第8話 彼女の過去①(後編)

文字数 3,311文字

彼女は俺にそう言った後、俺の胸のあたりをギュッと握った。俺はどうすれば良いのか分からず、彼女の背中を優しくさする。

色々と指に当たる感触はあるが、今はそれを無視する。最初は無言だった彼女も少ししたら口を開いた。


『すみません。少し昔の事を思い出してしまって』
「いや仕方ない事だよ。謝る必要はない」

そういったが彼女は、まだ震えていた。一人の女の子をここまで苦しめるものとは何なのか、光星には想像が出来なかった。


『また気を使わせてしまいました』
「そんな事ない、このくらい当たり前の事だ」
『当たり前、なのですか?』

何故か急にキョトンした表情で上を見上げてきた。


「俺は、当たり前だと思うけど…」

正直、俺の行動が世間一般的に見て当たり前の行動なのかはわからないけど、殆どの人はこう行動するだろう。いや、こう行動するしかないだろう。


『いつも、気を使わせています。それなのに貴方は少しも怒らない』

その言い方は、まるで誰かに気を使わせて怒られた事のある、という言い方に近かった。


『私には、夢があったんです』

彼女は突然語り始めた。


『その夢は貴方も察しがあると思いますが、歌手になる事でした。しかも聞いてくれるみんなを絶対に笑顔に出来るような…』

俺は、黙って聞くことしか出来なかった。最初は勢いよく語り始めたけど、やはり彼女は震えていた。


「別に無理に話す事はないぞ。話して気が楽になるなら話して欲しいけど」
『心配ありがとうございます。でも私は変わるってもう決めたんです』

彼女はそう言い、より一層俺の胸のあたりをギュッと強く握った。


『私には姉がいました。姉は私より早くから音楽を…それも歌に取り組んでいて、小さい頃の最初の目標は姉のようになる事でした』
「そうか」
『えぇ、尊敬してました』

彼女はどうやら自分のペースを取り戻したらしく、スラスラと説明をしてくれた。そこで彼女が俺の近くから離れて、屋上の床に座ったので、俺も座る。


『でもどうやら私は姉より才能があったらしくて、一生懸命に取り組むうちに、姉を超えていたんです』
「すごいじゃないか」

彼女は思った通り、歌の才能があるらしい。


『最初は私を応援してくれた姉も、いつからか応援してくれなくなりました』
「それは酷いな」

姉は妹の才能に嫉妬したのだろう。でなければ、応援をしなくなる、なんて事はありえない。


『ある日、姉に突然言われたんです。貴方の声はいい声、綺麗で優しい声。でもそんな貴方の歌が私は嫌い。っと』
「そんな事が…」

嫉妬するだけでなく、直接伝えたらしい。そんな事を言われたら誰でも塞ぎ込みたくなる。さらに尊敬していた姉に言われたその言葉は、ショックが大きいだろう。


『皆んなを幸せにする為の歌で、一番近くにいたはずの人を傷つけていた。その事を知った私は、次の日から歌えなくなってしまったんです。しかも、その時期は最悪でした』
「時期とは何だ?」
『とあるイベントのゲストとして、いくつか私に声がかかっていたんです。私は、その全てのイベントをキャンセルしてしまったんです』

彼女が以前言った、そんな資格はないというのは、自分の歌を楽しみにしていたお客さんの期待を裏切ったからなのかも知らない。


『そして、歌えなくなった私は夢を諦めました。正確には、諦めざるを得なかったという方が正しいですけど』 

彼女は、少し顔に笑みをつくった。俺にまだ話せるという事を知らせるためかもしれない。


『自分の歌を楽しみにしていた人の気持ちを、私一人の感情で踏み躙る結果になってしまいました』
「踏み躙るという程の事じゃない」

踏み躙るというには、少し壮大すぎる言葉かもしれないが、彼女の心情としてそれくらい大きな出来事だったのだろう。


『一番許せないのは、そうなったのは全て姉のせい。私は悪くない。そう思っている自分がいた事です』

俺が朝遅刻してきた時に、少し怒りながらも
『私と貴方では考え方が違う』
と言ったのは、俺はお婆さんのせいにしなかったが、自分は姉のせいにしてしまった。その経験から来た事なのかもしれない。


