第1話

文字数 5,251文字

 広く暗い格納庫のまんなかに置かれたケージの中に、オレが鎖でつながれている。首にめぐらされた金属は頑丈で重い。
 光源はわからないが、ひどく淡いスポットライトがケージのオレのいるあたりにとどいている。
 
 あの生物が喰い残した得体のしれない残骸が盛られた容器にオレの口は一センチとどかない。首の皮はズル剥けになって赤い肉と黄色い脂が露出しているが、オレの空腹はオレを駆り立てて体を容器へとむかわせるので、ノドボトケが砕けるのも時間の問題だ。
 オレが気を失っている間に餌はおかれている。どこから入れているのだろう? ケージにも床にも、継ぎ目といえそうなものすらなさそうだ。もっとも、この暗さでは見えるはずもないのだが。
 容器をもっとオレの近くにおいてくれと、オレは「目玉」にいうが、リクエストは伝えておくというばかりで、要求はみたされない。
 「あの生物」。オレをここへ運んだ緑色の鱗の空飛ぶ生物は、あのとき以来、姿をみせない。しかし目玉によると、オレが喰っているのは、あの生物の喰い残しだ。
 
 逃げるすべは死ぬこと。復讐の手立ては幽霊になること。それしか思いつけないのに空腹はオレを生かそうとする。狂気としかおもえないものがオレの身に降りかかったわけだが、空腹がオレにアレを喰わせ、生かしつづける。
 アレを食っても腹を下すだけだ。それがわかっていても、オレはどうすることもできない。オレの全身は得体のしれない蛆わくドロドロの腐臭はげしい黒ずんだ生肉の屑(ほとんどは内臓だ)を向き、乾いた舌はその水分を求め突き出される。
 体を捨て去ってしまいたいが、オレを支配しているのは鎖に身動きのとれない肉体だった。
 自分の肉体がオレを放そうとしない。
 嘔吐はしなくなったが、下痢はあいかわらず頻発する。ケージ内の有様や、オレの体の衛生状態についての詳述は控えることにする。
 
 初めは、なんということもないコンサート・リハーサルだった。そのはずだった。
 なんということもない人たちが、なんということもないピアノ・コンサートの準備をしていた。そうきいただけでダルくなる。じっさいオレはダルかった。まだ9時にもなってない。眠気がカサカサした感じでオレの後頭部にひっかかってた。来ておいてなんだが、マジで興味ねえ。
 でもまあ、アキが来るというからオレも乗っかってしまったが、さっさと終わってほしかった。
 素人に毛がちょびっと生えたか生えぬかのグループが使うにしては、ちょっと大き目の、二階席もあるような会場だったが、誰も期待しない人知れぬリハーサルだったことに違いはない。
 演奏者以外は大学の学部がいっしょの5人。
 
