第2話

文字数 3,645文字

 私が入った頃咲いていた桜は散り、葉桜の季節が過ぎ、湿気が上がり、梅雨前独特の夏っぽい気温になってきた。寂れた商店街のアーケードではどこからかアニメ「チェーンソーマン」のオープニングテーマ「KICK BACK」が流れていた。

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 高畑サナエが入所してきたのはそんな頃だった。彼女は躁うつ病とてんかんでシングルマザーのバツイチだった。歳は28歳。通所している人の中では、かなり私に近い年齢だった。子供はもう小学生らしい。田舎では基本的に子供を作るのが早い。そしてバツイチになるのも。ヘビーな生活だ。

 体格はかなり華奢で、口元にある右下のホクロが特徴的だった。茶色の目立たないカラコンをつけて、少し長い髪は結んでポニーテールにしていた。髪型のせいか少し幼く見えた。
 
 美人と言っても差し支えないかもしれない。もしも20歳と言われても信じるだろう。家に帰り、「さよならポニーテール」のとあるアルバムのジャケットをなんとなく見直した。

 そんなある日の事、いい陽気なので施設内では無く近くの小さい公園のベンチで昼食を取っていた。「タニガキさん、ここいいですか?」
 
 高畑サナエだった。おにぎりを頬張っていたため声を出せなかったので、頷くことしかできなかった。
 それまであまり話したことは無かったので少し緊張した。彼女は少し距離を空けて私の右隣に座り、小さめの弁当箱で昼食を食べ始めた。ホクロは右下なのでこちらからは彼女のチャームポイントは見えない。
 
 私の方はおにぎりを食べ終わり、手持ち無沙汰になっていたので、暇つぶしにスマホで青空文庫を読んでいた。
 スマホのゲームは殆ど糞ゲーだ。ソシャゲは課金でユーザーを煽り、サービスが終了した後は(サ終と言うらしい。高畑サナエに教えてもらった)何も残らない。昔のゲームならソフトを買い直せばできるが、ソシャゲは違う。人によるが、いいキャラが出るまでリセマラ(リセットを繰り返す事だ)を繰り返し、ストーリーが進んでいく。私はあまり好きでは無かった。
 公園の木々は青々と茂っている。でも昼食の時間にそこで遊んでいる子供達はいなかった。彼女も弁当を食べ終わり、一息ついていた。蒸す季節なのに長袖を着ていた。おそらくリストカットの跡を隠す為だろう。
 
 「今は結構落ち着いたんです。躁鬱の波が激しくて。昔は今プラス拒食症もあって、」と、彼女が口火を切った。どう答えれば良いのか分からなかったので、「そうなんだ、それは良かったね。」と無難な返答をした。
 
 「眠剤飲んだ後、気がついたら夜中に色々食べちゃって、食べ終わったら自分で指を突っ込んで吐いて、結局何も食べられなくて。その繰り返し。今より痩せてました。」「今よりも?」「太るのが怖いんです。躁うつ病も治る気配が無いし」
 
 唐突に彼女の目に涙が溜まり左目から一筋の涙が頬を伝った。私は彼女側からすると左手に座っていたので薄い涙の後がよく見えた。彼女は私より不安定な時があるらしく、たまに施設のベッドで休んだり、躁状態の時は朝礼がスムーズに進まない時に支援員と言い合いをしたり、所長にちょくちょく相談したり、一筋縄ではいかない部分があった。
 
 私も思わずもらい泣きしてしまった。高畑サナエはそれを見て泣きながらも驚いた様子だった。ハンカチを貸そうとしてくれたが、固辞して自分のハンカチを引っ張りだした。しかし慌てていたため落としてしまった。
 
 地面の上に落ちた、乱暴に畳まれたハンカチを見ながら泣いている私を見て、「すみません、私のせいで。」と自分のハンカチを私に貸してくれた。彼女はもう泣いていなかった。

 無意識のうちに、自分でも思いつかなかった言葉が溢れてきた。
「......私も抗うつ剤の量を最大まで出して貰っていて、それでもまだうつな時があります。意味無く泣いたり、イライラしたり。
 壁を殴って凹んでしまった事もあります。拳からは血が流れました。死にたくなって樹海に行った事もあります。ロープは前もって買ってありました。でもうまく死ねなかった。遺書もこれから書こうと思っています。
 パニック発作もキツい時があります。突然動悸や目眩がして、蹲ってしまう事も。なんでこんな人生なんだろうって。他の人たちは人生の駒を次々と進めているのに。私はスタート地点前にいます。」

 彼女はなんと言っていいのか困った表情でこちらを見る。

「死にたくてしょうがない。何もかも嫌になる事があります。ずっとベッドで寝たきりの状態で、ドアノブで首を吊ってやろうかと思う時があります。
 泣きながら怒ったり、自分の感情がよく分からなくなる時があります。」
 
「でも、なんとかやっていくしかないんです。こんな世の中でも、自分と、社会と向き合い続けていくしかないんです。」

 自分の世話もできないアラサーがよく言うよ、と心が語りかけてくる。お前はそんなに立派な人間なのか?

