第1部 薬師の聖女
文字数 21,589文字
1.
――ここは教王国ブラット。
聖女を国の守り人として戴く国の一つだ。
この国では各代ごとにその聖女にあった二つ名がつけられるのだが、当代の聖女は薬作りが得意なため薬師の聖女様と呼ばれ民と国から愛され、聖女自身もそんな民と国を愛していた。
そして聖女の手から作られる薬は住民たちに重宝された。
「蒸留」
王城の敷地内である聖堂に造られた大きな薬室では今日も民たちに卸す為のポーションが作られていた。元々、ポーションは町の道具屋で購入することができるのだが聖女が作るものと明らかに効果が違った。その為道具屋は皮肉交じりに「商売があがったりだ」とボヤいたものだったが、聖女が作るのは傷を治すだけのポーションだったので他の薬を売れる道具屋たちは反発せず、なんならこぞって聖女印のポーションを卸してくれと頼む程だった。
実際の所、聖女はポーション以外の薬も作れてしまうのだがそれを明らかにしてしまったら民たちの生活がままならなくなってしまう、という聖女の発言から公表されないことになったのだ。
さて、そんな建物の一室では今日も薬、ポーション作りに精を出している人物がいる。
彼女の名前はアイリス。当代の聖女で薬師の聖女と呼ばれる存在だ。年齢は十六歳、美しい白銀の髪を腰まで伸ばし、空色の瞳をしている。
「釜の中にいれて、色が変わったらもう一度蒸留!」
アイリスの目の前にある釜に蒸留したポーションを入れると、手を翳し蒸留の呪文を唱える。そうすると釜の中でふつふつとしていた液体がピタリと動きを止めて色が透明に変わるのだ。ポーションは色が薄いものほど純度が高く効果も高い、反面色が濃くなるほどに純度が悪く効果も低い。
アイリスは瓶の中身を大きな匙で掬うと小瓶に同僚ずつ流し込んでいく。そしてコルク栓をしたら聖女の印を紙に印刷したものを瓶に貼り付け完成だ。
アイリス自身には王国を護る力はなかったが、ありがたいことに王国の周囲は平和であり、また隣国との関係も良好だった為問題はなかった。
平和で、優しい世界だった。
そして、それは誰もが変わらないものだと思っていたと言うのに、ある日突然変わってしまったのだ。
原因はたった一人の少女。その少女は一の月の早朝、聖堂に突如現れたのだ。
少女の名前は馬場友梨奈、黒い髪を腰まで伸ばした姿で年の頃はアイリスの一つ上だった。
異世界から少女が現れることはこの世界では度々あることで、王国としての対応も決まっていた。鑑定魔法を行い身体に異常がないかを調べ魔法の適性を調べる。そうして学校や冒険者協会、各種ある仕事場など希望する場所へ連れて行かれる。
この少女も今までと同じように鑑定され希望する場所へ連れて行かれる予定だったのだが、魔法適性で聖魔法の適性が出てしまったのだ。
それ自体が悪い訳ではなかったが、友梨奈が希望した移動場所が聖堂だった。
「よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げた友梨奈は聖魔法に適性があったことを驕っている様子もなく「なんでもやります」と勢いよくアイリスに言っていた。
「よ、よろしくね」
そんな友梨奈に気圧されながらもアイリスは友梨奈のことを受け入れていた。
友梨奈のステータスに記された能力はアイリスより強く、アイリスが使うことが出来ない聖魔法が使える。
だからといって国民たちがアイリスを責めることもなく二人も聖女が居ることに喜ぶほどだった。
だからこそ一番の力不足を感じたのはアイリス自身だった。
その日からアイリスは誰よりも早く聖堂に現れ、誰よりも多く薬を作った。
最初の内はそれでも良かったが、半年ほど続けていたある日アイリスは倒れてしまった。
過労だった。こればかりは薬でも聖魔法でも治すことは出来ず療養が一番の薬だと医者から言われてしまい、アイリスは嘆いた。
「どうして」
その言葉に答えられる人は一人もいなかった。ただ皆はそれでも動こうとするアイリスに休むことを促すのだった。
そんなアイリスに声をかける人物が二人居た。
一人は従者であるカーク、もう一人は友梨奈だった。
カークは「今は休みましょう」と諭すように言い、友梨奈はいつもの調子で「アイリスさんが居ない間は私が頑張ります! 任せて下さい!」と元気よく言っていた。
友梨奈の言葉はなぜかアイリスの気持ちを重くするだけだったが、それを表に出さず(出す理由もなかったので)アイリスは笑顔で「よろしくね」と言うだけだった。
それから三の月ほどゆっくりと養生を過ごしたアイリスは久しぶりに聖堂へ顔を出すことにした。勿論仕事をしないことを医者からしっかりと言い含められた上に従者からも言い含められた、のだった。そこまで信用がないのだろうかとアイリスは不思議に思ったが、久しぶりに聖堂の空気が味わえるのだ。些細なことは捨て置こうと、従者であるカークを連れて聖堂へ向かった。
短い距離だと言うのに少し息が上がってしまったアイリスを見てカークは「おぶりましょうか」なんて冗談を言っていたが丁重に断り、ゆっくりと歩きながらようやく聖堂へと辿り着いた。
聖堂の入口の扉を開け神体の前に膝をつき、アイリスは祈りを捧げる。久方振りに神体に祈りを捧げられたことでアイリスの心は少しばかり穏やかになった。その時、薬室から歓声が上がった。なにごとかとアイリスは薬室へと向かって歩き始めるがカークがそれを止める。しかしアイリスから「おねがい、少しだけにするから」と言ってしまえばカークは断れないのだ。二人が連れ立って薬室を覗き込めばそこには友梨奈を囲んで喜びの声を上げる修道女達が居た。
「あ、アイリス様!」
友梨奈がいち早くアイリスが来たことに気が付く。
「見て下さい! これ!」
友梨奈が差し出したのは薬瓶で中身はポーションのようだった。それにしては薬釜を使った形跡がなくアイリスは首を傾げた。
「純度の高い水に聖魔法をかけたらポーションも作れたんです! アイリス様には及びませんがこれでもっとお手伝いが出来ます!」
にこりと嬉しそうに笑う友梨奈にアイリスは言葉を返す。友梨奈の後ろに立っている修道女たちも嬉しそうに微笑んでいる。微笑んでいる?なぜ?ああ、そうか私の負担が少なくなるから。
「そう、なの。すごいわ友梨奈」
この時、アイリスは本当に笑えていたか自信がない。
なぜならアイリスの脳内にあった思いは私には薬を作るしか能がないのにそれさえも奪ってしまうのと、いった考えが支配していたからだ。こんなことを考えてしまった自分が嫌で堪らなかった。それも純粋にこちらを慕い嬉しそうに笑う彼女にだ。だからこそ笑えているか不安だった。きっと笑みは少しだけ引き攣っていただろう。
「友梨奈、私そろそろ戻るわね。ここに居るとお薬作りたくなっちゃうから」
ふふ、と笑いながらそうアイリスが言えば友梨奈がハッと表情を変える。
「すみません! そうでした!」
ぺこぺこと頭を下げる友梨奈の頭を撫で、アイリスは聖堂をあとにした。自室へと向かう間、アイリスとカークの間に言葉はなかった。アイリスはそれでよかった。いや、それがよかった。下手な言葉でもかけられていたら自分の思いを吐露してしまっただろうから。自室へ辿り着き、アイリスが「じゃあ」と言葉を発した時にカークが「大丈夫ですか」と言葉をかけてきた。
大丈夫か、どれのことだろうか。今の体調なのか、先程の聖魔法の可能性を見せられたことか、それともそれを羨んでいるアイリス自身のことか。とりあえずは「なんのこと」と答え「体調なら大丈夫よ」と答え自室へ入りベッドに横になった。
数分ほどそうしていてから身体を起こすと、棚の上にある木彫りの神体を手に持った。それから両手でぎゅ、と握りしめてから「神様、皆をお守りください」と呟いた。
この木彫りの神体は生まれながらに聖女(この国では生まれて直ぐに職業適性の鑑定を受けるのだ。もちろんその職業に就くものも居れば就かない者もいる訳だがアイリスの聖女という職業は別だった)として聖堂で過ごしていたアイリスが五つの誕生日に身の回りの世話から礼儀礼節、この国の歴史の勉強や聖女としての在り方を教えていてくれていた司教からもらったものだった。素朴ながらも手触りの良いそれを子どもだったアイリスは気に入りそれ以来ずっとお守りとして部屋に置いてある。
それから更に三の月が経った。
この頃にはもうほぼ快癒という調子でアイリスの表情も明るくなっていた。そんなアイリスから国王に謁見の申し入れがあった。その場には司教も同席して欲しいと告げ足して。
謁見は異例の速さですぐに認められてアイリスとカークが王の間へとやってきた。謁見の場は静まり返っておりどこかピリ、とした緊張感が漂っている。
アイリスが膝をつき頭を下げると、その一歩後ろにカークは膝をつき頭を下げ王から声がかかるのを待つ。
「面を上げよ」
王の低い声色で許可が出たので二人は頭を上げると、王の瞳を見つめる。
「久しいなアイリス。もう体調はいいのか?」
「はい、おかげさまで大分よくなりました」
「そうか。そなたが倒れたと聞いた時は心配したものだったが……見舞いにも行けずにすまなかったな」
「いえ、謝らないで下さい。そのお心だけで十分ですわ」
「そうか……」
王はアイリスのその返答に少し悲しそうな表情を滲ませ、王の傍に立つ司教は仕方ないなと言った風に片目を閉じ王へ合図を送った。
「それで、今日は何の用なのだ?」
王から用件を切り出される。その場にいる全員の視線がアイリスへと注がれていた。アイリスはそれに「はい」と答えたあと、一つ息を吐いてから言葉を紡ぐ。
「聖女の名をお返ししたく思いこの場を設けて頂きました」
「なぜか聞いても良いか」
王と司教は僅かに動揺の表情を浮かべるがアイリスは変わった様子はない。
「体調をまた崩す恐れがあるのと、友梨奈の成長が著しいからです」
「ふむ……あの少女の出来は余も聞いておる」
そこで王が司教へと視線を向ければ司教が口を開く。
「そうですね、アイリス様と同等と言って良いくらいには成長しております。ですがアイリス」
司教はアイリスに向き直り瞳をジ、と見つめる。
「本当にそれだけなのですか?」
「はい。それだけです」
「ふむ……」
王は一つ溜め息を吐くとアイリスを見やる。その表情はにこやかで他に何か理由があったとしても明かそうとはしないと強い意志を感じた。
「わかった。そなたには生まれた頃からこの国を豊かにしてくれていた。もちろんポーションやそれ以外の薬を作れるようになってからも。そなたが誰よりも働いていてくれたのはここに居る者だけではない。国民皆が知っておる」
「ありがとうございます」
「この国には留まるのか?」
「いえ、隣国の帝国に行こうかと」
「なら資金と旅の道具が必要だな。すべて準備しよう。それと付き人が必要だが」
「あの」
そこで声を上げたのはカークだった。カークは右手を上げ発言の許可を王へと求める。
「発言を許す、申してみよ」
「私をこのままアイリス様の従者として帝国まで同行させてください」
「そのあとはどうするつもりだ」
「アイリス様がお許しになるならその後もお傍に居たいと思っております」
「わかったそれも許可しよう。必ず連絡をするように」
王は快く受け入れると一言「寂しくなるな」と呟きそれに司教が「ええ」と答える。
「お前のことは生まれた時から知っておるからな、娘のようなものだ」
「はい……至らぬ娘ですみません」
「そんなことは言っておらん、ただ寂しくなるだけだと言ったのだ。健やかに過ごすように。そして出来れば手紙を出して欲しい」
何かあったら直ぐにでも帰って来いと言った王の瞳は慈愛に満ちており、アイリスは「はい」としか答えられなかった。
そこで旅の道具一式と通貨の準備が済んだと兵士が言い王と司教との会話は終わった。
自室の荷物を纏めに戻る途中、アイリスはカークへと話しかけた。
「カーク、どうしてあんなこと言ったの」
「あんなこととは」
二人はアイリスの自室へと向かう廊下を歩いている最中だった。カークはとぼけた様に答えるがアイリスがジトりと見詰めれば仕方ないとでも言うように溜め息を一つ吐いた。
「もう、わかってるでしょう。ついて来なくても冒険者を雇えばよかったのよ?」
「私がアイリス様から離れたくなかっただけです」
「まだ恩が返しきってないとでも言うの?」
「はい」
カークは元々騎士団に所属する人物だった。栗の皮のような髪色に夏の新緑を思わせる瞳に涼し気な顔立ち。修道女や貴族のお嬢様からの人気はアイリスの耳にも届いていた。そんな彼がアイリスの従者になったのには理由があった。
三年前、獣魔(獣魔とは獣たちに魔素という悪い物質が溜まり狂暴化した存在である)が大量発生したのだがその討伐に出ていたのが騎士団だった。勿論騎士団全員が出ていた訳ではなかったのだが、カークは自身で申し出て討伐に参加していた。その獣魔との戦闘で獣魔を倒したものの大怪我をしたカークをアイリスのポーションが救ったのだ。その怪我はポーションがなければ腕を切断しなければいけないほどで、王族騎士を目指していたカークにとっては一大事だった。その後、カークは王族騎士となった訳だが、それを押し退けてアイリスの従者になりたいと発言したのだ。これには騎士団の面々や王までもが驚いたが、平和だからと言って護衛もつけずにふらふらさせているのは如何なものかというカークからの脅しともとれる助言に王が承諾し、カークはその日から晴れてアイリスの従者――騎士となったのだ。
「私はもうじゅうっっぶんに返してもらったと思うけど」
「いいえ、まだまだです」
カークは笑いながらそう言うと兵士が用意した旅の用品が入ったリュックを背負いなおし「では三十分後に聖堂の前で」と言葉を続け、それにアイリスも頷いた。いつの間にか自室に辿りついていたようだ。
持って行くものは少ないが、なんだかんだと準備はある。
「ふふ、懐かしい」
アイリスは小物を鞄に詰め、司教からもらった神体もハンカチで包みながら鞄に詰めると思い出に浸っていた。帝国は多神教だ、この神体を持っていてもおかしなことはない。
生まれた時から聖女になると決められていたアイリスは穏やかに人生を過ごしてきた。薬を作ることしか出来なかったが、それも楽しかった。魔法は適性が低く、生活魔法しか使うことが出来なかったが生活魔法の一つである洗浄で水の純度を高めることが出来、それが純度の高いポーション作りにいい影響を与えたのだ。その方法を思いついた時は本当に嬉しかった。これでもっと人を助けることが出来ると、本当に、そう思ったのだ。
「ここともお別れね」
肩さげバッグに荷物を入れ終わったアイリスは部屋をくるりと見回してから「ありがとう」と呟いた。そうして待ち合わせ場所である聖堂へと向かったのだった。
「お待たせ」
先に来ていたカークにアイリスがそう言えば「来ないかと思いました」とカークが開口一番言ったので肩を一殴りするだけで許したのだったが、最後にお祈りをしてくるとアイリスが言えばカークは「はい」と言うのだ。本当によくできた従者だとアイリスは思う。
聖堂に入り数分ほど祈りを捧げ立ち上がると、そこには先程まで一緒だった司教と涙顔の友梨奈が居た。会いたくなかった訳ではないが、バレない内に行く予定だったのでしまったとアイリスは思う。
「司教様」
「アイリス、あなたにはたくさんの人を救ってもらいましたね」
「いえ、私なんか」
「いいえ、誇って下さい。あなたの手で作った薬は命や傷を癒し、あなたの存在は民を救ったのだから。王もそう仰っていたでしょう」
「はい、はい……司教様」
アイリスの視界が涙で滲む。司教様も見ていてくれたのだと改めて思った。
「アイリス様ぁ、この国から出て行っちゃうって」
もう既に涙で顔面がぐしゃぐしゃになっている友梨奈を見ると思わず笑みが零れた。
「ええ、あなた一人に聖女の仕事を押しつけるみたいになっちゃったけれど許して頂戴ね」
「そんなことありませんっ、アイリス、様には本当に優しくしてくれて……うぅ」
「行くのは隣の国だからいつか会えるかもしれないわよ」
アイリスが困り顔でそう言えば友梨奈の表情がパッと明るくなる。
「本当ですか……?」
「ええ、だから泣かないで。ここの人たちをお願いね」
「はい、頑張ります」
「ほどほどに、ね? ほら泣かないで」
アイリスの指が友梨奈の涙を掬う。
そこから数分泣き続ける友梨奈を慰め、改めて二人にアイリスとカークは別れを告げると、二人は歩き出した。
「そう言えば帝国まではどれくらいかかるのかしら」
「馬車ですと2日あれば」
「じゃあ、荷馬車を借りなきゃね」
「もう準備済です」
手際の良いカークにアイリスは驚くと「ありがとう」と言ってから「そう言えば」と続ける。
「私、荷馬車の扱いなんてしたことなかったわ」
「私が出来ますので心配いりません」
その言葉にアイリスは驚いたように目を見開くとポツリと言葉を漏らす。
「……カークについてきてもらって良かったかもしれないわね」
「ふふ」
そうして荷馬車の場所まで行きアイリスはキャビンへと乗り込み、カークは馬の手綱を握り二人の旅路が始まるのだった。
2.
