選ばれた婿(前編)
文字数 12,895文字
ひゅ~、ひゅ~、と軽く口笛を吹きながら小暮 叶明(こぐれ かなあき)は夜道を歩いていた。だからかもしれない、斯様な事態を招いてしまったのは。
電灯のかすかな光の下。女が一人蹲っている。機嫌のよい小暮は「たまには人助けくらいすべきっしょ!」と傍へと寄った。
「大丈夫ですか?」
紳士的な笑みと共に女に声を掛ける。しかし、女は俯いたままで反応を返さない。
「え~? 彼女~、大丈夫?」
よせばいいのに小暮は馴れ馴れしく女の肩に手を置いた。人にしてはあまりに冷たすぎる感触に小暮は一瞬怯む。引き攣った笑みを顔に張り付けたまま女の顔を見ようと覗き込むと、ゆっくりと女が顔を上げる。
「う、うわああああああああっ!?」
小暮はその場に尻もちをつく。ゆらりと女が立ち上がり、ぼそぼそと何かを言いながら小暮へと近づいて来る。
「いやだ、嫌だ、嫌だ!!」
縺れる脚を叱咤しながら小暮は立ち上がると一目散に逃げだした。後ろからヒタ、ヒタ、と水に濡れたような、よく分からない、いや分かりたくもない音が付いて回る。
「やめてくれ、たのむ、わるかったから……っ!」
真っ暗な世界をやみくもに走りながら天に向かって祈った。
バッ! と勢いよく何かを跳ね上げ目を覚ますと、視界に入ったのは自宅の天井だった。心臓はバクバクと音を鳴らし、肺は忙しなく動いていて、背中は汗でびっしょりだ。
「ゆ、夢か……」
小暮はゆっくりと胸を撫で下ろす。窓の外は既に明るくなっており、先程まで見ていたような夜の世界ではない。小鳥のさえずりが心地いい。
「夢……、だよな」
はーっと息を吐くがまだ安心はできない。先ほど見たものは夢ではあったが、あれは小暮が実際に経験したものだった。飲み会の帰り道で出会ったのだ、女に。
あれは人間ではなかったと小暮は思っている。正直思い出したくもない出来事だが、夢に見るほどまでに悩まされていた。
「何事も、ない、よな?」
弱々しく祈るように呟いた言葉はすぐさま打ち砕かれることになる。ひぃ、と小さく悲鳴を上げた小暮が見たのは、部屋から玄関へと続く廊下に何かが歩き回った様な足跡だった。
「も、も~、ふざんけんなよぉぉ……!」
言葉と裏腹に小暮は今にも泣きだしそうだった。
Ⅱ
「なるほど、それが今回の依頼ということで?」
目の前に座る女、いや男か? 性別が判別できないその人は神楽坂 紅(かぐらざか こう)と名乗った。大学に出入りしているオカルトマニアに件のことを相談したところ、ここを紹介されたのだ。都内の一等地にひっそりと目立たぬように存在する屋敷。足を踏み入れるのに躊躇するような、そんな場所だ。
「そ、う、なるんっすかね……?」
小暮はおっかなびっくりという風に答える。だが、相手はそんな小暮を気に掛ける様子もなく、隣でニヤニヤと笑っているうら若い少女に声を掛けた。
「椿、静を呼んでくれるかな」
「了解じゃ」
椿と呼ばれた少女は見た目に反した物言いをすると、そのツインテールをなびかせながら部屋の外へと出て行った。
「お話を聞く限り、貴方は悪霊に悩まされている。そして、我々にご相談いただいた、そう認識していますが?」
「あ、はい、そうです……。部屋の中が荒らされてるくらい、なもんっすけど……」
「へぇ、それって十分な案件じゃない?」
ジャキという音が耳元でして小暮は飛びあがり、畳の上に転がった。小暮の後ろに立っている見知らぬ少女が怪訝そうな顔でこちらを一瞥する。さらにその後ろで一部始終見ていた椿がケタケタと笑っているのが見えた。
「静、お客様がびっくりしているだろう。うちの者が失礼しました」
紅が美しい所作で頭を下げる。小暮は畳から起き上がりながら首を横に振った。自分が大げさに驚いただけで、静と呼ばれた少女が悪いわけではない。
