第24章 奸計

文字数 2,875文字

 浪人者とおぼしき人影が八百屋の障子戸に手を掛けた瞬間、吉之助と竜之進は、空き家の戸を蹴破って通りに飛び出した。

 腕に覚えがあるという大久保一馬が雇った刺客となれば、相当の手練れと思われる。吉之助が右側から、竜之進が左側から殺到し、一瞬で勝負を決すると予め話し合っていた。
 刺客は右利きなのだろう。刀に手を掛けつつ吉之助の方に体を向ける。しかし、吉之助はすでに得物を杖を突き出していた。

 その時である。「待った!」と竜之進が叫んだ。

 竜之進の声に吉之助が突きを止める。そのまま突いていれば、硬い赤樫の杖が相手のあばらを砕き、砕けた骨が心の臓に刺さって十中八九絶命していたはずだ。
 突きは止めたが、勢いは止まらない。吉之助は突く力を縦方向に逃がして杖を回転させると、杖の尻側を相手の首筋に叩き込んだ。

「ぐっ」と発して、刺客が地面に沈む。
「どうした、なぜ止める?!」
 思わず怒鳴った吉之助に対し、竜之進が黙って、倒れた男の腰の辺りを指さした。月明かりに何かがきらりと光る。

「何だ、印籠か。なに、下り藤だと?!」

 吉之助は、倒れた男の顔を覆っている黒布を剥いだ。若い。二十歳そこそこか。そして、月代を綺麗に剃っている。どう見ても、金で雇われた浪人者ではない。

「これは、大久保家の馬鹿息子か」
「でしょうね」
 竜之進と目が合う。彼も同じことを考えているのだろう。何とも言えない不快感が全身を駆け巡る。

「いくら家名を守るためとは言え、母親が我が子を。あり得ますかね」
「さあな。しかし、親と雖も一個の人間だ。子供の命より大事なもの、守りたいものがあっても不思議じゃない」と返した吉之助に対し、竜之進は不満顔である。彼は、不遇な環境の中でも両親の愛を一杯に受けて育った。もっともな反応だ。吉之助としては、ため息を吐くしかない。

「ふう。それで、こ奴をどうするか」
「さあ。しかし、逆上した息子を唆し、我らに討たせたとして、後始末はどうするつもりだったのでしょう?」
「まあ、息子は病で急死ってところだろ」
「我々は?」
「眼中にないよ。間部様さえ黙っていてくれれば済むと思っているのさ。そして、ご主君第一の間部様は、大久保家の忠誠を代償とすれば黙認してくれると読んでいるのだろう」
「呆れるなぁ。その知恵、他に使えばいいのに」
「まったくだ。とにかく、あとは間部様に任せるしかない。こ奴も浜屋敷に運ぼう」

 築地の外れ、隅田川沿いに鎮座する波除稲荷神社。その脇を三つの人影とひとつの奇妙に大きな影が、浜屋敷に向かって足早に進む。

「あの、あたし達も行かなければならないのですか。もう終わったのでしょう?」

 おつるが、吉之助が背負う気絶中の大久保一馬をちらりと見て、遠慮がちに尋ねてきた。夜が明ければ店を開けなければならない。小さな商いだからこそ、継続が大事なのだ。その気持ちはよく分かる。

「しかしな、ここは避難しておくべきだ。今や、この馬鹿息子より、あの奥様の方が怖い。お前たちだけなら、大久保家に今いる連中だけで事足りる。口封じか腹いせか、どちらにせよ、いずれ必ず来るぞ」

 新吉がごくりと喉を鳴らして顔色を変えた。おつるは、背後を守る竜之進を見た。竜之進が黙って頷く。侍二人の意見が一致していることを確認すると、おつるは、横で青くなっている夫の手を握った。そして、励ますように大きくひとつ頷いた。どこまでも気丈な女である。

 浜屋敷に着くと、一馬の身柄を不寝番の詰め所に放り込み、おつると新吉の夫婦を玄関脇の控えの間に入れて休息させた。
 その後、吉之助と竜之進は、用人・間部詮房の御用部屋へ。間部は、いつもと変わらぬ裃姿で、一人調べ物をしていた。吉之助は、この人はいつ寝てるんだろうか、と呆れつつ、文句のひとつも言わねば気が済まない。

「そうですか。あの澄江様が、そこまでするとは・・・」
 間部は、五百石の旗本の次女である彼の妻を通して、十年以上前から澄江を知っていたらしい。

 大久保家の現当主・若狭守忠利は、同じ大久保一族でも格下の家から来た婿養子で、家の実権は家付き娘である澄江が握っている。そして彼女は、昔から際立って賢く、且つ、厳格な性格で、これまで、夫を含め、家中を完璧に管理してきた。

 間部は、それを踏まえ、今回の事件に関する推測を述べ始めた。

 つまり、これまでの人生、一点の瑕もなかった澄江が、俄かに視力を失い、周囲から同情されるようになった。彼女は、同情よりも尊敬を欲するタイプの人間である。じわじわと心が蝕まれて行く中、今度は、夫の留守中に嫡男の一馬が遊女に溺れるという大失態。そこに夫が戻って来れば、どうなるか。

 夫が彼女を責めることはないだろう。むしろ労わってくれるに違いない。しかし、彼女の誇りは、それに耐えられない。何より、自分自身を許せない。思い詰めた挙句、夫が戻る前に「処理」しようと謀ったのであろう、と。

「だとしても、まったく共感できませんな。こちらは、危うく息子殺しの片棒を担がされるところだったのですよ」

 吉之助と間部が軽くにらみ合ったところで、竜之進が割って入る。
「まあまあ。ここで我らがいがみ合っても、誰も得をしませんよ。ところで間部様、この後、どうなさる御つもりですか」

「そうですね。一馬殿は、一旦私が預かります。若狭守様がお戻りになったら話してみましょう。八百屋夫婦を連れてきたのも正解でした。明日にでも私が大久保家に出向き、澄江様と話を付けてきます」
 そこで竜之進に目配せされ、二人揃って軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」

 間部の締めの言葉。
「ご苦労様でした。人死にも出さず、大久保家に恩を売ることも出来ました。澄江様はともかく、若狭守様は勤勉で有能な役人です。いずれ、殿のお役に立ってくれることもあるでしょう」

「それで、この件、殿のお耳には?」と吉之助が問うと、間部は、ふっ、と鼻先で笑っただけであった。

 玄関脇の控えの間に戻ると、若い夫婦が、横になって休んでなさいと言っておいたにもかかわらず、部屋の隅で揃って正座をしていた。来客用としては最も格の低い部屋とはいえ、大名屋敷のことである。居たたまれないのも無理はない。吉之助は、夫婦を御長屋の自宅に招くことにした。

 まだ暗い中、御長屋への廊下を歩いていると、おつるが急に立ち止まって頭を下げた。
「狩野様、島田様、重ね重ね、お世話になりました。あの、何かお礼を・・・」
「気にするな。そなた達は、一方的に迷惑を被っただけなのだから」
「でも・・・」

「そうだ。それなら、志乃に、私の妻に、そなたの大根の葉っぱの漬け方を教えてやってくれないか。うちのはどうも、しょっぱいばかりで敵わんのだ」
「そりゃあ、名案だ。この後、あの握り飯がいつでも食べられるようになれば、今回の仕事は十分元が取れますよ。おつる殿、私からも頼む」

「はい。喜んで」
 おつるは明るくそう答えると、夫の新吉と笑顔で頷き合った。彼女のその笑顔は、夜明けを待ち切れずに開いた白い朝顔の花のように力強く、また美しかった。

次章に続く
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