第2話

文字数 5,194文字

 ロワンザの岸に渡し舟を着け、客を宿まで案内すると、その足でルルヌイ川に浮かぶネマの島へと向う。
 ウォルセフの読み通り、島とロワンザの町を結ぶ太鼓橋の前の広場に到着する頃には、あれほど青かった空は、すっぽりと灰色の雲に覆われていた。
 沈みゆく太陽の光の届かぬ地表は、いそいで夜を迎えようとしている。
 これからネマの島へと繰り出そうとする男たちや、旅人たちで賑わう広場は、石畳が美しい模様を作り出し、飯屋や飲み屋、質屋に雑貨店といった商店が軒を並べている。
 広場から中州へと伸びていく太鼓橋は、大きく手を広げた大人が、十人も並んで歩けるほどの広さがあり、黒い漆塗りのその橋は、色にちなんで玄の橋と呼ばれていた。
 玄の橋の向こうに目を向けると、巨大な門がそびえているのが見える。刻の門である。今この門は、人々の来訪を拒むように、ぴたりとその扉を閉じていた。
 この広場に集まった人々は、刻の門の開門を、今か今かと待っているのだった。
 ひしめく人波を抜けて、ウォルセフは一軒の飲み屋に向かうと、店先に並べられた丸テーブルに腰をかける。
 背もたれに体を預け、サンダル履きの足を組むと、ふうっと体の力を抜いた。

「よう、ウォルセフ、ずいぶん早いじゃないか」

 背後から聞こえた威勢のいい声に振り返ると、盆を持った大きな男が立っていた。
 この店の店主、モーセルである。
 いかつい身体、右目に黒い眼帯をした男は、飲み屋の亭主よろしく白い前掛けを身に着けているが、どうにもこうにも似合っていない。しかも、眼帯に覆われていない左の眼光は鋭くギラつき、その巨体とあいまって、町のゴロツキと言われたほうがよほど納得のいく風体だ。

「いつもの、頼むよ」

 ウォルセフは、帯の中から長方形の銅銭一枚を取り出し、テーブルの上に置いた。
 モーセルはそれを受け取ると、いったん店の奥に姿を消す。しばらくすると、飲み物の入った杯を盆に乗せて戻ってきた。
 手にした盆の上にはカップが二つ乗っている 。

「はいよ」

 そう言うと、彼は一つをウォルセフの前に置いた。
 陶器でできたカップの中には、マヌガと呼ばれる蒸留酒を、ハーブ水で薄めた飲み物がなみなみと注がれており、爽やかな良い香りがした。ハーブ水は地下で貯蔵されているために冷たく、一日の疲れを心地よくほぐしてくれる。

「そろそろ始まる時刻だな」

 モーセルはそう言うと、もう一つのカップをウォルセフの向かいの席に置き、テーブルの上のランプに火を灯した。
 暗くなり始めた店先に小さな橙色の火が灯る。
 モーセルは前掛けのポケットから紙巻煙草を一本取り出すと、ランプから火を移し、深く吸い込みながらウォルセフの正面の席にどかりと腰を落ち着けてしまった。
 どうやらもう一つのカップは、自分自身が飲むための酒であるらしい。
 これから、あの玄の橋の上では開門の儀が始まる。 
 儀式が始まってしまうと、人々の視線は太鼓橋の上に釘付けとなるのが常であるため、客の動きは鈍くなる。モーセルはその間に、ここでウォルセフと開門の儀を見物することに決めたようだった。
 開門の儀を執り行う鍵役と呼ばれる遊女は、すでに島中央のナトギの社から、たくさんの女を引き連れてお練を始めたはずで、人々の視線も、そわそわと橋の向こうのに集まっていく。

「今日は偵察かい?」

 煙を吐き出し、モーセルがたずねた。
 彼は、かつてのルルヌイの子であり、ウォルセフの兄貴分なのだ。
 ルルヌイの子において、同じグループに属する者同士は、家族同様の強いつながりがある。それは、大人になりグループを抜けた後も続いていくもので、孤児である彼らがこの世界で生きていくための(よすが)であった。年長の者は下の者の力になり、下の者も年長の者の頼みには全力で応えようとする。その繋がりこそが『ルルヌイの子』だと言っても過言ではない。