「これくらいで大げさ。で、依頼、するの? しないの?」
ぱっちりとしつつもきりっとした瞳が小暮を射抜く。ポニーテールにされた黒髪がふわりと舞った。
「あ、えっと……、俺、よくわかってないんっすけど……」
静が呆れたような顔で小暮を見下ろす。何の為にここへ来たのだ、と言いたげな様子だ。
「その、お祓い、してもらえるってことですかね……?」
小暮が恐る恐る紅に尋ねる。紅は静かをちらりと見ると小暮へと視線を戻した。
「お祓い、とはまた違いますが。彼女が、貴方が迷惑しているという幽霊をどうにかはしてくれるはずです」
「たたっ切るの。これで」
静が小暮に刀を見せた。それは先程から彼女が手にしていたものだ。錆びているのか、その鞘は少し黒く、小汚い。
「な、なるほど……」
模造刀みたいだな、本当に切れるのかな、と思ったことは言わないでおく。例え切れない物であったとしても叩きつけられればひとたまりも無いだからだ。
「では、これが金額になりますが、ご依頼されますか?」
紅に示された金額。それは一大学生が払うには高額だ。だが、今悩まされていることを思えば、家賃二か月分くらいどうにか工面してみせよう。
小暮は「お願いします」と頭を下げた。
「てわけで、暫くお邪魔するから」
狭い部屋で静が当然のように座り込む。座布団もろくに無い男の一人暮らしの部屋に少女が居るのはなんだかよろしくない。体のラインに沿った服が眩しい。
「あの、」
「静でいいよ」
「静さん、もしかして、ここに泊るおつもりっすか?」
「それ以外に何があるの?」
ここに幽霊が出るんだから、当然でしょ、と彼女はやれやれと言った様子だ。
「あー、仮にも男の一人暮らしに女子高生が居るのはまずいと言うか……」
「ちょっと。私、これでも大学生なんだけど」
苛立ったように静に睨まれる。幼く見えただけで大人女子だったらしい。いや、それはそれで問題があるように思うが。
「へぇ? これだから男は嫌なんだよね」
小暮の態度を見て静は鼻を鳴らす。その顔には明らかな嫌悪が滲み出ていた。
「同じ部屋に居るだけですぐそういう行為を想像する。身勝手に一方的にそういう行為をするものだと思い込む。何の為に口があるのか。猿以下ね」
「そ、そういうつもりじゃないっすけど……、ただ不用心すぎるというのもあるし……そもそも俺の部屋あんまり綺麗じゃないし……」
静の口から淀みなく溢れてくる罵詈雑言に気圧されながらも小暮は言い訳する。全くやましいことを考えなかったとは言い切れない。
「とにかく、私は仕事の為にここに泊るから。あなたはいつも通り過ごして寝てくれていいよ」
彼女は刀を手に取って玄関の方へ視線を向けた。
「やっぱ玄関からなの?」
小暮は部屋の細々とした物を端に寄せながら彼女に声を掛けた。流石に無言のまま一緒に過ごすのは気まずい。彼女は小暮の方へと視線を向けた。先程までの恐ろしいオーラはなく、切り替えは早い方らしい。
「そうね。あなたの話を聞く限りじゃあ、こっちから来るんじゃないかな。毎回玄関からあなたの方へ足跡が続いてるんでしょ?」
こくりと小暮が頷くと彼女は「なら、やっぱり玄関ね」と頷き返した。
「玄関に痕跡も残っているようだし」
「視えるの?」
小暮は静の顔を見た。この世には一定数霊感があるという人が居る。小暮自身は霊感など無く、そういった類のものとは無縁だった。例の異常が起こるまでは。
「まあ。視えたところで、って感じだけど。商売道具にしてる感じ、かな」
「へぇ……。なんか、大変、だね」
毎夜襲い来るあの感覚を思い返しながら小暮は呟いた。彼女は呆れたようにこちらを見ている。今日一日だけで嫌われたかもしれない。
夜になり小暮は布団の中で浅い眠りを揺蕩っていた。静が「気にせずに寝て」という言葉に甘えて、一人布団の中に入ったのは日付の替わる前。
(嫌な予感がするなあ……)
