第34章 うごめく者

文字数 2,311文字

 犬神憑きを退治した甲府藩御前様の行列が動き出した。赤穂藩奥方様の行列もそれに続く。その光景を見る二人の男がいた。彼等は通りに面した商店の暖簾の陰に身を隠している。

「くそ、忌々しい。儂の出番を取りおって」と吐き捨てた初老の方は、小太りで茶人風の格好。
「笠間侯、こうなっては仕方ありません。裏口から引き上げましょう。さ、お早く」と言ったのは、背の高い、いかにも物騒な雰囲気をまとった侍。

 そして、とっぷりと日の暮れた五つ(ほぼ午後八時)過ぎ。駒込の川越藩下屋敷、柳沢出羽守の懐刀で江戸家老を務める穴山重蔵が、自身の御用部屋で各所から届いた報告書に目を通していた。すると、障子戸に大きな影が。

「ご家老。戻りました」

 声の主は先の物騒な雰囲気の侍、すなわち、新見典膳である。彼は、約一年前、三河島御狩場で松平綱豊の背に矢を放った後、穴山の命で川越に行っていた。江戸に呼び戻されたのは半月ほど前のことである。

「おお、典膳か。入れ。首尾は?」
「申し訳ございません。不首尾でございました。とんだ邪魔が入りまして」
「邪魔? 町方か」
「いえ。甲府藩の正室の行列が、すぐ後から来てしまい・・・」
「ははは、間の悪いことよ。せっかくの仕込みが台無しか。で、本庄の殿様は?」
「はい。両国の御殿(笠間藩下屋敷、現代の墨田区立旧安田庭園)まで送ってきました。いたく機嫌を損じたようで、申し訳ありません」

「いや、構わぬ。やることはやったのだ。そもそも、いい歳をして、偶然見かけた浅野の奥方に横恋慕し、近付く手伝いをせよなどと、愚かにも程がある」

「あのような御仁、放っておいてよいのですか。面倒なだけでは? いっそ・・・」
「馬鹿を申すな。桂昌院様の弟だぞ。公方様が、ご生母・桂昌院様を溺愛していることは、そなたも知っていよう」
「はい」

「桂昌院様は、異父弟であるあの本庄宗資を殊のほか頼りにしている。公家に仕えていた一介の青侍が、今や五万石の大名だ。あ奴にその気があれば、殿にとって、最も恐るべき競争相手にもなり得る。それが、金と女さえ与えておけば、進んで殿の言いなりに動いてくれるのだ。有難いではないか」
「左様で」と、典膳は軽く流した。

「それより典膳。先年、仕官に際し、そなたが持ち込んだ例の件、近々殿のご了承をいただけそうだ」
 そう聞くや典膳は目を輝かせ、膝をわずかに前に進めた。分かりやすい奴だ、と思いつつ、穴山は言葉を続ける。

「財政逼迫の折、新たな金山、喉から手が出るほど欲しい。そしてそれ以上に、尾張公がどうやら永くない。水戸の爺より尾張の狸が先にくたばりそうだ。とんだ計算違いよ。食い過ぎか、変な物でも食ったか。いずれにしろ、碌なもんじゃない」

 何の話だ? 典膳にはさっぱりである。

 ちなみに、この時の御三家筆頭・尾張徳川家の当主は三代綱誠。働き盛りの四十六。剣術の腕は自ら道場を開けるレベル。さらに桁外れの大食漢であったと伝わる。何事にも加減というものを知らない人だったのだろう。

「分らぬか。尾張の世継はまだガキだ。ここで今の尾張公が死ねば、次の将軍候補は紀州と甲府に絞られる。三すくみが崩れ、事態は一気に動き出すぞ。公方様は、長女・鶴姫様の婿である紀州公をお望みだが、血筋の最も近い甥を差し置いて娘婿を立てるというのは、なかなか難しい。しかも、甲府中納言は、鶴御成、火事での活躍と存在感を高めているからな。公方様はいずれ殿に泣き付いて来よう。その時に備え、中納言を失脚させるための材料を用意しておきたい。隠し金山などは、正におあつらえよ」

 穴山はそこで言葉を切った。ひとつ息を吐く。
「近年、公方様の衰えもひどい。奥に引き籠るのは構わん。むしろ助かる。しかし、天下の主はあくまで将軍だからな、操れるくらいには正気でいてもらわねば困るのだ。それにしても・・・。学問狂いで現実離れした理想論ばかりを言う公方様の機嫌を取りつつ、ギリギリのところで公儀の威信を保ち政を回してきた。こんな芸当、我が殿以外、誰にも出来ぬ。殿の悲願は甲斐の国主となることだが、これまでの苦労を思えば、慎ましい望みよ。そう思わんか」

 黙って頷く典膳。しかし、元より政治に興味はない。また、新見家も武田の遺臣だが、甲斐という地に対してそこまでの執着はない。彼としては、自分の一生を台無しにした甲府藩主家、その象徴たる松平綱豊に一太刀浴びせることが出来れば満足だ。

「まあ、よい。ともかく、他家の領地に手を突っ込むことになる。一歩間違えばこちらが危うい。故に、潜入部隊は、そなたが川越から連れて来た藩士の次男三男を中心に編成し、いざとなれば、そなた共々捨て駒とする。典膳、それでよいな」

「無論です。ところでご家老、お願いしていた書類は手に入りましたか」
「うむ。甲府の内通者からようやく届いた」

 穴山が典膳の前に一冊の帳面を放って寄越した。典膳はそれを取り上げ、パラパラと頁をめくる。その手が途中で止まった。
「なんと、こ奴は。そうか、あの浜屋敷におったのか。これは好都合だ」

「何か見つけたか」
「はい。甲斐潜入に先立ち、確認しておきたいことがあります。甲府藩の者と接触してもよろしいでしょうか」
「必要なことか」
「間違いなく」

 穴山は一瞬考えてから大きく頷いた。
「ならば任せる」
「はっ」
「典膳。それはそうと、犬神憑きの連中はどうした?」
「ああ、そちらですか。ご心配なく。奉行所から身柄を引き取り、すでに始末いたしました」

 穴山は、典膳の脇に置かれた普通よりかなり反りの深い彼の佩刀を見た。典膳が入って来たとき、ほんのわずか金属臭を感じたが、そうか、血の匂いだったか、と思った。

次章に続く
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