~第一章 支倉 ~

文字数 12,705文字

 嚆矢(こうし)駅を中心とした、繁華街・歓楽街・オフィス街などで形成される副都心の一つ、葛木(くずき)街の中心部からやや東に位置するオフィス街を、紺のスーツに身を包みグレーのカバンを持ったサラリーマン風の男が歩いている。
 
 男は退社直前に上司に言われた急な残業を終え、やや足早に家路についているところだった。
不気味なほど紅く輝く満月が照らす中、彼は翌日に使う会議の資料を完成させた高揚感に満たされ、これから自身の身に起こることなど微塵も予想していなかった。

腕時計の針は深夜零時四十分を指している。

駅に続く広い国道に沿うように高層ビル群が立ち並び、世界で5つ星を獲得する大きなホテルがあるのだが、通りを歩いている通行人はなく、また同じく片側三車線の国道を走る車もいなかった。

 複数の企業のオフィスと、百戸以上のマンションが一体となるビルが並び、右斜め前方には複数の企業のオフィスや飲食店、住居が合わさった複合高層ビルが見える。
その高層ビルの上、地上百八十四メートルの屋上に身長が二メートルはありそうな筋肉質の男が立っていた。
「見つけたぜ、支倉の小僧」
男の口元が獲物を見つけた肉食獣のように開かれた。

 支倉と呼ばれたサラリーマン風の男が国道をつないでいる歩道橋の脇を通ろうとした瞬間、獣の鳴き声のようなものが通りに響いた。
「なんだ?動物の声?」
 支倉は何となく嫌な予感がして脚を止め、声の聞こえたほう、背後をゆっくりと振り向く。
すると、信じられない光景が目の前に広がっていた。
 自分の影が後方に伸び、盛り上がり、豹のような三頭の獣の姿に変わったのだ。
獣達は支倉を極上の獲物を見るように睨み、ナイフのように鋭く光る牙を剥いた。
そして、ゆっくりと、しなやかな動きでににじり寄っていく。
「ひっ、う、うわああああああっ」
 支倉は叫び声を上げて何とか恐怖に固まっていた足を動かし、一目散に逃げ出す。
ただただ目の前の現実から逃げるため、心臓が壊れることもいとわないほどの勢いで。
だが、弱肉強食の世界に生きる獣達にとって、目の前の獲物のそれはスローモーションで動いているようなものだった。
すぐに支倉との距離を詰め、牙を、爪を、男の背中に突き立てようと飛びかかる。
三頭の獣のうち、先頭の一頭がジャンプする音が聞こえ、支倉は絶叫を上げながら躓き倒れる。
その瞬間、支倉に飛びかかった一頭が横向きに吹き飛んだ。
「えっ」
支倉が吹き飛んだ一頭を見ると、その獣は蒼い炎に身体を焼かれて暴れていた。

「お兄さん、大丈夫?」

 どこからともなく少女の声が響き、支倉は少女の声がした方を振り向く。
そこには、紅い満月を背にした、どこかの高校の茶色いブレザーの制服を着た薄茶色のストレートロングの少女と、その少女の腰まで届く大きな蒼い毛並みの狼が立っていた。

「……え?蒼い狼と……女の子?」
支倉は、現実味の喪失した、その幻想的な情景に思わず心を奪われた。

「大丈夫か?」
 目の前の蒼い狼の口から人間の言葉が発せられ、今までのことがますます現実ではないように思えたが、倒れた時に地面についた手の痛みで、今までのことが現実なのだと思い知らされた。
「え?ああ……大……丈夫」
まだ呆けている支倉を残し、少女と蒼い狼は残りの黒い獣達に向かって走り出していく。
「月牙!」
「任せろぉぉぉぉぉ」
少女が蒼い狼の名前を叫ぶのと、蒼い狼が答えるのがほぼ同時だった。月牙と呼ばれた蒼い狼の口から蒼い炎塊が放たれ、黒い獣の一頭を包む。
「ギャゥゥゥゥゥゥゥゥ」
蒼い炎に包まれた獣は身をよじりながらやがて灰すら残さず焼け死んだ。
残りの獣は炎塊が仲間に当たる瞬間に横に飛び、巻き添えになるのを避けたまま、少女に牙を剥きながら突進していく。
「夏芽!」
月牙は少女に向かって叫ぶ。
夏芽と呼ばれた少女はその獣から逃げようとせず、何かの紋章のようなものが施された革手袋をした両拳を、ボクサーのように構えながら最後の一頭に向かって走っていく。
「グワアアアアアアア」
 最後の獣は大きな口をあけ、夏芽に飛び掛かる。
「鳳凰飛翔波」
夏芽がそう叫びながら肉食獣に向かって右拳を突き出す。するとその突き出した右拳が炎のように紅く輝き、拳から炎を纏った鳳凰が現われた。
「キィーーーーーーッ」
炎を纏いし鳳凰は、甲高い鳴き声とともに飛びかかってきた獣を襲う。
飛びかかった獣は空中に居るため逃げ切ることは出来ず、鳳凰の一撃を全身に受け、絶叫と共に灰も残さず燃え尽きた。

