呪殺少女の片恋

文字数 3,911文字

 一目惚れだった。脊髄を電流が走った。米国において死刑に使われた電気椅子。死ぬときに、囚人は電流を知覚できたか? 恋の場合は、まざまざと知覚できた。死刑を告げられたようにショックだった。
 その転校生は、とりたてて美男というわけではなかった。とりたてて剛腕とか、とりたてて精悍とか、とりたてて朴訥とか、そういうわけでもなかった。プレーンな優男(やさおとこ)だった。ただ存在していた。そこにいた。佇んでいた。運命だった。私にはわかった。完璧に理解した。絶対に、私のものにする。逃がさない。
楠守(くすもり)さん、どうしたの? 怖い眼で睨んで……」
 困ったように、転校生は笑った。憎たらしい。人前で笑うな。私以外に微笑(ほほえ)むな。私の神経をかき乱すな。私を揺さぶるな。胸くそ悪い。
「別に」
 私は素っ気なく言って、教室を出た。トイレの個室に避難して、壁に寄りかかり、ぶつぶつと呪文を唱え、こころを落ち着かせる。便器から蛇が顔を出した。
「悩み事かい?」
 にやにやと舌をしゅーしゅー出し入れしながら訊いてくる。
退(しりぞ)け、悪魔」
 私は便器の蓋を叩きつけるように閉めて、蛇の鎌首をねじり切った。蛇の生首は、血を流してけたけたと笑いながら、壁と床のあいだのわずかな隙間に消えた。
 クソ忌々しい。私は恋に()ちていた。

 Shall I compare thee to a summer's day?
 Thou art more lovely and more temperate.
(君を夏の一日に喩へようか。君は更に美しくて、更に優しい)
 シェイクスピアのそんな詩句が、私の脳内を駆けめぐる。転校生の後頭部を睨みつけながら、私はまんじりともせず、退屈な授業を堪え忍んでいた。(いばら)のように棘のある時間。学校は平穏な地獄だ。欠陥だらけの牧羊場だ。敵しかいない空間だ。そして私は、恋に煩わされていた。
 私の右斜め前方に座した転校生が、ノートにかりかりとなにかを書いている。詩だろうか。そんなわけがない。板書を写しているか、たわいない落書きでもしているかだろう。私はといえば、目の前に開いたノートに、いつまでも脳内を駆けめぐっている詩句を、私にしか読めない文字で何度も何度も書きなぐっていた。ノートが恋の詩で埋めつくされていく。蟻がうじゃうじゃ乱交しているような黒暗暗(こくあんあん)たる紙面で、不気味だった。私は呪文を唱え、文字たちを蟻として具現化させて、机の引き出しに逃がした。ノートの紙面は真っ白に清掃された。消しゴムをかける手間が省けたというものだ。だが、気がつくとまた同じ詩句を書きなぐって、ノートを黒く染めていた。病気だ、これは。まずい。非常にまずい。なんだかわからないが明らかにまずい。私が私でなくなっていく。転校生のことしか考えられない。あの優男の面影が脳裏に焼きついている。クソ忌々しい。

「悩み事かい?」
 部屋で悶々としながら熊のぬいぐるみ(名前は唯円(ゆいえん))をハサミでいたぶっていると、セバスチャンは見透かしたように笑った。
「悩んでなんかない。むかついているだけ」
(かなえ)はいつでもむかついているじゃないか」
「今夜はなおさらむかついている」
「バカみたいだね。恋煩いかな?」
 私が睨みつけると、セバスチャンはけたけたと悪魔のように笑った。
「猫は恋をするの?」
「ぼくはしない。他の猫のことは知らないよ。なんだ、図星だったのか」
「気になるやつがいるってだけ。なにか引っかかる。胸がざわつく。思い浮かべたくもないのに、そいつの顔が浮かんでくる。めちゃくちゃにしてやりたくなる」
「物騒だねえ」
「どう思う、セバスチャン?」
「人の恋路に口出しはしない。危険水域だからね。恋情くらい、自分で解決しなよ」
「この役立たず」
「猫に助言を求める方が悪い。とりあえず、唯円はもう離してあげたら?」
 私は熊のぬいぐるみ(名前は唯円)をいたぶるのをやめて、絆創膏で応急処置をしてあげて、カーテンレールに首を吊らせた。
「ああ、むしゃくしゃする! セバスチャン、歌って!」
 セバスチャンはバッハの教会カンタータ第58番『ああ神よ、いかに多くの胸の悩みが』を歌い始めた。仏頂面でそれを聴いている私の様子が可笑しかったのか、透明なファルセットで歌いながらも、セバスチャンはときどき吹き出して爆笑しながら音楽を中断し、私を小馬鹿にするようにからかった。クソ猫が。かわいらしく笑いやがって。

