恵庭の場合 ①

文字数 1,674文字

 恵庭(えにわ)は自分のことをつまらない人間だと思っている。
 短所ならいくらでも思いつくのに、長所となると、ひとつも思い浮かばない。
 恵庭が自分をつまらない人間だと思うのは、他人から大事に扱われた経験がないからだ。だから、自分は他人から雑に扱われても仕方のない、取るに足りないような人間なのだろうと、そう思っている。

 ***

 恵庭が蜂谷(はちや)の存在をはっきりと認識したのは、出勤前に職場近くのコンビニで、栄養補助食品を手に取る彼を見かけたのがきっかけだった。
 見るからに線の細い、少し猫背気味のうしろ姿になんとなく見覚えがあった。

 あ、たぶん、うちのお客さんだ。
 そう気づいた。
 恵庭は目がいい。見るともなく視界に入ったものの印象を不思議なほど覚えている。
 そんな彼女の視線を感じたのか、蜂谷が振り返る。

 しまった、不躾(ぶしつけ)にじろじろと見てしまった。きまり悪く立ち尽くす恵庭の姿を認めると、驚いたことに、蜂谷は軽く会釈を寄越した。つられてぺこりと頭を下げながら、恵庭は意外な思いにとらわれていた。
 目が合ったからなんとなく会釈をした、というかんじではなく、蜂谷の雰囲気から、恵庭がどこのだれだかをきちんと認識して挨拶をしてきたのだとわかった。
 そのことにも驚いたが、蜂谷には申し訳ないことに、なんとなく、彼は社交的な性格ではなさそうに見えたし、こういう状況では無視されても不思議ではないように思えたのだ。
 行きつけの店の店員と馴染みになるのを嫌う客も一定数存在する。なので、恵庭は自分からは余計な声かけはしないことにしている。

「今からお仕事ですか」
 会計を終えた蜂谷がマスク越しに声をかけてくる。
「あ、はい、そうです」
「がんばってください」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、また」
 そういって自動ドアへと向かう蜂谷を思わず呼び止めていた。
「あのっ」
 蜂谷が振り返る。
「お名前、お聞きしても……」
「ああ、はい」
 スーツの隠しから名刺入れを取り出すと、そこから抜き出した一枚を恵庭へと差し出す。
「蜂谷といいます」
「え、あの、名刺、いただいてもいいんですか」
「はい、もちろん」
「ありがとうございます」
「あなたのお名前は?」
「あっ、すみません、恵庭といいます。名刺は持っていなくて、あの、恵みの庭と書いて、恵庭です」
「ああ、北海道の地名にありますよね」
「そう、それです」
「なるほど」
 つかの間、沈黙がおりる。
「すみません、お引き止めしたうえに名刺まで」
「いや、お構いなく。では」
「はい、お仕事がんばってください」
 蜂谷はわずかに驚いたような顔をして、しかしすぐにポーカーフェイスに戻ると、
「ありがとうございます」
 といって今度こそコンビニを出ていく。

 なにやっているんだろうわたし、と恵庭は頭を抱えた。
 お客さん相手にナンパみたいな真似をして。蜂谷は普通に振る舞ってくれたが、内心呆れ果てていたのではないだろうか。
 もし自分のせいで蜂谷が店に来なくなったらどうしよう、と思う。気持ち悪がられても仕方ない。

 思いがけず、自分のことを認識してくれたのがうれしかったのだ、と気づく。無視されなかったこと、わざわざ声をかけてきてくれたこと。重ね重ね、蜂谷に対しては失礼だが、そんなことをするような人物に見えなかったこともあって、余計に。

 サービス業に従事していると、嫌な目に遭うことも少なくない。見ず知らずの相手からぞんざいな口を利かれたり、まるで賽銭(さいせん)を投げるように無造作に代金を放り投げてくる客も何人かいる。
 もし自分がされたら不快になるだろうことを、他人に対して平気でする人間は身近にごろごろといる、と恵庭は思う。変に馴れ馴れしい客も困るが、店員を召使いかなにかと勘違いしているような客にもうんざりだ。
 だから、普通に接してくれる客は本当にありがたいし印象深い。

 翌日、蜂谷はなにもなかったかのように昼時に弁当を買いに来た。
 彼の姿を目にした途端、あ、よかった、と恵庭は内心ホッとすると同時に、なんだか落ち着かないような、そわそわとした妙な気分になるのを感じて戸惑いを覚えた。

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