「ふう。取り敢えず終わったね」
夏芽は何事も無かったかのように、明るくそう言いながら制服の埃を両手で払い落とす。
「そのようだな」
夏芽の横に月牙が歩み寄り、支倉の前に立つ。
「あ、ありがとう。君たちは誰?何で狼が人間の言葉を喋っているの?」
支倉はまだ何がなんだか分からないというような表情を浮かべ夏芽と月牙を交互に見る。
「お兄さんは、支倉優也さんですよね?私は草薙夏芽。この子は私の相棒で、月牙。私達は雪江様に言われ優也さんを護衛するために来ました」
支倉は夏芽の姓を聞いて、幼少の頃、祖母の雪江に繰り返し言われていたことを思い出した。
(……草薙っておばあ様が言っていたあの草薙か?)
 優也の実家は代々退魔師を生業とする家系であり、日本五大退魔師の家系の支倉家だが、今では優也の祖母が強力な退魔師の力を持つのみで、優也の亡くなった両親及び優也には退魔師の力は無い。
幼い頃の優也には、齢七十歳を越えたいつも優しく小さな祖母がそんな力を持っているというのはにわかには信じられなかった。
 祖母の雪江は常日頃から幼少の優也に対し、この世には魔物と呼ばれる存在がいることや、自分達と同じく魔物を退ける退魔の家系があることを教えてくれた。
優也はいつもその話を聞いていてもどこかおとぎ話でも聞くかのように現実味がなくうなづくだけだったが、先ほどの自分に起こったことを思うと、全て本当の話だったんだと思い知った。
ふと先ほど夏芽が言ったセリフを思いだす。
「……護衛って?」
「雪江様が仰っていたのです。優也さんの星に不吉な動きが観えたから、是非にと」
優也の脳裏に十年以上前に別れた祖母の笑顔が浮かんだ。
「おばあ様が……。助けてくれてありがとう。じゃあ君が草薙家の二十三代目?」
「はい。雪江様が待っています。さあ」
夏芽の差し伸べた手を取り、優也はゆっくりと立ち上がった。

 夏芽達が立ち去ってから数分後、先ほどまで無人だったのが嘘のように、駅へと続く通りは日常の風景にに代わっていた。国道を挟む両歩道は仕事帰りや飲食店帰りの老若男女問わず数十人が歩き、道路は絶えず車が行き交っている。
 変わったのはそれだけではない、先ほどまでの赤い満月も今では優しい光を放つ満月に戻っていた。
そして、変わったのは通りにある高層ビルの屋上も同じく。先ほどまでの大男の姿が消えていた。

