第16話

文字数 5,332文字

 タジエナがモニエルの脇にひざまずき、遊女の掛けた羽織物をめくっていく。その視線は、モニエルの腰から太ももの辺りに向けられているようだった。よくみると、モニエルのはいている下穿きに、じわりと赤いシミが広がっていた。

――血? でも、急にどうして? モニエルは怪我をしていたのだろうか? だから、顔色が悪かったのだろうか? 

 イオネツはわけが分からずに、眉をひそめる。
 めくっていた羽織物を元どおりにかけてやると、タジエナは再びミラルディのもとへ戻って、ひそひそとその耳元で、何事かを囁いていた。

「モニエル」

 ミラルディの声がひびいた。いつもより掠れ、密やかな声だった。

「お前さん、これは、今日始まったわけじゃないね? 隠してたのかい……」

 モニエルのすすり泣きが聞こえた。泣き声にミラルディの深い溜め息が重なる。

「どう……したの?」

 心配になったイオネツが思わず立ち上がろうとしたのを、隣りに座るウォルセフの手が引き止めた。彼は「行くな」と言うように首を横に小さく振る。
 その間に、ミラルディの指示でこの場に残っていた身体の大きな下衆が、モニエルを抱き上げた。

「……ごめんなさい……」

 消え入りそうな声を残して、抱え上げられたモニエルが部屋を出て行った。
 ミラルディの、パンパン! と、手をたたく音が、その場にいた者たちを現実に引き戻した。

「モニエルのことは、大丈夫だ。心配はいらないよ。さあ、今度はお前さんの番だ、テノッサ」

 タジエナはミラルディの前にひざまずき、その場にいた皆がそれに倣った。
 ミラルディはぐったりとしていたが、灰色の瞳には、本来の力強さが戻っている。

「お前さんに、何か申し開きはあるのかい?」

 テノッサは、余計なことをいうなと言うように一度じろりとイオネツに鋭い視線を向けたあと、ミラルディの正面に腰を下ろした。

「ありません。俺がやりました。俺は……イオネツが羨ましかったんです。俺は……俺たちには、親がいません。父親が誰かなんてわからねえし……それに、母さんも死にました」

 妓楼で働く女たちは、若いうちに死んでしまう者が多い。皆、体に無理をして働いているからだ。
 それでもこの艶麗館は、ネマの島の妓楼の中では遊女の死亡率は低い方なのだ。裏通りの小さな店など、二十代から三十代半ばの間に、かなりの遊女がころころと死んでいく。それでも、遊女になれば金になるのだと、多くの女が親に売られ、または借金の形となり、この中洲へと集まってくるのだった。中には貧しさから抜け出したいと、自ら進んで遊女となる者もいる。
 タジエナのようなジュンランともなれば話は別だ。彼女たちは大切に扱われ、客に選ばれるだけではなく、ジュンラン自身も客を選ぶことができる。だがそんな女は、遊女の中のほんの一握りに過ぎない。

「母親がいて、大切にされて、そのうえこの島を出て行くなんて、俺たちには考えられねえ。だからちょっと困らせてやりてえって思ったんだ。あの晩は何かネタがないかと館をうろついてて……そうしたら、ミラルディが下衆に呼ばれて店の方へ渡っていくのを見かけた。多分フド・イオの時を告げる鐘の鳴る少し前だったと思う。だから俺は、チャンスだと思って、ミラルディの部屋に忍び込んだ。宝石を入れる引き出しが開きっぱなしになってたんだよ。思わずその中から俺も見たことのあるイオヴェズの火を掴んでた。慌てて外に出て、別館から本館の方へ渡ったけど、こんなもん、持ってるのもこええから、すぐにイオネツの荷物に隠したんだ。本当に、イオネツを少し困らせてやれればいいと思ってた。こんな大事になるとは思ってなかった……」
「たしかにね。お前さんの言うことは一応筋がとおってるね。私はあの日、部屋でイオヴェズの火を磨いていた。そして、本館で起きた喧嘩の仲裁のために、呼ばれて行った。慌てていたから、引き出しを開けっ放しにしていたかもしれないね……。それで? モニエルは何をしたんだい? モニエルも何か関わってるんだろう」
「あいつ? あいつには俺が盗んだのを見られたんだよ。あいつはあの日、ミラルディに薬湯を持っていく役目を言付かっていた。そのときにミラルディの部屋から出て行こうとしていた俺とバッティングしたんだ。だからさ、片棒を担がせるためにイオヴェズの火をイオネツの荷物に入れるところをあいつにやらせたんだ。あと、その他の仲間にも、荷改めが終わってから、俺がずっと清華亭で一緒にいたことにしておけって言ったから、うすうす俺がやったって、知ってたんだろ」
「なるほど」