小暮は眠りの中でそう感じる。起きてはいけない。起きなくてはいけない。相反する感覚が体の中にある。ここ最近よく感じるもの。そういう時は大抵夢見が悪いか何かが来ているか。そのどちらかだ。
ガタリ、と物音がして、小暮は遂に布団から起き上がった。
「……いつでも逃げられるようにして」
緊迫した表情で静が言う。その目は玄関に向けられたままだ。小暮は小さく頷くと布団から抜け出し、中腰の姿勢になる。まあ、逃げるにしてもこの部屋はアパートの三階なので、窓から飛び降りるわけにもいかないのだが。
カチカチカチ。時計の針が妙に大きく聞こえる。ひゅー……生暖かい様な、冷たい様な、なんとも言い難く気持ちの悪い風が玄関に向かって流れる。このまま何もなければ、と願った小暮の期待を裏切るかのように玄関の鍵がゆっくりと回った。
「ひぃ……」
思わず小さく声を上げる。今までは夢現の中でしか感じていなかった怪異を今目の前にした。バクバクと心臓が音を立てる。脂汗が額に溢れる。
「! 来るよっ!」
静の言葉と同時にバン! と音が鳴り、明らかにこちらに何かが向かってくる音がする。玄関から自分たちまでの距離はほぼ無い。ダダダという音が鳴った瞬間に静がその刀を抜いた。
シュン、と虚空を切るように上から下へまっすぐに刀が振り下ろされる。どことなく女性にもみえるような白い靄が一刀両断された。
――ギィィィヤアァァァアア!!
頭に直接響くような悲鳴が上がる。悲鳴を発した白い靄は霧散するように部屋から消えていった。
「お、終わった……?」
小暮が耳を塞いでいた手を外しながら静の方を見るが、彼女は何故か険しい顔をしている。そして、目を見開くとすぐさま刀で薙いだ。そのまま返す刀で下から切り上げ、三体目の白い靄を切る。
「え、え?」
「落ち着いて! まだ終わってない!」
静が鋭く注意する。切ったはずの靄がすぐさま復活し、襲い掛かってきているのだ。その上、数まで増えている。
とにかく襲われたときの為にと、傍にあった本を手に持つ。何も無いよりは数倍マシなはずだ。
「くっ……、キリがない……!」
静は可能な限り少ない動きでそれらを切っていく。彼女の目にはしっかりとその姿が見えていた。
(同じじゃない……。すべて違う顔、形、年齢……。性別もバラバラね……)
復活しているのではなく、次から次へと増援が送られている状態だ。恐らく本体が別にある。
(これはちょっと厄介ね)
「うわっ!」
後ろで声が上がり、静は慌てて小暮に手を伸ばそうとしていた幽霊を叩き切った。
「大丈夫!?」
こくこくと彼は頷く。蒼白するほどに恐怖を感じつつも、彼は必死に意識を保っているようだ。怪異に耐性があるわけでもないだろうによく耐えていると思う。
「朝まで! 朝まで辛抱して!」
朝になれば幽霊たちは去って行くだろう。彼らの行動制限に朝が関係しているわけではない。昼間だってその辺に潜んでいる。ただ、生命力あふれる生者たちがうじゃうじゃとしている中で彼らが我が物顔で自由に居られるか、と言ったら別問題だ。
(こんだけ物音を立ててるんだし、隣の住民たちが起きるのも早いはず……!)
静は頭をフル回転させながら断ち切っていく。体力と、そして特に気力が削られていく。怪異と対峙するには何よりも強い意志が必要だ。自分を守るだけならまだいい。だが、それを切り、何かを守るにはより必要だった。
どれくらいそうしていただろうか。うっすらと空が明るくなる頃、徐々に目の前の幽霊たちの数が減っていき、カーテンから光が差し込むと同時にそれらは消えていった。
「つ、疲れた……」
静がへたりと座り込む。小暮は彼女の方へ少しばかり近づいた。
「あ、の、大丈夫?」
小暮の気遣いに彼女は頷く。
「とりあえずね」
だが、彼女の刀は抜き身のまま手の中にある。これは本当に戦いが終わったということだろうか?
