえることもなかったから、生活してる様子もほとんどつかめなかったんだ。今日だって、近くまででも買い物に出かけてくれたら、家の中へ入って様子を診に行けたのに。
ハッ!何言ってるの、見つかったらどうするつもり。じゃなかった、そもそもそんな不法侵入許されないでしょう。
そうかもしれないけど、それじゃあユリさんは、窓から母親が子供の首を絞めているのを見ちゃったらどうするの、家に窓を割ってでも押し入って助けるでしょう。
それはそうに決まってる。でもそれとこれとは別でしょう。
そうかなあ?どんなことしてでも天秤を傾ける方向はきまってるんだから。あたしはその方向だけ見てる。
それは八坂さんの影響ね、きっと。でもやっぱり、あなたが罪をかぶってはいけないし、八坂さんに迷惑をかけるのもいけない。私が言っているのは、慎重にってこと、無理しないでってこと、わかるでしょう。
わからない。ヤサカミからはチャンスを見逃すなって言われてるし、今までにも何件も忍び込んだ実績はあって、赤ちゃんを助けた出したこともある。今回だって、全然ムリしてない!
ハァーー!じゃあアンタ、刑事の子分じゃなくて泥棒の子分てことなのね、そんな子とはもう組まないって、あの刑事に言っといて。わかった?
泥棒の子分がこんなことするもんか、今回しくじったのは、きっと慎重すぎたんだ。そりゃあ、ゴミの廃棄を見過ごしちゃったのを助けてもらったけど、メデューサが来なくたって、きっとすぐに見過ごした事に気づいて挽回してたんだから。
なにがメデューサよ!なんにも反省しないでグダグダ言って、いつもそうだからノンノンなのね。いいこと、私が言いたいのは、こどもとは組みたくないってこと。まだわからないの。
あたしは、こどもじゃない!
わからずや!
・・・
バスの中で、二人とも声をひそめて言葉を交わしていたが、最後のセリフはヒビキわたってしまい、乗客が振り返る始末であった。
そのあと、病院に到着するまで二人は無言のまま、険悪な時間が30分ほど続く。私の怒りは当然に、ノンちゃんへ向かっていてなかなか収まらなかった。売り言葉に買い言葉、そんなことで人の感情はエスカレートしていく。そして自分のいつもの感情が消えてしまう。子供の純粋さに耐えられない他人の感情が現れる、あるいはもう一人の自分の感情が現れる、そんな時がある。ノンちゃんの感情はどれも正しいけれど、自分の感情はそんな幼な子とは同調できない物であることも、知らず知らずに怒りの源になっていたのだろうか。
わたしが冷静にならなければいけないと、会話の間中努めていたことも、悔しくてたまらなかった。確かに冷静だった。ノンちゃんは1億分の1の主張をしている、不法侵入で捕まってもそれに端を発して子供の命を救える、八坂刑事に迷惑がかかろうと構わない、前科者になっても決してやめないし諦めない、そんな感情がはっきりと見えていた。私にもそれが見えていたけれど、否定してしまった。わからずやは、私だった。
「忌々しいわね、あなたは。」
病院の扉をノンちゃんが押し開け、二人で中へ入る。彼女は私の言葉に反応することなく、受付へと走っていった。
「走っちゃダメでしょう!」
「ユリさん、405号室だって、先に行くから!」
ノンちゃんはエレベータまで走っていき、膝に手を当てて息を整えている。
一足ちがいでエレベーターは行ってしまった。まったく、いまいましい。
・・・
ノンちゃんは張り付いていた直近の2週間、心配が募る中でも忍び込む機会がなくて、その子の顔を見ていなかったのだ。だからもう、その子の様子を早く確認したかった。私は5分ほど遅れて、病室へ入った。
「ねえ、さっき話したとおりでしょう。ストレスは尋常ではなかったけれど、心臓は丈夫で体に異常はなかった。ストレスが脳に異常をきたすこともあるから、まだ安心はできないけど。」
「よかった、です。」
「今、お医者さんとお話ししてきたけど、心臓は丈夫で体に異常はないそうよ。代謝機能が自然に低下して体温調節がうまくいかずに、低体温症が加速したのかも知れないのだそうよ。それで、仮死状態になっていた。お日様の光を浴びたのが幸いしたのね、きっと。運が味方した。あなたが、、味方したんだわ。」
「運が、よかった、、です。」
ノンちゃんが震えているのがわかって、私はハッとした。ずっと自分のことのように心配で、自分のヘマかどうかなんて頭になくて、やっと目にした姿は変わり果てていて、でもその心臓は今動いている、まだ一度も聞いたことのない声をもうすぐ聞くことができる、裕太くんの目をあくまでまだまだ緊張感は途切れないのかもしれない。人はときどき、なぜだか震えが止まらないことがあり、涙が止まらないことがあり、音のない世界に入り込むことがあり、視界から全てが消えてしまうこともある。それもこれも、自分では理解できずに現れては消えていく、いつもそばにあるけれども切り離されている見ず知らずの感情、そんな得難いものなのかも知れない、でも泣いているのは明らかに自分であり、震えているのは自分であり、自分の世界の出来事だとわかる、確かに100人分くらいは自分が泣いている。一億人分泣くのは到底無理、だけどノンちゃんならその資格がある、きっとそれができるのは、神様くらいだろうか。ここにいるのは、変装が上手なくせに、不恰好な大きなサングラスをした、痩せほそった小さな神様だった。私は我知らず、その神様を抱きしめた。そしてその刹那、彼女に残っていた力が全身から抜け出して、崩れ落ちてしまった。気を失ってうなだれたその体は、私にも簡単に支えられるほどに軽かった。
・・・
ご家族の方ですか?そろそろ面会時間は終わりになりますので、裕太くんのことはお任せください。おかあさん。
いえ、おかあさんでは、、、
あら、お姉さんも一緒に眠ってしまったんですね。私が起こしてみましょうか。香りのいいオレンジチョコレートを持ってきましょう。お嬢さんも、それで目を覚ますこと請け合いですよ。
ナースが席を外すと、クスクスと笑い声がして、ユリは振り返った。
おかあさん、そろそろ帰りましょう。
まさか!あなたのお母さんには見えないでしょう。お母さんて呼ばないで、おばさんて呼ばれる方が、まだマシだから、そうしてちょうだい。
おねがいします、って普通は頼むんじゃないの。お母さんじゃなかったら。
おねがい、します。
二人で病室を後にした時、ちょうど先ほどのナースと入れ違いになった。
あら、目を覚ましたんですね。
ええ、できたらこの子にチョコレートいただいて行って、いいかしら。
ええ、いいですよ。
ありがとうございます。
ほら、これを食べて元気を出しなさい。
嘘つき、お母さんのふりしてた。そういえば、さっきのバスの中でも、ずっとお母さんみたいな口調だったし。
そうだった、確かにそうだった。子供を諭す口うるさいお母さん、正しいと思うことを強いるお母さん、口答えに敏感なお母さん、どんどん嫌なお母さんになっていったことに、なぜ私は思い至らなかったのだろう。
ねえ、きっとあなたにはお母さんの複雑でカオスな心はわからないのでしょうね。私にもわからないけど、なぜかそういうシチュエーションでは、そうなってしまうみたい。あなたのお母さんはどうだった?
