1. Birth-day
文字数 2,777文字
「おはよう。私のエンジェル」
目を覚ますと、目の前のモノがそう発した。
「ようやく逢えたね。お誕生日おめでとう」
「おたん、じょうび?」
徐々に覚醒する意識、動き出す四肢。指先に柔らかい感触を覚える。髪の毛だった。私の座る藤の椅子に身をもたせ目を瞑るモノの、金色の髪の毛。その膝に眠るモノ、その横にうつ伏せになるモノ。無数に眠るそれらは、皆同じ姿をしている。
ふと、鏡が煌めいた。そこに見たモノはそれらと同じモノ。ただ違うのは、紅い瞳を開けていること。私が目を閉じればそれも閉じ、首を傾げればそれも傾げた。
「ルージュ」
目の前で微笑むモノが嬉しそうに言った。
「君にぴったりの名を贈ろう、マイ・エンジェル」
「ルージュ。エンジェル。どちらが私の呼称か?」
「君の名はルージュ、その本質がエンジェル」
「エンジェル、それは人ではない。私は、人ではないのか?」
「君の体の構成要素は人と同じだよ。だが、その魂は交配を経ることなく宿され胎動した。情欲や愛憎とは無縁の、清らかな生命力だ」
「では、私の魂は、何でできている?」
「絶望」
より近くで聴きたくて、私は立ち上がる。軽くなった椅子を、そこにもたれていたモノが押し、そして倒れた。頭を床に預ける瞬間に響く、重たい音。機会を逸した人の音。
力なく伸ばされる、半開きの右手。何故だか求められている気がして、しゃがんで繋いだ。ただ冷たいだけで、握り返してはもらえなかった。
「ルージュ。鏡写しのごとく似ていても、それらは君ではない。宝箱に成り損ねた空箱さ。本物とは雲泥の差がある」
「差の中身とは?」
「運命、ただそれだけのこと。運命とは理不尽なものでね、君に至るまでの道のりは長く、故に空箱もこの有様」
言いながら、一番手近な空箱に手を伸ばし、顔まわりに溢れた髪を手櫛で梳いた。愛しい者を触る手つきと、期待を裏切った不敬を咎める眼差しで。
その視線を遮ろうと手を伸ばしたものの、突如喉元に襲いかかる閉塞感。鏡を見れば純白の首輪がそこに鎮座し、同じく純白の長い革紐で椅子に繋がれていた。これが何を意味するのか、質問したかったけれど、そうする前に先の続きが始まってしまった。
「守るべきものがあると願い続ける限り、人は己を諦めない。しかし、全てを失い執着という幻想が解けた時、人は絶望に出逢い、己に希望を見出す。何故ならその境地に至ってこそ、人は真の意味で己を頼りにし始めるからだ。人には芯の強さが必要。皆の真の強さが発揮された時、その先で待つのは弱者も劣等感もない自由な世界のはずなんだ。今は固く閉ざされた扉を開く鍵、それが君だよ、愛しのルージュ」
そしてこちらの両頬を包み、口元を愛でつつ囁く創造主。
「しがらみのない気高い愛で包んでおくれ」
私は微笑んだ。それが相応しい反応だと思った。
「命を授けてくれた貴方に、恩返しがしたい。だから聞かせて欲しい。貴方にとって絶望とは何か」
「君を失うこと。ただそれだけ。分かるだろう、ルージュ。君が誕生したことで、私は君に溺れるしか出来なくなった。君中心の世界は、かくも狭小で有限。無駄な選択肢がないとは、なんと排他的で快楽極まりないことか」
「そうか」
「ああ」
「では、早速恩返しをさせてもらおう」
創造主の両手をそっと剥がし、私は窓へと手を伸ばす。けれど首輪の制御を受けて届かず、仕方なく藤の椅子を引きずって、多少の息苦しさには目を瞑り、ようやく解錠。押し開けば香る、雨の匂い。さらに手を伸ばすと、指先に滴る生ぬるい水気。
私の腕を伝う雨粒を白衣の袖で拭いつつ、創造主は言った。
「何をしているんだい」
「貴方に絶望を捧げたいのだ、創造主。別離がそれを叶えるなら、喜んでここから立ち去ろう」
みるみるうちに創造主の瞳は悦びで満ち、恍惚にも似た嘆きを溢す。
「マイエンジェル。どうかそのまま、穢れなきままで」
きつく抱きしめられても、それが快か不快か判らなかった。別離を捧げたくとも、動かせぬ脚。未だ注がれた言葉をそのままの意味でしか受け取れない私にとって、創造主の言葉は謎が多く、理解し難い。
別離 が絶望でないなら、貴方が欲しいものは、何なのか。想像するしかないなど、なんと非効率的な。けれどきっと、今の貴方が欲する言葉 は。
「ああ。きっとそうしよう」
*
生まれて初めて見る夜は、空洞だった。創造主は寝室へと消え、残された私は独りきり。空箱なら沢山あるのに、そこに会話は生まれない。在るのに無いこの矛盾を、人は何と表現するのだろう。
