第4話

文字数 2,223文字

【気持ちを無理やり時間に閉じ込めるより変わっていく切なさと生きていきたい】

昔、10年程ピアノを習っていた。
(全然関係ないですけどなんでピアノの先生って軒並みクソ怖いんですかね)
物覚えの悪さが常軌を逸していたので、私がピアノを弾く楽しさを覚えたのは最後の2〜3年のことだったのだが、ピアノは最終的に私の良き友達となり、(一方的な思い込み)今でも実家に帰ったらちっこい脳みそに残っている譜面を思い出して弾いてみるのだが、それはおまじないのように心を落ち着かせてくれる。
(大体最後まで弾けないので聴かされている家族はイライラがつのる事山の如し)

ピアノは昔、私の親友だったのだ。
(ピアノは全然そんな事思ってなさそうですけど)
ピアノは、私のコントロール不能な感情や、考え事を優しく受け止めてくれたし、思春期のどうしようもない心の暴走を落ち着かせてくれていたのだ。
(どんだけ常に興奮してるやつなんだよ)
でも今は埃をかぶってる。
誰にも触られず、音も出さず静かに黙ってじっとリビングで私と姉の成長を見つめ、たまに触られた時に寝ぼけまなこみたいな音を出しながらも、下手くそな弾き手の遊びに付き合ってくれる。
何が言いたいかと言うと、もはやピアノは私にとって「懐かしいもの」であり、現在の私にとってはもう「非日常」と化してしまったのである。
(寂しいね…)
それは、習慣や物だけでなく、人にも言えるんじゃないだろうか。

人との出会いは一期一会だ。
永遠に繋がっていられるなんて、悲しいけどそれはきっと幻想だろう。
結婚とか、何かしらの形を求めて繋ぎ止めておこうとするってことは、やっぱりどこかで「いつか終わってしまう」という事を人間は知っていて、そこに恐怖を感じているからなんじゃなかろうか。
いつかは死んじゃうし(究極の事を言う)、喧嘩してもう会わなくなったり、これといった理由もなくだんだん疎遠になっていく事もある。
でも、一緒に過ごした時間は楽しいままだし、寂しいけれど、時間がたつにつれて日常が思い出という形で過去になっていくのだろう。
思い出は、たまに引っ張り出してみると、我々を励ましてくれたり、はたまたセンチメンタルな世界に誘惑してくる、優しくて危険な、宝箱のような存在だ。
そう、人間関係は、契約や言葉などの形でなんとか繋ぎ止める事が出来るかもしれない。
でも、自分のその時その瞬間に感じる感情は、この世で最も儚く、生まれた瞬間に死んでしまうようなもので、決して繋ぎ止める事は出来ないと思う。

全部失いたくないし、全部宝物箱にそのままの形で入っていてよ。
形を変えず、苦さも甘さも風化せず、そのままの気持ちがそこにあってよ。
どこにも行かないで、もう少しこの気持ちのままでいさせてよ。
そう願っても、一度手に入れて、知った感情は、知った瞬間から、するすると手のひらをすべってどこかに行ってしまう。
恋人の腕の中で味わえる最高の幸せも、自分の愚かさで他人を傷つけてしまった時の辛くて苦い気持ちも、初めて愛を知った時の衝撃や戸惑いも、感じた瞬間から風化して、その時その瞬間の感情はみんないなくなってしまう。
後でその気持ちを思い出そうとしても、そのコピーのコピーのそのまたコピーしか思い出せない。
感情は思い出と一緒に宝箱におさまってくれはしない。

それが、私にとっては、めちゃくちゃ怖かった。
今感じている素敵な気持ちが、苦しさが、驚きが、悲しみが、激しい怒りが、愛おしくて、尊くて、どうしても手に入れておきたいのに、私にはどうしようも出来ないから、失うしか無い。
私がどう感じているか伝えたいのに、その感情を表す言葉を探している間にどんどん蒸発していってしまう。
あの日あの夜、信じられないくらい素敵な夜だったのに、正確に思い出せない。少しだけ後遺症のように胸がうずくだけ。
頼むから、ずっとこの気持ちでいさせてよ、と何度願ったことかしれない。

でも最近こう思う。
一生変わらない気持ちがなくたっていいんじゃないか。
だって、感情は移ろってしまうものなんだから、仕方ないのだ。
失いたくない感情に執着していたら、自分を縛り付けて、そしていつか愛する人たちすら縛り付けてしまう。
例えば、「この人とずっと一緒にいるぞ」「この気持ちは永遠」「この人以外いない」「この人は運命の人」みたいな謎のルールを作って大切な人を縛り付けるはめになる。
その時その瞬間の感情は、手に入らないってことは、誰のものでもないんだから、もう自由にしておくしかないのだ。


だから、これからは、色とりどりのさまざまな感情が愛おしいと思って生きていきたい。
移り変わっていく気持ちも愛おしい。
受け入れがたい感情も出来るだけ受け入れたい。
移ろいゆく気持ちと一緒に生きていくしかないんだから、だから、だからもう少し、お願いだから、今だけは、この気持ちを取り上げないで。
今だけでいいからこの気持ちでいさせて。

もう一生手に入らなくて、一生味わえないんだったら、今だけでいいから私からこの気持ちを奪わないで。
今だけはそっとしておいて。
その時その瞬間の感情の魅力があせる事は無い。
ただ、捕まえておくことは出来ないんだと認めて、その時その瞬間を大切に味わって、生きるだけなんだなあと思う。
だから、悩める日も、楽しい日も、素敵な気持ちになった時には、やり過ごさないで、丁寧に味わって、うまく手放していこうと思う。
失っていくことも、案外いいものなのかもしれない。

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