知らない、、、
・・・
ノンちゃんのお母さんは、裕太くんのお母さんに似たところがあったのか、ずっと関心のなかったことが急に頭に浮かんだ、ノンちゃんは終始こどものことだけに目を向けていて母親の行動範囲へは目を向けていなかったことを思い出した。自分のお母さんと比較し重ね合わせるような素振りも見せず、忘れているか忘れようとしているか、この話題は避けようかどうかとも迷ったけれど、今のユリには関心がノンちゃんの方へ向いてきて、普段なら素通りしている方向を向いている自分が不思議でもあった。
「推測だけど、裕太くんのお母さんは離婚して、育てている裕太くんが旦那さんだった人に似てくるのを、ずっと見ていたんじゃないかしら。憎らしい旦那さんがいなくなったけど、憎らしい旦那さんに似た裕太くんはずっとそこに居る。寝顔を見ているだけでも、その気持ちが募って、鬼のような顔で睨んでいたんじゃないかしら。」
「そんなのおかしい。」
「確かに家の中でネグレクトされていた事実は掴んでいたけど、外見上はそれ以上には悪化して見えなかった。だからみんな、まだ大丈夫、きっとお母さんは改善すると誰もが判断していたし、八坂さんさえ今回はこなかった。改善するどころか本当に鬼のような化け物になっていて、呪い殺そうと思ってずっとそばにいたのかも知れない。片時もそばを離れずに。」
「そんなのお母さんじゃない。」
「私も最初に会った時、そう感じて八坂刑事に伝えたから、彼も少しだけ不安な方へ傾いて、ノンちゃんを張り付かせたんだと思う。あなたは、恐ろしくて気が狂った鬼子母神をやっつけた、優しくて強い鬼子母神の親戚で、そして裕太くんのお姉さんね。」
「やっとわかったのね。あたしは、こどもじゃない。」
「それじゃあ二つ、責任を持って八坂刑事に伝えておいて。私は八坂チームにも、美無チームにも入らない。ましてや私のチームを作るつもりもない。それから、私のことを勝手にコード名で呼ぶつもりなら、メデューサでいい、そう言っておいて。」
メデューサは別の有名な神に首を切られて絶命する、わたしにはお似合い、おあつらえ向き、嫌いではない。

・・・
ねえ、ユリさん。裕太くん、昨日はじゃべれなかったけど、今日やっと喋ったの、私のこと、どこかで会ったことあるって言ったのよ。びっくりしたけど、とりあえず保護のための付き添いって言っておいた。
まあ、そうなの、まだ数日は喋るのもままならないでしょうねえ。なんて言っても、一度は心臓が止まっていたんだから。あなたも喋りたくてしょうがないかもしれないけど、静かにしていなさいよ。警察やら学校やら、いろんな関係者がやってくるでしょうけど、近づけないであなたがガードするのよ。安静にして、自分でゆっくり思い出すのを待ってあげないといけないと思うの。そう思うでしょう。
わかってるって。だから電話して、喋ってるの。それは付き合ってくれても、いいでしょう。
ええ、そうね。
保護された火曜日の夕方からの翌々日、裕太くんが喋ったのは、ノンちゃんに会った気がすると言うことだけだったらしい、やはり「お母さんに会いたい」とは言わなかった。体力がないこともあって、何も感情が湧いてこないのだろうか。そんなことはない、ぼんやりといろんな人の顔が浮かんで来ているのではないか、ユリにはそんな風に思えていた。小学生の頃に痩せ細って低体温症に陥ったことがあり、1週間の入院を余儀なくされたことがあったので、ぼんやりと天井を見つめる裕太くんの感覚が少しはわかる気がしていたのである。同級生のすみれは毎日お見舞いに来てくれたし、学校の先生や子供たちも初めて会おう親戚の人もお見舞いに来てくれた。ぼんやりと天井を見つめるのは、ぼんやりと空を見つめるのとは違うなあと気がついたので、窓から空へ視線を移してみる、頭を傾けるのがこれほど大変と感じることはなかった、もう元に戻す力がないのがわかる。おばあちゃんが、よっこいしょと言って膝を伸ばすのは、もしかしてこんな感じだろうか。ぼんやりりとという感覚は力がない感覚、そして目の視覚に力がないので頭の中の映像が不鮮明なのかもしれない、でも感性は決してぼんやりしているわけではなくて、クリアなのではないかという気がする。映像が不鮮明でも雲の形は麦わら帽子に見えているし、入道雲だから雨になるのではないかと推測してしまう。雨の強さは音からもわかるけれど、視界からもはっきりとわかっていた。眠っている患者さんでも声は聞こえているそうだから、ノンちゃんの声はその声色が違っていたとしてもはっきりと識別できていたのだろう、だからノンちゃんにあった気がするというよりも、ノンちゃんにあったことがある、と思っているはずなのだ、ぼんやりと。
それから裕太くんの頭に浮かぶのはどんなことだろうか、親は面会に来てはくれないだろう、誰も面会に来てはくれないだろう、誰とも話をしたくはないから来てほしくはない、今はそんな感覚だろうか。確かに翌々日であれば学校の友達がそして先生が真っ先に面会に来てもおかしくない、こない方がおかしい、ノンちゃんもきっとそんな風に思っているはず、その点はユリが入院した時とは違っていた。状況が異常なのだから学校の先生もお見舞いにはこないのかもしれない、児童相談所にまかせるべきという判断もあり得るしそれが当然なのかもしれない。だからずっとお見舞いにはこないとしても誰かから異常だと非難はされない、それぞれの親たちも子供たちをお見舞いへ行かせたくはないのではないか、そうであれば退院までお見舞いに来る人は誰もいないことになる、そんなこともありうるのか。ユリが病院のベットで過ごした1週間とは大きく違う、でも一つだけ、両親がお見舞いに訪れることがなかったことは同じだなあ、その寂しさは同じとはいえないにしても理解できるなあ、忘れていた昔の風景がふとユリの心の扉を開けて訪れてきていた。
・・・ 
ねえ、ユリさん。今日は同級生が一人、お見舞いに来てくれたわ、本当によかった。明日は別の子か、先生がお見舞いに来てくれるかしら、もしかしたら誰もお見舞いに来ないんじゃないかって、心配でしょうなかったけど、こんなケースじゃ誰もお見舞いに来ないことも多いのかなあ、今日も来なかったら八坂さんに相談してみようかと思ってたとこ、こんなケースじゃお父さんもお見舞いに来ないものなの?お母さんを訴えてもよさそうなものだけど、ねえどう思う?