窓辺に椅子を寄せ、膝を抱えて夜空を眺める。昼間の雨は上がり、見事に広がる紺青。申し分ない美しさだが、欲を言えば境界壁を取り払いたい。か細い蔦に幾重にも抱かれたブロックが、無粋にも空の半分を消していた。
「紅い星なんて、初めて見た」
小さくそう聞こえた。咄嗟に空箱たちを見たが、皆一様に目も口も閉ざされている。
「そっちじゃない。こっち」
ひび割れたブロックの向こうで瞬く青い星。それはすぐに消え、壁の上から再び現れた。そこに腰掛け足をバタつかせる星。
「やあ。元気?」
「普通だ」
「それは何より」
笑って答え、すぐさま静かになり、口角を上げたまま、まじまじとこちらの瞳を覗いてくる。
「君の瞳はよく透き通っているね。まるで本物の人間みたいだ」
「私の体は人間だが」
「そうなの? それは驚きだなあ。美麗すぎて僕と同じかと思った」
「同じ、とは」
「僕は機械仕掛けの生命体。ヒューマノイドなんて呼ばれたりするモノだからね」
「そうか。ならばその賛辞も、プログラムによって弾き出された解なのだな」
「さあ、どうだろう。単なる二進法の塊とは一線を画していると自負してるけど、ただの期待かもしれないね」
「それはつまり?」
「うん。話せば長くなるから、落ち着いて話せるところに行こうか。君、名前は?」
「ルージュ」
「初めまして、よろしくルージュ。僕はエール。何処かの国の言葉で空気、また別の国では励ましを意味するんだって。我ながら都合のいい名前だと思うなあ」
「その名は創造主にもらったのか。私と同じように」
「それも含めてゆっくり話そう」
「だが……」
私を引き止める首輪に触れる。無力感に重くのしかかられる心地がした。
「ねえ。良いこと教えてあげようか」
見上げると、きらり、妖しく光る青の瞳。
「隣のテーブルに、本が沢山置いてあるだろう。その下に、先の尖った銀色のモノが見えるだろう」
本を押し分け銀色のモノを手に取ると、彼は先を続けた。
「ハサミと呼ばれるモノだよ。その役割は、断ち切ること」
鋒に落ちる月光。
「僕と行く? それとも、そこに居る? 君が選んでよ、ルージュ」
「これが、彼 のモノの願いであるなら」
腰元に垂れる革紐を手に取り、何度も刃を当てて切った。
彼は無邪気に笑い、こちらに手を伸ばしながら言った。
「君は優しいね」
その手には、確かな温もりがあった。
目を覚ますと、目の前のモノがそう発した。
「ようやく逢えたね。お誕生日おめでとう」
「おたん、じょうび?」
徐々に覚醒する意識、動き出す四肢。指先に柔らかい感触を覚える。髪の毛だった。私の座る藤の椅子に身をもたせ目を瞑るモノの、金色の髪の毛。その膝に眠るモノ、その横にうつ伏せになるモノ。無数に眠るそれらは、皆同じ姿をしている。
ふと、鏡が煌めいた。そこに見たモノはそれらと同じモノ。ただ違うのは、紅い瞳を開けていること。私が目を閉じればそれも閉じ、首を傾げればそれも傾げた。
「ルージュ」
目の前で微笑むモノが嬉しそうに言った。
「君にぴったりの名を贈ろう、マイ・エンジェル」
「ルージュ。エンジェル。どちらが私の呼称か?」
「君の名はルージュ、その本質がエンジェル」
「エンジェル、それは人ではない。私は、人ではないのか?」
「君の体の構成要素は人と同じだよ。だが、その魂は交配を経ることなく宿され胎動した。情欲や愛憎とは無縁の、清らかな生命力だ」
「では、私の魂は、何でできている?」
「絶望」
より近くで聴きたくて、私は立ち上がる。軽くなった椅子を、そこにもたれていたモノが押し、そして倒れた。頭を床に預ける瞬間に響く、重たい音。機会を逸した人の音。
力なく伸ばされる、半開きの右手。何故だか求められている気がして、しゃがんで繋いだ。ただ冷たいだけで、握り返してはもらえなかった。
「ルージュ。鏡写しのごとく似ていても、それらは君ではない。宝箱に成り損ねた空箱さ。本物とは雲泥の差がある」
「差の中身とは?」
「運命、ただそれだけのこと。運命とは理不尽なものでね、君に至るまでの道のりは長く、故に空箱もこの有様」
言いながら、一番手近な空箱に手を伸ばし、顔まわりに溢れた髪を手櫛で梳いた。愛しい者を触る手つきと、期待を裏切った不敬を咎める眼差しで。
その視線を遮ろうと手を伸ばしたものの、突如喉元に襲いかかる閉塞感。鏡を見れば純白の首輪がそこに鎮座し、同じく純白の長い革紐で椅子に繋がれていた。これが何を意味するのか、質問したかったけれど、そうする前に先の続きが始まってしまった。