ガタゴトと荷馬車は進んで行く。
アイリスはいつの間にかねむってしまっていた。
カークはそんなアイリスを起こすことなくひたすら荷馬車を走らせる。
出来れば早く新しい場所へ連れて行ってあげたかった。
馬場友梨奈という少女が現れてから、アイリスは目に見えて焦っていた。聖魔法を使えないということが彼女の重荷となりポーションを作ることで自分の自我を保っていたのだろう。過労で倒れてからはますます落ち込んでしまっていたが、三の月も経てば笑顔が戻るようになっていた。それなのにあの聖魔法だ。純度の高い水に聖魔法をかけたらポーションになっただと。そんなふざけた話があるか。
あの話を聞いた時のアイリスは見て居られなかった。
自分の居場所を盗られてしまったのだと思ってもおかしくない。ただ、それは自分勝手な物言いだからこそ言わなかったのだろう。友梨奈自身もアイリスの手伝いが出来る一心で研究を重ねたのだろうが、素直さは時に人を傷付けてしまう。
「ん~……」
「おはおうございます、アイリス様」
「おはよ……」
まだ眠気と戦いつつあるアイリスにカークは声をかける。
本調子ではないアイリスを連れての旅は早々に終わらせてあげたいが、馬も休ませなければならない。陽が沈み切る前に一度休憩をとるかとカークは荷馬車を止める。
「アイリス様、一度休憩にしましょう」
「はい」
荷馬車からぴょんと飛び降りたアイリスは身体を伸ばした。
隣国までの道はありがたいことに整備されており治安も良い。
このままいけば明日の昼には到着するだろう。
「ねえ、カーク」
「なんでしょう」
焚火の準備をするカークにアイリスは話し掛ける。
「本当について来てくれるの?」
「アイリス様が嫌でしたらやめておきますが……」
「ううん、そんなことはないんだけど。本当にいいのか確かめたかっただけ」
「そうですか」
なら良かったです、とカークは言うと出国する前に買っておいたライ麦パンをアイリスに差し出す。アイリスはそれを受け取ると地面に座りぱくりとかぶりつく。
「アイリス様こそ良かったんですか」
「なにが」
同じくライ麦パンを頬張りながらカークがアイリスに向かって言う。
「友梨奈様のことです」
その言葉にアイリスはなにそれと小さく呟く。
「俺しかいないので言いたいことは言ってもいいんですよ」
「……」
「……」
パチンと焚火の木が爆ぜる。
どちらも無言のまま少しの時間が流れてからアイリスが一つ溜め息を吐いた。
「友梨奈ってね、とてもいい子なの。明るくて優しくて、私の手伝いをよくしてくれていたの。でもね、私はそれが嫌だったの。私の居場所をとらないでって子どもみたいな感情を抱いてね、そんな自分も嫌だった。」
アイリスの視界がじわりと滲む。
「馬鹿馬鹿しいでしょう? そんなことで何も変わりもしないのに。その結果が過労で倒れちゃってさ。そしたら今度はポーション作りまで出来るようになっちゃうなんて。私の居場所あそこに無くなっちゃった。」
ぼろぼろと涙がアイリスの頬を伝い落ちる。
居場所がないなんてことはない、そう言いたかったが言うまでもなくアイリス自身も分かっているだろう。
「もっと自信があって人を妬むような人間じゃなければよかったのにって自分勝手に思っちゃった」
涙をぐい、と指先で拭うとアイリスは再びライ麦パンにかぶりつく。もぐもぐと咀嚼をしてからごくりと飲み込み、はあ、ともう一度溜め息を吐いた。
「友梨奈のことが嫌いな訳じゃないの、ただあそこで働くのに疲れちゃっただけ」
「そうでしたか」
「王様や司教様と離れてしまうのは寂しいけれどこのままじゃだめだと思ったの」
「はい」
「誰にも言わないでおこうと思ったのに、もう」
「口に出したいことは出していいんですよ。我慢のし過ぎはそれが澱になって心に積もってしまいますから」
「そうね、ありがとうカーク」
「いえ出過ぎた真似でした」
カークはコップに固形スープの素とお湯を注ぐとそれをアイリスへと差し出す。
アイリスは「ありがとう」と言ってから受け取るとゆっくりとスープを飲む。
「……」
「……」
「……よし! 過去は振り返らないわ。カーク、私もっと強くなるから見ていてね」
アイリスは横にコップを置いて両頬を思い切りバチンと叩いた。
「はい、アイリス様」
そんなアイリスを笑いながら見つめるカークは優しい眼差しをしていた。
夜通し馬車を走らせるためにカークが仮眠をとっている中、一人アイリスは火の番をしていた。カークが眠りに行く前にどこかにふらふら行っちゃだめですよと子どもに言い聞かせるように言うので頬を抓っておいた。
ぱちぱちと火花が散る音だけが周囲に響く。
一人でこんなにも時間を過ごすのは初めてかもしれない。今までは誰かしらが傍に居た。というより、友梨奈が来てからはずっと友梨奈と一緒だった。悪い子ではなかったのだ、本当に。カークに言った言葉に一つも嘘はなかった。それでもあそこから、生まれた時から居るあの場所から離れたくなってしまった。
きっと自分一人では上手くいかなかっただろうからカークについて来てもらって良かったと、そう思う。カークはまだまだ恩があると言うけれど、恩があるのはアイリスの方だった。この旅についてきてくれたことも、教王国で一緒にいてくれたことも。
ごろんとアイリスは仰向けに転がる。
夜空には星々が瞬いて、輝いていた。流れ星が流れるのを思わず「きれい」と呟いたアイリスの目の前で光が弾けた。チカチカと光り輝くそれは光の塊でアイリスの目の前に浮かんでいる。
「なに、これ」
「ねえ、ぼくのこと綺麗って言った?」
驚いたことにその球体は話し始めた。
「あなた、あの星なの?」
「うーん少し違う。ぼくは光の精霊だよ。今日の流れ星は僕が担当だったんだ!」
「そうなの……」
「そしたらきみが綺麗って言ってくれたから嬉しくて出てきちゃった!」
えへへと笑う球体はくるくるとアイリスの目の前で回る。アイリスは身体を起こすと手の平を球体へと向ける。
「私はアイリス、今は寝ているけれどカークという人と一緒に旅をしているの」
「へえ、おもしろそうだね。ぼくもついて行ってもいい?」
「それは勿論いいけれど……」
「やったぁ!」
そう球体が言うと一段と強く輝きアイリスの差し出していた手の平に指輪を落とす。
「その指輪があればぼくのこといつでも呼び出せるから!」
まだ仕事が残ってるからまたあとでくるね、と元気よく飛び去った球体と残された指輪。その指輪を左手の人差し指に嵌めるとぶかぶかだった指輪がしゅるりと巻きつき丁度ピッタリのサイズになる。
「アイリス様!? 今の光は!?」
慌てて出て来たカークにぽかんとした表情を見せるアイリス。
「それが私にもわからなくて……とりあえず精霊のお友達が出来たみたい」
その言葉に「はい?」と言うカーク。
「まさか精霊と契約するとは……」
翌朝、荷馬車を走らせながらカークがそんなことを呟く。背中合わせになるように座ったアイリスは「知らなかったんですもの」と言う。
昨夜はあのあと怪我がないことをカークに確認されてから続きは朝にしましょうと言われたのだ。
「でもこの子名前は何ていうのかしら」
「精霊の名づけは契約時に行うものですからギルドで行う必要がありますね」
「ギルド?」
「はい、冒険者ギルドです」
「そうなんだ……そういえば、今から行く国ってどんなところなの?」
「アイリス様……」
「適当に隣国って言ったのバレちゃった」
「隣国は帝国ルリアーナと言って多神教を認めていますが精霊信仰の人物が多い国です。自然豊かで治安もいいそうです」
「そうなんだ……」
「ですから街にも精霊がやってきたりするらしいですよ」
「じゃあ他の精霊ともお友達になれるかもしれないのね」
「アイリス様……」
「あ! あれそうじゃない!」
アイリスが指差した先には帝国ルリアーナの外壁があった。
荷馬車が門の前で止まる。
門の前には衛兵が二人立っており入国の審査をしていた。
「入国希望者か?」
「ああ二人だ」
カークの二人、という言葉にアイリスがひょこりと顔を出す。
「うん、確かに二人だな」
「荷馬車を置きたいんだがどこか置き場はあるか?」
「一時滞在なら冒険者ギルドで永住希望なら役所で手続きだな」
「じゃあ冒険者ギルドの場所を教えてもらっていいか?」
「ここをまっすぐ行って右手側だ、すぐつくよ」
「ありがとう」
「念の為鑑定球に触れてくれるか?」
「ああ」
鑑定球とは犯罪歴がないかを確認する球で入国審査の際に使われるものだ。
まずはカークが触れ、次にアイリスが触れる。
「よしふたりとも問題ないな」
「ようこそ帝国ルリアーナへ!」
二人の門番がそう言うと大きな門扉が開いていく。
荷馬車を走らせていると門番が言っていた通りすぐに冒険者ギルドへ辿り着いた。
「アイリス様ついでに精霊との契約とギルドカードを作っておきましょう」
「はい」
アイリスがキャビンから降りながら返事をしつつカークの顔を眺める。
「どうしました?」
「いや、カークってなんでも知ってるなって」
「ああ、知り合いがこの国に居るんですよ。それで色々と手伝ってるうちにこの街のことに詳しくなって」
もちろん騎士になる前の話ですが、とカークは告げ足す。
「さあ行きましょう」
「うん」
先頭を歩くカークに続いてアイリスは冒険者ギルドの中に入っていく。
冒険者ギルドの中は賑わっており真新しい場所にアイリスはきょろきょろと周囲を見て回る。
「アイリス様」
「あ、」
いつの間にかカークと離れてしまったアイリスにカークが声をかける。
「ごめんなさい初めてだから珍しくて」
「その内にすぐになれますよ」
すぐになれるってどういうことだろうかと疑問に思いつつも、受付があいたので話は続くことはなかった。