 葛木町から車で一時間の山間の小さな町、原西町に支倉優也の実家であり、日本の五大退魔師の家系の一つ、支倉家の屋敷があった。
古い民家や田園風景がまだ残る原西町の奥妖しくも美しい山桜が咲き乱れる道を入り、長く続く山道を歩いていくと、多くの木々がそびえる屋敷林があった。
 その屋敷林の木々の間から築何百年も経っているのであろう武家屋敷のような白い壁から覗いている。
そのまま屋敷林添いに進むと木造の門が現われ、門の前には白髪混じりの老人が立っていた。
夏芽達に気づいたのか老人は夏芽に軽く会釈をし、優也の前に立った。
「お帰りなさいませ、優也様」
「……山代……久しぶりだね、山代。こんな時間にすまない」
優也は言いながら幼い頃に自分の身の回りのことをしてくれていた山代の事を思い出していた。
あの時と比べるとまだ髪はこんなに白くはなかったし、今は少し小さくなって見えた。
「草薙様、よく優也様を無事に連れていただきました。草薙様のお部屋を用意させていただきましたので、本日はお泊りください」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」
 夏芽がぺこっと頭を下げると三人は門から屋敷へと入っていった。
純和風の屋敷の中はとても広く、迂闊に出歩けば迷子になりそうだった。
薄暗いヒノキの廊下を歩いていると左手にかなり立派な石庭が広がっていた。石庭を照らすように雲一つない夜空には綺麗な満月が輝いている。
そんな幻想的な風景を横目に見ながら廊下を山代に続き歩いていくと、廊下がL字に右に曲がっていた。
右に曲がるとさらに長い廊下があり、なおも進んでいく。廊下の突き当りのところで山代が足を止めた。
「草薙様は、こちらの部屋をお使いください」
山代に促されるまま部屋に入ると、十畳はある部屋の中央に布団が一組敷いてあった。
「ありがとうございます。それでは、先に休ませてもらいます」
夏芽は笑顔で会釈をすると、襖を閉める前に優也が顔を出し、お休みと告げてきた。
「お休みなさい」
山代が襖を閉めると、二人の影が廊下を進んでいくのが襖に写っていた。

「夏芽、油断はするなよ。さっきの使い魔の主がまだ分からない今、いつどこでまた支倉が狙われるか分からないんだからな」
月牙は革手袋を外したばかりの夏芽に向かって忠告する。すると、夏芽は顎にその白い指を当てた。夏芽は考え込むときは、大抵この姿勢を取る。
「そうだよね。あそこまでの使い魔を出せるとなるとかなり強い霊力を持っていることになる」
「支倉家の当主が護衛を頼むくらいだからな。油断は出来んが休息は必要だ。俺が見張るから夏芽は少しでも休んでおけ」
言い終わると同時に月牙の姿が消える。
「だね、少しは寝ておかないと」
夏芽は制服を脱ぎ、山代が用意してくれた布団に入った。

 山代と別れた優也は自分が幼い頃に使っていた部屋に戻っていた。
部屋は優也が出て行った時から何も変わっていなかった。
机の上には微笑む優也の両親の写真が置いてある。
優也の父親は支倉の人間だが退魔の能力は無く、母親はごく普通の家庭に生まれた人だから当然退魔の能力は無かった。
そんな二人の間に生まれた優也だったが、優也が幼い頃に両親が事故で亡くなり祖母である雪江の許に預けられることになった。
 優也が心を壊すことなく生きてこれたのは雪江が両親と変わらぬ愛情を与えていたことが理由であるところが大きい。雪江は退魔師の能力や世界の事について優也にも教えていたが、退魔師の力を持たない優也を突き放したりせず、むしろ能力が発現しないことを喜んでいるようだった。
それは、優也には危険な退魔師としての人生を歩ませたくなかったからだと思われる。
優也は明日の朝、久しぶりに会う祖母のことを思いながら眠りについた。

――――――支倉の屋敷を照らす満月は今は紅く輝いている。

 夏芽達が屋敷に入ってから数時間後、支倉家の屋敷に続く山道を一人の男が歩いていた。
二メートルはあろうかという筋肉質の大柄な男は、どこか肉食獣のような雰囲気を醸し出していた。
「……誰だテメェ」
男は暗い屋敷林の闇の中から現われた一人の白髪混じりの老人の姿を見つけ立ち止まった。
「こんな夜更けに、当家に何の御用ですかな?」
白いワイシャツに黒いベスト、同じく黒いスラックスに身を包む白髪交じりの老人――山代は、大男との距離を十メートルほど保ちながら訊ねる。
「爺さん。何か、あんた普通の人間とは違う雰囲気があるな。素人ではなさそうだな」
大男は山代から漂う圧力を受け流しながら不敵に笑う。
「ふふ、一応この歳でも支倉家の守護をしております故」
 山代は紳士的な表情を変えないまま、瞬きほどの間に両手で木製のサーベルを握っていた。

