遠い音色

文字数 1,326文字

年賀状代わりに届いたクリスマスカードを見つめながら、消印が押されたスペインのどこかの町で愉快に過ごしているであろう真実(まさみ)の姿が思い浮かんだ。もうどれくらい会っていないかを数えることもしないが、インターネット上で見る彼女は奔放であった。アイスクリームを頬張り、口元をピエロのようにして笑っている。男女を問わず様々な仲間と肩を寄せ、頬を寄せて写っている真実の社交的人柄は洋の東西問わず通用しているのだと感心する。時々見ていただけだが、もう何年も顔を合わせていないことを忘れさせるほど、真実の姿かたちは、七美(ななみ)の脳裏の壁に常時張り出されていた。唐突に送られてきたクリスマスカードには何色とも言えないお揃いの帽子をかぶって男と二人で写る真実が親し気にこちらを見ている。
「元気にしてる? あの頃がなつかしいな。知っていると思うけど今度、八木さんと結婚します。式のことは日本に戻ったら連絡するね。 良いお年を」。
 悲しさを微塵も感じさせない丸っこい字で、大切な連絡をいとも簡単に軽く伝えることができる。それが真実だった。手紙のやり取りも年賀状のやり取りもしてこなかった、浮き上がる風船のような友人の幸せを、七美は見上げるしかなかった。吹き矢を吹くわけにもいかない。彼女は沈黙したまましばらくうつむいた。はがきを食卓に置き、いつもより少し多めのパンをミルクで流し込み、一服して早々に布団にもぐりこんだ。いつもは数秒で眠れることが唯一の特技とも言えるものだったが、今夜はなかなか眠れない。明日は早番。焦る思いを抑えつつ、真実と過ごした2年半のひと時を思い出していた。それでも具体的には思い出さないようにし、断片的に浮かび上がることを拾いながら。気持ちを入れ過ぎると眠れないどころか、今の自分の寝起きや、仕事、食べること、暇をつぶすことを崩してしまうかもしれない。
一緒に作品を制作したいつかの夏。ペンキで汚れた互いの顔を馬鹿にし合って一日をつぶすことができた。浮かんでは消える真実の横顔、七美から浴びせられる調子に乗った大声、ペンキや工具の臭いが、七美の瞼や鼻腔、内耳を行き交い、あの時だけの特別な音楽を奏でていた。条件反射の涙が二筋、両目じりをつたい流れる。いつの間にか彼女は眠りについた。
「まあまあね。仕事も慣れてきて、今は少し退屈かな。まさか八木さんとスペインで会ってたなんて驚きだね。でも、おめでとう」。
 眠りから覚めて、夢の延長線上で、クリスマスカードの返事を反芻する。きっと返事などしないのに。でも、おめでとう。でも、どうして。しかも信仰心もないのにクリスマスカード。私は何度か本気でクリスマスの礼拝というのに誘われて行ったんだ。でも、どうして、「おめでとう」と言えないの。できれば真実に帰ってきてほしくない。彼女を喜ばせることができない、だけではない。自分もつぶれてしまいそうだ。
 七美は支度を済ませ、紅茶を飲んだ。昨晩に置いたままのカードを取り、もう一度見る。二杯目を飲みながら、片手で握り、丸めて投げた。ゴミ箱に捨てるわけでもなく床に。急ぎ玄関を後にし、腕時計で確認しながら、朝日が差す青色の歩道を、勢いよく進んでいった。
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