「精霊の契約と荷馬車の預かりをお願いしたいんだが」
「はいよー。精霊の契約は兄さんかい? それともお嬢さん?」
「私です」
軽薄そうなひげ面の男性が魔法陣のかかれた紙を取り出し、アイリスの目の前に置く。
「髪の毛を一本抜いて魔法陣の上に置いてくれるか?」
「はい」
プツと一本髪の毛を抜いたアイリスは言われるがまま魔法陣の上に置く。
「じゃあ指輪をかざして」
「はい」
その瞬間、昨日見た光と同じくらいの明るさの光が灯り魔法陣の上に光の球体が現れる。
「やっとよんでくれたー! 待ってたよ!」
「そうなの? ごめんなさいね」
球体と会話をする二人を置いて男性とカークは驚いた顔をする。
それに気付いたアイリスが「どうしたの?」と聞くので二人は平静を取り戻す。
「いえ、会話が出来るのは珍しいので驚いただけです」
「そうそう、驚いちまった。じゃあ次は名づけだな」
「エイトでもいいかしら」
「いいよー! ぼくは今日からエイト! よろしくねアイリス」
「え、私の名前」
アイリスの言葉の途中でエイトは光り輝くと、一段と強く輝き光が止んだ中から背中に半透明の羽をつけた小さな、アイリスの手に乗りそうな大きさの少年が出てくる。
精霊に雌雄があるかは分からないがパッと見は男の子のようだった。
「よろしく!」
アイリスの指輪にすり、と頬を擦りつけるとふわりと空を浮かび始めた。
「お嬢ちゃん、アイリスだったか? ギルドカードも作るんだろう?」
「はい」
「了解だあ。じゃあちゃちゃっとやっちまうからな」
そう言うと男性は銀色のタグを魔法陣の上に置き「記憶」と言った。
どうやら残った魔力をタグに入れたらしい。
「ほい、お待たせ。失くさないように首から掛けとくのをおすすめだがどうする?」
「お願いします」
「了解だ」
そう言うとタグを革ひもに通しネックレスにしてくれたのだった。アイリスはそれに「ありがとう」とお礼を言うと首からぶら下げた。エイトが「似合ってる」と言いながらアイリスの周囲を飛ぶのでアイリスは満更でもない気持ちになった。
「では次は役所に行きましょうか」
「役所はすぐ隣だぜぇ」
「ありがとうございます」
親切な男性からの申し出にアイリスは礼を言うと「縁は作っとくもんだからな」と男が言うので「?」と頭に疑問符を浮かべるがカークが「行きますよ」と言ったので会話は終わってしまった。
男性が言った通り役所は隣にあった。
「家を買おうと思うのですがどうでしょう?」
「いいと思うわ、あのできれば」
アイリスが申し出にくそうにしているとカークは笑いながら言葉を続ける。
「ポーションが作れる施設がある方が良いですよね」
「はい!」
そのアイリスの笑顔を見てカークは良かったと思った。彼女にとってポーション作りは嫌なものではないのだ。今も大切で重要なことなのだと。
「では妥協はしない方向で行きましょう」
「頼もしいわ」
「ほんとだねー」
アイリスとエイトが頷き合っているのを微笑ましいものを見る眼差しでカークは見ると「さあ行きますよ」と役所へ連れ立って入っていくのだった。
役所の入口で住居の購入についてはどうすればいいかと聞いたところ、九番の窓口へ行ってくださいと言われたので三人は窓口まで歩いて行った。幸運なことに窓口は空いておりすぐに三人の順番となった。
「どんな物件をお探しでしょうか」
受け付けてくれた女性がそう言うのでダメもとでカークは意見を発する。
「永住希望で薬師の設備が作れるような住居はありますか?」
「ちょうどいいのがありますよ」
「え」
あると思ってなかったので肩透かしをくらった感覚になり、肩ひじをはっていたアイリスの肩から力が抜ける。
「最近薬師の方が廃業しましてそこが住居兼施設もあるんです」
「わあ」
「やったねー」
アイリスとエイトが小声で会話を交わす。
「ではこれから下見に行きましょうか」
と役所の女性に言われ四人は連れ立って目的の場所へと歩いていくのだった。
役所の女性が案内してくれた場所は大通りに面した家屋で、部屋数も申し分なく、設備の状態も良かったので即決で購入することに決めた。
「ありがとうございます」
「いえこちらこそ助かります」
家の鍵を受け取りながらアイリスが礼を告げれば、受付の女性が助かりますと言う。なぜだろうかと小首を傾げながらそのままの思いを口から出せば女性はにこりと微笑む。
「え?」
「薬師の方がいらっしゃるのはありがたいことですので。それでは細かな書類はまた郵送します」
では失礼しますと立ち去った女性を三人で見送ってからふうとアイリスとカークの二人は一息吐いた。
「アイリス様お疲れだと思うんですが一緒に来て頂きたいところがあるんです」
「大丈夫! でもどこに行くの?」
「日用品の買い足しに行こうと思いまして」
「雑貨屋!」
「そうです」
「行きたい!」
エイトは興味が無さそうに飛んでいるがアイリスが喜んでいるのが嬉しいらしくにこにことしている。
「じゃあもう少しお付き合いお願いします」
「はい」
三人は持っていた荷物を一先ず家の中に入れると、家の戸締りをしてから目的の雑貨屋へと足を進めるのだった。
雑貨屋は大通りに面した場所にあり、購入した家屋から近かった。
カークを先頭に雑貨屋に入るとドアベルがカランと鳴った。店内は幻想的な雰囲気で日用品から簡単な装備品まで置いてあるようだった。いくつものランプがぶら下がった店内は薄明りだったがそれがまた幻想的な雰囲気を醸し出していたのだ。
「キュア!」
と入口近くに居たフクロウが大きな声を上げる。
「あーはいはいなんだクー? お客か?」
店の奥から出て来た人物は筋肉質で短髪の男性だった。
「相変わらずだなトゥエ」
「カーク! なんだどうしたんだよ姫さんに一生ついてくって言ってたのに」
「あー……」
ちらりとカークが後ろを振り返るとアイリスが不思議そうな顔をしていた。
「姫さんて私のこと?」
カークの隣にやってきたアイリスにトゥエは「アンタがアイリスさんかい?」と聞きそれにアイリスが「はい」と答える。それに頭を抱えたくなったカークは「そんなことより!」と大きな声を出した。
「日用品を用立ててくれないか?」
「おお、そりゃいいけどよ」
「じゃあ私はお店の中見ててもいい?」
「はい、変な物には触っちゃだめですよ」
相変わらずの子ども扱いにデコピンをカークにお見舞いするアイリス。
まったく子ども扱いしてと怒るアイリスとカークの気持ちが何かわかる気がするが口には出さないエイトだった。
「それで? どうしたんだよ」
トゥエの言葉にカークは歯切れの悪い返事をする。
「色々あってな、この街で薬師をやられることになったんだ。それで慣れるまではその薬をお前の店で販売できないかと思ってな。恐らくゆくゆくは店舗で販売することになると思う」
「こっちとしちゃ構わないけどよ……まあなんかあれば力になるから言ってくれよ」
「ありがとう、助かる」
にこりと笑ったカークにトゥエも明るく笑顔を返す。
「食べちゃだめよ! フクロウさん!」
聞こえてきたアイリスの声にカークは溜め息を吐くとフクロウの所へ駆けていき、その後ろをトゥエもついて走る。
「どうしたんですかアイリス様」
「フクロウさんがエイトの髪の毛を毟ろうとして……」
アイリスの手の中に髪の毛がぼさぼさになったエイトが涙顔で座っていた。
「こらクー!」
「力の差も分からないのにちょっかいをかけてくる方が悪い」
「だからといって毟るなよ」
クーとトゥエが二人で喧嘩を始めるがアイリスはフクロウが話しているという現実に頭がついて行かず「フクロウさんが喋ってる…」と呟く。
「クーは精霊獣なんですよ、普段はフクロウの姿をしてますが人型にもなれるんです」
だから話すなんてことは簡単なんですよ、とカークが続ける。
「そうだ。これから世話になることも多いから人型の姿も見せとけよクアット」
「しかたないな」
薄紫の色の光がクアットを包みその光が人型に伸びてゆく。光が消えたと思えばそこにいたのは細身の青年だった。腰まである髪の毛を緩く三つ編みに結んでおり、瞳の色は右眼が紫で左眼が黒色だった。
「まあ、よろしく」
そう言うとすぐにフクロウの姿に戻り、止まり木に落ち着いた。
「世界は広いのね……」
アイリスは感心したとばかりに言葉を呟くと手の中のエイトの髪の毛を指で撫でた。
「悪いなお嬢ちゃん、うちのが」
「いいえ悪いのはエイトだもの、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
二人の謝罪を受け取ったクアットは翼を広げて満足気に「キュア」と鳴いた。
「あと暫くはクアットって呼んでやってくれるか? 初対面の人間は警戒するんだよ」
「わかりました」
「じゃあさっさと日用品詰めちまうな」
「頼んだ」
「お願いします」
手早く日用品を詰めてくれたトゥエに礼を言い三人は店を後にした。
帰り道で夕食を買い家に着いた頃には外は真っ暗になっていた。
「アイリス様」
「なあに」
「作ったポーションはトゥエの雑貨屋で販売してもらえることになったので明日からでも作って構いませんよ」
「カークは仕事ができる男なのね……ますますついて来てもらって良かったわ」
「いえそんな。それとゆくゆくは他の薬も作られるでしょうからそうなったらここで販売しましょう。その為にも明日は商業ギルドに登録に行きましょうね」
「ありがとう、カーク」
アイリスが笑って礼を言えばカークは照れた様子を見せる。それが少し面白くてアイリスとエイトはからかったがすぐにいつもの能面に戻ってしまったので残念だった。
これから新しい生活が始まるのだ。
薬師としての新しい生活が。
3.