「はん、面白え」
大男の影が三本に伸びるとそれぞれの影が形を変え、黒い豹のような姿を成した。
「楽しませてくれよ、爺さん!」
大男が叫ぶと同時に黒い影の獣達が一斉に山代に襲い掛かっていく。
姿は豹に似ているがその走るスピードは、比べ物にならないほど速かった。
一言で表現するならば、黒い疾風。
 その黒き疾風は絶対的な死の化身として、山代を襲う。
「グワアアアアアアア」
三頭同時に山代に飛びかかったが獣たちは山代が軽く振るったサーベルにより、頭部から尾までを縦に両断され風に消えた。
その光景を見ても、大男は眉一つ動かさない。
「やるじゃねぇか爺さん。素人って訳じゃなさそうだし、名乗っといてやるよ。俺の名は犬塚醍醐だ」
 醍醐は愉快そうに言うと山代に向かって走っていく。
「ガアアアアアッ」
 醍醐の丸太のような腕が山代を殴りつける。だが、どこにそんな力があるのか山代はそれを片腕で受け止めた。と同時に、受け止めた勢いそのままに醍醐を背負い投げ飛ばす。だが投げられた醍醐は木々を薙ぎ倒しながらも空中で身体の向きを変え、林の中に生える柏の木の幹に着地する。
「投げられたのは初めてだぜ」
「そうですか、それは光栄ですな」
醍醐の言葉に山代は会釈で返す。

「だが、遊びの時間は終わりだ。爺さんには悪いが死んでもらうぜ」
醍醐は不敵に笑う。
「こちらも明日の準備もございますので、終わりにさせて頂きます」
山代は両手のサーベルを眼前に交差させて構え答える。
「グルァァァァァァァァ」
醍醐は先ほど自身が投げられた衝撃を逃がすために使った柏の幹を右手で掴むと力を込める、柏の幹がその力に耐えられずミシミシと音を立てて折れた。
そしてそのまま折った幹を山代に向けて投げつける。
醍醐の腕力によって一本の槍と化した柏の幹だったが山代によって両断された。
「楽しませてくれるぜ爺さん!」
咆哮と共に山代に殴りかかる。
「!」
山代は先程より速い攻撃に醍醐の拳を両手のサーベルで防ぐので精一杯だったが、拳を受けたサーベルが粉々に砕けた。
砕けたサーベルの木片の向こう、醍醐が不敵に笑うのが見える。
すかさず飛び退いて醍醐との距離を詰めると同時に再び両手に木製のサーベルを握る。
背中に冷たい汗が流れているのを感じる。
山代も支倉家に仕え、退魔師を守護する者として幾度も死線を潜り抜けてきたという自負があるが、目の前にいる男が今までに出会ったことがないほどに危険な相手だと本能で感じていたのだ。
<雪江様に使え五十年、雪江様のお孫様である優也様にも使えることができた良い人生であった。故にあのお二人をお守りせねば>

 山代はサーベルを握る両手に力を込めると、一足飛びに醍醐との間合いを詰めた。そして、両手のサーベルを醍醐の頭部に向けて振り下ろす。
が、山代の必殺の一撃は醍醐の右腕に受け止められた。
「……なんですと」
山代は驚愕した。
今まで巨大な岩でさえも難なく両断してきた、五十年もの間数多の魔物を退けてきた自分のサーベルが、醍醐の腕に傷一つ与えることが出来なかったからだ。
「あばよ、爺さん」
直後、鮮血が舞う。醍醐のなぎ払った左腕が山代を胴から分断したのだ。
醍醐は地面に落ちた山代の遺体を一瞥すると、何事もなかったかのように山道を再び登っていった。
<……雪……え……さま>
最後まで主人を守ろうと戦った男は、最後の瞬間まで主人を想い息絶えた。

「夏芽!」
すっと立ち上がる月牙の横で、夏芽も立ち上がった。
「分かってる。さっき山代さんの霊力が消えた」
夏芽は素早く着替え、両拳に破邪の紋章が施された革のグローブをはめた。
直後、夏芽達がいる部屋の襖が破壊され、豹のような肉食獣に具現化した影が現われた。醍醐の使い魔である。黒き獣達は牙を剥きながら唸り声をあげる。
「これってさっきの」
「ああ、街で倒した使い魔だな」
二人は部屋の中央に固まり、戦闘態勢を取る。
「雪江様と優也さんが心配だ。さっさと倒して、雪江様と合流しよう」
 言いながら、夏芽は右拳を獣達に向けて構える。
「ああ、いくぞ」
三匹の黒い獣達は、一斉に夏芽達に向かって飛びかかっていった。

