IK.「目薬」

文字数 533文字

防寒上着のポケットから目薬を取り出して、点眼する。何度か(まばた)きをして、薬液を浸透させて、簡単に眼を洗っておく。廃屋は何処も、埃まみれ。粉塵(ふんじん)は眼に毒。

野原の外れに外灯はなく、月の夜。この辺りの夜風は土草の匂いで、呼吸が軽い。

目薬を()して、(まぶた)を薄く閉じる。耳を澄ましていなくても、聴こえてくる。身の周りの物音。遠くの音も。

かすかに声も聴こえてくる。それはたぶん、近くでも遠くでもない、自身の奥底からの声で、今も鳴り続けているのだろう。

たとえば、その声を細密に筆記して、心の主旨を解こうと探究したなら、言葉の含みに揺さぶられて、裏腹な意味づけに誘導されている、そういうこともあるのかもしれない。その声に揺れるうちに。

「本当は、何処かの誰かの声なのかもね」

肩掛け(かばん)から、やつれた手帳とLEDペンライトを取り出す。手帳に照明を当てながら、ページを読み返して確認をする。今夜も、きちんと書いてある。廃墟に遺された落書き、手紙、文書。その言葉。

「時々、聴こえ過ぎるとか」

大きく息を吸いながら、ゆっくりと背筋を伸ばす。静かに息を吐いて、ほんのわずかのあいだだけ、眼を閉じる。

「揺らして、揺らされて」

夜風で眼が乾いていることに気づいて、もう一度、目薬を点した。夜が(にじ)んで、揺れて見える。
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