 しわがれたミラルディの声がしたあと、しばしの沈黙が降りた。
 ミラルディは疲れた顔でじっと目をつぶっていたが、しばらくの後にゆっくりと目を開く。

「ではテノッサには鞭打ち五十を申し付ける。本来なら百としたいところだが、 話を聞けば、同情の余地がないこともない。私にもきちんと引き出しを閉めずに部屋を空けたという落ち度はあるからね。それから、モニエルには月のものが来たようだよ。もう子どもとして扱うことはできないね。二・三日前に始まっていたのを、必死に隠してきたようだけどね。このネマの島で働く者の決まりだ。子供の服を脱いで、艶麗館の遊女としての教育を始める。それにテノッサ。確かお前もモニエルと同い年のはず。そろそろお前も子どもとして扱われるのを(しま)いにする頃合いだ。鞭打ちの仕置が終わったら、お前はボノノワの下で下衆としてしっかり仕込んでもらいな。ああ、あとその他の子どもたちは、尻叩き十回で許してやろうかね」

 ここまで言い切ると、ミラルディは深くため息をついた。
 しかし、だいぶ具合は良くなってきたのか、もたれていた椅子の背からわずかに身を乗り出す。

「それまでは、地下牢に入っておいで」

 ミラルディの言葉に下衆がテノッサを連行していった。 

「皆も、それぞれ持ち場にお戻り」

 ミラルディに言われて、残っていた者たちも風雅の間から出て行く。
 残った のは、ウォルセフと、気の抜けてしまったイオネツと、それにタジエナとミラルディだけだった。

「もう、刻の門が開くまでは、中洲から出ることはできませんから……」

 拳を握り立ち尽くすウォルセフに、タジエナが声をかけた。

「どうぞ、私の部屋で休んでいってくださいませ」
「悔しくはないのですか……! ネマの地で生まれたからとか……そんな理由で、ヴェイア硝子店にイオネツは拒否されたんですよ!」

 ウォルセフの言葉には怒気が含まれていたが、タジエナは小首をかしげながら密やかに笑う。

「イオネツに嫌疑がかけられたときから、心のどこかでわかっていたことです。もちろん、悔しいですとも。けれども……いかにジュンランなどと持ち上げられようと、一介の遊女でしかない私です。どうすることもできないのです。でも……」

 タジエナは深々と頭を下げた。

「ウォルセフ様、息子のために悔しがってくださって、ありがとうございます」

 顔を上げたタジエナの表情を見たウォルセフの瞳から怒りの色が消えていく。

「すいませんでした。あなたが、一番悔しい思いをしているんですよね……」

 その時、レサの時を告げる鐘が聞こえた。
 ロワンザの町では日に三度、時を告げる鐘がなる。一度目はシャンケの時シャンケの刻(朝の九時半頃)。これは刻の門が閉じる時刻である。二度目はレサの時(昼の十二時ころ)。最後にフド・イオの時(夜の八時半頃)である。
 人々は日の高さや星の形でだいたいの時を知ることはできるのだが、この鐘も、生活していく上で大切な基準となっていた。
 タジエナが耳をそばだて、空を仰いだ。

「もう昼時ですね。昼食の用意をさせましょう」
「母さん! ウォルセフと母さんと一緒にお昼ごはんを食べられるの?」

 母の言葉を聞いたイオネツが弾んだ声を上げた。

「イオネツ……」

 イオネツを見下ろすウォルセフの顔にはなんとも言えない表情が浮かんでいた。

「イオネツ、おまえそれでいいのか? 今この時、おまえの将来は決められちまったんだぞ?」

 イオネツがウォルセフを見上げると、心配げに揺れている黒い瞳が自分を見下ろしていた。

「うん。かまわないよ」

 イオネツは大きく頷いた。

「だってウォルセフ。僕はこのルルヌイ川の中州で……ネマの島で生まれたんだもの。仕方ないんだよ。でも僕驚いた。僕、ウォルセフより母さんのほうが悲しがると思っていたんだ。でも……ねえ、ウォルセフはネマの地に住んでいる僕とも、友だちになってくれるでしょう?」

