2 『雲は天才である』

文字数 4,997文字

2 『雲は天才である』
 啄木は、彼の代表的な小説である『雲は天才である』において、次のような文体を用いている。

 入口を見ると、三分刈りのクリクリ頭が四つ、朱鷺色のリボンを結んだのが二つ並んでいた。自分が振り向いた時、いずれも嫣然とした。中に一人、女教師の下宿している家の栄さんというのが、大きい眼をパチパチとさせて、一種の暗号祝電を自分に送ってくれた。珍らしい悧巧な少年である。自分も返電を行った。今度は六人の眼が皆一度にパチパチとする。
 不意に、若々しい、勇ましい合唱の声が聞えた。二階の方からである。
 こう自分の感じたのは無論一転瞬の間であった。たとえ一転瞬の間といえどもかくのごときさもしいことを、この日本一の代用教員たる自分の胸に感じたのは、実に慙愧に堪えぬ悪徳であったと、自分の精神に覚醒の鞭撻を与えてくれたのは、この奇人の歪める口から迸った第一声である。

 この文体は演劇的と言うよりも、映像的である。アップとロングなど視点の入れかわりが激しく、それぞれの文章のつながりはカメラ・ワークを思い起こさせる。と同時に、ここには、時代劇専門の俳優が現代劇を演じるという加藤茶が得意とするコントを思い起こさせるような、チグハグさがある。情景描写と心理描写の文体が異なっている。この小説の文体は、設定が現代なのに、まるで時代劇である。言わば、活動弁士が弁舌をふるっている印象がある。

 伊藤整は、『日本文壇史Ⅰ』において、明治十年代、新富座の俳優「市川団十郎が当時大根役者と言われたのは、その演技が新しかったからである。彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝える表現を作り出すのに苦心した」と指摘している。時代劇、歌舞伎は、本来、人形劇、人形浄瑠璃を基盤に、人形の代わりに人間を使った舞台であるから、人間は、厚化粧に隅取られた顔をし、「古風な誇張的な科白」を語り、「身体を徒らに大きく動かす派手な演技」によって非人間化して、人形化して演じなければならなない。啄木は、この小説で、「日常会話の形」を十分に生かしていないし、「精神的な印象を客に伝える表現を作り出すのに苦心」してもいない。

 啄木は、この二点を見事に実現化している日記の中で、『雲は天才である』について、次のように解説している。

 欝勃たる革命的精神のまた渾沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ。題も構想も恐らくは破天荒なものだ。革命の大破壊を報ずる暁の鐘である。主人公は自分で、奇妙な人物許り出てくる。これを書いて居るうちに、予の精神は異様に興奮して来た。

 なるほど『雲は天才である』という「題」は「破天荒」であるかもしれないが、「構想」にしても、「人物」にしても、「奇妙」ではない。民衆は決断力のある人間を好む。漱石は『坊っちゃん』で決断力のある主人公を描いているが、啄木はそうしていない。『雲は天才である』は、明治の日本を舞台にしながら、内容的には、都会ではなく、自然に囲まれた地方都市を場面として、さわやかな歌がつきものの、70年代によくあった学園青春ドラマである。

 この小説は、主人公の勝利ではなく、失職を結論にした『坊っちゃん』以上に、その規範となっている。主人公新田耕助のキャスティングは夏木陽介か竜雷太、浜畑賢吉、村野武範あたりとなる。どこまでも明朗快活な若者である彼らは、新田と同様、英語の教師である。女性教師の山本孝子は早瀬久美か坂口良子であり、田島金蔵校長は穂積隆信か平田昭彦であることは言うまでもない。

 啄木は、日記において、当時話題になっていた漱石や藤村の作品について次のように批判している。

 近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持って居る。しかし「偉大」がない。島崎氏も充分望みがある。『破戒』は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない。革命健児ではない。兎に角仲々盛んになった。が然し……然し、……矢張自分の想像して居たのが間違っては居なかった。「これから自分も愈々小説を書くのだ」という決心が、帰郷の際唯一の予のお土産であった。