 屋敷の一番奥にある雪江の部屋の前に、先程山代を屠った醍醐が立っていた。
「ここにあの婆さんが居るのか」
醍醐が襖を開けて部屋に入ると中には白い着物を着た白髪の老人が座っていた。
「山代を殺したのですね?私の命を護ることが使命とは言えなんと惨いことを。私だけを殺せばいいものを」
雪江は悲痛な顔で目の前の男を見た。
「さっきの爺さんか、なかなかいい護衛を持ったじゃねぇか。まあ、相手が俺じゃなければの話だがな。心配しなくても良いぜ、何せ俺の目的は支倉家の退魔師の皆殺しだ。直ぐにあの世で会わせてやるよ、あんたの孫も一緒にな」
醍醐の言葉を聞いた瞬間、雪江の顔が怒りに染まる。
目の前の醍醐が最愛の孫である優也をもその手に掛けようとしていたからだ。
「……優也、あの子を殺させはしません」
 
 雪江の両手が白く輝き、両手の中にバスケットボールほどの大きさの白い光球が出現した。
そのまま光球を醍醐に向かって放つ、光球は醍醐の腕に当たり爆発し強烈な閃光と爆煙を放つ。
部屋を包んでいた強烈な光と爆煙が徐々に晴れていく。すると、光球の炸裂した中心で何事もなかったかのように、無傷の醍醐が立っていた。
「老いたな婆さん。もう少し若ければ、俺の腕に傷の一つでもつけれたんだろうが、この通り。効いてねぇぜ」
醍醐は、無傷の腕を見せながら笑う。
<……優也>
雪江が絶望の底に沈みそうになった時、部屋の襖が開いた。
「……おばあ様、大丈夫ですか!」

 異変に気付いた優也が襖を開けるのと、醍醐の丸太のような右腕が雪江の心臓を抉り出すのがほぼ同時に行われた。
突然の事態に優也の目が大きく見開かれる中、醍醐が見せる邪悪な笑顔と、雪江の身体がゆっくりと倒れる光景が優也の目に焼きついた。
雪江の白い着物から流れる血が布団に赤黒いシミを広げていく。
「おばあ様ああああ!」
光を失い、涙がこぼれたままの肌がさらに白くなった雪江の顔を見て優也は絶叫した。
優也の絶叫に、醍醐は禍々しい笑みで答える。
「やっと会えたな、支倉優也。悪いが、お前には死んでもらうぜ」
しかし、醍醐の声は優也の耳には届いていない。
雪江の亡骸をじっと見つめる優也は自分の身体の中に、今まで感じたことの無い未知の力の脈動を感じた。

《……ドクン》
全身の血液が沸騰しているかのように熱くなり、全ての神経が鋭くなっていくのが分かる。
《……ドクン、ドクン》
そして、優也は自分の周りにある物体全てと、自分の神経が繋がった感覚を覚えた。

「……なぜ、おばあ様を殺した」
なるたけ冷静に、しかしはっきりと分かるほどの怒りを込めて、優也は醍醐を睨み付けた。
 優也の変貌ぶりに、醍醐は眉をひそめ答える。
「お前、何か感じが変わったな。なぜか?そんなの邪魔だったからに決まってるじゃねぇか。他に理由があるか?なぜなら俺はお前を殺しにきたんだからな」
その醍醐の言葉に、優也の理性が吹き飛びそうになった。
「俺を殺す……そんなことのためにあの二人を殺したのか」
そこまで言って優也の精神は妙にすっきりしながらも、目の前の醍醐を殺すという殺意に支配されていた。
優也の周囲の空間が、僅かに歪む。
「はん、何言ってやがる。これからお前は……死……なん……だ?……から……だが……動か……ね……え」
醍醐の動きが、徐々にゆっくりとぎこちなくなっていく。
「これから、何だって?」
優也が近づくほどに醍醐の身体の動きが止まっていく。
いつの間にか醍醐の額からは大量の汗が噴出していた。
醍醐は、それでもなんとか身体を動かそうと力を入れていくが身体は意に反し、ぴくりとも動かない。
「あんたの負けだ、おばあ様に死んで詫びろ」
優也がそう言うと同時に醍醐の身体が何かに操られているかのように動きだし、醍醐の手足のや身体のありとあらゆる関節が軋んでいてく。
「……ぐ、ぐおおお……」
ゴキャという不気味な音と共に、醍醐の手足や身体の関節がでたらめな方向に曲がりそのまま仰向けに倒れた。
「おばあ様、ごめんなさい。僕がもっと早くに助けに来ていれば。もっと早くこの力を使えるようになっていれば……」
優也は雪江の亡骸の横に座り、雪江の手を取る。もう冷たくなった手を握り、優也はそっと目を閉じる。