「守るべきものがあると願い続ける限り、人は己を諦めない。しかし、全てを失い執着という幻想が解けた時、人は絶望に出逢い、己に希望を見出す。何故ならその境地に至ってこそ、人は真の意味で己を頼りにし始めるからだ。人には芯の強さが必要。皆の真の強さが発揮された時、その先で待つのは弱者も劣等感もない自由な世界のはずなんだ。今は固く閉ざされた扉を開く鍵、それが君だよ、愛しのルージュ」
そしてこちらの両頬を包み、口元を愛でつつ囁く創造主。
「しがらみのない気高い愛で包んでおくれ」
私は微笑んだ。それが相応しい反応だと思った。
「命を授けてくれた貴方に、恩返しがしたい。だから聞かせて欲しい。貴方にとって絶望とは何か」
「君を失うこと。ただそれだけ。分かるだろう、ルージュ。君が誕生したことで、私は君に溺れるしか出来なくなった。君中心の世界は、かくも狭小で有限。無駄な選択肢がないとは、なんと排他的で快楽極まりないことか」
「そうか」
「ああ」
「では、早速恩返しをさせてもらおう」
創造主の両手をそっと剥がし、私は窓へと手を伸ばす。けれど首輪の制御を受けて届かず、仕方なく藤の椅子を引きずって、多少の息苦しさには目を瞑り、ようやく解錠。押し開けば香る、雨の匂い。さらに手を伸ばすと、指先に滴る生ぬるい水気。
私の腕を伝う雨粒を白衣の袖で拭いつつ、創造主は言った。
「何をしているんだい」
「貴方に絶望を捧げたいのだ、創造主。別離がそれを叶えるなら、喜んでここから立ち去ろう」
みるみるうちに創造主の瞳は悦びで満ち、恍惚にも似た嘆きを溢す。
「マイエンジェル。どうかそのまま、穢れなきままで」
きつく抱きしめられても、それが快か不快か判らなかった。別離を捧げたくとも、動かせぬ脚。未だ注がれた言葉をそのままの意味でしか受け取れない私にとって、創造主の言葉は謎が多く、理解し難い。
「ああ。きっとそうしよう」
*
生まれて初めて見る夜は、空洞だった。創造主は寝室へと消え、残された私は独りきり。空箱なら沢山あるのに、そこに会話は生まれない。在るのに無いこの矛盾を、人は何と表現するのだろう。
窓辺に椅子を寄せ、膝を抱えて夜空を眺める。昼間の雨は上がり、見事に広がる紺青。申し分ない美しさだが、欲を言えば境界壁を取り払いたい。か細い蔦に幾重にも抱かれたブロックが、無粋にも空の半分を消していた。
「紅い星なんて、初めて見た」
小さくそう聞こえた。咄嗟に空箱たちを見たが、皆一様に目も口も閉ざされている。
「そっちじゃない。こっち」
ひび割れたブロックの向こうで瞬く青い星。それはすぐに消え、壁の上から再び現れた。そこに腰掛け足をバタつかせる星。
「やあ。元気?」
「普通だ」
「それは何より」
笑って答え、すぐさま静かになり、口角を上げたまま、まじまじとこちらの瞳を覗いてくる。
「君の瞳はよく透き通っているね。まるで本物の人間みたいだ」
「私の体は人間だが」
「そうなの? それは驚きだなあ。美麗すぎて僕と同じかと思った」
「同じ、とは」
「僕は機械仕掛けの生命体。ヒューマノイドなんて呼ばれたりするモノだからね」
「そうか。ならばその賛辞も、プログラムによって弾き出された解なのだな」
「さあ、どうだろう。単なる二進法の塊とは一線を画していると自負してるけど、ただの期待かもしれないね」
「それはつまり?」
「うん。話せば長くなるから、落ち着いて話せるところに行こうか。君、名前は?」
「ルージュ」
「初めまして、よろしくルージュ。僕はエール。何処かの国の言葉で空気、また別の国では励ましを意味するんだって。我ながら都合のいい名前だと思うなあ」
「その名は創造主にもらったのか。私と同じように」
「それも含めてゆっくり話そう」
「だが……」
私を引き止める首輪に触れる。無力感に重くのしかかられる心地がした。
「ねえ。良いこと教えてあげようか」
見上げると、きらり、妖しく光る青の瞳。
「隣のテーブルに、本が沢山置いてあるだろう。その下に、先の尖った銀色のモノが見えるだろう」
本を押し分け銀色のモノを手に取ると、彼は先を続けた。
「ハサミと呼ばれるモノだよ。その役割は、断ち切ること」
鋒に落ちる月光。
「僕と行く? それとも、そこに居る? 君が選んでよ、ルージュ」
「これが、
腰元に垂れる革紐を手に取り、何度も刃を当てて切った。
彼は無邪気に笑い、こちらに手を伸ばしながら言った。
「君は優しいね」
その手には、確かな温もりがあった。