『そう思う自分が嫌で、でも今でも心の底ではそう思ってしまって、何度も考え方を変えようと思っても上手くいかなくて』

彼女は少し唾を飲み、また続ける。


『…あの時姉が私にあんな言葉を言わなければ、私は夢を叶えられたかもしれない。その言葉が夢に出てこなくなって怯えずに済んだかもしれない。そう思ってしまうんです』

彼女にこんな思いをさせた彼女の姉に、俺は少し苛立ちを覚えてしまう。


『ね?私酷いでしょ?そんな人が今になって、また夢を目指したいなんて、自由すぎるよね』

彼女は、ゆっくりと立ち上がりそう言った。微かに笑いながらも目は落ち込んでいるのが、はっきりと分かる。そこで俺も立ち上がり、ようやく口を開く。


「お前は……黒崎さんは何も悪くない」

彼女は驚いたような顔をした。きっと軽蔑されたとか思っていたのだろう。


「俺から言わせてみれば、悪いのは全部黒崎さんの姉だ」
『あの、私の話を聞いていましたか?私は、私自身がそう思わないように頑張って来た、そう言ったのを貴方は聞いていなかったんですか?』

彼女は熱くなって反論してきた。当然だろう。自分が今まで夢を諦めてまで、変えようと頑張って来た事を全て否定されたようなものだ。


「けど、お前は歌を……自分の夢を叶えるために一生懸命頑張ったんだろう?」
『えぇ、そのつもりです』
「だったらその頑張りを否定していい人なんて何人たりとも存在しない。存在するのは頑張っている人を応援している人だけだ」
『それは、そうかもしれませんけど…….』

それでも彼女は納得していないようだった。


『でしたら貴方も遅刻した時に、遅刻しないように頑張って走ったりして、学校まで来たはずです!その時、貴方は人の所為にしなかった』

普通の人なら、
『折角急いだのに道にいた人に邪魔された』
と文句を言うはず、彼女は俺にそう伝えたいのだろう。


「俺がその人の所為にしなかったのは、その人が困っていたからだ。お前の姉は困っていたのか?嫉妬して妹に文句を言うやつを、困っていた人間だと俺は思わない」
『……それでも姉は姉なりに困って、そして編み出した答えが、私への怒りだったのかもしれません』

その考え方は、いくらなんでもお人好しがすぎる。彼女は、根から優しいのかもしれない。出なければここまで悩む事はない。

ここまで言っても姉を庇おうとする彼女には驚いたが、それほどまでに彼女の姉が彼女の人生を変えて、彼女の姉の言葉が彼女を縛りついて離そうとしないのだろう。


「じゃあ、お互い様だな。お前も悪い事をした。しかしお前の姉も悪い事をした。そしたら辿り着く答えは、どっちもどっちだ」
『お互い様…………どっちもどっち』

彼女はその言葉でようやく納得してくれたようだった。俺からしてみれば悪いのは100%姉の方だが、彼女を納得させるためには、この言葉が一番効果的だろう。


「お前は、とっても優しい。だからお前が深く考える必要はない」
『そう、ですか』

返ってきた言葉は冷たい言葉だったが、彼女の表情は安心したような、かかっていた雲が晴れたようなそんな表情だった。


「悪い、後半熱くなってお前呼びしてしまった」
『構いません。その方が心に来ました。それに私も熱くなって、必死に私を救おうとする貴方に反論してしまいましたし』


いくら熱くなったからといって、お前と呼んだことを失礼だと思ったが、彼女は許してくれた。



「だから、黒崎さんが夢のために頑張る資格はまだある」
『また、夢に向かって頑張ってもいいんでしょうか』


彼女は、ある言葉を待っているかのように俺に問う。俺に言える事はただ一つに限られていた。


「言っただろう?資格はあるって、だったら他に誰が夢のために頑張る事を止めるんだ?」
『それもそうですね』

彼女は俺に背を向け真っ直ぐ歩き、その後ぐるっと体を俺の方に向ける。朝日が彼女に差し込む。ニヤリと笑う彼女と朝日のマッチは、瞼の裏まで焼きつく。それは、可愛いというものより、美しいというものに近かった。

胸の鼓動が早くなる。音が外に出そうなほど高まる鼓動はしばらくは治まりそうになかった。
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