5. 紅と青のわがまま
文字数 2,742文字
次の街は優しい光に守られた街だった。爽やかな朝日が花を起こし、心地よい日差しが人々を笑みで包む。透き通った水色の空を見上げれば、教会の鐘楼へと引き寄せられる鳩の群れ。これが平和であると、エールが教えてくれた。
「ちょっと待ってて。海はどっちの方角か、聞いてくるね」
そう言い残し、エールは小さな建物の中に入っていった。コンパスの形をした看板には「案内所」と書かれていた。
ふと目の前を通り過ぎる花束。持ち主の女性の後ろ姿は嬉々として、隣の男性に寄り添い軽やかな笑い声を残していった。あれも平和の姿なのだろうか。なんとなく見送っていると、自然と繋がれる二人の手。
不意に「空箱」の右手が脳裏に浮かぶ。こちらがいくら望もうと、決して繋がれることのない孤独な手。
「ねえねえ」
思案の世界から呼び戻す声。その主は、目の前でこちらを見上げる小さな子どもだった。膝を折って視線を合わせると、私の瞳をまじまじと覗いて目を輝かせている。
「ねえ、あなたはおにいちゃん? それともおねえちゃん?」
「どちらでも、君が望むほうで」
「じゃあ、声がかっこいいからおにいちゃんね。ねえ、おにいちゃんは本当に人なの?」
「どうして、そう思う?」
「お目目がすごく綺麗だから! 赤いお目目は見たことない。だからね、おにいちゃんは、とってもとっても特別なんだと思う。神様か、サンタさんか、妖精さんが、プレゼントしてくれたんだね」
「この瞳を?」
「ううん。この世界に、おにいちゃんを!」
そこへ響く、聞き馴染みのある声。
「君はなかなかに文才があるねえ。その詩想に富む心、分けてくれない?」
「こっちのおにいちゃんも特別だ!」
エールも隣に膝をつき、嬉しそうに、かつ真摯に言った。
「ありがとう。特別を見抜く観察力と、それを伝える勇気と優しさ。どちらも兼ね備えた君も、特別だね」
「わあい! ありがとうっ!」
エールに抱きつくその子から、甘い蜂蜜の香りがした。
そして街中へと走り去る背中を見つめたまま、言葉を紡ぐエール。
「特別、またの名を異形。あの子の眼差しは僕にとって、救いだ」
その横顔は、どこか寂しい。
*
その日の夕食は、川沿いのレストラン。談笑で賑わう店内を奥へと進み、窓際席に案内された。オーダーを済ませれば、夜の気配が私を呼ぶ。小さな丸窓の向こうは、温かいオレンジ色の店内とは対照的な、静かな黒の世界。かろうじて、対岸の街の光が揺れている。
「綺麗だねえ」
頬杖をつき、ぼんやりと外を眺めるエール。視線は街の光をあっさり離れ、「だけど」と言いつつ私を捉える。
「こっちの方がもっと綺麗」
交差する紅と青。
「紅い色が好きなのか?」
「君の紅が、だね。……よく分からないって思ってるでしょう?」
その青は、全てを見透かす神秘の青。
運ばれてきた具沢山サラダを取り分けつつ、エールは言う。
「紅が綺麗なのか、君の瞳が綺麗なのか。僕が言っているのは後者の方で、たまたま紅い色をしていただけ」
「あの小さな子どもが言ったように、この瞳は異色で、目立つ。単なる好奇心で惹かれているだけではないのか」
「確かに、人は単調を忌避し、変化と進化を促されている。それが可変世界への適応能力であり、種の存続に通じるからね。好奇心はその糸口だ。とまあ、そんな理屈はさておき、僕は僕の感じたことを単なる本能とは思ってないよ。あ、そもそも本能があるかなんて問いは受け付けないからね」
美味しそうにサラダを頬張る姿は、周りの人のそれと同じ。グラスを持つ仕草も、こちらの空皿にサラダを追加してくれる優しさもそうだ。ヒューマノイドであることなんて、簡単に忘れさせてくれる。人と同じく、或いは私と同じように、本能があるはずだと願うほどに。
「ねえ、覚えてる? あの子はこうも言っていたね。君はとても特別だと。それは紅いから特別なのか、或いは君だから特別なのか。君はどう受け止めた?」
「……私だからだと思いたい。でもそれは私の我儘だ」
「いいんだよ。それでいいんだよ。君が君自身のことをどう思いたいか、そこに遠慮は要らない。我儘ではなく、高慢でもなく、等身大で在るための問いだ」
「その問いに、必ず答えは出るのか。我儘と、等身大の見分けはつくのか」
「そう来ると思ったよ。君は本当に素直だね。考えすぎとも言うけれど」