「ああ、終わってるよ。とりあえずは、ってところだけど」
ごめんね、と言って彼女は刀を鞘へと納める。光の入った部屋でよく見ると、それは錆びているのか、古いのか。イメージしていた日本刀よりも輝きが鈍い。そんな失礼な視線に気が付いたのか、彼女は「気になる?」と言ってもう一度刀を鞘から抜いた。
「触っても大丈夫よ、切れないから」
「へ?」
「これ、刀だけど、本来の刀のようには使えないの。まあ、レプリカみたいなものね。……てか、レプリカ、ってことになってる」
色々と面倒だから、と彼女はごにょっと呟く。ほら、と彼女は自身も刀身に素手で触れ、小暮に示してくれた。本当に切れない様だ。お言葉に甘えて彼女の仕事道具に触れさせてもらう。本当にレプリカの様な、だが、ところどころ錆か何か凸凹しているような、そんなよくわからない感触。
「ありがとう。って言っても、俺、本物もレプリカも触ったことないから分かんないんだけど……」
「ははっ。どういたしまして。普通はそうだから気にしなくていいよ」
気が抜けているのか彼女は可愛らしく笑った。それにつられて小暮も笑みを浮かべてしまう。
ドンドンドン! 玄関が大きく音を立てられ、二人は顔を見合わせた。この礼儀正しいのはきっと生きた人間に違いない。この後来るであろうお叱りに憂鬱になりながら小暮は玄関へと向かった。
Ⅲ
「えっと、本気で言ってます?」
小暮は隣にいる静を見る。彼女は背中にバット袋を担ぎながら「当然」と見上げて来た。
「だって明らかにおかしいもの」
静は小暮の隣を歩きながら言う。彼女が言うには、まだこの怪異は解決していないらしい。
「あなたは白い靄に見えていたかもしれないけど。家に来たのはほとんどが違う霊だった。あんなに沢山の霊があなたに攻撃してくるなんて、おかしいじゃない」
大本がどこかに居るはずよ、と言うのが彼女の見解だった。隣人から騒音のお叱りを受けた後、彼女は神楽坂に連絡を入れ、継続護衛をすると言ったのだ。隣人からのお叱りには夜中にゴキブリとネズミが出て大変だったのだ、と弁解したところ、お許しを頂いたが、そう何度も通じる言い訳ではない。
「それで、なんで俺の大学に?」
目の前には大学の門。あれよあれよと彼女と一緒に登校する羽目になった。
「……生きた人間が犯人かもしれないでしょ」
誰かに恨みを買ったとか。と恐ろしいことを言われ、小暮はピシリと固まる。
「え、それって、あの、有名な五寸釘的な……?」
「あー、そういうのもあるかも? 一概には言えないよね、呪いって姿形を変えるし。古典的なものだけが呪いとは限らないから」
「そうなの?」
「うん。あくまで私の経験則の話になっちゃうけど。例えば、あなたのことをとても恨んでいる人が居たとして。その人が思うだけでなく行動に移した時、そこにはそういう怪異が集まりやすくなるの。それが悪さするって言うのはよくあるよ。行動は何でもいいしね」
「へえ……」
案外身近にあることを考えると、本当に誰かに恨まれているのかもしれない。
「兎にも角にも、一番可能性があるとしたら、ここ、でしょ?」
ね? と静が大学を指差す。そう言われると確かにそうだ。
「でもいいのか? 静も大学あるんじゃないの?」
大学生だと言っていたことを思い出し、尋ねると彼女は「大丈夫」とあっさり答えた。
「私、通信大学に通ってる身だから。通う必要はないの」
ほら、行くわよ、と彼女は颯爽と門をくぐっていく。小暮の大学は外部から受講する者も多く、所属する学生以外に沢山の老若男女が出入りしている。ちらりと警備員の方を見るが、特に気にしている様子はなく、問題なく静かと共に大学へと入れた。
「セキュリティカードが無くて良かった」
ご機嫌な様子で静は講堂のど真ん中の席に座る。
「ちょ、ちょっと……、もう少し端に行かない?」
こんな教授から目立つ位置に座りたくない。小暮が静かに言うと彼女はきょとんとする。
「真ん中の方が見やすいんじゃないの?」
「あー、うん、まあ、そう、だね……」
純粋にそう尋ねられると頷くしかなく。いつもは後ろの端の席に座るのだが、今日ばかりは前のど真ん中に座る羽目になってしまった。