 病がどんどんひどくなる。私は転校生を尾行していた。
 ミュージカル俳優のように優美な仕草で軽やかに歩く憎たらしい優男は、コンビニに入っていった。私は呪文を詠唱し、周囲の視線を寄せつけないよう認識に介入しつつ、窓ガラスの外から転校生を覗いた。世界の色彩を慈しむ画家のような目つきでコミック雑誌を物色している転校生は、私の視線に気づかない。私が呪いでそうしているのだが、なぜだかその無視に苛立ちが募って、私はますます酷烈に睨みつけて、このクソ転校生のクソ柔和なクソ表情を脳裏に焼きつけるのだった。結局コミック雑誌は手に取らず、ペットボトル入り清涼飲料水だけを買って、転校生はコンビニから出てきた。
 パチンコ屋の横を通りすぎて、人気の少ない土手近くの公園へと転校生は歩いていった。私は黙々と、二メートルほど背後からついていく。呪いの目眩ましは継続中だ。転校生の足音と私の足音が、不出来な輪唱のような音色を奏でているが、もちろん転校生は気づかない。クソ忌々しい。
 転校生はベンチに座った。ペットボトル入り清涼飲料水のキャップを外して、その生白く清涼な喉に清涼飲料水を流し込みながら、ぼんやり空を眺めたりしている。なんだこいつは。隠遁中の俳人なのか? 詩想を練っているジジイのように澄んだ目つきで空を見上げやがって。それを私は真正面から見下ろしている。こんなに近距離でもこいつは気づかない。私が認識に介入しているからだ。こんなに近いのにこんなに遠い。クソ忌々しい。
 日が暮れるまで、私はそうやってものも言わず、暇をもて余しているようなクソ転校生の傍に佇んでいた。

「あはは、鼎、完全にイカれちゃってるよ。頭のネジが飛んでる。ぶっ飛んでるよ。クレイジーだ。呪いを駆使するストーカーなんて、黒猫も真っ青の恐怖だね」
「うるさい」
 部屋で鬱々としながら熊のぬいぐるみ(名前は唯円)を磔刑(たっけい)に処していると、セバスチャンは冷やかすように笑った。
「ま、いいけど。他人への執着は(つまず)きの石だよ。せいぜい気をつけることだね」
 熱病のような恋が他人事でしかない黒猫は、そう言ってからベッドの上で丸くなった。セバスチャンなりの警告のようだった。

 だれもいない放課後の教室に、私は転校生を待たせておいた。恋情は自分で解決しろと、あのクソ猫は言った。言われるまでもない。胸のざわめきにけりをつけるために、私はこの想いを私なりに総括しなければならない。
 ノートにかりかりと何か書いていた転校生は、教室に足を踏み入れた私を見て、立ち上がった。
「やあ、楠守さん。用ってなに?」
 私は黙ったまま、扉の近くに佇んでいた。照れたように、目を伏せる。
「どうしたの? 何か悩み事?」
 悪魔と同じような口振りで問いながら、能役者のような神妙な足取りで転校生は近づいてくる。
「実は僕も、きみに話したいことがあるんだ」
 悪魔と同じような口振りで囁きながら、獲物に肉薄する狩人のように転校生は距離を詰めてくる。
 しかし、扉のそばの私は撒き餌だ。私が見せている幻像だ。私が認識に挿し込んだ傀儡だ。
 現実の私は転校生の開かれたままのノートを見下ろしていた。びっしりと描き込まれた醜い魔法陣。やはり、こいつも呪者だ。私を殺そうとしている敵だ。呪いで私を魅了したつもりの畜生にも劣る下衆(げす)だ。
「好きです、神田川(かんだがわ)くん! 死んでください!」
 私はナイフを腰だめで構えて突進し、渾身の膂力で転校生を背中から突き刺した。糸の切れた人形のように、転校生はその場に倒れた。頭が扉の外に出たので、私は足をつかんで教室の真ん中あたりまでその優男を引きずり、何度もナイフを突き刺して、とどめを刺した。
 死体のポケットを探ると、ナイフが出てきた。私と同じようなことを考えていたらしい。危ないところだった。殺される前に殺さなければ、私はこの世界に生き残れない。
「ラザロ、ラザーロ、ラザロラロ!」
 私の呪文によって、穴だらけだった血まみれの死体が、ラザロのごとくに甦る。痛みに歪んだ苦しげな死顔に、柔和な表情が舞い戻った。しかし、そこにはもう、私を狂わせるなにかはない。
「あれ、楠守さん……?」
 転校生は訝しげに私を見上げている。私はそれを冷たく見下ろしている。そしてそこには、何らの感情の交流もない。こんなに近いのにこんなに遠い。
「おはよう、神田川憲忠(かんだがわのりただ)くん。教室の床で居眠り? 品性を疑われるからやめた方がいいよ」
 私はそう告げて、私への殺意も自らの魂も喪った男に見切りをつけて、教室から立ち去った。魂のない人間など、簡単に操れる。私の人形にしようがどうしようが、思いのままだ。けれど、そんな虚しい遊びに興味はわかなかった。もうあの男に興味はわかなかった。敵である他人のひとりでしかなかったのだ。
「残念だったね」
 下駄箱の上から蛇が顔を出した。にやにやと舌をしゅーしゅー出し入れしながら嘲笑っている。
退(しりぞ)け、悪魔」
 私は転校生から回収したナイフを蛇に投げつけた。命中しても、蛇は動じずにけたけたと笑い、それから頭を引っ込めて消えた。
 ああ、豚、豚、豚、豚! 恋という真珠に値しない、悪霊の宿った穢れた豚! 豚ではない男がこの世にいるのだろうか?
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