離婚して2年も経っていて、ずっと会っている様子は無かったのよねえ。子供に会いたいっていう気持ちがないお父さんは、こういうケースでは多いかもしれないわねえ。
あたし、お父さんの様子を見てこようと思ってるんだけど、沖網さんなら探してくれるでしょう。
それはやめた方がいいわ。それに、八坂さんも許可しないでしょう。
やはりこの子の感情は変に揺らいでいる、お父さんがお見舞いに来るなんて藁をも掴むことにそんなに望みを持つなんて、ユリにはその気持ちがどんな経験から湧いてくるのかわからない、冷静でいられないことまではわかるにしても、同じケースがたくさんある中でこのケースだけがわずかでも可能性が残っていると判断する根拠が全くない。もしかしてこの子には、そんなわずかな隙間から蜘蛛の糸を引き出して結びつける特殊な能力があるとでもいうのだろうか。いや、やはりやめた方がいい、また必ず感情が壊れてしまうことになる、八坂刑事もそう判断をするに違いない。
友達が一人お見舞いに来てくれたことが、ノンちゃんの気持ちを想像以上に舞い上がらせているのは間違い無いだろう。たぶん友達なのだろう、ただ何も話をせずに15分ほど座っていて、そのまま帰ったそうだからお見舞いというにしては雰囲気が暗すぎだと、ノンちゃんも言っていた。小学2年生がたった一人だから、お見舞いの品を持ってこなかったのは頷けるとしても、果たして何も話さないものだろうか。大丈夫だったことに安堵感を示すことはあって然るべきなのかもしれないし、まだほとんど喋れないからと前置きされたとしても無理して学校の様子をちょっと話すとか、相手が恥ずかしがっても一方的に声をかけ続ける方が普通なのではないか、ノンちゃんが同級生でしょうと尋ねたらコクンと頷き名前を尋ねたらシゲルと答えた、それだけのようだった。裕太くんにしても、シゲルくんが来てくれることが、なぜだか不思議な気がしている、そんなところがあるのかも知れない。
・・・ 
ねえ、ユリさん。今日もシゲルくん来てくれた。それで、、、
ごめんなさい、、いまちょっと手が離せなくて、切るわね。
私は、ノンちゃんからの報告を聞くのがだんだん辛くなってきていて、電話をすぐに切ってしまっていた。裕太くんは回復してきていて、その報告を聞くことはこんな嬉しいことはない。でも八坂さんの事務的な報告とは違う。最初はノンちゃんの微笑ましい口調が心地よかったが、ノンちゃんの世界が毎日入り込んでくると、そのありふれた日常とありふれた言葉が私にはどんどん、自分とは縁の遠い世界から来るものに思われてしまう。私の過去を理解しているはずなのに、毎日無邪気に遠慮なく喋りまくる、そんなノンちゃんを意地悪だとも感じ始めている。ノンちゃんのことが嫌いなわけではない、自分自身が嫌いなのだ、ずっと昔から、でも最近はやっと落ち着いてきたのに、また嫌いな自分が顔を出し始めた。快人さんは、何か勘づいているのかしら、明日は遠出して散歩しようと言ってくれた。私が毎日10分も20分も電話をすることなんて、今までにない珍しいことだと、遠目から見て感じていたからだろう。何かのきっかけで気分が落ち込んでいく、どんどん落ち込んで、どん底まで落ちていくのを自分では止められない、だから少しでも落ち込むようなことは避けてゆかなければならない、それが1年間の経過観察から導かれたお医者さんの答え、まだ定期的に通院しなければいけないし、新薬が出れば試しに服用している、病名がつくことのない患者、そして快人さんは慣れないナース役をこなしている。お医者さんにしてみれば、私が八坂さんの手伝いをすることなんて、とんでもないこと、言うなれば再犯を繰り返すことにでもなりかねない行為なのだ、快人さんも賛成なはずがない。
だから本当はいろいろ考えるべきではない、心の平静が少しでも揺らぎそうなことは頭の中から遠ざけるべきなのに、昨日のノンちゃんの言葉が離れることなく漂っている。父親だった桜はなぜ、私を訴えないのだろう、それが母親に対する世間一般の考え方なのだろうし、彼は迷っているのだろうか、何も迷う必要なんてない、当然に母親は訴えられるべき、そういう態度でいいはずだと思うけれど自信はない。法律など私にはわからない、ノンちゃんにもわからないだろうけれど、ノンちゃんなら血相を変えて「当然だ、それでいい」と言うだろう。世間一般とは異なるかも知れないけれど、力強くそんなふうに叫ぶであろうノンちゃんは好きであり、そう思っている自分も嫌いでは無い。そんなだから、なんとか平静を保てているのかもしれない。
ノンちゃんからメールが届いた。明日の散歩は延期にしましょうと、快人さんに謝らなくちゃ。
「今日もシゲルくん来てくれたけど、お母さんが後から来てつれ帰っちゃった。すごく感じ悪くて怖かった。シゲルくんはお母さんに聞こえないように、明日も来るって言ってたよ。ユリさん、絶対あした来てほしい。」
「わかりました、お昼すぎには病院に着きます。」
・・・ 
「すごく感じ悪くて怖かった。」
それが、なんらかのリスクをはらんでいるのかどうか、その判断材料となるのがユリの言いようのない直感であり、いわゆる勘、八坂から期待されているユリの役割だった、つまり本来のユリだけの役割であり、その役割を果たすことだけにはなんの迷いもない。迷いがないという感覚が、以前には不思議で自分ではない感覚にも思われたものが、今ではクリアで水平な心持ちとして捕まえられている。
川井戸茂、沖網さんからの情報は速く、ノンちゃんの情報と合わせると、こんな風だった。茂くんは2年生の初めに転校してきていて、両親の離婚が原因だったようだ。お母さんは若くて、なんと25歳、一人でなんとかしてシゲル君をしっかり育てようと新しい生活を始めたけれど、何せ経済的基盤がなく、飲み屋で遅くまで働いている。シゲルくんから「お見舞いへ行きたい」と持ちかけられた時、お母さんは当然のように「そんなことダメ」と反応したが、母親に黙って一人で病院へ来てしまったそうだ。どうやって病院を見つけ出したのか、その点は定かではない。先の月曜日も、母親が夕方からのかき入れ時に店へ向かう刻に子供が学校から帰宅しておらず、病院にいるはずだと目星をつけたのだろう。今日もノンちゃんの言うように、二人とも病院をおとずれるだろうか?いや、今日は他のお友達も一緒にお見舞いに来るかも知れない、ノンちゃんはおそらくそう夢想しているに違いない。
13:30着、早すぎた。八坂が用意した児童関連機関の関係者の身分証を首にかけて正面から入ろうとしたユリは、思い直して病院の周りを散策してみようと思い直した。なぜならノンちゃんと顔をお合わせたくない、顔を合わせたら30分以上おしゃべりを聞くハメになる、それは止めておこう。
・・・ 
ノンちゃんもユリと同じ児童関連機関の関係者の身分証を首にかけて、毎日病室に朝8時から夜8時までずっと付き添っている。八坂刑事と電気屋のヘッドウィグが立ち上げたN P Oがあって、八坂チームのメンバーはあるいは必要に応じて誰に対しても身分証が用意される、ユリもイヤイヤながらこの身分証を受け取っていた。実情がどんな活動内容なのか、表向きの体裁はきちんと整えているらしく、誰かがトラブルに巻き込まれてもうまく処理しているのだろう、ノンちゃんも含めてみんな優秀なのだ。