 その直後、優也の背後から醍醐の声が聞こえた。
「まさか、こんな力を持っていたとはな。俺にここまでダメージを与えるなんて驚いたぜ」
優也が背後を振り向くとそこには、先程優也の力によって全身の関節をでたらめに曲げられ、死んだはずの醍醐が立っていた。
先程曲がったはずの関節はすべて元の状態に戻っていた。そして血の一滴すら流れてはいない。
「なっ」
優也は一瞬驚愕に大きく目を見開きながらも再び力を使い、醍醐の動きを止めようとする。
しかし今度は醍醐の動きは止まらない。
「もう効かねえよ、意外と楽しめたがな」
醍醐は大きく口を開き、禍々しい笑みを浮かべながら首を左右に傾ける。
同時に、傾けた首からゴキッゴキッと間接の鳴る音が響いた。
「さっさと殺させてもらうぜ」

 直後、醍醐の身体が徐々に大きくなり始めた。その全身の筋肉が隆起していく中で、肌に動物のような茶色い体毛が伸び始め、手の爪が鋭く伸び、醍醐の骨格が変わり始めた。
「ガアアアアアアアアッ」
醍醐の発した雄叫びは、聴いた生物全てが震え上がり気を失ってしまいそうな、例えるならば百獣の王であるライオンの上げる雄叫びのような威圧感があった。
 いや、ようなではなく、実際に醍醐の身体はライオンと人間が合わさった身体に変わっていた。
その顔は人間と同じ大きさながらライオンのそれとなり、筋肉質の身体は獣のようなしなかやさがあった。
古から伝わる、狼男などと同様である、ライカンスロープと呼ばれる半人半獣の怪物である。
醍醐はライカンスロープの中でも最強と言われる、ライオンのライカンスロープだった。
「この姿になるのは久しぶりだぜ。なかなかやるじゃねぇか。」
優也は醍醐の変身にも臆することなく力を使い、醍醐の動きを三度止めようとするが、醍醐にはなんの効果も与えられなかった。
「くっ、力が効かない」
そう言った刹那、醍醐の姿が消え優也の背中から胸を丸太のような太い腕が貫いていた。
「ゴプッ、おばあ様……ごめん……なさ……い……」
優也は口からかぼそい息とともに真っ赤な液体を溢れさせながら、息を引き取った。優也の目からは涙が零れていた。
「はっ、これで"あいつ"の言ってた任務は終わりだな」
醍醐が血に濡れた腕を舐めながら満足そうな笑みを浮かべたとき、醍醐の背後から少女の驚愕に染まった声が聞こえた。
「優也さん、雪江様っ」