 そう聞くと、ウォルセフはほんの少し眉をひそめた。イオネツが中洲から出ていけなくなったことをだれよりも悲しんでいるのは、彼ではないかと思われた。

「別に、お前がネマの島にいようが硝子店で働いていようが俺には関係はない……でも……」
「本当だね!」

 イオネツにとっては、それこそが大切なことだった。

「僕、今嬉しいんだ。ウォルセフがこうしてちゃんとやってきてくれて、僕の罪を晴らしてくれたんだよ。だって、ウォルセフが来てくれなかったら、僕は鞭打ち百回、ううん、もしかしたら指がなくなってたかも知れないんだから」

 イオネツは自分の手をウォルセフの顔の前に突き出した。
 ウォルセフは目の前で開いたり閉じたりする手のひらをしばらく見つめていたが、そのうち笑顔と言えるような表情が浮かんだ。

「そうだな、イオネツ。そうだった。俺、頭に血が上ってて忘れてた。俺が来たことは無駄じゃなかったんだな」
「そうだよ! それにさ、ヴェイア硝子店だって、当然のことをしただけだよ」

 ウォルセフの同意を得て、イオネツは得意気に両手を腰に当て、胸をそらして見せた。
 ミラルディが椅子から立ち上がる。

「そういうことだ。牢に入れられたような者が店の使用人となれば、店の評判にも関わるだろうさ。 何より、イオネツはウィメルの贔屓にしているタジエナの息子なんだよ。ただでさえ、歓迎しない者も店の中にはいるだろうさ。そのうえ盗みの嫌疑をかけられた者だなどということになれば、イオネツが辛い思いをすることは、目に見えている。ウィメルの判断は、酷なようだが妥当なものだったと私も思うよ」

 ミラルディが側へやってくると、イオネツは「ミラルディ!」と大きな声で彼女の名を呼んだ。

「なんだい? こんなに近くにいるんだから、ちゃんと聞こえるよ。そんな大きな声を出されたらびっくりするじゃないかい? 」

 ミラルディは眉をしかめたが、イオネツはそんなことはまるで気にしない様子だ。

「それよりミラルディだよ!? さっきのって、どういうことなの!? ミラルディって……ワノトギだったの? 母さんは知ってたの?」

 ミラルディが今日何度めかの溜め息をつき、曲がった腰が更に低くなったように見えた。

「まったく……私の身の振り方まで考えなくちゃならなくなっちまったよ。まあ、それはおいおいさ。イオネツ、そのことについてはまだ話してやれないね。タジエナ、今日は私もタジエナの部屋で昼食をとらせてもらおうかね」
「ええぜひ。お誘いしようと思っておりました。では、まいりましょう……」

 タジエナがどうぞ、と言いながらウォルセフの手をとると、ウォルセフは「うお!」と、奇声を発して飛び上がった。
 それと同時に、タジエナにすくわれた手を引っ込めてしまう。
 そんなウォルセフの反応に、タジエナの動きが止まり、驚いたように目をパチクリとしていたが、突然ふふっと笑いだした。
 初はじめはなんとか口元を抑え、笑いをこらえようとしていたようなのだが、途中からは体を二つに折り曲げて笑っている。
 真っ赤な顔になったウォルセフは、頬に手の甲を押し当てて、ほてりを抑えようとしているようだった。
 そんなウォルセフを見ていたら、イオネツもなんだかおかしくなってくるのだった。
 
 
「あ! ミラルディ!」

 気がつけば、ミラルディは一人さっさと部屋を行こうとしている。

「地下牢にいるテノッサと、二人だけで話がしたいんだけど……」

 イオネツは振り返ったミラルディに頼みこんだ。

「テノッサと?」

 ミラルディはイオネツの思いを推し量ろうとでも言うようにじっとこちらを見つめていたが、

「そうさねえ。別にかまやしないよ。見張りの下衆が立っているから、ひと声かけな。私は食事の用意を厨房に言いつけてくるよ。タジエナの部屋に人数分運ばせるから、お前さんたちは用が済んだら、真っ直ぐに部屋へ上がっておいで」

 そう言い置いて、ミラルディは今度こそ明るい陽の光の差し込む廊下へと出て行ってしまった。

「あいつと何の話があるんだよ?」

 そう問いかけたウォルセフに、イオネツは少しだけ真面目な顔になって「ちょっとね……」とつぶやいた。
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