 ピアニストが鍵盤に指をおく。藝大の大学院生である彼はそのときふと振りむいて二階席に目を上げた。彼は、ちょっとした空気感の変化をそこに感じ取ったのだった。
 オレたちもつられて振りむいて見上げた。黒い糸のようなものがふわっと浮きでたようにみえた。それがゆっくりと空中を旋転したつぎの瞬間には禍々(まがまが)しい速度をもって一直線に、彼をめがけて襲いかかってきた。
 それは黒い文字が鎖のように数珠繋ぎになったものだった。それに縛られた彼は体の骨という骨、内臓という内臓を砕き破られ、眼球は朱色い液体の小さな噴水となった。
 ステージからいくらか離れてそれを目撃したオレたちは、唖然と押し黙り、慄(ふる)え戦(おのの)いた。
 恐ろしいことがおきたのだ。オレたちがソレを現実のものとして認知できる状態になるまでには、そして意識の流れを再構築し、声や肉体を再獲得するまでには、一瞬の間があいてしまった。自分の身に、こんなことが、ほんとうに起きているのだと認識し、発声し、行動をとるにいたるまえに、真空の一拍があった。
 いずれにせよ全てはもうおそかったのだ。
「あの後で、きみらが感情と身動きを回復したと同時に、コンサート・ホールに闖入者が現れた。そうだったね」と目玉がいった。
 格納庫はあいかわらず暗いままで、1メートルほどの目玉は薄く青白いドライアイスの煙のような、ほのかな光をまとっていた。目玉といっても、瞼はないのに目のマークのかたちをしていた。
 オレは飢えと渇き、流血と痛みにぐったりとしていたが、彼の声はきこえた。
「あいつは子供くらいの身長だが、ずんぐりとしていて手に負えない力をもっていた。あいつはドアからものすごい勢いで駆け下りてきて、無差別にきみら6人のうちの4人を殺し、無作為に選ばれたきみともう1人をのこした」
 そうだった。四人はあっというまもなく斬首され、オレはあのずんぐりした男に気を失うまで殴られ、遠のく意識の片隅に、ずんぐり男に抱えられ運び去られるアキの姿をみたのだった。ぐったりと仰向けにのけ反った首、カエデ模様の青の網タイツ。
 アキはオレの恋人ではないが、ショートカットで身長170センチ、インテリ系ちょいブスで、オレのタイプだった。セックスしたいとおもってた……。どうなったのだろう。生きてるだろうか。
「ターニング・ポイントというんだな、あの場面を。ずんぐり男は、女の子に目がないんだ」といって、口もないのにどうやってかはわからぬが、巨大な目がケージの外でガハガハとわらった。「目がないんだ」という自身の痛いギャグに自爆してしまったのか。
 オレの不安を正確にさぐりあてて、
「あの女の子はもうずんぐり男のものだ。なにをされていることやら」と目玉はつづけた。
 オレは喉の骨に直接鎖をくいこませてガチャッといわせ立ち上がったが、自分の血やなにかにすべって足をとられ転んでしまった。ギッという声がオレの口からもれた。
「まあ、あせるな。いまさらあせってどうする」と、いささかの情を感じさせないでもない声が目玉からオレにかけられる。
 苛立ちが激烈に腹を刺激してオレは嘔吐した。
 やはり幽霊になるしか道はないのだろうか。
 そうすればアキを助けられるかもしれないが、そうしたところで性的な関係を築くにはもう、オレたちは軌道を逸脱しすぎていた。
 そう。アキは「なにをされてるものやらわからない」のだ。
「きみに与えられるオプションはひとつだけだ」と巨大な目はどこから声を出すのだか、オレにいった、「勘違いしないでほしいが、わたしはきみの敵ではない」と含みのあることをいった。「味方だ」とは明言しない。
 目は敵ではないにせよ、何者かわからないままであることに変わりはないのだ。
 いまさらアセるなといわれても、アキの救出が早いほうがいいことはいうまでもない。
 与えられた腐ったゲテモノを喰ったせいで、オレは衰弱していた。というかそんなものを喰わなくても空腹と首の傷で衰弱していたことだろう。いや、喰わなければ死んでいたのだ。そうすれば今ごろ幽霊になって……
 マトモな判断できるだけの精神状態を維持できるのがいつまでか。というか、現在維持できているものか覚束ない……
「オプションってなんだよ」
「きみとわたしが一つになることだ」と、目がいった。「わたしがきみの頭を齧って食べる。そうして、わたしがきみの首につながるんだよ」
 見事な計画だ。
「名案だ」と、オレは目にいったが、それはもちろん皮肉だった。しかし肉体と精神の崩壊が迫る衰弱のなかで、オレが発した声は多義性を帯びることができない。
「つかれただろう」と目がいう、「そういう疲弊もなくなるんだかね、きみがオレと接続すれば。スマホがひとの役にたっているのと同列に考えてみてはどうかな。もっと気楽にさ」
「スマホは頭残したまま使えんだろうが」悪態のつもりでも、声がよわよわしくて、われながら情けない響きになる。
「ああ。それなら心配いらないよ。きみの頭はわたしが齧って食べるといったよね。つまりきみはぼくの一部となるわけだし、接続することで、わたしはきみの一部になる。変化することではあるけど、それだけさ。失われるものはない。考え方しだいだ。失うだなんてネガティブにおもわないでさ。きみは、いいほうに変化する、そう考えるんだね」
 オレの体は痙攣して吐きそうになったが、腐敗して蛆のわいたゲテモノはもうオレの体に吸収されきっていて、吐くものがない。下痢のことはいうまい。
「そんなに深刻に考えるものじゃないよ。変化なんて、だれでも刻々と止め処なくしているもので、そんなことを深刻な喪失と考えていたら生きつづけることをやめなきゃイケない。ところが、死こそが最大の変化なんだな」と目は目の目でジッとオレをみながらいう、「まあ、場合が場合なんだし、決断のときだとおもって」
 目玉と一体になる。
 融けた臓物やその臭い汁を蛆と喰らって、それをオレの肉と血にしつづけるよりは、マシなような気がしてきた。だが。しかし。
 逡巡している場合でないと目玉がいうのは確かにそうだが、今こそは逡巡しなければならない、そんな人生の究極の一瞬ではないのか。
「見る前に跳べと、オーデンの詩にもあるよ」と、目玉は目らしからぬことをいってオレに催促する。
 そうだ。
 あのズングリとして強靭な小男に弄ばれつづけることと、顔が巨大な目と化したオレが救出に現れることと、どっちがアキにとって幸せなことだというのだ。
 それらは似たり寄ったりなことではないか!?
 いやちがう!
 オレだオレだオレだオレだオレだオレだオレだオレだオレだオレだ! オレがいいに定まってる!