「私は、野々村鈴っていうの、保護観察っていう役目でね、あなたの面倒を見るように言いつかってこの名札に書いてある学校みたいな会社からきてる。なんでもするから、なんでも言ってね。」
最初に自己紹介した時は何も反応がなかったけれど、点滴から病院食に切り替わった頃には四人部屋へ移って、多少はお喋りし始めていた。ずっと誰かがそばにいる、誰でもいいからにっこり笑ってそばにいる、声をかけてくれる人がいる、そんな役目をする人が何人もいる、なんの反応も期待せずにそうしてくれることで、心はきっと膨らんでいくはずだ。何も言わない子供に対して、なんでもしてあげる、何かしてあげられることを探す、それも特殊な能力なのかも知れない、その能力を持った者を配置するだけの機能を備えたN P Oであることは確かだった。
ヘッドウィグはすぐに、1階の裕太のいる四人部屋の窓から経過観察できる部屋を道を隔てたマンションに設置した。夜の8時から朝の8時まで、ノンちゃんが場所を変えて、距離を置いて付き添う役目を全うする、病室に同居している患者さんたちもいるから一人になってしまうことはないけれど、何かあってからでは遅い、こどもの心を押し図ることができるなんておこがましいことを考える者は、このN P Oにはいなかった。決して目を離してはいけない。病室に朝8時から夜8時まで付き添っているノンちゃんは、自然と瞼が重くなり、裕太くんのベットに寄りかかり、気がついたら添い寝している始末、ただそばに居ることができる、他にはそんなことができる者はいないだろう。
裕太くんが一人でベットから降りられるようになった頃、夜中にトイレへ一人で向かう裕太くんをノンちゃんがスコープで眺めていた。ふと気がつくと、どこの扉から出たのか病院のピロティをゆっくりと裕太くんが歩いており、しばらくして大きな木に両手を回して取り付いた、そしてまた歩き別の木に取り付いた、三本目の木に抱きついてしばらく離れなかった。裕太くんが最初にノンちゃんに「会った気がする」と声を発した次の日、男装をして病室を訪れたように、この行動を見たノンちゃんは次の日は太った寸胴のおばさんに変装して行こうに決めていた。
・・・
「ユリさん、もうついた?そろそろ小学校が終わる頃だから、あと1時間くらいで、茂くんがお見舞いに来ると思う、大丈夫?」
「ええ、病院の外にいる。私、裕太くんには会いたくないの、茂くんにも会いたくないけど、きっと会うことになるシチュエーションよねえ、お母さんに会えば茂くんはそばに居るってことだし。」
「なにを子供みたいなこと言ってるの。中に入ってきてね。命の恩人が来るって、言ってあるんだから。」
「そんなこと言ったの?そのお喋りなんとかならないの?外から眺めていた方が、先入観を持たれることもないし、客観的に観察しやすくなると思うから、やっぱりここに居るわ。」
入り口付近のベンチに腰掛けているユリのところへ、ほどなく鈴がやってきて、横へ座った。何も言わずに座った。10分ほどしてから、とうとう声をかけてくる。ユリの様子を八坂へ報告して、ユリの役割がちゃんと果たせるように静かにしていろと説き伏せられたのだろうか、それでも何もしないではいられずに視線が泳ぎ出し、小さな独り言が始まった、何を言っているのか自分でもわからない様子が、可哀そうに思えてきた頃合いだった。
「あたしにも会いたくなかったの?」
「そうじゃないけど、自分でもどうしようもない、お医者さんからも静かにしている方がいいと言われている、私は病気なんだから。それに、病院は嫌いなの。」
「またそんな、子供みたいなこと言ってる。お昼は食べた?」
「食欲はないから、だいじょうぶ。」
「売店で栄養補給のバナナのゼリー買ってくる、待ってて。」
こんなお節介な子が、気を遣うこどもがいるだろうか?そうだった、三重と同じだ、お節介な目をしていた。
・・・
鈴が病室へ戻っていったところで、ユリはベンチから腰を上げ、病院の待合室へと席を移した。やはりどんな病院に裕太くんがいるのかは気になるし、中にいる方が目立たない、そしてことのほか気が紛れることにすぐ気がついた。子供用のスペースは開放感があって賑やかなのにお咎めはない、子供たちは外に設けられた遊具の公園と行き来していて、騒がしいというほどではない環境が出来上がっている。静寂を守ろうとする常識がないわけではないのだろう、窓口の会話も声は響くが手短であり、天井へ吹き抜けていくから耳には残らない、ふつうなら異質にすら感じられる空間で、こどもにとって学校よりよほど居心地が良いかも知れない。受付の窓口にいくつか飾りの置物やぬいぐるみ、ポートレートが並べられていて、どこの病院にも見られるナースの心づくしが、命が軽くなる病院という特殊な建物をなごませようと、工夫が凝らされていた。3匹の子豚ならぬ3匹のイノシシが目に入ったユリが、窓口に近づいて眺めているところを、横からナースに声をかけられる。何かお困りですか。いいえ、お見舞いに来てちょっと待ち合わせです。こちらのぬいぐるみが、ちょっと変わってるなあと思ったものですから、細い脚が可愛いですよねえ。ああ、これは退院されたお子さんが置いていったものなんです、誰かに差し上げていいって言ってましたので、お持ちになりますか?その子のおじいちゃんが作られたもので、皮細工なんでしょうねえ、でも足は細い棒を付けたしたみたい、なぜだか病院から持って帰るのは縁起が悪いって言って置いていかれたんです、ウリンボっていう子供のイノシシですよ。
「104号室の裕太くんの部屋の入り口付近に、裕太くんの近くではなくて、なんとなく見える位置へ1匹飾っていただくってこと、可能でしょうか。」
「ああ、その身分証、関係者の方ですか?いいですよ。3匹ではなくって?」
「ええ、あまり目立たないようにおいてください。このウリンボ、顔が賢そうだから三男かしら、これを飾っていただけますか。誰にも気づかれないように。」
「え、誰にも気づかれないように?」
ナースが、怪訝な顔をするのも無理はない、妙なお願いをしているのはわかっている、それにぬいぐるみなど近くに置くべきではない。でもトラウマから遠い場所にじっとしたままで、ずっと暮らすわけにはいかないことも自明の理だと、ユリ本人には承知のことだった。
・・・ 
14:00を回った頃に茂くんが待合室を通過して、病室へまっすぐに向かうのを観察していて一つだけ気がついたことがあった。帽子をかぶっていない、ランドセルへしまっているのだろうか、無くしてしまったけれどそのままに放置されている、ということも考えられたし誰かにいじめられている可能性もある、今はなんとも言えない。私は目を閉じて落ち着こうとした、ちょっと過敏になっている、平静を保っていないと自分の役割が果たせなくなる。すぐにメールが届いた。
「シゲルくん着いた。今日はノートを出して、国語を教えてくれている。」
「真っ直ぐそっちへ向かうの、見ていました。お母さんは来るかしら。」
「たぶん。」
「来なかったら、家へ行って、そっと覗いてみることにします。」
「一緒に行こうか?」
「ええ。」