 醍醐が振り返ると、どこかの高校の茶色いブレザーの制服を着た薄茶色のストレートロングの少女―夏芽と、その少女の腰まで届く大きな蒼い毛並みの狼―月牙が立っていた。
「なんだ、嬢ちゃんも居たのか。好都合だな、嬢ちゃんも死んでもらうぜ」
言うが早いか、醍醐はいまだ優也の血で濡れている、その丸太のような腕で夏芽を殴りつけた。
咄嗟に両手を十字に交差させて防御する夏芽だったが、その衝撃は凄まじく、雪江の部屋の襖を破壊しながら部屋の隣の部屋まで吹き飛ばされた。
「……ぐっ」
「夏芽、大丈夫か」
月牙はすぐに夏芽と醍醐の間に割り込み、醍醐の追撃の牽制をする。
「大丈夫だけど、今まで出会った中で一番強いよこいつ」
夏芽は両腕をさすりながら立ち上がる、幸い骨にヒビなどはなさそうだった。
「ヤツのあの姿、ライカンスロープか。まだ生き残りがいたとは」
ライカンスロープ達は百年以上前に、退魔師のような魔物を倒す力を有する人間たちによって滅ぼされたという。二人が会話している間にも、醍醐は邪悪な笑みを浮かべながらゆっくりと二人に近づいてくる。
「月牙」
「恐らく、ヤツには並大抵の攻撃は通じないだろう。ライカンスロープの身体はこの世の物とは思えないほどに硬いと聞く。だが、体内まではそうではない。ヤツの身体の内側から破壊するしかない」
「OK、分かった。どうにかして身体の内側から攻撃するか……。これしかないかな、いくよ月牙。私に考えがある」
夏芽は雪江と優也の遺体に目をやり、固く目を閉じ強く両拳を握る。
「わかった。夏芽の攻撃が成功するまで、俺が全力で護ってやる」
霊力を集中させる夏芽の前に出て、月牙が醍醐に向けて牙を剥く。

 そんな夏芽達の姿を見て醍醐は邪悪に笑う。
「どうやら、まだ楽しめそうだな」
「楽しむ? 罪もない人を殺しておいて楽しむなんて言うの? 許さない」
夏芽達は、醍醐に向かって同時に走り出しながら、印を結んでいく。
「闇より生まれ、人の魂を喰らうため具現化したモノよ。我が紅蓮の炎により再び闇に還れ」
夏芽の右拳が光を放ち、夏芽の身体が炎のように紅く輝きだした。
「鳳凰飛翔波」
夏芽が紅く光る右拳を突き出すと、その右拳から炎を纏った鳳凰が現われ、甲高い鳴き声とともに眼前の醍醐に向かって飛んでいく。
「グルアアアアアアアッ」
醍醐は気合を入れるための咆吼を上げると、炎の鳳凰を身体で受け止めた。
「キイイイイイイイイッ」
醍醐に受け止められた炎の鳳凰は激しく抵抗し、なおも醍醐を燃やそうとさらに火力を上げる。
「効かねぇぇぇぇぇぇぇ!」
だが、醍醐は炎の鳳凰を押さえ込む両腕に力を込めて、炎の鳳凰を破壊した。
醍醐の身体からはプスプスという音とともに、白い煙が立ち上っていた。
三千度はある炎の塊でも醍醐の身体には、致命傷どころか、火傷一つ付けることは適わなかった。
「やっぱ思った通りだぜ、嬢ちゃん。なかなか楽しませてくれる」

 首を左右に倒し、ゴキッゴキッと鳴らしながら話す醍醐に構わず、夏芽達は一気に醍醐との間合いを詰める。
「鳳凰飛翔波」
夏芽は再び鳳凰飛翔波を放つ、炎の鳳凰は醍醐に向かって飛翔していく。
「ワンパターンだな、嬢ちゃん」
醍醐は大きく叫びながら、再び炎の鳳凰を受け止める。
直後夏芽が叫ぶ。
「月牙っ」
「燃え尽きろ!」
夏芽の声と同時に、醍醐の目の前まで接近していた月牙は口から蒼白く輝く炎の塊を放った。
「ウガァアァァァァ」
醍醐はさらに大きな雄叫びを上げると、炎の鳳凰と蒼白い炎塊を破壊する。
「はああああああああっ」
夏芽と月牙の攻撃を防いだ醍醐の目に映ったのは、夏芽がジャンプをしながら醍醐の顔面に向かって放つ夏芽の右拳だった。