 しかしその後、オレたちはどうやって生活をたてていけるというのだろう?
 違う!
 もうひとつ方法がある。
 こいつは横に1メートル以上、縦に50センチくらいある目玉だ。とすればこいつは檻のバーの隙間から入ってくるわけにはいかないシロモノだ。目玉の奥行きはわからないが、どうしたって進入できるだけの開口部をつくってオレにちかづくしかない。
 そのときだ! オレはオレの衰弱きった体を跳ね上げ、意表をついた拳骨をこいつの目の黒いとこの中心部にお見舞いしてやるのだ。痛いはずだ! そしたらもう何発も力の限りお見舞いしてやるのだ。んで、床の柱に固定されてオレの首へとのびる太くて頑丈な金属の鎖を首か柱からオレには残っていないはずの力ではずして、このだだっぴろい格納庫にあるはずの出口を瞬時にみつけ、こいつ以外に何百人いるかもしれないソルジャーだかなんだかなんだか得体のしれないものの目にとまらぬ瞬考・瞬発力・果断さで逃げおおせるのだ。
 そしてオレはパックリ開いた首の傷もものとせず、きらきらした太陽の直射する大いなる都市中心部(ではないかもしれない場所)へと出現をとげ、開放された喜びをウォーッ!!! と爆発させるのだ。
 ククククククククと目玉はわらった。青白い霞のようなものを身にただよわせながら。眼球以外に手と腰もあったら、身を折って口に手をあててわらっていたことだろう。
「そして女を抱くわけだ。誰でもいいというわけじゃない。でもアキでなくてもいい」と、わらいをやっとおさめつつ、目はオレの図星をさしてきた。
 じっさい、地上にのがれたあとのオレの夢はそれだった。
 オレはオレのことで手一杯だった。それに、アキは「なにをされたのやらわからぬ」存在になっているのだ。腹を割っていえば、もうオレはゴメンだった。抜け出せたら快楽がほしい、それだけだ。
 警察(になんとかできる状況ではなさそうだが。オレの有様をみろ……)だっているんだから……
 そして家族。家族……
「メンドウにかかずりあう必要はないわけだ」とオレを直視して目玉がいう。
 いつだってこいつはオレから目をはなさない。わらうにも腰を折って目がそれるということもなければ、まぶたもないのだ。
 だから、というのも情けないが、「そんな下賎な想像をするな。オレはそんな下卑た人間じゃない」といい返えしても、まるっきり見透かされてシラジラシイだけだという気がして、オレはオレの膿や血やその他汚物でよごれた床をみつめたままでいた。
「ダメだね」と眼球は裁決をくだす、「まあ、アキはすくってあげようじゃないか。きみの今後をおもえば、そうしたほうがいい」
「イヤだ!」オレは叫んでいた(つもりだったが、体力のせいで、か弱い声だ)「オレは燦々と輝く太陽だけを要求する! これ以上の困難はごめんだ」胃がギュッとなって、ぐったりとコンクリート床に伏してしまう。
 だいたいなんの権利があって、目玉はオレを訓導しようというのか。「きみの今後のため」というが、目玉とドッキングしてアキをすくうことに、どんなメリットがあるというのだろう。女なら他にいくらでもいるではないか。
 オレは数センチ頭をもたげた。目玉が喰うことを「提案」しているオレの頭を。おもわず引っ込める。
「イヤだ!」ほとんど声にならず、オレの決意の断固として強いことを示すのにはチグハグでもどかしく、不覚にも涙が浮かぶ。
 目玉はオレが家族を見殺しにしたことも知っているのかもしれない……
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