「たまには、情報を仕入れておかないとね」

 そう言って、ウォルセフは自分の頭を指差した。

「今日は、客を宿まで送って、そのままこっちに来たんだ。開門の儀を見るのは久しぶりだな」

 ウォルセフは、玄の橋の向こうの、「刻の門」と呼ばれる大きな門に目を向けた。門の板戸の隙間から、チラチラと動く明かりが見え始めていた。中洲を練り歩いてきた遊女たちが、刻の門の前に到着したのだろう。


 玄の橋の向こうの中州は『ネママイアの島』と呼ばれている。最近では、略して『ネマの島』と呼ぶ者が多い。失われた神霊 ネママイアが支配する場所という意味だ。ネママイアという神霊は、かつてはこのマスカダインの地にいらしたのだけれど、今は消えてしまった快楽を司る神霊なのだという。
 ウォルセフがこの『ネマの島』を定期的に訪れるのは、客に案内を頼まれた際の情報収集のためだ。
 どこの店にどんな女がいるのか、どこの店の飯がうまいのか。評判の悪い店はないか。品揃えの良い土産物屋はどこにあるのか。それらを、頭のなかに叩き込んでおく。情報は新しくなければならない。
 ルルヌイの子のグループを取りまとめるリーダーの中には、それを役得と思っている者もいるだろうが、ウォルセフはその仕事を楽しいと思ったことはない。
 女たちは飾り立ててけばけばしい格好をしているが、よくよく見ればそれほど別嬪というわけでもないし、ネマの島の、おしろい臭くて鼻にかかったような声を出す女たちより、町の中にいる赤いほっぺたをして、ハキハキとよく働く女のほうが、ウォルセフにとっては好ましかった。
 賭け事にいたっては、なぜみんなそれほどまでに熱中するのか、不思議でならない。得をするより損をする可能性のほうが圧倒的に高いはずだ。だいたい、そうでなければ胴元など、儲かるはずがないではないか。
 ウォルセフにとって「ネマの島」とは、人でごった返した、酒と女の匂いのする、居心地の悪い場所でしかなかった。

 ウォルセフが束の間自分の思いに沈んでいると、広場に集まった人々の間から、おおっというような低いどよめきが上がり、はっと我に返る。
 刻の門の向かって左隣には目立たないのだが小さな扉がついており、そこから、ひらひらと長い袖と裾をなびかせた色とりどりの女たちが飛び出してきたところだった。彼女たちの身につけた衣装は、体の線が透けて見えるほどに薄い。
 鉄と硝子でできたランタンを手にぶら下げた女たちは、小さな扉からぽんぽんと飛び出して、踊りながら橋の上に広がっていった。手にしたランタンが女たちと一緒に動くさまは、薄暗くなり始めた景色の中で幻想的に浮かび上がる。

「始まったな」

 ウォルセフの向かいの席で、モーセルが身を乗り出した。

「……ああ……きれいだ」

 ネマの島は好きではない。けれど、この開門の儀式だけは美しいと思う。
 ひらひらと踊りながら、ランタンを手にした女たち一人ひとりが、橋の欄干のたもとに立った。

 ルルヌイ河西岸に広がるこの国は、火の精霊イオヴェズが守護する赤き火の国アマランスである。
 国土の大半は急峻な山岳地帯であるため、農作物はあまり取れないが、そのかわり鉄と硝子を生成することができた。この技術を持つのは、マスカダイン島にある五つの国の中でもアマランスだけなのだ。

 ドン、ドーーーン、ドン。ドン、ドーーーン、ドン。

 独特なリズムで太鼓が打ち鳴らされ、刻の大門がゆっくりと開いていく。
 下衆と呼ばれる中洲で働く男たちの中でも、筋骨隆々とした者たちが一列に並び、大きな門を押し開いていく。
 ウォルセフの向かいの席で酒を飲んでいたモーセルが、ぐっと杯の底に残った液体を喉に流し込むと、立ち上がった。

「さあて、今日はどのジュンランのお出迎えかねえ」

 指で無精髭の生えた顎を擦りながら期待に目をきらめかせている。

「タジエナだ! 今日のジュンランはタジエナだぞ! 艶麗館のタジエナだ!」

 あちこちから声が上がる。
 大きく開いた門の向こうに、きらめく金の髪の女が立っているのがみえた。
 ジュンランとは、この中洲の娼婦たちの頂点に立つ一握りの女たちのことである。ジュンランと呼ばれる女自体、数えるほどしかいないのだが、その中でもタジエナは有名だった。