「ふーん、大学ってこんな感じなのね」
興味津々というように彼女は教授が来るまでの間、しきりに周りを見渡している。
(ああ、そっか、静は通信大学だから講堂での授業を受けるのは初めてなのか)
そう考えれば、彼女が前の席に座ってみたいと思うのも頷ける。年が近い子の素の一面が見られたような気がして、少しむず痒くなった。
「あ、そうそう。あなたの友達、チェックしておきたいから、居たら教えて。紹介まではしなくていいわ」
思い出したように静が耳打ちしてくる。恨みを買うとしたら近くから、ということなのだろう。了解、と答えると彼女は再び大学体験に集中し始めた。
お昼の鐘が鳴り、小暮は静かと共に食堂へと向かう。混雑しているが、二限まで授業があったから仕方がない。
(どこか席をとって……)
小暮がきょろきょろと見回していると、「お、小暮!」と呼ばれる。そちらへ視線を向けると、金髪の青年が手を振っていた。隣には髪を巻いた女子が居る。
「あ」
同じ学部の知り合いと認識し、小暮はそちらへと向かう。
「なに、今から飯? オレらもう終わるから、席譲ってやろうか?」
彼らの手元を見ると、確かにほとんど食べ終わっている状態だ。
「ねえ、席空いた……、あ、こんにちは」
後ろから声を掛けて来た静が知人たちを見て、挨拶をする。それに驚いたのは知人たちの方だった。
「え、おいおい、お前、いつの間に彼女なんか!」
「え~、ちょーかわいいじゃん! 教えてよぉ!」
口々に彼らは小暮に詰め寄る。どう答えようかと小暮が困っていると、スッと静が前に出た。
「いえ、彼女じゃありません。親戚です」
「そ、そうそう。親戚。ここのランチ食べてみたいって言うからさ、今日連れて来たんだわ」
機転を利かせてくれた彼女に合わせて小暮は彼らに説明する。
「え~、なんだぁ、小暮っちに春が来たのかと思ったのにぃ。残念」
「な、残念」
「残念で悪かったな!」
小暮の反応に二人はケタケタと笑っている。楽しそうで何よりだ。
「それじゃ、オレらもう行くから」
二人はパパっとテーブルを片付け、トレーを手に持つと去って行った。
「あなたって、陽キャって思ってたけど、やっぱりそうだったのね」
「陽キャ……?」
ずずっとうどんを食べながら静は頷く。小暮が食べているのはキムチチャーハンだ。
「そ、明るいキャラクター、みたいな? 友達、多いのね」
「そう?」
白菜をシャキシャキさせながら小暮は首を傾げる。
「そう。だって、さっきのカップルもそうだけど、ここに来るまでに遠目に教えてもらった知り合いが多すぎる」
あれ全部確認するの、結構大変、と彼女は肩をすくめた。あの人数で多いのか、と小暮は少し驚く。ノートの貸し借りやグループワークなどで仲良くなると、大体あれくらいの人数になるだろう、というのが小暮の感覚だったからだ。もちろん、名前と顔が一致して少し話すくらいの知人、なわけだけれども。
「でも、あなたが恨みを買っている様子はないから、大学ではないのかも」
もぐもぐと口を動かしながら静は考え込む。確かに大学の知り合いでは当たり障りのない関係性しかないし、特別仲が良いと言っても恨みを買うようなことは思い当たらない。
「あ、ちょっとトイレ」
小暮はまだ食べている静に声を掛けて席を立つ。彼女は手でOKサインを作ると頷いた。食堂の少し奥にあるトイレへと向かう。がやがやとランチを買うために並んでいる学生たちをかき分け、トイレの中へと足を踏み入れた。
ちょうど誰も中にはおらず、一人で用を足す。チャックを上げて、手を洗おうと水を出した時だった。
なんとなく。本当に何となく鏡を見た。至って普通の鏡だ。何かがあるわけでもなく、清掃員の人によって綺麗に磨かれている。
――みぃつけた……
「え?」
小暮がもう一度鏡を見た時。黒い影がバッと目の前に広がり、鏡の中から人の形の様な、それでいて黒い手が伸びてきた。
「うわああああああああっ!?」
慌てて小暮は鏡から離れる。しかし、伸びた手は小暮の両腕をしっかりと掴み、そのまま鏡の中へと引っ張られる。
(やばい、やばい……!)
