後ろ向きに歩く男

文字数 1,278文字

後ろ向きに歩く男がいた。いつでも、どこにいきにもそうしていた。いつからそうしていたのかは分からない。この坂の多い町で、あの交差点で見た、とか、おやき屋から出てきたところを見た、というような目撃談が人々の会話に上がっていた時には、すでに以前からそうしていたらしいということはなんとなく皆に了解されていた。けれども、だれも、あえて後ろ向きに歩くその男に、そうする理由を聞く者はなかった。だれも、それだけの関心を他人に向けようとはしていなかった。人々は当たり前に前を向きながら日々暮らし、日々溜息と怒りを目の前に見ていた。
勿論、男は後ろ向きに歩き、常に後ろ向きのまま歩けたわけではない。つまり本来の前方を見ないで闊歩でき、目が後頭部についているわけではなかった。もし、そうだとしたら彼は実は前方を見ている毛むくじゃらの獣の類にすぎない。男は転ばないように、人や壁にぶつからないように、度々後ろを振り向き、つまり本来の前方へ首をひねって目視確認をしながら後ろ向きに歩いていた。それでも、時折電柱にぶつかったり、地面の段差につまずいたりしていたが、男は前向きな気持ちで後ろ向きに歩き続けた。この坂の町が気に入っていたし、良くしたい、役立ちたい、と思っていた。
ある日、後ろ向きに歩く男をさげすみ、度々物笑いの種にしてきた少年たちが、笑顔と言えない笑い顔で頭を寄せ合って話し込んでいた。男がせっせと歩き続けている。静かに路地に潜み、歩道のマンホールの蓋を開け、丸く口を開けた真っ黒の穴に、蓋と似たような黒色のビニールを被せ、男を待ち伏せした。男はいつものように意気揚々と後ろ向きに歩き、快晴の空を見上げ、勤しんでいた。そして、ちょうどマンホールがあったところに来ると、後ろ足を突っ込み、もう片方の足も続けて突っ込み、きれいに穴に落ちてしまった。少年たちはムカデが部屋の四隅から出て来るようにさっと現れ、鉄の蓋をして、笑いながらまた去って行った。それ以来、後ろ向きに歩く男は見られなくなった。いや、誰も積極的に男のことを話題にあげなくなったのだ。その後、しばらくしてから、また後ろ向きに歩く男は目撃されていたのだ。ただし、話題にする人はほとんどいなかったので、男は名目上は消えたことになっていた。
ある日、私は勇気を出して、歩く男に尋ねてみた。
「あんなひどいことをされてあなたはまだ後ろ向きに歩き続けるのはなぜか」。
男は顔を曇らせることなく、歩き続けていたが、質問には答えてくれなかった。私は並走しながら、しつこく話かけた。男は私を面倒に思ったのか不意に立ち止まり、口を開いた。
「溜息や、怒りはいつも前にあるのは同じさ。でも、僕はそれをずっと目の前に置いていない。つまり君たちが普段意識していない後ろ側に置いてしまい、進めば進むほど離れていく。もう、忘れてしまったよ。僕は後ろを、つまり君たちの言う前に向かって進んでいくのに忙しいんだ。これくらいで勘弁してくれ。それでは」。
私はぼう然と立ったままであった。男は笑顔で私から離れていき、前へ前へと進んでいった。
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