それから三の月が経った。
アイリスの朝はポーション作りからはじまる。
まず備え付けの井戸から水を汲み、薬釜に入れる。これを何度か繰り返し薬釜にある程度までいっぱいになったら洗浄の魔法をかける。そして次は蒸留だ。
「蒸留」
不純物を取り除いている光景を眺めながら、アイリスは生活魔法しか使えなかったが薬師の自分にはピッタリの魔法だと思っている。
浮かんできた不純物だけを取り除くために、網目の細かい布で蓋をしている別の薬釜にそれを入れる。
次に蒸留が終わった水に魔法石を入れると魔法石の色が変わる。これは鑑定魔法が使えないアイリスには必須のもので、魔法石の色によって水の純度が分かるのだ。赤なら低級、青なら中級、透明なら上級といった風に変わる。今回は青色に変わったのでこれ以上蒸留をさせる必要はない。
「おはよぉ、アイリス」
寝起きのエイトがアイリスの周りを飛び、頬に擦りつく。
「おはよう、エイト」
アイリスが返事をするとエイトは一つ欠伸を噛み殺す。
「今日はどのポーションを作ってるの?」
「今日は中級よ」
「じゃあ薬草採ってくるねー」
「ありがとうお願いね」
元薬師が住んでいたとあって庭は薬草の宝庫だった。
時には足りない素材が出たりしたが、その時はトゥエの雑貨屋で仕入れたり、新しく庭で育てたりと楽しい日々を過ごしていた。
「おまたせー」
薬草を両手いっぱいに持ってきたエイトが戻ってくる。その薬草たちを受け取りながらどれも朝露に濡れた状態の良いものだと確認する。
エイトは光属性の精霊というのもあり質のいい薬草選びが上手だった。これも精霊の属性による特性なのかしらとアイリスは思っていた。アイリスは精霊のことに詳しくなく、そのことも勉強しないといけないと思っているのだが、件のエイトは「そんなの必要ないよー」とのんびりした様子だった。
「ありがとう」
エイトが持ってきた薬草を受け取ると「乾燥」と魔法をかけ水分を飛ばし薬釜に砕きながら入れる。そして先ほどの色が変わった魔法石と同じ色まで蒸留水が変わったところでもう一度「蒸留」と魔法をかけ、また布で蓋をした薬釜へと中身を流しいれ、不純物を取り除く。あとはこれを瓶に分けて詰めるだけだ。
「エイト、ポーション詰めるの手伝ってくれる?」
「もちろん!」
アイリスが瓶の中にポーションを詰め、蓋をしてから最後の刻印つけをエイトが光魔法で行う。これはいわゆる個人を特定するための印のようなものだ。
十本全て刻印が終わった頃に薬室にカークが顔を出す。
「おはようございます。アイリス様、エイト」
「おはようカーク」
「おはよー」
三人で朝の挨拶を終わらせてカークが出来上がったポーションを見る。
「今日の納品分は終わりましたか?」
「はい」
「おわったよー」
「なら朝ご飯にしましょうか」
その言葉にエイトは「やったー」といち早く食卓へ飛び去る。そんな様子をアイリスとカークは微笑ましく見つめ食卓へと歩いていく。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきまーす!」
今朝のご飯は野菜たっぷりのサンドイッチだ。シャキシャキのレタスと瑞々しいトマトに肉厚のハムが挟まれている。
「アイリス様は今日の用事は納品ですか?」
「うん。終わったら明日の納品の種類次第だけど、冒険者ギルドの薬草採集の依頼でも受けようかなって思っているの」
「ぼくはそれのつきそいー」
むぐむぐとサンドイッチを頬張りながらエイトが会話に入ってくる。
「しっかりと付き添いを頼むぞ、エイト。私はトゥエから野暮用を頼まれてるのでそれに行ってきます」
アイリスは相変わらずの子ども扱いにムッとしながらも野暮用の方に気を取られる。
「野暮用?私もついて行っちゃ」
「危ない野暮用なのでダメです」
「ちぇ」
こういう時のカークは絶対に引かないのでアイリスは早々に諦める。
「代わりに中級ポーションをいくつか持って行くので大丈夫ですよ」
「追加で作ろうか?」
「いえ、納品した時に買っていきます」
「頑固なんだから……」
「じゃあみんなでお店まで一緒だねー」
「そうね。洗い物が終わったらみんなで行きましょうか」
アイリスはエイトの空になったお皿を自分のお皿に重ねるとキッチンに行く為に立ち上がると、それにカークは続いてくる。水場でカークが食器を洗い、洗い終わったものを布巾でアイリスが拭き、食器立てに立てかける。三人分の食器なのですぐに終わってしまい二人は手を拭き出発の準備を整える。
「では行きましょうか」
「はい」
朝露が落ちる中、三人は連れ立ってトゥエの店へと向かった。
「おはようございます」
挨拶をしながら扉を開けるとクアットが「キュア」と返事をし、店の奥からトゥエが出てくる。
「悪いな嬢ちゃん、昨日の今日で」
「いえ、ご依頼いただいて助かります」
これポーションですとアイリスがトゥエへと渡すと、トゥエは「鑑定」と言って魔法をかけ十本全て中級ポーションだということを確認する。
「じゃあ、これ。報酬と明日の依頼のメモ」
「はい! ありがとうございます」
アイリスはトゥエからメモを受け取ると内容を確認する。
低級ポーションを五本と中級ポーションを五本だったので、これであれば明日の朝作るので間に合いそうだ。
「その中から三本購入させてくれ」
二人の会話が終わったのを見計らったカークが言葉を紡ぐ。
「お前……律儀だな」
「頑固者ですものね?」
そんな二人から突っ込まれても「何とでも言ってください」と素知らぬふりをするカークだった。
「じゃあ、また明日」
「おう、よろしくな」
カークもよろしくなと言葉をかけるトゥエに「ああ」とカークは返事をする。
店の前で三人は立ち止まるとまずカークが口を開いた。
「では私はここでお別れです。エイト、アイリス様のことは頼んだぞ」
「りょ~かい!」
相変わらずの子ども扱いにアイリスはカークの腹を殴るがカークはなんともない風だった。
「もう……でも気をつけて行ってきてねカーク」
カークはアイリスの手を取ると膝をつきその手を額につける。
「はい、必ず帰ってきます」
「お願いします」
この仕草は二人が長時間離れる時の決まりのようなものだった。
カークは立ち上がるとにこりと微笑み「いってきます」と言い裏門の方向へと歩いて行った。その姿が見えなくなるまでアイリスは見送るとエイトと共に冒険者ギルドへと向かうのだった。
冒険者ギルドは朝早いというのに中々の賑わいだった。
アイリスは依頼掲示板から薬草採集の依頼を見つけるとその紙をとり、受付へと持って行く。
「おー嬢ちゃんじゃないか」
「おはようございます、ファムさん」
ファムとは冒険者ギルドに初めて来たときに対応してくれた仲で依頼を受けに来るたびに声をかけてくれる。
ファムは依頼文を見ると「これなら嬢ちゃんのランクでも大丈夫だな」と確認をとり受理のハンコを押してくれた。
「気をつけて行ってきてな~」
「ぼくが居るから大丈夫だよー!」
「おっと、そうだったな」
エイトがふわりとファムの前を飛びファムもそれに笑って応える。
「じゃあ行ってきます」
「ほいよ」
二人は連れ立って冒険者ギルドを出るとへと正門の扉へと向かった。
「アイリスじゃないか」
「おはよう、ギルドの依頼かい?」
「はい、薬草採集です」
門番の二人と会話をしながら行先を確認してくれる。
「魔物が出ないエリアだろうけど気をつけてな」
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
扉がギイと音を立てて開きアイリスとエイトは外に出ると外側の門兵にも挨拶を交わして旅立つ。
「えーっと、フォンの花を十本とライラの花の蜜を一瓶……どっちも家の在庫もなくなりそうだったからついでに採って行こうか」
「りょうかーい! あ、早速咲いてるよー!」
ここ、ここ!とエイトが薄桃色の花の上でくるくると回る。この調子でいけば早く終わりそうだとアイリスは腕まくりをして気合を入れる。
太陽が真上に来る頃にはすっかり集めきっていた二人はへとへとになっていた。
折角だからお昼は外で食べて行こうかというアイリスの提案にエイトは「さんせーい!」と大きく声を出す。二人は木陰に座ると朝の残りのサンドイッチを食べ始める。お昼には小さいリンゴがついているのだが、カークも今頃は食べているのだろうかとアイリスは考える。
「ねえ、エイト」
「なにー?」
「精霊契約の時に私の名前を知ってたでしょう? あれはどうしてなの?」
エイトは食べかけのサンドイッチを飲み込むと歯切れ悪く話し始める。
「あー……あれはね、実はずっとぼくアイリスの傍に居たんだあ」
「え!? そうなの」
「うん、本当はそういうのはやっちゃダメなんだけど、アイリスの傍って気持ちよくてずっと一緒だったんだ」
「ずっと……」
「あ、でもでも!星流しの時に綺麗って言ってくれたのが嬉しかったのは本当!だから契約したくなっちゃって……ごめんね」
しょんぼりと顔を伏せてしまったエイトの頭をアイリスは指で撫でる。
「謝ることなんて何もないわ。私もカークも、エイトが居てくれて嬉しいもの」
「本当? なら良かった! あとね、精霊って一生に一度だけその属性の高位魔法が使えるんだ。だから何かあった時は僕がアイリスを守るからね」
「でもそれを使っちゃったらエイトは居なくなっちゃうんでしょう?」
「うーん、居なくなるって言うより力が溜まるまで眠っちゃうの」
「じゃあ使わないわエイトが居なくなる方が嫌だもの」
「えへへ……」
嬉しそうに笑うエイトを見てそんなことは起こらないように薬を色んな種類作っておかなければと思うアイリスだった。
「ご飯も食べたし帰りましょうか」
「うん!」
二人は連れ立って冒険者ギルドへ帰り依頼達成のハンコを押してもらうと幾許かの報酬金を受け取り自宅への帰路を歩くのだった。
時刻は夜半過ぎ、外は夜の帳が下りたというのにカークは帰って来なかった。
今まで朝の報告なしで夜遅く帰って来たことがないカークのことがアイリスは心配で堪らなかった。カークが強いのは知っているがそれでも心配は心配なのだ。
時間を過ごす為に明日の朝作る予定だったポーションも作ってしまったし、フォンの花で作ることの出来る低級の毒消しも作ってしまった。
本当は外に迎えに行きたいがそれをする訳にはいかない。
必ず帰ってくると約束したのだ。大丈夫、カークは約束を破ったことはない。
「ただいま、戻りました……」
「おかえりなさ……カーク! その怪我どうしたの?! ポーションは?!」
心配したのよ、と続くはずだった言葉は傷だらけのカークを見たらすっ飛んでしまい、アイリスはカークに駈け寄る。
「使い果たしまして……面目ない」
アイリスは肩を支えながらソファにカークを座らせ、その顔を見ると真っ青だった。
「ポーション持ってくるから待ってて!」
エイトはカークを見ててね、とアイリスは言葉を残し薬室へ走って行く。
アイリスは薬棚から常備してあった上級ポーションをとり、ぎゅ、とそれを握り締める。
「上級なら大丈夫、大丈夫」
ぱたぱたと急いで戻りカークの目の前に跪き、上級ポーションの蓋を開けてカークの口元へと持って行く。
「カーク、つらいだろうけど飲んで」
三口、飲み込んだのを確認してから身体の傷に残りのポーションを振りかけると、身体の傷はすぐに塞がり朝見送った時の姿と同じになった。
それだというのに、顔色は真っ青なままだった。
「げほっ、おえっ」
カークはびちゃ、と血を吐き、飲み込んだポーションも吐き出してしまう。
「どうして?! 上級が効かないなんて……」
「ヒドラの毒です……げほっ」
「ヒドラの毒……そんな、ヒドラの毒に効く薬はここにはないわ……」
ヒドラの毒を治す為の薬にはヒドラの血が必要だが、都合よくここにはそんなものはなかった。もちろんトゥエの道具屋にも。
カークは手の平で口元を押さえながら言葉を続ける。
「アイリス様、私はここまでのようです」
「いや、いやよ」
アイリスの両目から涙が零れる。
「あとのことはエイトに……エイト?」
「大丈夫だよ二人とも」
エイトは場違いに微笑む。
「ぼくがいるから大丈夫」
「やめろ、エイト……」
「ぼくよりもカークが残ってぼくたちのお姫様を守ってあげなきゃ」
そこでアイリスは昼間話していた言葉を思い出す。
「いや、エイト」
「大丈夫ちょっと長い間眠るだけだから。ぼくのこと忘れないでね」
「エイト!!」
アイリスの叫びではエイトを止めることは出来ない。
ではカークなら止められるのかと言えばそんなことはなかった。エイトが選び、選択したのだ。これが最良だと。
「アイリス、カーク短い間だったけど楽しかったよ! ぼくが居なくなっても泣かないで! ぼくは少し眠るだけだから、また会えるから」
カッと強い光を放ち球体に戻ったエイトはカークの身体に吸い込まれていく。
光がすべて吸い込まれた頃にカークの顔色が戻っていく。
「カーク……」
「アイリス様……」
「もう平気なの……?」
「はい、エイトが魔法を使ってくれたお陰で……」
「そう、そうなのね。よかった……」
アイリスはその瞳から再び涙を流す。
「今日のお昼にね、そういうことが出来るってエイトから聞いたの」
「はい」
「私、エイトのことを見捨てちゃったのね……」
「それは俺も同じです」
アイリスがカークの手に自分の手を重ねる。
「カークは知ってたの?」
「はい、エイトからは口止めされてまして……自分でアイリス様に言うからと」
「そうなの。私本当に何も知らなかったのね」
「力を使い果たした精霊は契約の指輪で眠りにつくと言います。その力が戻った時にまた姿を現すと」
「そう、なら泣いて居られないわね」
「私も落ち込んでいられませんね」
「二人で頑張りましょう、カーク」
「はい」
ぎゅう、と重ねていた手にアイリスは力を入れると、それに返すようにカークが力をこめる。
その翌日、事態を聞いたトゥエに謝られたが二人は怒りはしなかった。二人もトゥエと同じなのだ。もっと薬があれば、用心していれば。そう思わずに居られなかった。
「アイリス」
クアットがアイリスの名前を呼ぶ。
「明日から私の力を少しずつその指輪に込めてやる。少しはエイトの力が復活するのが早くなるだろう」
「……ありがとう!」
4.