「ひゃー、今日はまた一段と艶やかだね」
「あれが……タジエナ……」

 ウォルセフの瞳は、門の中から出てきたタジエナに吸い寄せられた。

(なんて……なんて髪だ。金色だ……! それにあの透き通るような肌)

 アマランスの民は、褐色の肌と、黒や栗色といった暗めの髪色を持つ褐色人種だ。橋の向こうから太鼓橋の中央へ緩やかに歩を進める女は、透き通るような白い肌に金色の髪をしている。ゆるく結い上げられた髪は、緩やかなウェーブを描いて錦の衣の上に落ちかかっていた。
 淡色人種だった。

「なんだ、お前さん、タジエナを見るのは初めてだったか? ヨダレ出てんぞ」

 モーセルはそんなウォルセフを見やると、ニヤニヤとした笑いを浮かべた。
 慌てて口元に手をやるが、よだれなど出てはいない。ウォルセフは軽くモーセルを睨んだ。
 タジエナの噂くらいはもちろん知っている。この辺りの出身ではないらしく、透けるような肌に金色の髪をした美女なのだと噂に聞いていた。だが彼女のような高級娼婦は、ウォルセフが直接会うことなどないし、ジュンランの中でも格の高いタジエナが鍵役を務めることは、月に一、二回程度である。今までウォルセフが何度か目にした鍵役は、いつも違うジュンランが務めていた。

「うるせえな……初めてだよ。あんな髪のやつ。みたことねえよ」

 ウォルセフは恥ずかしさから、つい乱暴な口調になった。

 髪や肌の色が薄い淡色人種は、ロウレンティアやダフォディル人に多いのだが、どちらの国も、あまりアマランスと親交の深い国ではない。
 それにしても、あれほどまでに透き通るような金色の髪は、()の国でもそうお目にかかれないのでは、と思う。
 ウォルセフとて、仕事柄いろいろな国の人間と接触したことがあるのだ。金髪の人間を見るのが初めてというわけではない。それでも、あれほどまでに見事な金の髪は見たことがなかった。
 男たちのため息に迎えられ、タジエナはきらめく錦の衣をまとい、一歩一歩と歩を進める。先に出てきた格下の女たちとは違い、肌はしっかりと衣服の下に隠されていた。この女の肢体を目にできるのは、限られた上客のみということなのだろう。
 手には他の遊女が手にするものよりも一回り大きなランタン。そして、足首にはたくさんの鈴の付いたひもが結わえ付けられている。だからタジエナが歩く度にシャンシャンと音がする。
 その鈴の()が、魔を祓うらしい。
 タジエナは焦らすようなゆっくりとした歩みで玄の橋の中央に進み出た。そして、太鼓橋の頂点で動きを止める。それと同時に鈴の音も止まった。
 タジエナの手がすうっと空気をすくい上げるように大きく動き、ランタンが灯りの軌跡を描く。再び鳴り出した鈴の音とともに、引き絞られていた空気が一気に動き出す。
 決して激しい舞ではない。けれどもその緩やかな舞に、その場にいた誰もが皆引き込まれていった。

「あいつ……本当に、人間なのか……?」

 ウォルセフの唇からは、意識せずにつぶやきが漏れた。

「なんだ惚れたか? ジュンランクラスの女は、よっぽどの富豪にでもならなけりゃ相手してもらえねえぞ。店の、というよりこの土地の看板だからな」
「そんなんじゃない。というか、どのクラスだろうと商売女であることに変わりはないだろ」

 そう吐き出して視線を外そうとした瞬間、タジエナの視線が、こちらを向いた。
 ……そう感じた。
 一瞬。視線と視線が絡み合い、この世界にたった二人だけで、向い合せに立っているかのような錯覚に陥る。
 全身がかっと熱を帯びて、ウォルセフは手の甲を頬に押し当てた。
 タジエナの舞が終わると、橋の欄干に立っている女たちは、手にしたランタンをそこに吊るした。
 それと同時に、橋の向こうのひしめくような建物の軒先にも、無数のランタンが次々と灯されていった。
 楼閣が、島が、紫紺の空に浮かび上がる。

 鍵役という大役を終えたタジエナはゆったりと身を翻し、女郎たちを引き連れて、再びネマの島の中へと戻っていった。

 夢のような開門の儀は瞬く間に終りを迎え、客引きの下衆たちが、卑下た笑いを浮かべながら、橋を渡って来るのがみえた。
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