必死に抵抗しながら小暮はどうにか大声を出す。しかし、トイレの外へは声が届かないようで誰も来てくれない。
「誰か……っ! 助け、助けて……!!」
もうダメだ、そう思って小暮が目を瞑った時。
「小暮! 諦めるな!!」
バン! という音と共にパリン! という音が鳴る。目を開けると静が鏡をその刀で叩き切っていた。
「大丈夫!?」
ザーザーと蛇口から水が流れる音、割れた鏡、それから「どうした、どうした」という学生たちの声。
立てる? と静に腕を掴まれ、どうにか小暮は立ち上がった。未だに恐怖で足がかくかくしている。
「い、いまの……」
「まさかこんな方法で接触してくるなんて思わなかった……。ごめん、昼間だし、トイレくらい大丈夫だって思ってた」
静が頭を下げる。だが小暮の頭には彼女の話は入ってこない。
「俺、まだ死にたくない……」
漠然と感じた恐怖が口を突いて出た。
Ⅳ
「落ち着いた?」
あの後集まった野次馬をどうにか撒きながら小暮たちは大学の中庭の端に腰を下ろしていた。静に渡された水を飲みながら小暮は自分の腕を見る。そこには確かにくっきりと手痕が付いていた。
「……落ち着けるわけ、無いじゃん」
力なく、しかし少しばかりの怒りの籠った声で小暮は返してしまう。彼女が悪いわけではない、そう頭ではわかっているのに。
「……怒るだけの気持ちがあるなら、まだ大丈夫だね」
しかし彼女は笑った。それを睨みつけると彼女は肩をすくめながら小暮の隣に座る。
「いい? 大切なのは、気持ち。忘れないで、誰よりも強いのは、生きている者だよ。死者に負けるな。奴らは弱い。だから、こちらの弱さに付けこむ。数で襲ってくる。恐怖を、煽って来る。でも、それだけよ。今も昔もこれからだって。誰よりも強いのは生きている者。それを忘れないで」
「でも……」
「大体、どういう理由があれ、死んだ奴が今を必死に生きている人間にとやかく言うな、って話でしょ」
ふんっと鼻を鳴らす彼女がどこかおかしくて、小暮は思わず笑ってしまう。もしかすると彼女は小暮を元気づけようとしているのかもしれない。
「なんで笑うのよ? だって思うでしょ? 死んでからも未練たらたらとか、情けない。自分の人生を生ききれなかった? それを他人のせいだけにして。恥ずかしい。生霊だってそう。何のための口か。何のために生きているのか。それを活用しないことがおかしい」
「流石に厳しすぎない? ……幽霊の事、嫌いなんだ?」
笑いながら尋ねた小暮に彼女は清々しい程に美しく笑った。
「嫌い、なんだ?」
今度こそ声を立てて小暮は笑う。
「私、過去を後悔している者が嫌いなの。振り返るのはいい。未来に繋がるから。でも、いつまでも過ぎたことにこだわってるのは嫌い」
それにね、と彼女は遠くを見た。
「大体死んだ人間は、意思が無いから。もう、人ですらない。だから、切る」
「意思が無い?」
恨みを持っているのに? 小暮が首を傾げると彼女は頷く。
「たった一つの感情だけが残って、それを誰に向けていたのか、自分はどうしたかったのか、そういうものは何もかもなくなる。そうして、ただ自分よりも弱いものを狩るだけの最低最悪な存在に成り下がる」
彼らに価値なんて、最早無いも同然よ。静は言い切った。
「へえ……」
だが小暮には実感がなかった。確かにそうかもしれない、だけど、彼らにも、とどこか思ってしまうのだ。
「そうやって優しいから付けこまれるんでしょうね」
静が呆れたように言った。
「で、大学内にまで奴らは現れたわけだけど、でも原因が分からないんじゃあ、困る」
何か思い当たる節はない? と静に尋ねられる。思い当たる節はやはりあの日の事だけだ。
「話したと思うけど、あの夜のことくらいしか」
「あの夜? 最初に変な夢を見た話?」
「いや、そうじゃなくて、飲み会の帰りの……」
「は?」