それから一年が経った。
今もトゥエの店には初級と中級のポーションを卸しているが、アイリスは自分の店を開いた。
世の中にある薬は全て揃う店と言っても過言ではない種類の薬を扱っているのは、あの日のことがきっかけだった。
そしてカークは相変わらずアイリスの傍に居り、材料の入手を代わりに行ったり、家事全般を行っていた。
「カーク、今日の納品も着いてくるの?」
「はい」
「そろそろ一人でもいいんだけど……」
「いえ、目を離すと何をするか分からないので」
「ちょっと!」
朝の仕事の洗い物をしながらアイリスは隣に立つカークを肘でつつく。「危ないですよ」と避けながらカークは笑うのでアイリスも笑う。
「ふふ」
「さあ行きましょうか」
「ええ」
カゴに入れたポーションを持ち二人は自宅を後にする。
「おはようございますトゥエさん」
「おはようさん嬢ちゃん」
「これ今日の分です。明日も同じで良いですか?」
「おう、それで頼む」
トゥエが依頼書をアイリスに渡しそれを受け取る。
このやり取りも慣れたものになった。
それが終われば次はクアットの番だ。
「クアットさん今日もお願いします」
「ああ」
フクロウの姿のままクアットは額をアイリスの指輪につけると魔力を流していく。数分間それを続けると額を離し「終わりだ」と言う。
アイリスはそんなクアットに「ありがとう」と言うと指輪を眺めた。
「早く会いたいな、エイト」
アイリスがそう言ったその瞬間、指輪の石が煌めき強い光が周囲に満ちる。
「おはよう、アイリス」
光の中から現れたのは紛れもないエイトだった。あの日、消えた姿のままのエイトだった。
アイリスは言葉が出なかった。
キラキラと煌めく半透明の羽、小さな手、その小さな手でアイリスの指輪に触れる。
「本当に、エイトなの?」
「そうだよー!もしかして……忘れちゃった?」
少し悲しそうな顔をするエイトにアイリスは顔を左右に振る。
「そんなことない!ただ、信じられなくて嬉しくて……」
ポロ、とアイリスの瞳から涙が流れる。
「泣かないでって言ったのに」
「これは、嬉し涙だからいいの」
アイリスはそう言いながら流れる涙を手で拭う。
「クアットのお陰で予想より早く生まれ直せたんだ、ありがとう」
「そうなの?ありがとうクアット」
「相方を失うツラさは知ってるからな」
そうして恥ずかしそうに、クアットはトゥエの元に飛んでいく。
「帰りましょうかアイリス様、エイト」
「ええ帰りましょう」
「三人の家に!」
――ここは教王国ブラット。
聖女を国の守り人として戴く国の一つだ。
この国では各代ごとにその聖女にあった二つ名がつけられるのだが、当代の聖女は薬作りが得意なため薬師の聖女様と呼ばれ民と国から愛され、聖女自身もそんな民と国を愛していた。
そして聖女の手から作られる薬は住民たちに重宝された。
「蒸留」
王城の敷地内である聖堂に造られた大きな薬室では今日も民たちに卸す為のポーションが作られていた。元々、ポーションは町の道具屋で購入することができるのだが聖女が作るものと明らかに効果が違った。その為道具屋は皮肉交じりに「商売があがったりだ」とボヤいたものだったが、聖女が作るのは傷を治すだけのポーションだったので他の薬を売れる道具屋たちは反発せず、なんならこぞって聖女印のポーションを卸してくれと頼む程だった。
実際の所、聖女はポーション以外の薬も作れてしまうのだがそれを明らかにしてしまったら民たちの生活がままならなくなってしまう、という聖女の発言から公表されないことになったのだ。
さて、そんな建物の一室では今日も薬、ポーション作りに精を出している人物がいる。
彼女の名前はアイリス。当代の聖女で薬師の聖女と呼ばれる存在だ。年齢は十六歳、美しい白銀の髪を腰まで伸ばし、空色の瞳をしている。
「釜の中にいれて、色が変わったらもう一度蒸留!」
アイリスの目の前にある釜に蒸留したポーションを入れると、手を翳し蒸留の呪文を唱える。そうすると釜の中でふつふつとしていた液体がピタリと動きを止めて色が透明に変わるのだ。ポーションは色が薄いものほど純度が高く効果も高い、反面色が濃くなるほどに純度が悪く効果も低い。
アイリスは瓶の中身を大きな匙で掬うと小瓶に同僚ずつ流し込んでいく。そしてコルク栓をしたら聖女の印を紙に印刷したものを瓶に貼り付け完成だ。
アイリス自身には王国を護る力はなかったが、ありがたいことに王国の周囲は平和であり、また隣国との関係も良好だった為問題はなかった。
平和で、優しい世界だった。
そして、それは誰もが変わらないものだと思っていたと言うのに、ある日突然変わってしまったのだ。
原因はたった一人の少女。その少女は一の月の早朝、聖堂に突如現れたのだ。
少女の名前は馬場友梨奈、黒い髪を腰まで伸ばした姿で年の頃はアイリスの一つ上だった。
異世界から少女が現れることはこの世界では度々あることで、王国としての対応も決まっていた。鑑定魔法を行い身体に異常がないかを調べ魔法の適性を調べる。そうして学校や冒険者協会、各種ある仕事場など希望する場所へ連れて行かれる。
この少女も今までと同じように鑑定され希望する場所へ連れて行かれる予定だったのだが、魔法適性で聖魔法の適性が出てしまったのだ。
それ自体が悪い訳ではなかったが、友梨奈が希望した移動場所が聖堂だった。
「よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げた友梨奈は聖魔法に適性があったことを驕っている様子もなく「なんでもやります」と勢いよくアイリスに言っていた。
「よ、よろしくね」
そんな友梨奈に気圧されながらもアイリスは友梨奈のことを受け入れていた。
友梨奈のステータスに記された能力はアイリスより強く、アイリスが使うことが出来ない聖魔法が使える。
だからといって国民たちがアイリスを責めることもなく二人も聖女が居ることに喜ぶほどだった。
だからこそ一番の力不足を感じたのはアイリス自身だった。
その日からアイリスは誰よりも早く聖堂に現れ、誰よりも多く薬を作った。
最初の内はそれでも良かったが、半年ほど続けていたある日アイリスは倒れてしまった。
過労だった。こればかりは薬でも聖魔法でも治すことは出来ず療養が一番の薬だと医者から言われてしまい、アイリスは嘆いた。
「どうして」
その言葉に答えられる人は一人もいなかった。ただ皆はそれでも動こうとするアイリスに休むことを促すのだった。
そんなアイリスに声をかける人物が二人居た。
一人は従者であるカーク、もう一人は友梨奈だった。
カークは「今は休みましょう」と諭すように言い、友梨奈はいつもの調子で「アイリスさんが居ない間は私が頑張ります! 任せて下さい!」と元気よく言っていた。
友梨奈の言葉はなぜかアイリスの気持ちを重くするだけだったが、それを表に出さず(出す理由もなかったので)アイリスは笑顔で「よろしくね」と言うだけだった。
それから三の月ほどゆっくりと養生を過ごしたアイリスは久しぶりに聖堂へ顔を出すことにした。勿論仕事をしないことを医者からしっかりと言い含められた上に従者からも言い含められた、のだった。そこまで信用がないのだろうかとアイリスは不思議に思ったが、久しぶりに聖堂の空気が味わえるのだ。些細なことは捨て置こうと、従者であるカークを連れて聖堂へ向かった。
短い距離だと言うのに少し息が上がってしまったアイリスを見てカークは「おぶりましょうか」なんて冗談を言っていたが丁重に断り、ゆっくりと歩きながらようやく聖堂へと辿り着いた。
聖堂の入口の扉を開け神体の前に膝をつき、アイリスは祈りを捧げる。久方振りに神体に祈りを捧げられたことでアイリスの心は少しばかり穏やかになった。その時、薬室から歓声が上がった。なにごとかとアイリスは薬室へと向かって歩き始めるがカークがそれを止める。しかしアイリスから「おねがい、少しだけにするから」と言ってしまえばカークは断れないのだ。二人が連れ立って薬室を覗き込めばそこには友梨奈を囲んで喜びの声を上げる修道女達が居た。
「あ、アイリス様!」
友梨奈がいち早くアイリスが来たことに気が付く。
「見て下さい! これ!」
友梨奈が差し出したのは薬瓶で中身はポーションのようだった。それにしては薬釜を使った形跡がなくアイリスは首を傾げた。
「純度の高い水に聖魔法をかけたらポーションも作れたんです! アイリス様には及びませんがこれでもっとお手伝いが出来ます!」
にこりと嬉しそうに笑う友梨奈にアイリスは言葉を返す。友梨奈の後ろに立っている修道女たちも嬉しそうに微笑んでいる。微笑んでいる?なぜ?ああ、そうか私の負担が少なくなるから。
「そう、なの。すごいわ友梨奈」
この時、アイリスは本当に笑えていたか自信がない。
なぜならアイリスの脳内にあった思いは私には薬を作るしか能がないのにそれさえも奪ってしまうのと、いった考えが支配していたからだ。こんなことを考えてしまった自分が嫌で堪らなかった。それも純粋にこちらを慕い嬉しそうに笑う彼女にだ。だからこそ笑えているか不安だった。きっと笑みは少しだけ引き攣っていただろう。
「友梨奈、私そろそろ戻るわね。ここに居るとお薬作りたくなっちゃうから」
ふふ、と笑いながらそうアイリスが言えば友梨奈がハッと表情を変える。
「すみません! そうでした!」
ぺこぺこと頭を下げる友梨奈の頭を撫で、アイリスは聖堂をあとにした。自室へと向かう間、アイリスとカークの間に言葉はなかった。アイリスはそれでよかった。いや、それがよかった。下手な言葉でもかけられていたら自分の思いを吐露してしまっただろうから。自室へ辿り着き、アイリスが「じゃあ」と言葉を発した時にカークが「大丈夫ですか」と言葉をかけてきた。