ノンちゃんに心配されるようになってしまった。不甲斐ない、ほんのちょっとだけ、そんな感情がよぎったけれどすぐに消えた。私は、不甲斐ないことばっかりの塊だった。またいつもの負のルーティーンが頭の中で回り出したので、もう一度外のベンチへ移動して空を見上げていて、売店へ行って、また窓口のウリンボの人形に見入っていた頃、シゲルくんのお母さんが現れた。情報通りに若くて可愛らしい、高級なバーで接客していても母親とは誰も気がつくまい、でも派手すぎるというわけではなく、世間体を気にしているのだろう、つまりは子供の目に自分がどう映るか気にしているし、どう映っているかわかっている、気が回りすぎる人だ。私はフーと息を吐き、八坂さんとノンちゃんへメールした。このお母さんは大丈夫、全然怖くない。
それから15分ほどして三人、シゲルくんとお母さんとノンちゃんが待合室へ現れた。ほんのちょっとだけあった違和感、その一つだけを確かめておきたかったので、自動扉を出たところで、私は声をかけた。
・・・
「おなじN P Oのものです。こんにちは。」
「はい、なにか。」
「通学の時、お子さんは帽子を被るよう指導されていると思います、帽子をかぶった方がいいと思いまして、無くされたようでしたら、この子に言っていただけたらお貸しできます。お申し付けください。」
「ああ、しげる、ランドセルにしまってあるんでしょう。建物に入ったら脱ぐように言ってありますから。」
「それから、茂くんは裕太くんに会いたがっているみたいなんです。お母さんも反対なさらずにいただけると、いいなあと思っていまして。」
「しげる、もう来ないって言ってたでしょう。なんで、あの子のところへ来るの?私ちゃんと働いてますし、ちゃんと育ててるんですから、あの子のところとは違います。他の子は誰も来てないでしょう、私は学校からの通達の通りにしてるだけなんですから。」
「通達って、書面が、あるんですか?」
「ええ、あなたがた、きっと私のことも、しげるを虐待してるっと勘繰ってるんでしょう!」
母親の営業スマイルが消え、私の方へ1歩近づいた時、彼女の高いヒールが石を踏み、私を突き倒すかのように手がのびてきてそれを支える、勢いに負けて左足を引いたのが災いして、彼女の方がバランスを失って崩れ落ちてしまった。ヒステリックな声が響いて、病院の中のナースも何人かこちらを注視している。助けようとする私の手は振り払われ、ノンちゃんが脇から抱きかかえて助け起こしていた。
この人は怖くない、でも不安定な心を抱えている、でも私には助けられない。そして一つの違和感が消えて結論が出たところで、もう一つの違和感が生じていた、でもどうしていいかわからなかった、八坂さんに伝えるべきことなのか。その時、お母さんが転んだ時、シゲルくんは表情を変えなかった、なにかがひっかかって判然としない。小学校の2年生の子が、ただびっくりして真っ白になってしまった、それだけのことにも見える、そう思い直して母子の帰路を見送っていた。
・・・
ノンちゃんがまた、ベッドに頭をもたれかけてウトウトとしていた時、小さな独り言が聞こえてきた、夢の中での会話を朧げに覚えているふうになんとなく記憶に残っていた言葉が、不意に思い出された。「僕はお母さんに嫌われちゃったんだ」。
裕太くんが元気になった頃、おはようと挨拶ができるようになり、ご飯をおかわりするようになり、砂場で遊ぶようになり、国語の教科書を声を上げて読むようになった頃、小さな頭でこれからどうするか、どこで暮らしていくか、考えなければならなくなった。考えなければならないと言っても、一人で何かが具体的にできるわけでもない、嫌なら嫌だということもできるだろう、けれどお父さんとお母さんに対して「イヤだ」と泣き叫くのとは違うとわかっている、いくら嫌でもなんとか我慢していかなくちゃいけない、きっと今までも我慢してきたはずなのに、でもなんとなく「もうこれ以上嫌われることはない、嫌われているなんて思わないことにしよう。」そんな気持ちが根付いてしまっているのかも知れない。
もちろん、親戚や地域の人や相談所のみんなが一番いい方法を見つけ出そうと、考えを巡らしている。そして、いろいろ模索しながら、裕太くん本人の気持ちを確認する作業では必ずノンちゃんが同席した、子供本人が自分の気持ちを細かく分析しながら言葉で表すことは出来ない相談であり、何かしら気持ちを動かすものがあれば汲み取ってあげないといけない。そしてノンちゃんは、お父さんと一緒に暮らすことを最後まで実現しようと頑張っていた、急死に一生を得た子なのに気持ちが動かないはずはない、そして何より裕太くんもお父さんのことを忘れてはいない、そうノンちゃんには思えてならなかった。ノンちゃん自身もそれがずっと僅かな希望だった、経験者なのだからこうした子供との橋渡しは適任なのだ、そのはずだと自分でも強く思っているところがある、でもその思いは強すぎたのかも知れない、ノンちゃんは若く、幾度かユリの前で泣きじゃくった。
「ユリさん、あたし余計なことしてるのかなあ。」
「一生懸命なのは、子供に伝わるものよ。でもこれだけは覚えておいて、裕太くんは、あなたと二人で暮らすわけにはいかない。わかるでしょう。」
「でもそれが、2番目に私が考えていること。私ならやれるでしょう。」
「やれるけど、ダメなことはだめ。」
「今日、裕太くん言ってた。僕はお父さんに嫌われちゃったんだ、って。」
「そんなのは親じゃない、って八坂さんならいうでしょうね。」
「うん、言ってた。」
「1番目と2番目が頓挫したなら3番目ね、八坂さんが3番目を考えてくれてた、私もそれが一番いいと思う。あなたもそれがいいって思うはずよ、嫌かも知れないけど我慢しなさい。」
「何、3番目って」
「八坂さんに聞きなさい。」
・・・
次の日になっても、八坂と連絡が取れずにイライラしているノンちゃんは、早く3番目の提案を知りたくて情報屋の沖網さんにも聞いてみた、でも「いま忙しい」とそっけない返事だけが返ってきた。そんな時は八坂さんの緊急事態の指令が来ている時だと知っていた、これ以上邪魔はできない。昨夜、シゲルくんのお母さんが失踪してしてしまったことを知るのは、おおよその情報が集まってからになる、そして3番目の提案を聞くのはそのずっと後のこと、本人も忘れた頃になった。
「どうだシーネット、居場所はわかったか?」
「ええ、一番適当な言葉で言うと、駆け落ちですね。正確な場所まではまだです。」
「連れ戻した方がいいと思うか?」
「そりゃ当然でしょう。なんのために居場所を探してるんです。」
「さっき、ユリから聞いた話だと、子供の様子がなんとなく変、反応が薄いというか感情が薄いというか、とても賢いから愛想良くできるはずなのに、そんなそぶりがない、でもネグレクトされてはいない、母親にはなんの問題もなかったから、そんな査定だった。」
「じゃあ、連れ戻すんでしょう。」
「普通ならそうだが、様子を見ようと思ってる、数日だけ子供だけで過ごしたら、どんな様子か掴んでおこう。ノンノに情報を全部上げて、お見舞いに病院に来た後は家まで着いて行って泊まり込むように伝えてくれ、普通なら母親を恋しがるはずなんだがな。ああそうだ、ノンノにはただ観察するように、何も話しかけるなと、念を押しておけよ。」