すごく低い声が静の口から発せられた。眉は吊り上がり少しばかりの怒りが滲み出ている。
「え、俺、話した、よね?」
もしかして伝わってなかった……? 容量の得なかった小暮の説明はもしかすると……。
「……そういうこと」
静が冷たい視線を小暮に注ぐ。彼女は大きく溜息をついた。
「いえ、あなたが悪いわけじゃない。ちゃんと話を聞かなかった私たちが、悪いわ」
はああああっと再び溜息をつきながら彼女は頭を抱える。さてどうしたものか、ということだろう。
「……どうにか、なる?」
恐る恐る小暮が尋ねると、「どうにかしてみせるわよ」と彼女は口を尖らせながら言った。
「でも、絶対、別料金!」
だってそんな大変なの聞いてないもん! と彼女は言う。それに青くなったのは小暮の方だった。
「俺、そんなにお金持ってないんだけど……」
今回の依頼費だけでも大分な出費だった小暮にはこれ以上の追加経費は厳しい。
「……小暮、そう言えばなんでそんなところまで行ったの? 飲み会にしたって、わざわざ静岡まで行く?」
「ああ、俺、出身が静岡でさ。それでその日は地元の友達と呑みに行く話になってて。それで静岡に行ってたんだよ」
「その帰りに謎の女に会った、と」
小暮は頷いた。本当に偶々だったのだ。偶々その日、静岡の友達数人と呑んで。歩いて実家に帰るときの事だったのだ。
「……、話を聞く限り、結構な田舎?」
「失礼だな。でも、そうかも。この辺よりは全然田舎だし、周りは山に囲まれてるし」
山々に囲まれたのどかな田舎を思い返しながら小暮は説明する。こんな状況になってしまって、実家が恋しくなるとは。
「行くか」
「はえ?」
静の言葉に小暮は素っ頓狂な声を上げる。
「だって、そこが原因でしょ? 実家の近くに何かあるはず。それを確かめに行くしかないわ」
「確かめるってどうやって……」
「現場に行く。大丈夫、次こそ大本から叩き切ってやるから」
ええ……と顔をした小暮をくるっと静が見る。
「そう言えばさ、みかん農家、だったりしない?」
「え? そうだけど、なんで?」
実家が農家だなんて話したっけ、と小暮は首を捻る。それに対して静が「勘」と一言発した。
「普通のみかん?」
「あー、うん、まあ、みかんかな、普通の。地元じゃあ、そこそこ有名って言うか人気はあるんだけど、まあ関東では見ないかも」
「それ。それ、対価になるよ」
「へ?」
「さっき、代金の話してたでしょ? それのこと。みかんで払うもありだと思う」
皆みかん食べるし、と静が言う。
「そういうのもあり?」
もしそうなら小暮としては大変助かる。みかんなら親に事情を説明して工面しやすい。
「ありあり。何事も等価交換。タダなものは無い、っていうのが原則なんだけど、わかりやすくて揉めないのがお金ってだけで、実際は物々交換でもありなの」
「なる、ほど……」
「ただし、一箱では済まないだろうから? そのあたりは覚悟してて欲しいけど」
確かに追加料金分の個数は用意しなくてはいけないだろう。
「さ、じゃあ、静岡、行きますか」
ビシッと見せられた彼女のスマホには購入済みと記載されたチケットが表示されていた。
あれよあれよと新幹線に乗り込み、小暮たちは静岡県に来ていた。電車で乗り継ぎ、小暮の実家へと向かう。ホテルを借りても良かったが、手持ちが少ないことを考えれば、実家に泊るのが早い。
急に帰って来た息子を母親はびっくりしたが静を見てにやりと笑い、そのまま通してくれた。これはきっと勘違いをしている。
「泊めてもらえるなんて、ラッキー。ありがとう」
静が部屋を見回しながら礼を述べる。時刻はちょうど夕方。もうすぐ山々の中に日が沈んでいく時間帯だ。
「とりあえず、その例の場所だけでも見たいんだけど、ここから近い?」
「近い……、まあ、歩いては行ける、かな……」
あの時は酔いもあって夜風に当たろうと呑気に歩いただけで、本来は自転車か車で行くような距離だ。家族の自転車を借りられだろうか。小暮は家にある自転車の数を思い浮かべながら考える。