大丈夫か、どれのことだろうか。今の体調なのか、先程の聖魔法の可能性を見せられたことか、それともそれを羨んでいるアイリス自身のことか。とりあえずは「なんのこと」と答え「体調なら大丈夫よ」と答え自室へ入りベッドに横になった。
数分ほどそうしていてから身体を起こすと、棚の上にある木彫りの神体を手に持った。それから両手でぎゅ、と握りしめてから「神様、皆をお守りください」と呟いた。
この木彫りの神体は生まれながらに聖女(この国では生まれて直ぐに職業適性の鑑定を受けるのだ。もちろんその職業に就くものも居れば就かない者もいる訳だがアイリスの聖女という職業は別だった)として聖堂で過ごしていたアイリスが五つの誕生日に身の回りの世話から礼儀礼節、この国の歴史の勉強や聖女としての在り方を教えていてくれていた司教からもらったものだった。素朴ながらも手触りの良いそれを子どもだったアイリスは気に入りそれ以来ずっとお守りとして部屋に置いてある。
それから更に三の月が経った。
この頃にはもうほぼ快癒という調子でアイリスの表情も明るくなっていた。そんなアイリスから国王に謁見の申し入れがあった。その場には司教も同席して欲しいと告げ足して。
謁見は異例の速さですぐに認められてアイリスとカークが王の間へとやってきた。謁見の場は静まり返っておりどこかピリ、とした緊張感が漂っている。
アイリスが膝をつき頭を下げると、その一歩後ろにカークは膝をつき頭を下げ王から声がかかるのを待つ。
「面を上げよ」
王の低い声色で許可が出たので二人は頭を上げると、王の瞳を見つめる。
「久しいなアイリス。もう体調はいいのか?」
「はい、おかげさまで大分よくなりました」
「そうか。そなたが倒れたと聞いた時は心配したものだったが……見舞いにも行けずにすまなかったな」
「いえ、謝らないで下さい。そのお心だけで十分ですわ」
「そうか……」
王はアイリスのその返答に少し悲しそうな表情を滲ませ、王の傍に立つ司教は仕方ないなと言った風に片目を閉じ王へ合図を送った。
「それで、今日は何の用なのだ?」
王から用件を切り出される。その場にいる全員の視線がアイリスへと注がれていた。アイリスはそれに「はい」と答えたあと、一つ息を吐いてから言葉を紡ぐ。
「聖女の名をお返ししたく思いこの場を設けて頂きました」
「なぜか聞いても良いか」
王と司教は僅かに動揺の表情を浮かべるがアイリスは変わった様子はない。
「体調をまた崩す恐れがあるのと、友梨奈の成長が著しいからです」
「ふむ……あの少女の出来は余も聞いておる」
そこで王が司教へと視線を向ければ司教が口を開く。
「そうですね、アイリス様と同等と言って良いくらいには成長しております。ですがアイリス」
司教はアイリスに向き直り瞳をジ、と見つめる。
「本当にそれだけなのですか?」
「はい。それだけです」
「ふむ……」
王は一つ溜め息を吐くとアイリスを見やる。その表情はにこやかで他に何か理由があったとしても明かそうとはしないと強い意志を感じた。
「わかった。そなたには生まれた頃からこの国を豊かにしてくれていた。もちろんポーションやそれ以外の薬を作れるようになってからも。そなたが誰よりも働いていてくれたのはここに居る者だけではない。国民皆が知っておる」
「ありがとうございます」
「この国には留まるのか?」
「いえ、隣国の帝国に行こうかと」
「なら資金と旅の道具が必要だな。すべて準備しよう。それと付き人が必要だが」
「あの」
そこで声を上げたのはカークだった。カークは右手を上げ発言の許可を王へと求める。
「発言を許す、申してみよ」
「私をこのままアイリス様の従者として帝国まで同行させてください」
「そのあとはどうするつもりだ」
「アイリス様がお許しになるならその後もお傍に居たいと思っております」
「わかったそれも許可しよう。必ず連絡をするように」
王は快く受け入れると一言「寂しくなるな」と呟きそれに司教が「ええ」と答える。
「お前のことは生まれた時から知っておるからな、娘のようなものだ」
「はい……至らぬ娘ですみません」
「そんなことは言っておらん、ただ寂しくなるだけだと言ったのだ。健やかに過ごすように。そして出来れば手紙を出して欲しい」
何かあったら直ぐにでも帰って来いと言った王の瞳は慈愛に満ちており、アイリスは「はい」としか答えられなかった。
そこで旅の道具一式と通貨の準備が済んだと兵士が言い王と司教との会話は終わった。
自室の荷物を纏めに戻る途中、アイリスはカークへと話しかけた。
「カーク、どうしてあんなこと言ったの」
「あんなこととは」
二人はアイリスの自室へと向かう廊下を歩いている最中だった。カークはとぼけた様に答えるがアイリスがジトりと見詰めれば仕方ないとでも言うように溜め息を一つ吐いた。
「もう、わかってるでしょう。ついて来なくても冒険者を雇えばよかったのよ?」
「私がアイリス様から離れたくなかっただけです」
「まだ恩が返しきってないとでも言うの?」
「はい」
カークは元々騎士団に所属する人物だった。栗の皮のような髪色に夏の新緑を思わせる瞳に涼し気な顔立ち。修道女や貴族のお嬢様からの人気はアイリスの耳にも届いていた。そんな彼がアイリスの従者になったのには理由があった。
三年前、獣魔(獣魔とは獣たちに魔素という悪い物質が溜まり狂暴化した存在である)が大量発生したのだがその討伐に出ていたのが騎士団だった。勿論騎士団全員が出ていた訳ではなかったのだが、カークは自身で申し出て討伐に参加していた。その獣魔との戦闘で獣魔を倒したものの大怪我をしたカークをアイリスのポーションが救ったのだ。その怪我はポーションがなければ腕を切断しなければいけないほどで、王族騎士を目指していたカークにとっては一大事だった。その後、カークは王族騎士となった訳だが、それを押し退けてアイリスの従者になりたいと発言したのだ。これには騎士団の面々や王までもが驚いたが、平和だからと言って護衛もつけずにふらふらさせているのは如何なものかというカークからの脅しともとれる助言に王が承諾し、カークはその日から晴れてアイリスの従者――騎士となったのだ。
「私はもうじゅうっっぶんに返してもらったと思うけど」
「いいえ、まだまだです」
カークは笑いながらそう言うと兵士が用意した旅の用品が入ったリュックを背負いなおし「では三十分後に聖堂の前で」と言葉を続け、それにアイリスも頷いた。いつの間にか自室に辿りついていたようだ。
持って行くものは少ないが、なんだかんだと準備はある。
「ふふ、懐かしい」
アイリスは小物を鞄に詰め、司教からもらった神体もハンカチで包みながら鞄に詰めると思い出に浸っていた。帝国は多神教だ、この神体を持っていてもおかしなことはない。
生まれた時から聖女になると決められていたアイリスは穏やかに人生を過ごしてきた。薬を作ることしか出来なかったが、それも楽しかった。魔法は適性が低く、生活魔法しか使うことが出来なかったが生活魔法の一つである洗浄で水の純度を高めることが出来、それが純度の高いポーション作りにいい影響を与えたのだ。その方法を思いついた時は本当に嬉しかった。これでもっと人を助けることが出来ると、本当に、そう思ったのだ。
「ここともお別れね」
肩さげバッグに荷物を入れ終わったアイリスは部屋をくるりと見回してから「ありがとう」と呟いた。そうして待ち合わせ場所である聖堂へと向かったのだった。
「お待たせ」
先に来ていたカークにアイリスがそう言えば「来ないかと思いました」とカークが開口一番言ったので肩を一殴りするだけで許したのだったが、最後にお祈りをしてくるとアイリスが言えばカークは「はい」と言うのだ。本当によくできた従者だとアイリスは思う。
聖堂に入り数分ほど祈りを捧げ立ち上がると、そこには先程まで一緒だった司教と涙顔の友梨奈が居た。会いたくなかった訳ではないが、バレない内に行く予定だったのでしまったとアイリスは思う。
「司教様」
「アイリス、あなたにはたくさんの人を救ってもらいましたね」
「いえ、私なんか」
「いいえ、誇って下さい。あなたの手で作った薬は命や傷を癒し、あなたの存在は民を救ったのだから。王もそう仰っていたでしょう」
「はい、はい……司教様」
アイリスの視界が涙で滲む。司教様も見ていてくれたのだと改めて思った。
「アイリス様ぁ、この国から出て行っちゃうって」
もう既に涙で顔面がぐしゃぐしゃになっている友梨奈を見ると思わず笑みが零れた。
「ええ、あなた一人に聖女の仕事を押しつけるみたいになっちゃったけれど許して頂戴ね」
「そんなことありませんっ、アイリス、様には本当に優しくしてくれて……うぅ」
「行くのは隣の国だからいつか会えるかもしれないわよ」
アイリスが困り顔でそう言えば友梨奈の表情がパッと明るくなる。
「本当ですか……?」
「ええ、だから泣かないで。ここの人たちをお願いね」
「はい、頑張ります」
「ほどほどに、ね? ほら泣かないで」
アイリスの指が友梨奈の涙を掬う。
そこから数分泣き続ける友梨奈を慰め、改めて二人にアイリスとカークは別れを告げると、二人は歩き出した。
「そう言えば帝国まではどれくらいかかるのかしら」
「馬車ですと2日あれば」
「じゃあ、荷馬車を借りなきゃね」
「もう準備済です」
手際の良いカークにアイリスは驚くと「ありがとう」と言ってから「そう言えば」と続ける。
「私、荷馬車の扱いなんてしたことなかったわ」
「私が出来ますので心配いりません」
その言葉にアイリスは驚いたように目を見開くとポツリと言葉を漏らす。
「……カークについてきてもらって良かったかもしれないわね」
「ふふ」
そうして荷馬車の場所まで行きアイリスはキャビンへと乗り込み、カークは馬の手綱を握り二人の旅路が始まるのだった。
2.