「で、どうなのだ」
「まあ落ち着いてよルージュ。ほら、アツアツのラザニアでもつつきながらさ」
そのとき、生き急ぐという言葉の意味を教えてもらった。ラザニアを少し多めに盛られた皿が、私の方へと差し出される。
「どうぞ」
その微笑みは、全て仕組まれたものなのだろうか。プログラムが彼を思考させ動かし、私を喜ばせているのだろうか。彼の全てが、彼独自のものであると期待するのは我儘だろうか。
「ルージュ?」
慌てて小皿を受け取り口をつける。そこで溢れた彼の笑みに、「いい顔してる」と呟く気配。
「ルージュ。自分をどう思いたいか。その問いに答えはあり、同時にない。換言するなら答えは一つのみならず、選択肢が多彩にあるから、何を答えとするかはその人次第。つまり本質からして我儘なんだよ、人はね。どう生きたいかは我儘でなきゃ見えてこない。我の儘 で、わがままって読むんだよ」
「じゃあ……」
「うん?」
「ひとつ、我儘言っていい?」
「どうぞ?」
「デザートにチョコアイスを、一緒に食べたい。…………そんなに笑うな」
もう一息笑って、ようやく始まる彼の弁明。
「ごめんごめん。あまりに可愛い我儘だから。それにほら、アイス好きならシェアしなくてもいいんだよ? 互いに一つずつ頼めばさ」
「二人で、一つがいい」
「そっか。ありがとう、ルージュ」
「……? 唐突に何に対する感謝だ?」
「うん。僕はほら、ヒューマノイドだろう。知識なんて簡単に後付けができるんだ。どんなジャンルのものでも、データベースにアクセスすれば記憶媒体 に記録される。そうしてしまえば、こうして歩き回らずとも永遠の意味が理解できるかもしれない。その必要性が、瞬時に解明するかもしれない。本当はね、明日データベースへのアクセススポットへ行こうと思ってたんだけど、やめた。そう決断できたことへのありがとうだよ」
「でも、いいのか? 答えに近づけるチャンスかもしれない。後悔、しないな?」
彼は大きく頷いた。
「生きる意味が、そんな簡単に見つかるはずないから」
そしてラザニアを堪能する姿は、本物の人だ。「美味しい」の気持ちも、本物だ。
「悩んだり躓いたりも、悪くはないと思うんだよね。さまざま体験して、考えて、受け止めて、上を向いて、道を決めて。一歩一歩、ひとつずつ得ていく。そんな風に、人と同じがいい。君と、同じがいい」
きっとこれが彼の我儘。そう思う私も、我儘。
「チョコアイス頼もうか、ルージュ」
「ちょっと待ってて。海はどっちの方角か、聞いてくるね」
そう言い残し、エールは小さな建物の中に入っていった。コンパスの形をした看板には「案内所」と書かれていた。
ふと目の前を通り過ぎる花束。持ち主の女性の後ろ姿は嬉々として、隣の男性に寄り添い軽やかな笑い声を残していった。あれも平和の姿なのだろうか。なんとなく見送っていると、自然と繋がれる二人の手。
不意に「空箱」の右手が脳裏に浮かぶ。こちらがいくら望もうと、決して繋がれることのない孤独な手。
「ねえねえ」
思案の世界から呼び戻す声。その主は、目の前でこちらを見上げる小さな子どもだった。膝を折って視線を合わせると、私の瞳をまじまじと覗いて目を輝かせている。
「ねえ、あなたはおにいちゃん? それともおねえちゃん?」
「どちらでも、君が望むほうで」
「じゃあ、声がかっこいいからおにいちゃんね。ねえ、おにいちゃんは本当に人なの?」
「どうして、そう思う?」
「お目目がすごく綺麗だから! 赤いお目目は見たことない。だからね、おにいちゃんは、とってもとっても特別なんだと思う。神様か、サンタさんか、妖精さんが、プレゼントしてくれたんだね」
「この瞳を?」
「ううん。この世界に、おにいちゃんを!」
そこへ響く、聞き馴染みのある声。
「君はなかなかに文才があるねえ。その詩想に富む心、分けてくれない?」
「こっちのおにいちゃんも特別だ!」
エールも隣に膝をつき、嬉しそうに、かつ真摯に言った。
「ありがとう。特別を見抜く観察力と、それを伝える勇気と優しさ。どちらも兼ね備えた君も、特別だね」
「わあい! ありがとうっ!」
エールに抱きつくその子から、甘い蜂蜜の香りがした。
そして街中へと走り去る背中を見つめたまま、言葉を紡ぐエール。
「特別、またの名を異形。あの子の眼差しは僕にとって、救いだ」
