少年

文字数 1,048文字

 少年はもう母が帰って来ないことを知った。いつも空っぽだった冷蔵庫にぎっしり食材が詰まっていたから。鳩が喉を鳴らす平和な昼下がりに、家を出て川辺に向かった。太陽が曇り空の向こうから優しく顔を見せては隠れる。少年は風のように歩き、風に揺れる雑草木を眺めては空を仰いだ。いつから腰かけ、どれくらいの間、土手に座っていたかを覚えていない。ほんの一瞬だけ腰かけたのかもしれない。少年は思い立ったように土手を下り、水の流れる辺りで立ち止まった。きらめく水面の筋を目で追いかける。流れている水は石ころや氷の動きとは異なるが、その速度が異なるだけで同じではないか。山から来て、海に流れる。この地球は空っぽではない、らしい。少年は立ち上がり、またしゃがんだ。目の前にあった自分の頭二つ分ほどの大きさのある石を抱えて川に投げた。大きな音とともに水しぶきが上がり、顔、胸、足先に水を感じた。「なんであいつは行ったんだ」。言葉にすることもせず、また元通りに流れる川をしばらく眺める。水の弾かれる大きな音に気づいて、橋を歩いていた独りの老人が首を伸ばし声をかけてきた。
「何をしているの。大丈夫か」。
 見られていたのか。土手下にいた少年は老人を見上げることもなく、逃げるように走り去った。走りながら、心臓が音を立てて鳴っているのがわかった。誰も追って来はしない。振り返ると老人も少年を目で追うこともせず、再び散歩に戻っている。わかっているが、鼓動がおさまらない。母親の顔が何度も浮かんだ。その度に力みながら余計に走り、かき消した。消えるはずもない面影や情景を瞼の奥で見ながら、顔面を照らす夕陽を浴びながら。今の状態は最悪なのかもしれない。このまま、流れることのなく沈んでいったあの石のように、これから起こるであろう様々な荒波にのまれ、溺れてしまうのかもしれない。少年は土手道を走り続けた。まぶしさに顔背けることなく延々と続く土手道を進んだ。この光球を懐に入れ込むことができたら、誰もいない居間も台所もきっと明るいだろう。茜色に染まっていた空も瞼を閉じるように紫に。紫から藍色に。少年は走るのを止め、歩いて、立ち止まった。不思議と息は切れていない。何も考えていない。振り返り、土手道を戻り歩き始める。車の音、風の音、町の音が聞こえてくる。もう、惜しんでもしようがない。夜空は星も見えない曖昧な顔をしていたが、少年は自分が生きているらしいことを、疲れ切ったからだから感じた。明日、早く起きて朝陽が昇るのを見ようと思った。
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