第11話

文字数 1,249文字

「綾音ちゃんって呼んでいいかしら?」

綾音は、頷いてから、お父さん、お母さんとまだ呼べないことを正直に話した。奥さんもご主人も微笑みながら「焦らなくていいのよ」と言ってくれた。

学校から帰ると、奥さんが「おかえりなさい」と迎えてくれる。

そして、テーブルに出される、豆からひいたコーヒー。
綾音は学校であったことをしゃべる。奥さんの楽しそうな笑い声。
綾音の部屋もあったが、なんとなくいつもリビングで過ごした。

「綾音ちゃんは、どうして雲の絵を描くの?」

「うーん、お母さんがそこにいるような気がするから」

窓の外をゆっくり流れる雲を見ていた。
綾音は、自分の答えにはっとした。

「お母さんが雲になったとずっと思ってたのね。綾音ちゃんはお母さんを毎日見ているのね。お母さんもきっと喜んでいるわ」

奥さんはにこやかに近づき、窓から見える雲を一緒に見上げた。

「お母さん、綾音ちゃんは私が責任を持って育てます。どうか見守っていてくださいね」

初めて同じ方向を向いている人に出会えた。
綾音は幼すぎる自分を残して死んでしまった母に憤りを感じている気持ちも、寂しさをまぎらわして強がっている気持ちも、父が自分をみてくれない辛さも、全部をキャンパスにのせてるだけだったのかもしれない。

「あの、」

綾音は言葉を探した。だが、そう簡単には見つからなかった。

「綾音ちゃん、ゆっくりで大丈夫よ」

奥さんの温かい手が綾音の肩に置かれると、なんだが言葉を介さなくても通じ合えそうな気がした。

「なかなか言葉にならない気持ちもあるのよ。気持ちは無限だけど、言葉って有限だから表しきれないと思うのよね。いくつもの言葉を重ねて重ねていくうちにやっと輪郭が見えてくる時もあれば、一言でぴたりと当てはまることもあるでしょ。言葉って、本当に不思議。言葉にできると心が落ち着いてくるの。だから私は毎日、日記を付けてるの。もう四十年以上書いてるわ。怒ってるときなんか三ページくらい書くとすーっとおさまってくるの。恋してるときは、案外書けなかったりするのよね。」

奥さんはふふっと笑った。

「綾音ちゃんは、それが日記じゃなくて絵なのかもしれない。でも、今度は言葉のパワーをかりて日記書いてみたらどうかしら。」

「言葉のパワー?」

奥さんが引き出しから空色のノートを出して綾音に渡した。
(今日から綾音ちゃんの気持ちを受け止めてあげてね)とノートにつぶやいた。

綾音はテーブルに座り、ノートを開いた。

「お母さん、」

ペンが動かない。

綾音は、毎晩ノートを開いて書こうとした。
一週間たって、ようやくペンが走り出した。

「お母さん、どうして私とお父さんを残して死んじゃったの? 
私の記憶に動いているお母さんはいないよ。
写真を見ているとお母さんの声が聞こえてくるだけ。
お母さんは本当に雲になったの。
お父さんもそちらに行ったけど会えた?
お母さんは私のこと好きかしら。」

そこまで書くと涙が溢れてノートの書いた文字がにじんで見えなくなった。
おやすみを言いに来た奥さんが、黙って背中をさすってくれた。


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