「その腕食いちぎってやる!」
 醍醐は夏芽の拳が当たる直前に、夏芽の拳を喰い千切ろうと百獣の王よろしく大きく口を開ける。
だが次の瞬間、夏芽の右拳が紅い光を放ち次いで夏芽の身体が炎のように紅く輝きだした。
「鳳凰天翔波(ほうおうてんしょうは)」
夏芽が右腕を左手で掴むと、夏芽の右拳から双頭を持つ炎の鳳凰が現われ、醍醐の口から体内に入っていく。
「グアアアアッ、何だと……身体……が……焼け……る。馬鹿な……この俺の身体が……燃えるだと……うおおおおおおおおおおっ」
 醍醐が絶叫を上げた直後に、醍醐の目や口から強烈な紅い光が光り、内部から何本もの紅い光の柱が立った。
そして、醍醐の身体が炎に包まれると、醍醐は焼かれる痛みでのたうち回りながら身体が人間に戻り、そのまま灰も残さずに燃え尽きた。
「……はあ、はあ、はあっ、やっ、やった」
霊力のほとんどを使った夏芽は、肩で息をしながらその場に座り込んだ。
「夏芽っ」
それを見た月牙が、夏芽の横に駆け寄る。
「……はあはあ、大丈夫だよ……力……使い……すぎたぁ」
「よくやった、夏芽」
全身から汗を流し、肩で息をする夏芽は、月牙の言葉に笑顔で答えた。

 醍醐との激戦から数十分後、夏芽達は優也と雪江の亡骸がある部屋に居た。
「ごめんなさい、雪江様、優也さん、私の力不足でお二人を護れなくて」
 涙を浮かべる夏芽の言葉に呼応するように寝かされた状態の雪江と優也の亡骸が白い光を放ち、雪江と優也の魂が人の形を取って夏芽達の前に現われた。
《大丈夫、夏芽ちゃんはよくやってくれたわ。あの化け物を倒してくれた。だから、夏芽ちゃんは悲しまなくていい》
雪江と優也の魂は満足げな笑顔を浮かべると、一筋の光となり消えていった。
「約束します。二度とお二人のような人を出さないために、戦い続けると」
夏芽達は二人の亡骸を丁寧に埋葬すると、手を合わせた。

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  微かな明かりだけが灯る薄暗い部屋の中で、闇のように黒いフード付きのローブを身に纏う五人の男達が円卓を囲んでいた。
「醍醐が死んだか」
 円卓の中心に座る装飾が施されたフードを被る男からどこか大きな威厳を感じさせる声が発せられた。

「あの少女、恐らくは風間か草薙の退魔師だな、醍醐を倒すとはなかなかの腕のようだ」
 装飾が施されたフードの右に座る男が静かに告げる。

「まあ、あの筋肉馬鹿には似合いの最期でしょう」
 今度は装飾が施されたフードの男の左に座る片眼鏡をかけた男が醍醐を嘲笑うかのように言う。

「ふぉっふぉっふぉっ」
眼鏡の男の隣にいる小柄なフードの老人は愉快そうに笑う。

「ほぉう、あのライカンスロープを焼くとは。なかなか。やあなかなかやるね」
パイプを片手にしているフードの男は関心しているように言う。

 五人の男達の言葉から彼らは醍醐が倒されたことに関してなんとも思っていないのだとわかる。
「まあ、あの支倉家の退魔師を二人殺しただけでも良しとしよう。怜司、次の計画はどうなっている?」
 装飾の施されたフードを被る男がそう言うと、男達の目の前に液晶のモニタが出現し、画面にはどこかの神社が映し出された。
「はい、ここは古くからのこの国の守護を任されている退魔師の家系で、かなり強い霊場の一つであると確認されています。ここを潰せば日本の霊脈が狂うきっかけとなるでしょう」
 怜司と呼ばれた男は、フードの下でモノクル(片眼鏡)を直しながら楽しくてたまらないという声で答える。
すると、怜司と呼ばれた男の一つ横に座る男が咥えていたパイプを手に取り口を開いた。
「ならば私、私が行こう。少々退屈していたところでね、それに醍醐を倒した少女を直に、そう直に見て見たくなったのだよ」
装飾が施されたフードの男がそれを見て答える。
「ならば、お前に任せるとしよう、クリフォード。少女は見つけ次第、殺してもかまわん。計画の達成にあの娘は邪魔だ」
「分かった、分かったよ。見つけ次第、殺すとしよう」
男は装飾の施されたフードの男の言葉に笑いながら答えると、笑い声とともに消えた。
それを見届け、装飾のフードの男が告げる。
「李、クリフォードが計画を無視して独断専行するようであればヤツを殺せ」
一際小柄な男は不気味な笑顔で答えた。
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