その横顔は、どこか寂しい。
*
その日の夕食は、川沿いのレストラン。談笑で賑わう店内を奥へと進み、窓際席に案内された。オーダーを済ませれば、夜の気配が私を呼ぶ。小さな丸窓の向こうは、温かいオレンジ色の店内とは対照的な、静かな黒の世界。かろうじて、対岸の街の光が揺れている。
「綺麗だねえ」
頬杖をつき、ぼんやりと外を眺めるエール。視線は街の光をあっさり離れ、「だけど」と言いつつ私を捉える。
「こっちの方がもっと綺麗」
交差する紅と青。
「紅い色が好きなのか?」
「君の紅が、だね。……よく分からないって思ってるでしょう?」
その青は、全てを見透かす神秘の青。
運ばれてきた具沢山サラダを取り分けつつ、エールは言う。
「紅が綺麗なのか、君の瞳が綺麗なのか。僕が言っているのは後者の方で、たまたま紅い色をしていただけ」
「あの小さな子どもが言ったように、この瞳は異色で、目立つ。単なる好奇心で惹かれているだけではないのか」
「確かに、人は単調を忌避し、変化と進化を促されている。それが可変世界への適応能力であり、種の存続に通じるからね。好奇心はその糸口だ。とまあ、そんな理屈はさておき、僕は僕の感じたことを単なる本能とは思ってないよ。あ、そもそも本能があるかなんて問いは受け付けないからね」
美味しそうにサラダを頬張る姿は、周りの人のそれと同じ。グラスを持つ仕草も、こちらの空皿にサラダを追加してくれる優しさもそうだ。ヒューマノイドであることなんて、簡単に忘れさせてくれる。人と同じく、或いは私と同じように、本能があるはずだと願うほどに。
「ねえ、覚えてる? あの子はこうも言っていたね。君はとても特別だと。それは紅いから特別なのか、或いは君だから特別なのか。君はどう受け止めた?」
「……私だからだと思いたい。でもそれは私の我儘だ」
「いいんだよ。それでいいんだよ。君が君自身のことをどう思いたいか、そこに遠慮は要らない。我儘ではなく、高慢でもなく、等身大で在るための問いだ」
「その問いに、必ず答えは出るのか。我儘と、等身大の見分けはつくのか」
「そう来ると思ったよ。君は本当に素直だね。考えすぎとも言うけれど」
「で、どうなのだ」
「まあ落ち着いてよルージュ。ほら、アツアツのラザニアでもつつきながらさ」
そのとき、生き急ぐという言葉の意味を教えてもらった。ラザニアを少し多めに盛られた皿が、私の方へと差し出される。
「どうぞ」
その微笑みは、全て仕組まれたものなのだろうか。プログラムが彼を思考させ動かし、私を喜ばせているのだろうか。彼の全てが、彼独自のものであると期待するのは我儘だろうか。
「ルージュ?」
慌てて小皿を受け取り口をつける。そこで溢れた彼の笑みに、「いい顔してる」と呟く気配。
「ルージュ。自分をどう思いたいか。その問いに答えはあり、同時にない。換言するなら答えは一つのみならず、選択肢が多彩にあるから、何を答えとするかはその人次第。つまり本質からして我儘なんだよ、人はね。どう生きたいかは我儘でなきゃ見えてこない。我の
「じゃあ……」
「うん?」
「ひとつ、我儘言っていい?」
「どうぞ?」
「デザートにチョコアイスを、一緒に食べたい。…………そんなに笑うな」
もう一息笑って、ようやく始まる彼の弁明。
「ごめんごめん。あまりに可愛い我儘だから。それにほら、アイス好きならシェアしなくてもいいんだよ? 互いに一つずつ頼めばさ」
「二人で、一つがいい」
「そっか。ありがとう、ルージュ」
「……? 唐突に何に対する感謝だ?」
「うん。僕はほら、ヒューマノイドだろう。知識なんて簡単に後付けができるんだ。どんなジャンルのものでも、データベースにアクセスすれば
「でも、いいのか? 答えに近づけるチャンスかもしれない。後悔、しないな?」
彼は大きく頷いた。
「生きる意味が、そんな簡単に見つかるはずないから」
そしてラザニアを堪能する姿は、本物の人だ。「美味しい」の気持ちも、本物だ。
「悩んだり躓いたりも、悪くはないと思うんだよね。さまざま体験して、考えて、受け止めて、上を向いて、道を決めて。一歩一歩、ひとつずつ得ていく。そんな風に、人と同じがいい。君と、同じがいい」
きっとこれが彼の我儘。そう思う私も、我儘。
「チョコアイス頼もうか、ルージュ」