ガタゴトと荷馬車は進んで行く。
アイリスはいつの間にかねむってしまっていた。
カークはそんなアイリスを起こすことなくひたすら荷馬車を走らせる。
出来れば早く新しい場所へ連れて行ってあげたかった。
馬場友梨奈という少女が現れてから、アイリスは目に見えて焦っていた。聖魔法を使えないということが彼女の重荷となりポーションを作ることで自分の自我を保っていたのだろう。過労で倒れてからはますます落ち込んでしまっていたが、三の月も経てば笑顔が戻るようになっていた。それなのにあの聖魔法だ。純度の高い水に聖魔法をかけたらポーションになっただと。そんなふざけた話があるか。
あの話を聞いた時のアイリスは見て居られなかった。
自分の居場所を盗られてしまったのだと思ってもおかしくない。ただ、それは自分勝手な物言いだからこそ言わなかったのだろう。友梨奈自身もアイリスの手伝いが出来る一心で研究を重ねたのだろうが、素直さは時に人を傷付けてしまう。
「ん~……」
「おはおうございます、アイリス様」
「おはよ……」
まだ眠気と戦いつつあるアイリスにカークは声をかける。
本調子ではないアイリスを連れての旅は早々に終わらせてあげたいが、馬も休ませなければならない。陽が沈み切る前に一度休憩をとるかとカークは荷馬車を止める。
「アイリス様、一度休憩にしましょう」
「はい」
荷馬車からぴょんと飛び降りたアイリスは身体を伸ばした。
隣国までの道はありがたいことに整備されており治安も良い。
このままいけば明日の昼には到着するだろう。
「ねえ、カーク」
「なんでしょう」
焚火の準備をするカークにアイリスは話し掛ける。
「本当について来てくれるの?」
「アイリス様が嫌でしたらやめておきますが……」
「ううん、そんなことはないんだけど。本当にいいのか確かめたかっただけ」
「そうですか」
なら良かったです、とカークは言うと出国する前に買っておいたライ麦パンをアイリスに差し出す。アイリスはそれを受け取ると地面に座りぱくりとかぶりつく。
「アイリス様こそ良かったんですか」
「なにが」
同じくライ麦パンを頬張りながらカークがアイリスに向かって言う。
「友梨奈様のことです」
その言葉にアイリスはなにそれと小さく呟く。
「俺しかいないので言いたいことは言ってもいいんですよ」
「……」
「……」
パチンと焚火の木が爆ぜる。
どちらも無言のまま少しの時間が流れてからアイリスが一つ溜め息を吐いた。
「友梨奈ってね、とてもいい子なの。明るくて優しくて、私の手伝いをよくしてくれていたの。でもね、私はそれが嫌だったの。私の居場所をとらないでって子どもみたいな感情を抱いてね、そんな自分も嫌だった。」
アイリスの視界がじわりと滲む。
「馬鹿馬鹿しいでしょう? そんなことで何も変わりもしないのに。その結果が過労で倒れちゃってさ。そしたら今度はポーション作りまで出来るようになっちゃうなんて。私の居場所あそこに無くなっちゃった。」
ぼろぼろと涙がアイリスの頬を伝い落ちる。
居場所がないなんてことはない、そう言いたかったが言うまでもなくアイリス自身も分かっているだろう。
「もっと自信があって人を妬むような人間じゃなければよかったのにって自分勝手に思っちゃった」
涙をぐい、と指先で拭うとアイリスは再びライ麦パンにかぶりつく。もぐもぐと咀嚼をしてからごくりと飲み込み、はあ、ともう一度溜め息を吐いた。
「友梨奈のことが嫌いな訳じゃないの、ただあそこで働くのに疲れちゃっただけ」
「そうでしたか」
「王様や司教様と離れてしまうのは寂しいけれどこのままじゃだめだと思ったの」
「はい」
「誰にも言わないでおこうと思ったのに、もう」
「口に出したいことは出していいんですよ。我慢のし過ぎはそれが澱になって心に積もってしまいますから」
「そうね、ありがとうカーク」
「いえ出過ぎた真似でした」
カークはコップに固形スープの素とお湯を注ぐとそれをアイリスへと差し出す。
アイリスは「ありがとう」と言ってから受け取るとゆっくりとスープを飲む。
「……」
「……」
「……よし! 過去は振り返らないわ。カーク、私もっと強くなるから見ていてね」
アイリスは横にコップを置いて両頬を思い切りバチンと叩いた。
「はい、アイリス様」
そんなアイリスを笑いながら見つめるカークは優しい眼差しをしていた。
夜通し馬車を走らせるためにカークが仮眠をとっている中、一人アイリスは火の番をしていた。カークが眠りに行く前にどこかにふらふら行っちゃだめですよと子どもに言い聞かせるように言うので頬を抓っておいた。
ぱちぱちと火花が散る音だけが周囲に響く。
一人でこんなにも時間を過ごすのは初めてかもしれない。今までは誰かしらが傍に居た。というより、友梨奈が来てからはずっと友梨奈と一緒だった。悪い子ではなかったのだ、本当に。カークに言った言葉に一つも嘘はなかった。それでもあそこから、生まれた時から居るあの場所から離れたくなってしまった。
きっと自分一人では上手くいかなかっただろうからカークについて来てもらって良かったと、そう思う。カークはまだまだ恩があると言うけれど、恩があるのはアイリスの方だった。この旅についてきてくれたことも、教王国で一緒にいてくれたことも。
ごろんとアイリスは仰向けに転がる。
夜空には星々が瞬いて、輝いていた。流れ星が流れるのを思わず「きれい」と呟いたアイリスの目の前で光が弾けた。チカチカと光り輝くそれは光の塊でアイリスの目の前に浮かんでいる。
「なに、これ」
「ねえ、ぼくのこと綺麗って言った?」
驚いたことにその球体は話し始めた。
「あなた、あの星なの?」
「うーん少し違う。ぼくは光の精霊だよ。今日の流れ星は僕が担当だったんだ!」
「そうなの……」
「そしたらきみが綺麗って言ってくれたから嬉しくて出てきちゃった!」
えへへと笑う球体はくるくるとアイリスの目の前で回る。アイリスは身体を起こすと手の平を球体へと向ける。
「私はアイリス、今は寝ているけれどカークという人と一緒に旅をしているの」
「へえ、おもしろそうだね。ぼくもついて行ってもいい?」
「それは勿論いいけれど……」
「やったぁ!」
そう球体が言うと一段と強く輝きアイリスの差し出していた手の平に指輪を落とす。
「その指輪があればぼくのこといつでも呼び出せるから!」
まだ仕事が残ってるからまたあとでくるね、と元気よく飛び去った球体と残された指輪。その指輪を左手の人差し指に嵌めるとぶかぶかだった指輪がしゅるりと巻きつき丁度ピッタリのサイズになる。
「アイリス様!? 今の光は!?」
慌てて出て来たカークにぽかんとした表情を見せるアイリス。
「それが私にもわからなくて……とりあえず精霊のお友達が出来たみたい」
その言葉に「はい?」と言うカーク。
「まさか精霊と契約するとは……」
翌朝、荷馬車を走らせながらカークがそんなことを呟く。背中合わせになるように座ったアイリスは「知らなかったんですもの」と言う。
昨夜はあのあと怪我がないことをカークに確認されてから続きは朝にしましょうと言われたのだ。
「でもこの子名前は何ていうのかしら」
「精霊の名づけは契約時に行うものですからギルドで行う必要がありますね」
「ギルド?」
「はい、冒険者ギルドです」
「そうなんだ……そういえば、今から行く国ってどんなところなの?」
「アイリス様……」
「適当に隣国って言ったのバレちゃった」
「隣国は帝国ルリアーナと言って多神教を認めていますが精霊信仰の人物が多い国です。自然豊かで治安もいいそうです」
「そうなんだ……」
「ですから街にも精霊がやってきたりするらしいですよ」
「じゃあ他の精霊ともお友達になれるかもしれないのね」
「アイリス様……」
「あ! あれそうじゃない!」
アイリスが指差した先には帝国ルリアーナの外壁があった。
荷馬車が門の前で止まる。
門の前には衛兵が二人立っており入国の審査をしていた。
「入国希望者か?」
「ああ二人だ」
カークの二人、という言葉にアイリスがひょこりと顔を出す。
「うん、確かに二人だな」
「荷馬車を置きたいんだがどこか置き場はあるか?」
「一時滞在なら冒険者ギルドで永住希望なら役所で手続きだな」
「じゃあ冒険者ギルドの場所を教えてもらっていいか?」
「ここをまっすぐ行って右手側だ、すぐつくよ」
「ありがとう」
「念の為鑑定球に触れてくれるか?」
「ああ」
鑑定球とは犯罪歴がないかを確認する球で入国審査の際に使われるものだ。
まずはカークが触れ、次にアイリスが触れる。
「よしふたりとも問題ないな」
「ようこそ帝国ルリアーナへ!」
二人の門番がそう言うと大きな門扉が開いていく。
荷馬車を走らせていると門番が言っていた通りすぐに冒険者ギルドへ辿り着いた。
「アイリス様ついでに精霊との契約とギルドカードを作っておきましょう」
「はい」
アイリスがキャビンから降りながら返事をしつつカークの顔を眺める。
「どうしました?」
「いや、カークってなんでも知ってるなって」
「ああ、知り合いがこの国に居るんですよ。それで色々と手伝ってるうちにこの街のことに詳しくなって」
もちろん騎士になる前の話ですが、とカークは告げ足す。
「さあ行きましょう」
「うん」
先頭を歩くカークに続いてアイリスは冒険者ギルドの中に入っていく。
冒険者ギルドの中は賑わっており真新しい場所にアイリスはきょろきょろと周囲を見て回る。
「アイリス様」
「あ、」
いつの間にかカークと離れてしまったアイリスにカークが声をかける。
「ごめんなさい初めてだから珍しくて」
「その内にすぐになれますよ」
すぐになれるってどういうことだろうかと疑問に思いつつも、受付があいたので話は続くことはなかった。
「精霊の契約と荷馬車の預かりをお願いしたいんだが」
「はいよー。精霊の契約は兄さんかい? それともお嬢さん?」
「私です」
軽薄そうなひげ面の男性が魔法陣のかかれた紙を取り出し、アイリスの目の前に置く。
「髪の毛を一本抜いて魔法陣の上に置いてくれるか?」
「はい」
プツと一本髪の毛を抜いたアイリスは言われるがまま魔法陣の上に置く。
「じゃあ指輪をかざして」
「はい」
その瞬間、昨日見た光と同じくらいの明るさの光が灯り魔法陣の上に光の球体が現れる。
「やっとよんでくれたー! 待ってたよ!」
「そうなの? ごめんなさいね」
球体と会話をする二人を置いて男性とカークは驚いた顔をする。
それに気付いたアイリスが「どうしたの?」と聞くので二人は平静を取り戻す。
「いえ、会話が出来るのは珍しいので驚いただけです」
「そうそう、驚いちまった。じゃあ次は名づけだな」
「エイトでもいいかしら」
「いいよー! ぼくは今日からエイト! よろしくねアイリス」
「え、私の名前」
アイリスの言葉の途中でエイトは光り輝くと、一段と強く輝き光が止んだ中から背中に半透明の羽をつけた小さな、アイリスの手に乗りそうな大きさの少年が出てくる。
精霊に雌雄があるかは分からないがパッと見は男の子のようだった。
「よろしく!」
アイリスの指輪にすり、と頬を擦りつけるとふわりと空を浮かび始めた。
「お嬢ちゃん、アイリスだったか? ギルドカードも作るんだろう?」
「はい」
「了解だあ。じゃあちゃちゃっとやっちまうからな」
そう言うと男性は銀色のタグを魔法陣の上に置き「記憶」と言った。
どうやら残った魔力をタグに入れたらしい。
「ほい、お待たせ。失くさないように首から掛けとくのをおすすめだがどうする?」
「お願いします」
「了解だ」
そう言うとタグを革ひもに通しネックレスにしてくれたのだった。アイリスはそれに「ありがとう」とお礼を言うと首からぶら下げた。エイトが「似合ってる」と言いながらアイリスの周囲を飛ぶのでアイリスは満更でもない気持ちになった。
「では次は役所に行きましょうか」
「役所はすぐ隣だぜぇ」
「ありがとうございます」
親切な男性からの申し出にアイリスは礼を言うと「縁は作っとくもんだからな」と男が言うので「?」と頭に疑問符を浮かべるがカークが「行きますよ」と言ったので会話は終わってしまった。
男性が言った通り役所は隣にあった。
「家を買おうと思うのですがどうでしょう?」
「いいと思うわ、あのできれば」
アイリスが申し出にくそうにしているとカークは笑いながら言葉を続ける。
「ポーションが作れる施設がある方が良いですよね」
「はい!」
そのアイリスの笑顔を見てカークは良かったと思った。彼女にとってポーション作りは嫌なものではないのだ。今も大切で重要なことなのだと。
「では妥協はしない方向で行きましょう」
「頼もしいわ」
「ほんとだねー」
アイリスとエイトが頷き合っているのを微笑ましいものを見る眼差しでカークは見ると「さあ行きますよ」と役所へ連れ立って入っていくのだった。
役所の入口で住居の購入についてはどうすればいいかと聞いたところ、九番の窓口へ行ってくださいと言われたので三人は窓口まで歩いて行った。幸運なことに窓口は空いておりすぐに三人の順番となった。
「どんな物件をお探しでしょうか」
受け付けてくれた女性がそう言うのでダメもとでカークは意見を発する。
「永住希望で薬師の設備が作れるような住居はありますか?」
「ちょうどいいのがありますよ」
「え」
あると思ってなかったので肩透かしをくらった感覚になり、肩ひじをはっていたアイリスの肩から力が抜ける。
「最近薬師の方が廃業しましてそこが住居兼施設もあるんです」
「わあ」
「やったねー」
アイリスとエイトが小声で会話を交わす。
「ではこれから下見に行きましょうか」
と役所の女性に言われ四人は連れ立って目的の場所へと歩いていくのだった。
役所の女性が案内してくれた場所は大通りに面した家屋で、部屋数も申し分なく、設備の状態も良かったので即決で購入することに決めた。
「ありがとうございます」
「いえこちらこそ助かります」
家の鍵を受け取りながらアイリスが礼を告げれば、受付の女性が助かりますと言う。なぜだろうかと小首を傾げながらそのままの思いを口から出せば女性はにこりと微笑む。
「え?」
「薬師の方がいらっしゃるのはありがたいことですので。それでは細かな書類はまた郵送します」
では失礼しますと立ち去った女性を三人で見送ってからふうとアイリスとカークの二人は一息吐いた。
「アイリス様お疲れだと思うんですが一緒に来て頂きたいところがあるんです」
「大丈夫! でもどこに行くの?」
「日用品の買い足しに行こうと思いまして」
「雑貨屋!」
「そうです」
「行きたい!」
エイトは興味が無さそうに飛んでいるがアイリスが喜んでいるのが嬉しいらしくにこにことしている。
「じゃあもう少しお付き合いお願いします」
「はい」
三人は持っていた荷物を一先ず家の中に入れると、家の戸締りをしてから目的の雑貨屋へと足を進めるのだった。
雑貨屋は大通りに面した場所にあり、購入した家屋から近かった。
カークを先頭に雑貨屋に入るとドアベルがカランと鳴った。店内は幻想的な雰囲気で日用品から簡単な装備品まで置いてあるようだった。いくつものランプがぶら下がった店内は薄明りだったがそれがまた幻想的な雰囲気を醸し出していたのだ。
「キュア!」
と入口近くに居たフクロウが大きな声を上げる。
「あーはいはいなんだクー? お客か?」
店の奥から出て来た人物は筋肉質で短髪の男性だった。
「相変わらずだなトゥエ」
「カーク! なんだどうしたんだよ姫さんに一生ついてくって言ってたのに」
「あー……」
ちらりとカークが後ろを振り返るとアイリスが不思議そうな顔をしていた。
「姫さんて私のこと?」
カークの隣にやってきたアイリスにトゥエは「アンタがアイリスさんかい?」と聞きそれにアイリスが「はい」と答える。それに頭を抱えたくなったカークは「そんなことより!」と大きな声を出した。
「日用品を用立ててくれないか?」
「おお、そりゃいいけどよ」
「じゃあ私はお店の中見ててもいい?」
「はい、変な物には触っちゃだめですよ」
相変わらずの子ども扱いにデコピンをカークにお見舞いするアイリス。
まったく子ども扱いしてと怒るアイリスとカークの気持ちが何かわかる気がするが口には出さないエイトだった。
「それで? どうしたんだよ」
トゥエの言葉にカークは歯切れの悪い返事をする。
「色々あってな、この街で薬師をやられることになったんだ。それで慣れるまではその薬をお前の店で販売できないかと思ってな。恐らくゆくゆくは店舗で販売することになると思う」
「こっちとしちゃ構わないけどよ……まあなんかあれば力になるから言ってくれよ」
「ありがとう、助かる」
にこりと笑ったカークにトゥエも明るく笑顔を返す。
「食べちゃだめよ! フクロウさん!」
聞こえてきたアイリスの声にカークは溜め息を吐くとフクロウの所へ駆けていき、その後ろをトゥエもついて走る。
「どうしたんですかアイリス様」
「フクロウさんがエイトの髪の毛を毟ろうとして……」
アイリスの手の中に髪の毛がぼさぼさになったエイトが涙顔で座っていた。
「こらクー!」
「力の差も分からないのにちょっかいをかけてくる方が悪い」
「だからといって毟るなよ」
クーとトゥエが二人で喧嘩を始めるがアイリスはフクロウが話しているという現実に頭がついて行かず「フクロウさんが喋ってる…」と呟く。
「クーは精霊獣なんですよ、普段はフクロウの姿をしてますが人型にもなれるんです」
だから話すなんてことは簡単なんですよ、とカークが続ける。
「そうだ。これから世話になることも多いから人型の姿も見せとけよクアット」
「しかたないな」
薄紫の色の光がクアットを包みその光が人型に伸びてゆく。光が消えたと思えばそこにいたのは細身の青年だった。腰まである髪の毛を緩く三つ編みに結んでおり、瞳の色は右眼が紫で左眼が黒色だった。
「まあ、よろしく」
そう言うとすぐにフクロウの姿に戻り、止まり木に落ち着いた。
「世界は広いのね……」
アイリスは感心したとばかりに言葉を呟くと手の中のエイトの髪の毛を指で撫でた。
「悪いなお嬢ちゃん、うちのが」
「いいえ悪いのはエイトだもの、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
二人の謝罪を受け取ったクアットは翼を広げて満足気に「キュア」と鳴いた。
「あと暫くはクアットって呼んでやってくれるか? 初対面の人間は警戒するんだよ」
「わかりました」
「じゃあさっさと日用品詰めちまうな」
「頼んだ」
「お願いします」
手早く日用品を詰めてくれたトゥエに礼を言い三人は店を後にした。
帰り道で夕食を買い家に着いた頃には外は真っ暗になっていた。
「アイリス様」
「なあに」
「作ったポーションはトゥエの雑貨屋で販売してもらえることになったので明日からでも作って構いませんよ」
「カークは仕事ができる男なのね……ますますついて来てもらって良かったわ」
「いえそんな。それとゆくゆくは他の薬も作られるでしょうからそうなったらここで販売しましょう。その為にも明日は商業ギルドに登録に行きましょうね」
「ありがとう、カーク」
アイリスが笑って礼を言えばカークは照れた様子を見せる。それが少し面白くてアイリスとエイトはからかったがすぐにいつもの能面に戻ってしまったので残念だった。
これから新しい生活が始まるのだ。
薬師としての新しい生活が。
3.