「ええ、おしゃべりですからね。電話だと、事務連絡で15分はかかります。」
「お前は大人なんだ、よろしく頼む。」
のちに伝わってきた話を聞いても、この時の駆け落ちという言葉は的を得ていたと思われる。店に通い詰めていたお客に半年も前から好意を寄せられていて世話になっていた、本気ならプロポーズされても良さそうなものだった。子供がいるからお客の方が躊躇していたとの証言には信憑性があり、母親はしっかり育てるんだとみかけによらず踏ん張っていた、踏ん張れきれなくなる何かがあったのだろう。自分は同級生の母親たちからは、最下位だと見下されているけれど裕太くんの家のことを考えるとそうでもなかったかも知れない、一方で息子は母親への愛情をなかなか示さない、あの子は他の母親たちと自分を比べて見劣りを感じているのかも知れない、ずっと言いつけを守っていてくれたのに忘れ物をするようになって担任から呼び出された、誰も自分と目を合わせようとしなくなった、次は自分が事件を起こす番だと思われているのかも知れない、こんな生活ではきっと息子も悪事に頭脳を利用するようになるかも知れない、父親の役目をしようとしてきたけれどどんなことが必要なのだろう、父親にしてもらったことは何かあったはずなのにはっきりと残る記憶が思いおこせない、シゲルは父親の顔を覚えているのだろうか、きっと父親は必要ないし母親も必要ない、あの子は賢い、いやそんなことはない一緒にいよう、でも1日だけ休もう、いやきっともうだめだ、きっと母親として失格だと言われる、それは嫌だけれど、息子にだけはそう思われたくないけれど、、、
・・・
鈴お姉ちゃん、朝だよ。もう学校へ行くから起きてください。
8時を回っていた。起きようとしたが体が固まっている、やっと寝返りを打った時、シゲルくんが鍵を手に掴ませて玄関へ向かっていた、それを目で追う。
行ってらっしゃい。
なんとかそれだけ、声を出すことができた。シゲルくんは返事を返さなかった。きっとおかしな人が来た、そう思っているのだろう。布団を借りて、横になった途端に眠りに落ちた、2週間近く夜鍋をして監視体制を取っていた、病院のベットでいつの間にか寝ていることはあっても緊張感の糸は切れていなかった、沖網さんの遠隔監視に切り替えて今度はシゲルくんの付き添いを申しつかる、母親の方にも監視がついたそうだから不安材料が全て消えて安心したのだ。八坂からも「安心して休め」と言われたのだった。
目を開けて床を見つめて少しずつ体が動くことを確認していると、9時を回っていた。まずは我慢していたトイレだ。日差しが窓から差し込んでいる部屋を見回すと、あらためて何もないなあと思わせられる、台所のテーブルに食パンとイチゴが置いてある、食べるようにと置いてある、夜遅くに帰ってくる母親も朝は今日のノンちゃんと同じ状態なのに違いない、夕飯は母親が用意して早めに一緒に食べているとシゲルくんも言っていた。
古いアパートで畳も擦り切れているけれど畳クズは隅々まで眺めても落ちていない、母親が出て行く直前に掃除した様子で異様なほどに整っている、それともシゲルくんの仕業なのか、なぜか洗面台の化粧道具も整頓されて残っていて何も持っていかなかったかのようなのだ、そういえばトイレも整っていた、振り返って冷蔵庫へ足が向く。やはり綺麗に整っていて、作り置きのおかずがいくつか残してある、これもシゲルくんの仕業なのか?オレンジジュースをもらおう、せっかくだから食パンを食べようと思ってテーブルへ振り返った時、フライパンに目玉焼きがのっていてゴキブリがフライパンの近よって動きを止めたのを見咎めた、いやもしかしてもう取り憑いてから逃げようとする態勢だろうか、せっかくだから食べよう。
病院へ向かう前にもう一度狭い部屋を丹念に観察し玄関で車のキーを見つけた時、なぞが解けた気がした、どれもシゲルくんの仕業ではない。まず母親は車を置いて行ったのだ、アパート脇に並ぶ車をチェックすると確かに車があった、身の回りのものを持ち出して家を空っぽにして持っていこうとすれば車に乗せて行くだろう、いくらオンボロでも先々邪魔になるだろうと考える者がいるだろうか、タイヤは車止めにぶつかる直前に静かに止めてある几帳面さだった。全て誰かに見られている、家の中まで見られている、強迫観念にも似たものか、元々備わった気質なのか、そのように育てられたのか、つまりユリの見解は正しい、全てシゲルくんの仕業ではない、早く帰ってきてほしいと鈴は思い安堵していた。しかし、そうはならなかった。
・・・
「お母さんに、帰ってきてほしいか?」
「はい、でも僕はお母さんに嫌われちゃったんです。お母さんは帰ってきたいって、言ってますか。」
「もちろん、そう言っている。」
「でも、僕がいると大変そうなんです。僕が手伝おうとすると怒るし、朝ご飯も僕作れるのに、、、」
「確かに、お母さんは大変そうだ、でも君のせいじゃない。君も頑張る必要はない。そうは思わないか?」
「、、、よくわかりません。僕にはできるんです。だめなんですか。」
「でもお母さんにはできない。それもわかっているんだろう。でも、君には止めることはできない。」
「はい。」
「止めることができるのは誰だろう。誰かいるかい?」
「いません。」
「では、私がやろう。あのお姉さんと一緒にやる。信じてもらえるだろうか。」
「もうずっと、僕には止められないんですか。止められるようになります。頑張って。何かします。」
「今は、、何もできないんだよ。他のことはなんでもできるのに、これだけはできない。でも約束する、君が中学生になった頃には、会えるようになっている。」
「それまでは、会っちゃだめなんですか。」
「お母さんの方が、君に会うべきじゃない、そう私は思っている、これは普通じゃない考え方なんだからおかしいと思うだろうねえ、もしどうしても会いたいと思うなら相談できるそれなりの人たちが他にたくさんいる、これからたくさんの人に会うことになるだろう、自分で決めなさい。ただ私が思うに、君が信頼できると今思っている人は二人、裕太くんと野々村鈴くんだろう、それ以外の人はあったばかりの私を含めて信頼しなくていい、信頼すべきではない、そう思っているのは正しい。」
「はい。でも中学生になるまで、、、」
「信頼できる人が二人もいる、なんとかなるだろう、そして君はその二人を、ずっと助けてあげてくれ。それはできるはずだ。お母さんの他にも、助ける人がいるんだ。そうは思わないか。」
美無遊一がなぜこんなところで、あんなふうにシゲルくんと話をしているのだろう。ユリには裕太くんの退院の前にもう一つだけやることが残っており、八坂から呼び出されたついでに病院を訪れ、門を入ったところでハッとして立ち止まっていた。何を話しているのかはわからないが、百メートル近く離れたアプローチの先からでも、ユリが二度だけ見た時の雰囲気とは違っているのがわかる、彼はずっと立ったままで茂くんは見上げたままで話をしているのだ、普通の光景なのに違和感が膨らんでいた。
・・・
携帯が鳴って、美無遊一から目を離した。彼らから数歩離れたところに立っている八坂刑事が、電話をかけてきたのだ。