 啄木は漱石や藤村の作品に対して小説ではなく、叙事詩として反応している。ヘンリー・フィールディングは、『ジョゼフ・アンドルーズ』の序文において、小説を「散文による喜劇的叙事詩」と定義している。啄木の小説はこの定義にぴったりとあてはまるけれども、出来の面ではそれらに満足し得ない。近代社会や近代人を扱う近代小説には「天才」も「偉大」も不要である。主人公は等身大でなければならない。

 啄木の小説に関する理解は、必ずしも、十分ではない。「僕には野心は無いよ。ただ結論だけは有る」と『我等の一団と彼』で書いた啄木は、小説において、失敗よりも、成功という「結論」を描こうとしている。小説を書くには「結論」よりも「野心」というプロセスのほうが重要である。近代人は人生において何らかの失敗を経験している。成功を書くことは難しい。そんな成功談を目にすると、近代人の読者は世の中そうそううまくいくものか、とやっかみの一つも思わずにはいられない。しかし、もしそうしたいのなら、「喜劇的叙事詩」という概念に着目すると、二つの方法が導き出せる。同時に満たせれば言うことなしだが、そんなに欲張ってはいけない。日常から引き離さないと、作品世界にリアリティがでない。

 第一に、書き手は喜劇的傾向を強くしなければならない。コールリッジは、『ユーモアの本質とその構成要素』において、「真のユーモアの中には、この世の営みが空しい茶番狂言であり、それがわれわれの中の神的なものといかに不釣合いであるかの認識が、必ず存在する」と指摘している。だが、啄木は、小説で、「この世の営みが空しい茶番狂言」ではなく、「それがわれわれの中の神的なものといかに」釣合いがとれているかの認識が存在していることを書こうとしている。

 タイトルに「雲」がつく喜劇と言えば、古代ギリシアの保守的作家アリストパネスの喜劇に、ソクラテスが登場してくる『雲』という作品がある。都会の贅沢な女と結婚したストレプシアデスという田舎者の無学な男が、ペロポネソス戦争のために、田舎の土地が荒廃し、その上、息子ペイディッピデスが貴族趣味の馬道楽に凝って浪費してしまい、多額の借金を背負いこみ、負債の利払いにも困窮したので、給与の一策として、息子をソクラテス学校、「思索所」に入学させる。そこは弱論を強弁し、「不正」を「正」に言いくるめる術を教えてくれるとの評判があり、ストレプシアデスは債権者を法廷で言い負かす方法を息子に覚えさせようと企んでいる。

 ペイディッピデスは、確かに、弱論を強弁する技術を身につけるのだが、父親を殴ったり蹴ったりしておきながら、それを巧みに自己弁護するという結果にしかならない。怒ったストレプシアデスは責任をすべて学校になすりつけ、そこを焼きうちしてしまう。ストレプシアデスにとっての、ソクラテスは「自分の立場が正しかろうが正しくなかろうが、とにかく勝てる方法を、金さえ出せば教えてくれる」ソフィストであり、「思索所」には青白い顔をした弟子たちが、「蚕は自分の足の何倍ほど跳ぶか」とか、「蚊は口で鳴くのか尻で鳴くのか」といったことを真剣に論じたり、「タルタロスの下の夜闇を調べて」身をかがめ、あるいは世界地図を広げたりしている。

 一方、ソクラテスは中空につられた籠に乗り、「アエールを踏み、思いを太陽のまわりに馳せ」て天空を研究している。借金を帰さない方法を教えてくれるなら、礼はいくらでもおしまない、「神様に誓ってもいい」と告げるストレプシアデスに対して、「われわれのところでは、神様なんてものは通用しない」と彼はうそぶく。ソクラテスの神とは、働かずに自分の知恵だけで生活している人たちの守護神、空漠として正体のない「雲」だ。

 スウィフトは、『書物合戦』の序文において、「諷刺は、誰の顔でも映すが、自分の顔は映さない一種の鏡である」と書いている。アリストパネスは「自分の顔」を避けているのに、啄木は諷刺の中に「自分の顔」も映すことを試している。

