第1話

文字数 931文字

 瞬間指先に鋭い熱を感じ、シトリは親指の腹を割いてしまったことに気づいた。よく斬れるようにと丁寧に研いだ短刀だ。切れ味鋭く、指に刻まれた一直線から血が溢れ出てきた。
 シトリは自分の行いに苛立ちを感じながらも、血の付いた短刀の上に手入れに用いた布を被せて立ち上がった。そして荷物棚のところまで行き、革紐と汚れのない布切れを取り、それからその布で傷口を覆い、革紐の片方を噛みながら、手際良く指の付け根を紐で縛った。手当てを終えるともとの場所に戻り短刀から丁寧に血を拭き取った。
「おう。シトリ、どうかしたか」後ろから濁声がした。
「いいや、なんでもないよ。ちょっと足を伸ばしに立ち上がっただけさ」
 たかが指を切ったくらいで、誰かを煩わせるのは御免だった。これくらいの処置なら自分一人で充分できる。親指は確かにひりひり痛んでいたし、血もまだ完全に止まった訳ではなかったが、誰かに痛みを訴えたところで、何かが変わる訳でもない。
 それに、どうせあと数日で、これくらいの傷はどうってことのないものになる。この里に国府の軍勢が押し寄せるまで、良くてあと二、三日といったところだろう。勝算があるようには思えなかったが、それでも戦が起こる前に少しでもできることをしておきたかった。
 楼の中では、来るべき時に備え着々と準備が進んでいた。
 シトリたちの里には五つの砦がある。シトリたちが今いる楼は、里で一番東に位置する砦に併設されている。里で最も大きな砦であり、外に続く路が広いので大軍での進軍にはもってこいの場所ではあった。しかしこちらからも見通しが良く、敵兵を矢で狙い撃ちするのに都合の良い高さがあったので、この砦から攻められることはないだろうというのが、この里に住む大方の者の見方だった。
 それはこの楼に集められた顔ぶれを見ても明らかだった。今夜の自警の番として当てられた者は、これだけ立派な楼であるのに、たった十五人しかおらず、その十五人も大半が六十を過ぎた者たちだった。
 確かに前代自警団団長、熊狩りの頭目、弓の名手、……いずれも歳をとっているからといって侮れない猛者たちばかりではあったが、そうはいっても、ここでは女であるシトリも重要な戦力の一つであることは、間違いなかった。
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