第28章 御前様の注文

文字数 2,865文字

「詮房、どうしても駄目か。勿体ないのう。ほれ、これなど、よく描けておる」
「恐れながら、本来、鷹狩は公方様の固く禁じるところ。此度は朝廷のご要請あったればこその特例でございます。殿のご雄姿、是非とも屏風にして残したいところではございますが、万一、公方様のお耳に達すれば、必ずやご不興を買いましょう」

「だそうだ。吉之助、残念だな」
「はっ」

 浜屋敷の御成書院、三十数枚の紙が上段之間に座る綱豊を囲む。どの紙にも墨一色であるが、かなり精巧に鶴御成の様子が描かれている。
 吉之助は、鷹狩の最中は主君の身辺警護に当たらねばならず、画など描いていられない。従って、帰宅してから夜通しでスケッチを描き、その後、ひと月ほどかけて屏風の下絵に使えるくらいにまで仕上げたのである。

 鶴御成は無事に終わった。

 尊王家で知られる水戸藩先代藩主・徳川光圀の指示で水戸藩から現藩主の名代が参列。その他にも、譜代大名や高級旗本が数十家参加。大名はほとんどが水戸家に倣って藩主の名代を寄越したが、旗本では当主自ら参加する家も多かった。

 鶴御成本番において、綱豊は、自らの拳から鷹を放ち、三羽の鶴を仕留めた。その三羽は、すでに京都所司代を通じて帝に献上されている。これにより、江戸においても京都においても、甲府中納言・松平綱豊の存在感は大いに高まった。

 そして、年が明けて元禄十一年(一六九八年)の正月、綱豊を含む鷹狩参加者が新年行事から締め出されることもなかった。これも特例として、穢れ落としの精進潔斎の期間が短縮されたためである。万事順調に済んだと言っていい。

「それはそうと詮房。新年初登城の際、水戸殿(三代藩主・徳川綱條)には直接礼を述べたが、他の参加者にはどうする?」
「ご心配には及びません。年賀と併せ、安藤様などと手分けして回ります」

 そこで綱豊が畳から紙を一枚取り上げた。
「ははは。吉之助、これは何だ? 誰だ、鷹狩をさぼって釣りなどしていた奴は?」

「それは、旗本の津軽采女正様です。殿のご休息中、周辺を見回っているときにお見かけしました」
「津軽? ああ、弘前藩の分家か。そうだ、思い出した。確か、大層な釣り好きだったはずだ。吉之助、これはどの辺りだ?」

「はい。御狩場の北側の小川です。魚釣りも公方様に禁じられていることなので、一応ご注意申し上げたのですが、本日この場だけは、帝のご威光により、生類憐れみの令は無効となっているのだから、よいのだとおっしゃられまして・・・」

「面白いことを言う。もしや、それが目当ての参加か」
「そうかもしれません」
「はっははは、旗本も多士済々だな」
「はい」
「吉之助、これらの画はしばらく預かる。お照にも見せてやりたい」
「はっ」

 江戸の武家社会において、甲府中納言の上位者は数える程しかいない。年賀の挨拶回りも、ほとんど、向こうが先に来て、その返礼という形になる。
 従って、甲府藩の面々が忙しくなるのは一月も中旬以降であった。五万石以上の大名と六千石以上の旗本には江戸家老・安藤と用人の間部が、五万石未満の大名と六千石未満三千石以上の旗本には中老などの幹部クラスが赴く。そして、それ以下に対しては一般藩士の中から心利きたる者が選ばれて行く。吉之助と竜之進もそこに入る。

 旗本津軽家は四千石。残念ながら、吉之助の担当外であった。ちなみに、津軽采女正が、我が国初の魚釣りの指南書「何羨録」を上梓するのは、もう少し後のことである。

 二月に入ると、初午の稲荷祭を控え、またしても江戸中がそわそわし出す。そんなある日の午後、御長屋の脇から、カッ、カッと木剣の打ち合う音。吉之助が竜之進を相手に剣術の稽古をしている。今後、主君の供をする際など、得物の杖を携行できない場面も増えるだろうと考えてのことだ。

「痛っ、手が痺れますよ。大丈夫、大丈夫。吉之助さんの馬鹿力なら、そうして上段からガツンと振り下ろせば、大抵の奴は受け切れない」
「ほんとか。どうもいい加減だな」

 そこに間部の部下がやって来た。吉之助に、直ちに奥の御対面所に行くように、とのことだ。

 御対面所は、表の男性家臣が奥女中と面会する際に使う部屋である。浜屋敷の表と奥を繋ぐ回廊の奥側に位置する。
 この部屋は、昼夜を問わず、障子戸が全面開け放たれている。故に、呼び出した相手が先着していることは遠目にも分かった。

 その人の名は、平松時子。正室・近衛熙子の側近である。

 彼女は、近衛家支流の中級公家・平松中納言の次女で、熙子より三歳上。熙子が五歳になったときに遊び相手兼世話係として選ばれた。以来、片時も離れず熙子の側にいる。
 熙子は、人前では完璧な姫君を演じているが、本質は好奇心旺盛なお転婆娘である。時子は、そんな熙子が素の自分を見せることの出来る数少ない存在であった。

 常に強い輝きを放つ熙子に寄り添っているので気付きにくいが、時子も十分美しい。髪型や装束に熙子より公家風を強く残しているように見える。主の希望なのかもしれない。挨拶を済ませると、彼女はすぐに用件に入った。

「画を描いて欲しいのです。お軸用に一枚」

「画題は何でしょうか」
「菊慈童です。姫様がご所望です」
「姫様、ですか。ああ、御前様。御前様が直々に?」
「はい」
「恐れ多いことですが、ご所望とあれば喜んで。しかし、菊慈童ということは、重陽の節句(九月九日)にお掛けになるのでしょうか。十分余裕がありますな。表装まで考えても・・・」

 すると時子は、会話をばっさり切り捨てるように言った。
「全く関係ありません。とりあえず、下絵を描いてお持ち下さい」

 吉之助の怪訝な顔をよそに、彼女は言葉を続ける。口調は極めて事務的だ。
「ご安心ください。これまでの例では、下絵だけで、その先をお頼みすることは、まずありません」

「は?」と、思わず変な声が出た。意味が分からない。

「これまで何人もの絵師に下絵を頼みましたが、どれもお気に召さなかったのです」
「そ、そうなのですか」
「はい。姫様も半ば諦めておられますが、それでも、一応は試さずにはおられないのでございます。狩野殿には表のお勤めもあるので、心苦しくはありますが、よろしくお願いします」
「それは構いませんが・・・」
「どれくらいで描けますか」
「下絵だけですから、五日もあれば。いえ、念のため、十日後でお願いします」
「分かりました。では、これにて」

 時子は会話の終了を告げると、優雅に立ち上がった。吉之助は、はっとして尋ねる。
「平松様、お待ち下さい。御前様は、どのような絵画をお好みなのでしょうか。やはり京風、土佐派の大和絵が・・・」

「勿論、国風はお好きです。源氏物語や伊勢物語の絵巻は、常にお手の届くところに置いて愛でておられます。されど、土佐派に限ったことではございません。狩野派もお好きですよ。作品による、ということです。気にせず、好きに描いて下さい。どうせ無駄ですから」

 時子はそう言うと、打掛の裾を綺麗にさばいて去って行く。吉之助は、その後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。

次章に続く
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