第6節 ヨーロッパの皇帝

文字数 2,906文字

第6節 ヨーロッパの帝国
 395年にローマ帝国が東西に分裂し、476年に西ローマ帝国が滅亡した後には、ギリシア語で王を意味する「バシレウス(Βασιλευς)」と称される東ローマ皇帝が、1453年の滅亡まで政教の全権を支配し、唯一の正統なローマ皇帝としてその権威を主張している。6世紀頃から、ギリシア語が帝国の公的な場で使われ、政治・宗教・文化の東方化が進み、コンスタンティノープル教会はローマ教会とキリスト教の正統性を争うようになり、1054年、三位一体における精霊の地位をめぐる論争から、お互いに破門し合い、大分裂を迎えてしまう。コンスタンティノープルは、西ヨーロッパと違い、コンスタンティノープル総大主教の任命権を握るなど皇帝教皇主義を採用したが、それが宮廷の不安定さの要因となり、後継者を自称するロシア帝国の宮廷内でも続くことになる。15世紀になって、南ロシアを実効支配するモンゴル人をうまく利用して力をつけたモスクワ大公国のイヴァン三世が最後の東ローマ皇帝の姪を娶って、「皇帝」の名称と「双頭の鷲」の紋章を手にしている。以降、モスクワ大公国の流れを持つロシア帝国はビザンティン帝国の正統な相続人を自認して、ツァーリは絶対的な政治権力・宗教的権威として君臨し、最盛期には北アメリカのアラスカまで支配する大帝国に成長していく。

 これに対して、西ヨーロッパでは長い間、皇帝が登場しなかったけれども、教義問題でビザンティン帝国と対立し、有力な世俗権力の後ろ盾を必要としていたローマ教皇レオ三世が、800年のクリスマスの日にカロリング朝フランク国王であるカール大帝を「皇帝」として戴冠させる。以後、中世西ヨーロッパにおける皇帝は、ローマ教皇や都市ローマの保護者だけでなく、キリスト教徒の共同体全体の守護者としての立場をとるようになる。皇帝がローマにおいて教皇の手によって戴冠される習慣となったことは、両者の協力関係を示している。だが、一方で、皇帝と教皇のどちらが上位にあるかという微妙な問題を生み出してしまう。

 歴史的に、西の帝国は、東と違い、不安定であり、それを「帝国」と呼ぶことさえ首を傾げるほどである。為政者たちは、その脆弱さゆえに、磐石な「帝国」を渇望していたとさえ見える。

 カール大帝の息子であるルイ敬虔帝の時代には、彼の死後にカロリング帝国がゲルマン古来の分割相続の原則により複数の息子たちの間で分割されることが予想されていたため、そういった分裂を懸念するランス大司教アインハルト・アンギルベルト・フラバヌス=マウルス・ヒンクマールといった教会理論家たちは皇帝や帝国の普遍性、さらに皇帝のキリスト教的使命についての理論を展開する。しかし、843年のベルダン条約によってフランク王国が三分割されると、皇帝位はカロリング家の諸国王の間を転々とし、名目的な称号に落ちていく。

 カロリング朝の家系断絶後、962年に、ザクセン朝ドイツ国王であるオット1世が教皇ヨハネス12世の手により戴冠されて皇帝位に就いて以降、多くのドイツ国王が皇帝として即位し、その支配領域が「神聖ローマ帝国」と呼ばれるが、そのような名称が実際に登場するのは13世紀半ばである。オットー1世の孫で、ビザンティン皇女を母に持つオットー3世の時代には、「ローマ帝国の復興」という理念が明確に追求される。かつてアウグストゥスの宮殿があったローマのパラティヌスの丘に皇帝宮殿が建てられ、そこを古代風の帝国支配の中心にしようとしている。

 ザクセン朝に続くザリエル朝時代には、長年に亘って懸念されていた叙任権闘争が起こり、聖職叙任権をめぐって皇帝とローマ教皇が対立する過程で、キリスト教世界のリーダーシップも同時に争われる。その結果、少なくとも教権に関する教会聖職者の叙任権がローマ教会にあることが確認される。同じ頃、ドイツ王国内において諸侯に対する皇帝の優位が失われたこともあって、13世紀初頭には教皇権の皇帝権に対する優位が明らかとなる。教皇インノケンティウス3世は、次のように演説して、皇帝選挙にまで介入し、皇帝承認の権限を主張している。

 造物主は教会のもとに二つの主権をおいた。その一つは教皇権で、これは太陽のようなものである。いま一つは皇帝権で、これは月のようなものである。それゆえ、太陽が月の上に位するように、教皇権が皇帝権の上に位することは自明である。神は聖ペテロに全世界の教会だけではなく、宇宙のすべてを支配すべき使命を託した。万人が教皇に服従することは、あたかも羊が牧人の杖にしたがうごとくである。

 しかし、14世紀以降、ドイツ国王は教皇支配からの独立を目指し、1,356年の金印勅書によって七名の選定侯によるドイツ国王 = 皇帝の選挙の原則が確立されて、皇帝即位に関する教皇の関与は事実上消滅し、教皇による戴冠式すら必要ではなくなる。他方、オットー1世以後のドイツ王国では、皇帝は実質的にはドイツ国王にすぎないという現実と普遍的支配者としての皇帝理念とが対立せざるをえなくなってゆく。皇帝理念はローマとイタリアの保護を求めたため、歴代の皇帝はイタリア遠征と支配を繰り返している。それは、1,220年から50年まで続いたシチリア王とエルサレム王でもあったシュタウフェン朝のフリードリヒ2世時代に頂点に達したが、彼の死後は皇帝のイタリア半島における支配圏は事実上消滅する。金印勅書によって規定された選定侯がいずれもドイツの聖俗大諸侯であるという事実は、そこで選ばれる皇帝がもはやドイツの国内統治に限定されたことをはっきりと示している。

 また、中世後期のヨーロッパ各国で、それぞれに中央集権化が進行し、近代国家が形成されてゆく中で、キリスト教徒の共同体に対する責務も含めて、皇帝と各国の国王は対等の政治的支配者であるという理論が生まれ、従来の普遍的皇帝権が相対化する。先が閉じた王冠や十字架がついた宝珠など皇帝だけが用いるとされた標識も、各国の国王が模倣する。そのような皇帝権相対化の事情は、西ヨーロッパだけでなく、東ヨーロッパにも見られえる。

 13世紀後半には、シュタウフェン朝断絶後の皇帝位をめぐってドイツ諸侯が対立し、皇帝が選出されないという大空位時代があり、ドイツにおいても皇帝や帝国の称号と権威は内実を欠くものになったことが露呈する。14世紀以降、西ヨーロッパでは、皇帝位は依然としてドイツ国王によって継承されるものの、普遍的政治権威ないしキリスト教共同体の守護者としての内容は消失する。

 1,806年に神聖ローマ帝国が完全に崩壊した後には、ハプスブルク家やホーエンツォレルン家が皇帝位を主張し、フランスにおいてもナポレオン・ボナパルトとその甥ナポレオン3世が皇帝を名乗っている。また、イギリスでも、ヴィクトリア女王は、植民地帝国については皇帝の称号を用いている。しかし、この時期になると、古代や中世半ばまでの皇帝の持っていた普遍的支配者理念は消滅しており、たんなる複数の王国や民族の支配者であることを主張する称号にすぎない。
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