 さもなければ、緊張が持続するスリリングな叙事詩にしなければならない。啄木は小説を教訓を目的とした逸話的物語としている。啄木は一つの作品を持続して書くことができない。彼にはそれは一週間が限界である。彼には集中力はあったが、持続力はない。しかし、叙事詩の描く運動曲線はピークが持続され、なおかつその持続が圧縮されていなければならない。

 叙事詩は持続のもたらす陶酔を表現する。叙事詩が英雄を語ってきたのは、人間の集中力の持続が短いからである。英雄には彼らにふさわしい人間以上の超越的な持続力を発揮する形式を用意しなければならないというわけだ。陶酔状態を壊さぬように、その人には細心の注意とあらゆる犠牲が要求される。成功と失敗が紙一重の差の状況下で成功した叙事詩でなければ、それを受けいれない。

 大リーグでは、今世紀に入って、のべ十二人が四割を達成しているが、その中で一番語られるのはボストン・レッドソックスのテッド・ウィリアムズのケースである。と言うのも、このスラッガーは、1941年、最終戦のダブルヘッダーでそれを決めたからだ。彼は、あの記録は集中力やスマートさ、デリケートな感覚をかねそなえて初めて達成できるのであり、自分の生涯で、これほど何かに執念を燃やしたことはないし、神経を磨り減らすことはなかったと回想している。

 ちなみに、この最後の四割打者が、翌年から三年間の海軍航空隊時代に、模擬訓練でマークした撃墜率7割5分は海軍始まって以来の数字であり、いまだに破られていない。これは、通常、1、2割程度なのだから、驚かされる。ミルクシェイクを好む合衆国海軍史上最高の模擬パイロットの息抜きは、『雲は天才である』の首席訓導古山と同様、「釣り」である。しかも、彼は「釣り道具屋をやりたい」と、突然、言い出して、大リーグから引退している。

 ホメーロスの「偉大」な叙事詩を持つ古代ギリシアのオリンピアをモチーフにした近代オリンピック・ゲームで、最も好まれているマラソンは、紀元前490年のマラトンの戦いの故事を起源の伝説としている。叙事詩とは、言ってみれば、マラソンだ。もっとも、マラソンが現行の42.195kmに延ばされたのは、ブルジョアのモラリティの支配するロンドン・オリンピックのとき、マラソンのゴールを見たいというバッキンガム宮殿の時代遅れの住人のわがままが原因である。この時、古代ギリシアは悲劇的に死んでいる。

 さまざまな危険をかいくぐり、ホームへと帰還することを競うイギリスで生まれ、アメリカの都市で発達し、ブルジョアをパロディ化する大衆に愛される野球は、カンザスシティ・ロイヤルズのルー・ピネラが、大リーグ史上唯一、一試合のうちに打者走者として、すべての塁でアウトになるという不朽の大記録サイクル・アウトを残したとき、球場全体が彼を祝福したように、叙事詩のパロディ的要素がある。

 小説を書けないために、経済的に不遇であった書き手は啄木だけではない。日本の文学界において、作家とは小説家を意味する。小説家でなければ、日本では経済的に成功することは難しい。啄木が小説を書き始めた動機は、小説は書き手に原稿料をたくさんもたらしてくれる点にある。今でも、文学界で生きようとすれば、小説家を目指さなければならない。数ある文学ジャンルの中から日本人が小説を選択した理由は、それが近代国家の成立とともに出現したブルジョア的通俗道徳一致するからである。小説は、三面記事と同様、彼らの欲望とイデオロギーを充足するために受容される。

 もっとも、日本では、そうした階級社会が十分に発達する前に、第一次世界大戦後、大衆社会に変化する。大衆のモラリティはブルジョアのものを規範としており、大衆向けの小説はスキャンダルのパロディである。大衆を想定した小説は、ブルジョアのそれを近代小説とすれば、中間小説とも呼ばれる現代小説である。

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