「ご苦労様、どうしてそこにいるんです。早くきてください。」
「私、茂くんには会いたくないの。」
「何言っているんですか。二人とも今そっち見てるでしょう。それになんですかその格好は、あの子の真似して変装ですか。」
「これは私のユニホームです。歯科衛生士なの、知りませんでした? 私、茂くんのお母さんをいじめたと思われてるから。ここでいいです。」
「何言ってるんですか全く、美無は今日急に会って話をするって言い出すし、あなたは会わないって言う、みんなわがままで困った人だ。ほら、茂くんが笑ってる。おい、遊一、おまえは笑うな。」
「そう、笑ってるの、よかった。私は出直してくるから、忙しいでしょうけどそこで待っててください。でも要件は、電話でも済むんでしょう。」
「実はそうでもない、じゃあ待っています。」
美無がしゃがんだ、ふたりは目を合わせて微笑んでいる、おじさんはわがままなの?ああそうだ、そんな会話をしているのだろうか、その姿はユリが知っている彼であり、後ろ姿から想像できていた彼の素顔だった。
ユリは、ノンちゃんが茂くんと一緒に家に戻る4時過ぎを見計らって病院へ戻り、窓口を確かめるとウリンボウの人形が2匹になっている、最初に声をかけてくれた看護婦さんが出払っていたが、すぐに戻ってきた。
あらこんにちは、何か御用ですか、1匹そっと病室へ置いておきましたよ、裕太くんが気が付いたかどうか、なんともいえませんけど多分気が付いたんじゃないかな、同じ病室の人は気が付いてましたから。
ありがとうございます。実はもう1匹いただけないかと思いまして、、
もちろんいいですよ。
それじゃあ裕太くんの付き添いの野々村にこれを渡して、お見舞いに来る茂くんに渡すように言ってください。誰にも気づかれないように、茂くんに渡すのがいいです。
また気づかれないようにですか、何かゲームをしてるんですね。同業者だからわかります。了解しましたよ。
・・・
「お待たせしました、八坂刑事。」
「ここから15分くらいのところなんだ、来てほしい。」
自転車に乗った住人に何人かすれ違うくらいの簡素な住宅街を抜けて人通りのある界隈に出るまで、無言で並んで歩いてきた。八坂刑事は寡黙な方だから自然と自分が話をする側になってしまうのだが、以前にうっかり口が滑って平手打ちを喰らってしまったことがある、言ってはいけないことをつい口走ってしまって、後悔するより早く罰を受けたようなものだった。だからこういう時は、気を抜いてはいけない。
「この塾なんだ、シーネットの情報は正確だから10分後、そうでなければもう一コマ授業が終わったら出てくるはずです。時間を潰さなくちゃいけなくなったら、また旦那さんに怒鳴られちゃうかな。」
「小学生?」
「いえ、中学生です。」
「中学生のお母さん?」
「いえ、中学生の同級生です。茂くんと裕太くんと同じ小学校の卒業生。」
「それじゃあ、どうして私がここにいて、何を見せようとしてるのかしら。」
「元々は裕太くんのことが気がかりになって野々村を張り付かせてました、でも茂くんのことも含めて二人のことを洗いざらいに調査したら、どうも結びつくはずのないことが結びついたり、逆に行政の結びつきの中で弱すぎるところがあったり、もちろん小さな他愛もない結びつきなんだがそれがやたらと多い、変に絡まっている、これだけ絡まっていると悪意が感じられなくもないって沖網が言うんですよ。そして緊急性がありそうな事案を見つけたのが、これです。」
「沖網さんて、熱心なんですね。」
「ええ、私と同じくらい。」
冗談で、自画自賛しているのではなかった、つまり沖網さんも誰か大事な人を亡くしている。
・・・
「出てきましたよ、あの四人。あのおさげの子が他の三人にいじめられている、長い間ずっと。そうは見えませんか?」
「いいえ、女子中学生の査定、ということだったんですね、無理ですよ。」
「そうですよね、じゃあ一緒に跡をつけましょう。」
「尾行するんですね、なるほど一人では怖がられるでしょうね。でも警察手帳を見せたらいいのに。」
「手帳を見せたくないから、あなたを呼んだんでしょう。断られるかと思ったけど、すんなりきてくれると言った、子どもたち二人に会いたいと思っていた、心配していたんでしょう。」
「実は、そうでもない。私にしかできないことをしていたんです。」
「なんですか。」
「教えません。」
私にしかできないことなんて、多分何もない、しゃべっても何も意味がない気がして遮っていた、そして案の定尾行しても何も気が付かなかった。八坂さんは、何かに気がついたのだろうか?その点を聞きそびれたのは、八坂刑事が帰路の車を運転しながらずっと喋り続けていたからだった、質問の合いの手を入れるとインプットされた情報を全部出している、自分で復唱していたのかもしれない、それほど複雑で解くことのできない謎の連続なのだろう、小さな謎ばかりなので始末が悪いと言ったところだろうか。どうやら小学校全体の雰囲気がおかしい、地域全体にもいくつか違和感が生じている、住人一人一人を見ればなんの変哲もない日々の暮らしが漂っているのに、もともと理解する気もなかった私でも多すぎる疑問に気分が萎えてきた。
「あの病院はいい感じだったでしょう、ナースは普通以上に親切よ。子供が遊べる砂場まで、きれいに整備されていた。見たでしょう。」
「ええ、沖網の情報と一致しています。でもその砂場で、幼児が怪我をして、大したことはなかったんですけど、訴訟になっています。こういう広域の案件は、やっぱり、美無の案件だな。」
「それで、あそこに美無代議士が来ていたのね。」
「とんでもない、砂場になんか目もくれなかった、大体外へ出るのも久しぶりで、つまり家から出ないってこと。あの子に会いたかったんだろうなあ、そういう直感で動いている、確かに会いたいと思うような何かがあるように、俺にも思えたなあ、、、。どんな子なんですか、茂くんは?」
「わかりません、ノンちゃんに聞いてください。」
「失礼しました、質問を変えます。どんなお母さんでしたか?あなたの口から聞きたい。」
「、、、賢い息子を持っているから、、、気苦労の多い、、、几帳面すぎて走り続けている、ひとりぼっちな、、、幼いお母さんです。母親であることってなんなのか、本人が幼いとわからないこともある、もっと早くに誰かが、ほんのちょっとだけ引き離してあげたらよかったのかもしれない。そうしたら、こんなに突然に距離が離れることなんて、なかったんじゃないかしら。」
・・・