 「そうですね……」やっと涙が止まった高畑サナエが呟く。「やっていくしかないですよね…」

無性に海が見たくなった。波を見ていると心が落ち着くのだ。
 
 施設に帰ると最初にいた彼が同年代の友人を相手にポケモンのカードゲームをやっていた。ポケモンはずっとやっていたが、カードゲームはほぼやった事ない私はぼんやりとその様子を見ていた。
 
「なんとかやっていくしかない」

 さっき自分が放った言葉がそのまま帰って来て心で反芻する。やっていくしかないんだ。

 ふと、昔3DSでやっていたポケモンを思い出す。ポケモンダイヤだったか。ゲームを進めていくとポケモンがどんどん強くなっていった。ダイヤのチャンピオン、シロナは言う。

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 高畑サナエにあてられたのか、その日は午後になったらうつが襲ってきて、体調不良として早退させてもらった。

 カフェに行きビールでも飲みたい気分だったが、パニックが怖いので、バスで帰り、帰宅後買ってあった発泡酒を一本飲んだ。ちなみにメンタルの薬の処方箋には、ほぼ「飲酒禁止」と書いてある。でも飲まなきゃやってられない。
 
 仕事をサボってビールを飲むのは背徳感があったが、その日はなんとなくやり切れない気分だったのだ。午後は午前から一変して曇った天気になり、雨は降らないものの、それはなんとなく淀んだ空気になり自分に纏わりつき、家に帰っても晴れる事はなかった。

 その次の日は気分が晴れなかった。体が重くてベッドから起き上がれないのだ。私はそんな日の事を「重力が強い日」と名付けていた。予期せず唐突にやって来る黒い犬だ。
 
 人を励ました次の日に私が体調不良だとは滑稽だが、どうしても「Mirai」に通う気分になれなかった。外は雨だ。両親に今日は休むと告げ(たまにある事なのでなんとも言われなかった)、なんとかスマホを取り出して就労支援に今日は休むと連絡し、ベッドで横になった。
 
 両親が出勤した後、また横になると「ペットボトル」がやってきた。たまにこっそりちゅ〜るをあげるので、貰えると思いやってきたのかもしれない。残念ながらちゅ〜るは切らしていたため、普段の餌を少し出したが殆ど食べなかった。ベッドで私の脇に座り、パタンと寝てしまった。
 
 私もまだ眠かったが猫の後頭部を撫でていると、暗愁とした気分が少し落ち着いてきた。猫は万能薬だ。「ペット」と小さい声で呼んでみるが返事はなく鼻からすぴー、すぴー、と小さい寝息が聞こえた。(普段は略して呼んでいる)
 
 今頃皆働いているだろうか?高畑サナエや手長足長も来ているだろうか?この現実をペラっと捲るともうひとつの輝かしい未来が見えないものだろうか?願いはひとつしかない。ただ昔の私に戻して欲しい。健康だった自分に。
 
 うつ病やパニック発作がこんなにきついものだとは思わなかった。手のひらで顔を覆い、目を閉じ、もう一度開いたがもちろん何も変わっていなかった。
 
 昼は日清のカレー味のカップヌードルで済ませ、またベッドに戻る。うつ病で一番きついのは午前中だ。午後になると少し落ち着いてくる。外から見たらただ寝ているだけなので変わらないだろうが。
 
 今のテンションに合う手嶌葵のBest盤を流す。タイトルは「Simple is best」。透き通った儚げな声は今の自分でも聴ける落ち着いた音楽だ。
 テンションが高い音楽は最近聴く気になれない。撮り溜めたテレビ番組もDVDも見る気がしない。バラエティ番組なんて見ているだけで気が狂いそうになった。
 
 BSの、只景色を写しているような番組しか見る気になれない。本も今はあまり読む気がしない。SNSを見ているといかに自分が他の人々と違う暮らしをしているのかがわかった。今はグレゴール・ザムザの「変身」のように横たわっている事しかできない。巨大な毒虫にならないだけ、ましかもしれないが。
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