それから三の月が経った。
アイリスの朝はポーション作りからはじまる。
まず備え付けの井戸から水を汲み、薬釜に入れる。これを何度か繰り返し薬釜にある程度までいっぱいになったら洗浄の魔法をかける。そして次は蒸留だ。
「蒸留」
不純物を取り除いている光景を眺めながら、アイリスは生活魔法しか使えなかったが薬師の自分にはピッタリの魔法だと思っている。
浮かんできた不純物だけを取り除くために、網目の細かい布で蓋をしている別の薬釜にそれを入れる。
次に蒸留が終わった水に魔法石を入れると魔法石の色が変わる。これは鑑定魔法が使えないアイリスには必須のもので、魔法石の色によって水の純度が分かるのだ。赤なら低級、青なら中級、透明なら上級といった風に変わる。今回は青色に変わったのでこれ以上蒸留をさせる必要はない。
「おはよぉ、アイリス」
寝起きのエイトがアイリスの周りを飛び、頬に擦りつく。
「おはよう、エイト」
アイリスが返事をするとエイトは一つ欠伸を噛み殺す。
「今日はどのポーションを作ってるの?」
「今日は中級よ」
「じゃあ薬草採ってくるねー」
「ありがとうお願いね」
元薬師が住んでいたとあって庭は薬草の宝庫だった。
時には足りない素材が出たりしたが、その時はトゥエの雑貨屋で仕入れたり、新しく庭で育てたりと楽しい日々を過ごしていた。
「おまたせー」
薬草を両手いっぱいに持ってきたエイトが戻ってくる。その薬草たちを受け取りながらどれも朝露に濡れた状態の良いものだと確認する。
エイトは光属性の精霊というのもあり質のいい薬草選びが上手だった。これも精霊の属性による特性なのかしらとアイリスは思っていた。アイリスは精霊のことに詳しくなく、そのことも勉強しないといけないと思っているのだが、件のエイトは「そんなの必要ないよー」とのんびりした様子だった。
「ありがとう」
エイトが持ってきた薬草を受け取ると「乾燥」と魔法をかけ水分を飛ばし薬釜に砕きながら入れる。そして先ほどの色が変わった魔法石と同じ色まで蒸留水が変わったところでもう一度「蒸留」と魔法をかけ、また布で蓋をした薬釜へと中身を流しいれ、不純物を取り除く。あとはこれを瓶に分けて詰めるだけだ。
「エイト、ポーション詰めるの手伝ってくれる?」
「もちろん!」
アイリスが瓶の中にポーションを詰め、蓋をしてから最後の刻印つけをエイトが光魔法で行う。これはいわゆる個人を特定するための印のようなものだ。
十本全て刻印が終わった頃に薬室にカークが顔を出す。
「おはようございます。アイリス様、エイト」
「おはようカーク」
「おはよー」
三人で朝の挨拶を終わらせてカークが出来上がったポーションを見る。
「今日の納品分は終わりましたか?」
「はい」
「おわったよー」
「なら朝ご飯にしましょうか」
その言葉にエイトは「やったー」といち早く食卓へ飛び去る。そんな様子をアイリスとカークは微笑ましく見つめ食卓へと歩いていく。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきまーす!」
今朝のご飯は野菜たっぷりのサンドイッチだ。シャキシャキのレタスと瑞々しいトマトに肉厚のハムが挟まれている。
「アイリス様は今日の用事は納品ですか?」
「うん。終わったら明日の納品の種類次第だけど、冒険者ギルドの薬草採集の依頼でも受けようかなって思っているの」
「ぼくはそれのつきそいー」
むぐむぐとサンドイッチを頬張りながらエイトが会話に入ってくる。
「しっかりと付き添いを頼むぞ、エイト。私はトゥエから野暮用を頼まれてるのでそれに行ってきます」
アイリスは相変わらずの子ども扱いにムッとしながらも野暮用の方に気を取られる。
「野暮用?私もついて行っちゃ」
「危ない野暮用なのでダメです」
「ちぇ」
こういう時のカークは絶対に引かないのでアイリスは早々に諦める。
「代わりに中級ポーションをいくつか持って行くので大丈夫ですよ」
「追加で作ろうか?」
「いえ、納品した時に買っていきます」
「頑固なんだから……」
「じゃあみんなでお店まで一緒だねー」
「そうね。洗い物が終わったらみんなで行きましょうか」
アイリスはエイトの空になったお皿を自分のお皿に重ねるとキッチンに行く為に立ち上がると、それにカークは続いてくる。水場でカークが食器を洗い、洗い終わったものを布巾でアイリスが拭き、食器立てに立てかける。三人分の食器なのですぐに終わってしまい二人は手を拭き出発の準備を整える。
「では行きましょうか」
「はい」
朝露が落ちる中、三人は連れ立ってトゥエの店へと向かった。
「おはようございます」
挨拶をしながら扉を開けるとクアットが「キュア」と返事をし、店の奥からトゥエが出てくる。
「悪いな嬢ちゃん、昨日の今日で」
「いえ、ご依頼いただいて助かります」
これポーションですとアイリスがトゥエへと渡すと、トゥエは「鑑定」と言って魔法をかけ十本全て中級ポーションだということを確認する。
「じゃあ、これ。報酬と明日の依頼のメモ」
「はい! ありがとうございます」
アイリスはトゥエからメモを受け取ると内容を確認する。
低級ポーションを五本と中級ポーションを五本だったので、これであれば明日の朝作るので間に合いそうだ。
「その中から三本購入させてくれ」
二人の会話が終わったのを見計らったカークが言葉を紡ぐ。
「お前……律儀だな」
「頑固者ですものね?」
そんな二人から突っ込まれても「何とでも言ってください」と素知らぬふりをするカークだった。
「じゃあ、また明日」
「おう、よろしくな」
カークもよろしくなと言葉をかけるトゥエに「ああ」とカークは返事をする。
店の前で三人は立ち止まるとまずカークが口を開いた。
「では私はここでお別れです。エイト、アイリス様のことは頼んだぞ」
「りょ~かい!」
相変わらずの子ども扱いにアイリスはカークの腹を殴るがカークはなんともない風だった。
「もう……でも気をつけて行ってきてねカーク」
カークはアイリスの手を取ると膝をつきその手を額につける。
「はい、必ず帰ってきます」
「お願いします」
この仕草は二人が長時間離れる時の決まりのようなものだった。
カークは立ち上がるとにこりと微笑み「いってきます」と言い裏門の方向へと歩いて行った。その姿が見えなくなるまでアイリスは見送るとエイトと共に冒険者ギルドへと向かうのだった。
冒険者ギルドは朝早いというのに中々の賑わいだった。
アイリスは依頼掲示板から薬草採集の依頼を見つけるとその紙をとり、受付へと持って行く。
「おー嬢ちゃんじゃないか」
「おはようございます、ファムさん」
ファムとは冒険者ギルドに初めて来たときに対応してくれた仲で依頼を受けに来るたびに声をかけてくれる。
ファムは依頼文を見ると「これなら嬢ちゃんのランクでも大丈夫だな」と確認をとり受理のハンコを押してくれた。
「気をつけて行ってきてな~」
「ぼくが居るから大丈夫だよー!」
「おっと、そうだったな」
エイトがふわりとファムの前を飛びファムもそれに笑って応える。
「じゃあ行ってきます」
「ほいよ」
二人は連れ立って冒険者ギルドを出るとへと正門の扉へと向かった。
「アイリスじゃないか」
「おはよう、ギルドの依頼かい?」
「はい、薬草採集です」
門番の二人と会話をしながら行先を確認してくれる。
「魔物が出ないエリアだろうけど気をつけてな」
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
扉がギイと音を立てて開きアイリスとエイトは外に出ると外側の門兵にも挨拶を交わして旅立つ。
「えーっと、フォンの花を十本とライラの花の蜜を一瓶……どっちも家の在庫もなくなりそうだったからついでに採って行こうか」
「りょうかーい! あ、早速咲いてるよー!」
ここ、ここ!とエイトが薄桃色の花の上でくるくると回る。この調子でいけば早く終わりそうだとアイリスは腕まくりをして気合を入れる。
太陽が真上に来る頃にはすっかり集めきっていた二人はへとへとになっていた。
折角だからお昼は外で食べて行こうかというアイリスの提案にエイトは「さんせーい!」と大きく声を出す。二人は木陰に座ると朝の残りのサンドイッチを食べ始める。お昼には小さいリンゴがついているのだが、カークも今頃は食べているのだろうかとアイリスは考える。
「ねえ、エイト」
「なにー?」
「精霊契約の時に私の名前を知ってたでしょう? あれはどうしてなの?」
エイトは食べかけのサンドイッチを飲み込むと歯切れ悪く話し始める。
「あー……あれはね、実はずっとぼくアイリスの傍に居たんだあ」
「え!? そうなの」
「うん、本当はそういうのはやっちゃダメなんだけど、アイリスの傍って気持ちよくてずっと一緒だったんだ」
「ずっと……」
「あ、でもでも!星流しの時に綺麗って言ってくれたのが嬉しかったのは本当!だから契約したくなっちゃって……ごめんね」
しょんぼりと顔を伏せてしまったエイトの頭をアイリスは指で撫でる。
「謝ることなんて何もないわ。私もカークも、エイトが居てくれて嬉しいもの」
「本当? なら良かった! あとね、精霊って一生に一度だけその属性の高位魔法が使えるんだ。だから何かあった時は僕がアイリスを守るからね」
「でもそれを使っちゃったらエイトは居なくなっちゃうんでしょう?」
「うーん、居なくなるって言うより力が溜まるまで眠っちゃうの」
「じゃあ使わないわエイトが居なくなる方が嫌だもの」
「えへへ……」
嬉しそうに笑うエイトを見てそんなことは起こらないように薬を色んな種類作っておかなければと思うアイリスだった。
「ご飯も食べたし帰りましょうか」
「うん!」
二人は連れ立って冒険者ギルドへ帰り依頼達成のハンコを押してもらうと幾許かの報酬金を受け取り自宅への帰路を歩くのだった。
時刻は夜半過ぎ、外は夜の帳が下りたというのにカークは帰って来なかった。
今まで朝の報告なしで夜遅く帰って来たことがないカークのことがアイリスは心配で堪らなかった。カークが強いのは知っているがそれでも心配は心配なのだ。
時間を過ごす為に明日の朝作る予定だったポーションも作ってしまったし、フォンの花で作ることの出来る低級の毒消しも作ってしまった。
本当は外に迎えに行きたいがそれをする訳にはいかない。
必ず帰ってくると約束したのだ。大丈夫、カークは約束を破ったことはない。
「ただいま、戻りました……」
「おかえりなさ……カーク! その怪我どうしたの?! ポーションは?!」
心配したのよ、と続くはずだった言葉は傷だらけのカークを見たらすっ飛んでしまい、アイリスはカークに駈け寄る。
「使い果たしまして……面目ない」
アイリスは肩を支えながらソファにカークを座らせ、その顔を見ると真っ青だった。
「ポーション持ってくるから待ってて!」
エイトはカークを見ててね、とアイリスは言葉を残し薬室へ走って行く。
アイリスは薬棚から常備してあった上級ポーションをとり、ぎゅ、とそれを握り締める。
「上級なら大丈夫、大丈夫」
ぱたぱたと急いで戻りカークの目の前に跪き、上級ポーションの蓋を開けてカークの口元へと持って行く。
「カーク、つらいだろうけど飲んで」
三口、飲み込んだのを確認してから身体の傷に残りのポーションを振りかけると、身体の傷はすぐに塞がり朝見送った時の姿と同じになった。
それだというのに、顔色は真っ青なままだった。
「げほっ、おえっ」
カークはびちゃ、と血を吐き、飲み込んだポーションも吐き出してしまう。
「どうして?! 上級が効かないなんて……」
「ヒドラの毒です……げほっ」
「ヒドラの毒……そんな、ヒドラの毒に効く薬はここにはないわ……」
ヒドラの毒を治す為の薬にはヒドラの血が必要だが、都合よくここにはそんなものはなかった。もちろんトゥエの道具屋にも。
カークは手の平で口元を押さえながら言葉を続ける。
「アイリス様、私はここまでのようです」
「いや、いやよ」
アイリスの両目から涙が零れる。
「あとのことはエイトに……エイト?」
「大丈夫だよ二人とも」
エイトは場違いに微笑む。
「ぼくがいるから大丈夫」
「やめろ、エイト……」
「ぼくよりもカークが残ってぼくたちのお姫様を守ってあげなきゃ」
そこでアイリスは昼間話していた言葉を思い出す。
「いや、エイト」
「大丈夫ちょっと長い間眠るだけだから。ぼくのこと忘れないでね」
「エイト!!」
アイリスの叫びではエイトを止めることは出来ない。
ではカークなら止められるのかと言えばそんなことはなかった。エイトが選び、選択したのだ。これが最良だと。
「アイリス、カーク短い間だったけど楽しかったよ! ぼくが居なくなっても泣かないで! ぼくは少し眠るだけだから、また会えるから」
カッと強い光を放ち球体に戻ったエイトはカークの身体に吸い込まれていく。
光がすべて吸い込まれた頃にカークの顔色が戻っていく。
「カーク……」
「アイリス様……」
「もう平気なの……?」
「はい、エイトが魔法を使ってくれたお陰で……」
「そう、そうなのね。よかった……」
アイリスはその瞳から再び涙を流す。
「今日のお昼にね、そういうことが出来るってエイトから聞いたの」
「はい」
「私、エイトのことを見捨てちゃったのね……」
「それは俺も同じです」
アイリスがカークの手に自分の手を重ねる。
「カークは知ってたの?」
「はい、エイトからは口止めされてまして……自分でアイリス様に言うからと」
「そうなの。私本当に何も知らなかったのね」
「力を使い果たした精霊は契約の指輪で眠りにつくと言います。その力が戻った時にまた姿を現すと」
「そう、なら泣いて居られないわね」
「私も落ち込んでいられませんね」
「二人で頑張りましょう、カーク」
「はい」
ぎゅう、と重ねていた手にアイリスは力を入れると、それに返すようにカークが力をこめる。
その翌日、事態を聞いたトゥエに謝られたが二人は怒りはしなかった。二人もトゥエと同じなのだ。もっと薬があれば、用心していれば。そう思わずに居られなかった。
「アイリス」
クアットがアイリスの名前を呼ぶ。
「明日から私の力を少しずつその指輪に込めてやる。少しはエイトの力が復活するのが早くなるだろう」
「……ありがとう!」
4.
それから一年が経った。
今もトゥエの店には初級と中級のポーションを卸しているが、アイリスは自分の店を開いた。
世の中にある薬は全て揃う店と言っても過言ではない種類の薬を扱っているのは、あの日のことがきっかけだった。
そしてカークは相変わらずアイリスの傍に居り、材料の入手を代わりに行ったり、家事全般を行っていた。
「カーク、今日の納品も着いてくるの?」
「はい」
「そろそろ一人でもいいんだけど……」
「いえ、目を離すと何をするか分からないので」
「ちょっと!」
朝の仕事の洗い物をしながらアイリスは隣に立つカークを肘でつつく。「危ないですよ」と避けながらカークは笑うのでアイリスも笑う。
「ふふ」
「さあ行きましょうか」
「ええ」
カゴに入れたポーションを持ち二人は自宅を後にする。
「おはようございますトゥエさん」
「おはようさん嬢ちゃん」
「これ今日の分です。明日も同じで良いですか?」
「おう、それで頼む」
トゥエが依頼書をアイリスに渡しそれを受け取る。
このやり取りも慣れたものになった。
それが終われば次はクアットの番だ。
「クアットさん今日もお願いします」
「ああ」
フクロウの姿のままクアットは額をアイリスの指輪につけると魔力を流していく。数分間それを続けると額を離し「終わりだ」と言う。
アイリスはそんなクアットに「ありがとう」と言うと指輪を眺めた。
「早く会いたいな、エイト」
アイリスがそう言ったその瞬間、指輪の石が煌めき強い光が周囲に満ちる。
「おはよう、アイリス」
光の中から現れたのは紛れもないエイトだった。あの日、消えた姿のままのエイトだった。
アイリスは言葉が出なかった。
キラキラと煌めく半透明の羽、小さな手、その小さな手でアイリスの指輪に触れる。
「本当に、エイトなの?」
「そうだよー!もしかして……忘れちゃった?」
少し悲しそうな顔をするエイトにアイリスは顔を左右に振る。
「そんなことない!ただ、信じられなくて嬉しくて……」
ポロ、とアイリスの瞳から涙が流れる。
「泣かないでって言ったのに」
「これは、嬉し涙だからいいの」
アイリスはそう言いながら流れる涙を手で拭う。
「クアットのお陰で予想より早く生まれ直せたんだ、ありがとう」
「そうなの?ありがとうクアット」
「相方を失うツラさは知ってるからな」
そうして恥ずかしそうに、クアットはトゥエの元に飛んでいく。
「帰りましょうかアイリス様、エイト」
「ええ帰りましょう」
「三人の家に!」