茂くんのところには、相談所の担当者をはじめとしてたくさんの関係者が訪れて、この先のことを模索し、提案というか説得が行われていった。茂くんはいつも短く、施設に入ると返事をするだけ、隣に構えているノンちゃんはそれが本心だとわかるので、どんな説得も論破していたしきっと時間切れになることも見越していた。母親の謝罪を受けて下された同居の判断は公的なものにもかかわらず、なぜか取り消され、全て一旦白紙になったこともあって記録も見当たらなくなっている。そしてN P Oの提案つまりは八坂刑事の思惑を反映してことは進み、茂くんの入所する施設は沖網さんがスキャンし、ノンちゃんまで額縁のメガネをして見聞に行った。今回が茂くんという特別な子のための特別な対応なのか、いつものことなのか、ユリにはあまり関心がなかった、気がかりなのはお母さんがこれからどんな暮らしをしていくのか、再婚することは期待薄で元の職場に戻るかもしれない、そして息子の居場所へ近づくことは許されない。母親にとってこれが1番いい、もし本人がどんなに自分を卑下していたとしても、時間をかけて何かを見つけるあるいは何かに出会うしかない、彼女は若く時間がたくさんあるから、そして茂くんのことを忘れることはないからその点も心配はしていなかった。でもその後、彼女はこの街から頑として離れようとしなかった、最後に茂くんから手紙をもらってやっと意見を変えたのだ、しばらくはひとりぼっちになってしまうがここの環境は良くないと、八坂刑事も頑として譲らなかったのだ、それが正しいと思う。何かを変えないといけない、そういう時はある。
私は、何かを変えようとしていただろうか、遠い昔のことがまた頭の中を回り始める、私の周りには親切な人が何人もいたから、その生活を変えようとしていなかったのか、嫌いな自分が何度も現れるけれど結局は薄れていく堂々巡り、これ以上嫌な自分へ落ち込まないだろうと思っていたのか、その正体を誰も教えてくれなかったのは裏に潜むものなどなかったからなのか、何をどうやっても時間を戻すことはできない。
でもノンちゃんは、変える道を選んだ。もう会うこともないだろうし、会わないほうがいい。
・・・
最後にノンちゃんと電話してから、もう2週間ほどになる。ちゃんとやっているだろうか、久しぶりにその顔が浮かんできた、サスペンダーをしたチンピラ、年配の看護師、そうかもしかしたら何かに変装して近くまで来たこともあったのかも、もし気が付かなかったのなら怒っているだろうなあ、その怒った顔も思い浮かべられる。最後の声は、鳴き声だった。
「ねえ、快人さん。ノンちゃんにあったことないでしょう。」
「うん、未成年だけど八坂さんに手伝わされてた子だろう。あの子と電話してる時は、よくしゃべっていたよねえ。大きな声だったから、近くにいたら聞こえてきてたよ。元気だなあと思ってた。」
「最後に電話した時、あの子泣いてたの。事件は収束して、その後は何もいってこないから大丈夫だと思うけど、もしかしたら変装して近くに来てたりしたら、見つけられなかったらどうしようって、思っちゃって。」
「そうか、あれは君だったのか。路地の影に君が立っているのが見えたんだけど、診察室に戻ってみると君がいたことがあった。似てる人がいたと思っていたけれど、あれは君だったんだ。身長は君くらいかい?」
「全然違うけど、きっとそれくらいの変装は簡単よ。じゃあ別の日にも、見かけたことあるでしょう。」
「ああそうだ、君が出かけた日にデパートで、こんなところで会うなんて気が合うなって、声をかけたんだけど聞こえなかったみたいで、すぐにトイレへ入っていくのを見たことがあった。なかなか現れなかったけど、トイレを覗くわけににも行かなくてね。あれはあの子の仕業なのかなあ、すっかり忘れてた。」
「まったく、あの子何やってるのよ。もう絶対、口きかない。」
「おや、怒ったところを見るのは初めてじゃないかな、得をしたよ。あの子のおかげだ。」
「もう、あなたとも口きかない。明日は口きかないから。」
「明日?」
「今日は、話そうと思ったから、明日。」
今は、ノンちゃんの顔や仕草がはっきりと浮かんできている、明日はどうなるかわからない。
・・・
ノンちゃんは小学校の4年生まで父親に殴られて過ごしていた、いつも酔っ払ってお母さんと二人で殴られていたけれど酔っていなければ普通のパパだった、お母さんには収入のつてがなく借金もしていた、ノンちゃんは二人に内緒でそして中学生だと偽って新聞配達の仕事を始めた、朝早くに朝刊を配る仕事を、両親ともそれに気が付かなかった、小学校へ行っているのかどうかも関心がなかった。近所に新聞配達している中学1年生がいて、一緒に嘘をついてくれた、学生服も貸してくれた。5年生になる前に父親が失踪して今度は母親に殴られるようになった、小学校を卒業して、中学校の用意は何もされず、それで家出した。
「ノンちゃん、最後に電話した時に泣き出しちゃって、それでいつの間にか眠っちゃったみたい。」
「そう、心配だね。」
「もう2週間経つけれど、茂くんの入所する場所が決まって安心してた時、裕太くんの心配をして八坂さんが動いていて、3番目にいい方法を提案してくれて、私も賛成した。」
「3番目?」
「ノンちゃんが考えていた2番目までは、八坂さんが賛成しなかったし私もそうだった。そんな時にノンちゃんが涙声で電話してきた、ノンちゃんはずっと裕太くんのお父さんに最後の望みを捨てなかったのにね、でもそんな時に茂くんが偶然に言ったそうなの、僕はパパに嫌われたんだって、裕太くんと前に言ったことと同じこと言ってるって、いつもなら電話で怒りまくるんだけどね。二人とも同じこと言ってる、もういやだ、ゥウウって泣いてるの、あたしもういやだって。だから本当は八坂さんから聞くべきだって思ったけど、その時に話したわ。裕太くんは里親に預けようとしていて、茂くんの施設へは歩いて行ける場所だって、もちろんノンチャンはダメだって言い張った、でも八坂さんはノンちゃんも一緒に預かってもらえる里親に探してやっと見つけた、いい人たちだって言ってたって伝えたの。私もそれがいいって伝えた。一瞬うそのように静かになったわ、それから私が一方的にしゃべってた、あなたは嫌かもしれないけど我慢しなさいって、あと数年の間は後継人がいなくちゃいけないけど八坂さんには無理、八坂さんはきっと根を上げたのよ、それに裕太くんはそれがいいって喜んでる、別に両親だと思わなくてもいいし里親っていうのはそういう保護者なんだってちゃんと先方は心得ている、おじさんおばさんて呼べばいい、今あなたが信用できるのは八坂さんだけでしょう、何かが変わるかもしれないけど別にあなたは変わらなくたっていい。そしたら情けなさそうに言ったのよ、自分はきっと迷惑かけるまた嫌われる、裕太くんに嫌われたくないって、柄にもなく愁傷なことを言い始めたわ、それじゃあずっと仮面をかぶって変装していなさい、それができないならこれまで通り家に寄り付かずにバイトしながらどこかに寝泊まりすればいいし好きにしていて大丈夫、それも先方は心得ている、なんでも面倒を起こせばそれはそれでいいのよ、全部責任を持つのは八坂さんなんだから、私はそれが一番いいと思う。ゥウウ、ゥウア、それからずっと泣いてて、ずっと泣き声を聞いてあげてた。ノンちゃんはそれから、変わろうって決心したんだと思う。だからわたしにはもう連絡しないって決めたんだと思う。それが一番いいと思う。あなたもそう思うでしょう。」


二千二十三年七月 T著 


登場人物
立花 ゆり タチバナ ユリ
野々村 鈴 ノノムラ スズ
西門裕太 サイモン ユウタ  
川井戸茂 カワイド シゲル


第五章 
 1/3 ベビーカー
 2/3 ぬいぐるみ
 3/3 吊り橋
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