第3話 2022年7月某日①

文字数 925文字

 俺は考えた。
 このまま楽に過ごしていけるのなら、むしろ万々歳じゃないか。
 いや、何のためにわざわざこの仕事に就いたのだ? もっと働けるところに行こうぜ!

 そんなとき、誘いの声がかかる。
 それは天使か、それとも悪魔か。もちろん、悩んだ。
 ヒマとはいえ、やりかけの仕事が全くないほど落ちぶれてはいない。
 そこから途中で抜け出してしまうことには、罪悪感がある。
 そして、当直業務。これは忙しい時も暇な時もあるが、必ず誰かがやらなければいけない。
 高齢になったり、病気や家庭の事情で出来ない人もいる。だから当直可能な俺が抜けるのは、無条件に痛いはずだ。いや、これまでは俺も、辞めていく人の背中を見て、その痛みを背負ってきたのだ。少なくともここまでは。

 と葛藤しながら、数か月後に返事をした。答えはイエス。
 俺は病院勤務医を辞めることにした。個人経営の診療所に転職するのだ。

 これは今まで所属していた大学の医局人事からも外れることを意味する。
 大きい病院の人繰りは、その地域を支配する大学病院各科の意向により決定される。
 補充は送らない、と教授が断言する。当直のことを無視すれば、俺が抜けても全く問題ない、と俺自身は判断していた。こんな暇な奴がいる必要は、むしろないのだ。そしてその診療所は俺を必要としてくれている。もう、決まりだ。さらば医局。さらば当直……。


 そして診療所勤務が始まる。
 診療所とは入院ベッド数十九床未満の医療機関を指すが、ここは入院施設をもたない。だから当直はない。その代り交代制で土日祝日・盆や年末年始も診療を行う。平日は午後七時まで受診可能だ。昼間の忙しさは一気に増大した。仕事をしている、自分が役に立っている、という実感が嬉しい。そして夜は確実に眠れる。これも嬉しい。

 しかし、である。真面目に向き合えば、患者に接する機会が増えれば、当然起こり得るもの。早速降りかかった。三回ワクチンを打っていようが、マスクやアイシールドを装着していようが、きちんと一処置一手洗いを実践しようが、かかるときはかかる。その夜、俺の体温は三十九度を超えた。喉の痛みが少しあって、咳もまずまず。ああ、かかったな、と何人かの患者さんを思い出しながら確信する
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