「とりあえず、行けなくはないと思う」
小暮の言葉に静が頷いた。
両親の自転車で目的地へと向かう。ぽつぽつと住宅が並ぶ都会と比べれば少し暗い道。街灯が仄かに光を灯す中で二人は自転車から降り立った。
「この辺り……」
あまり思い出したくはない記憶を頼りに小暮が言うと静はその鋭い視線で周りを見つめる。
「特に変わった様子は……ないわね」
おっかしいなあ、と静が言う。くまなくあたりを探すが特に変わった様子はない。
「ここでしゃがんでた女の人に声を掛けたんだよね?」
静の言葉に小暮は頷く。確か電柱当たりだったはずだ。二人でどうしようかと思っていた時、カラスが鳴きながら飛んで行った。
「あー、もうこんなに暗く……」
小暮が呟いたのを遮るように静が「あ」と声を出す。そのまま何かを辿る様に視線を動かし、ピタッと止めた。
「山?」
静が見た方を小暮も同じように視線を向ける。そこには何の変哲もない山がある。
「山がどうかした?」
小暮が尋ねると「うーん」と静は顎に手を当てながら考え込む。
「ねえ、あの山にさ、なんか、こう、言い伝えとかあったりする? 心霊スポットになってる、とか」
「うーん? いや? 特には。心霊スポットではないと思うけど。あ、でも、暗くなると危ないから入るな、とはよく言われたなあ」
だがそれは幽霊云々ではなく、単に熊が出ることや、夜の山は迷子になりやすく、そのまま行方不明になることが多いからだ。
「そりゃそうよね、山だものね」
小暮の説明に納得する静。だが、その視線は山へと向けられている。
「え、もしかしてあの山になんかいる……?」
顔を引き攣らせながら小暮が尋ねると彼女は曖昧な返事をした。
「いるっていうか、憑りついちゃった、というか、今いるだけっていうか。正直大したものではない、はずなんだけど……」
「けど?」
「うーん、怪しすぎる。でもあそこが原因、とは思えないんだよね……」
一旦戻ろうか。静の言葉に小暮は再び自転車に乗る。分からないのであればここに居ても仕方がない。本格的に暗くなってきたし、田舎は暗くなると右も左も分からなくなる。早めに家に帰った方がいい。
二人は再び自転車に乗ると元来た道を帰っていった。
その夜。小暮は久しぶりの自分の部屋で寝ていた。ベッドの上でゴロゴロと寝返りを打つ。どこか寝苦しい空気と共に、しかしひんやりとした風が首元に当たって、気持ちが悪い。
(水でも飲むか)
そう考えて小暮は目を開けた。
「っ、!?」
息が止まる。目の前に真っ黒なものがあって、それは確かに人のような形をしていて、大学の鏡で見たあれらと同じもので。明確な意志を持って小暮に襲い掛かろうとしていた。
(逃げないと……!)
静は隣の部屋で寝ている。同じ部屋で寝ると彼女は申し出てくれていたが、小暮が断ったのだ。
(こんなことになるなら一緒に寝てもらえばよかった……!)
そう思っても後の祭りである。どうにか声を出して静かに気が付いてもらわなくてはならない。
金縛りにあったかのように動かない体を必死に動かそうとする。静の言っていた気持ちが大切なのだという言葉を信じて。
「くっ、し、しず、静!!」
黒い靄に囲まれながら、遂に声が出た。聞きつけた静が隣の部屋から向かってくる音が聞こえる。バン! とドアが開くと同時に小暮は意識を失った。
「小暮!!」
静の声は小暮には届かない。黒い靄を切りつけるが、数が多いのか分厚いのか。小暮を放そうとしない。
「お化けごときが……!」
キッと睨みつけながら何度も刀を振るがキリがない。苦戦しているうちに小暮はそれらに完全に囲い込まれてしまい、ズズズッと影の中へと連れ込まれていく。
「ちっ……!」
静は舌打ちする。このままでは小暮を見失う。刀を鞘へしまうと自らその影の中へと飛び込んだ。