第1話

文字数 4,392文字

 幼馴染みが自殺した。
 正確にいうと自殺未遂だ。つまりはまだ生きている。どうせ死ぬつもりなど微塵もなかったのだ。
 家政婦が食事の支度を終えて、それを伝えるために部屋を訪れる時間帯に合わせて、幼馴染みの彼女はバスルームで手首を切った。しかも、家政婦がその現場を見逃すことがないよう、あらかじめ、もし返事がなくても部屋に入って自分を呼ぶようにと、ご丁寧に念を押していたという。
 そして彼女の思惑どおり、家政婦は返答がないのを不思議に思いながらも部屋に入り、バスルームから水音が聞こえてくるのに気が付いた。シャワーを浴びているのだろうと思ったが、声をかけるよう指示されていたため、ためらいながらもドア越しに呼びかけてみることにした。いわれたとおりにしないと、あとでなにをいわれるかわからない。両親に甘やかされて育った彼女はわがまま放題で、自分の思ったとおりにならないと気が済まない、手のかかる性格の人間だった。
 何度かドアを叩いたり声をかけたが返事はなく、まさか倒れたりしているのではと危惧した家政婦は思いきってドアを開けるとなかを覗いた。
 そうして、バスタブにもたれて手首から血を流している彼女を発見したのだ。

 彼女の幼馴染みである御園のもとにそれを知らせてきたのは、彼女の弟であり、同じく御園と幼馴染みでもある西園寺正孝だった。
 御園と西園寺の家は近所である。一報を受けた御園は西園寺家に駆けつけた。
 事件の発見時、西園寺の屋敷には正孝たち姉弟とその母親、あとは家政婦だけで、一家の主は仕事で不在だった。
 動転する女性陣を宥めながら、正孝はすぐに御園に連絡を寄越したらしい。
 騒ぎを起こした張本人、西園寺えりかは、どうやらしたたか酒を飲んで手首を切ったらしく、酔っ払って意識がはっきりしない。しかし出血の量は大したことなく、傷もごく浅いものと、素人の御園からも見てとれた。
 少なくとも、本気で死のうとする人間の傷口ではない。ただ、もし妙な薬でも飲んでいたら厄介だ。
 救急車を呼ぶべきかとも思ったが、ひとまず止血のための応急処置を施して、御園の車でえりかを病院へ連れていくことにした。
 御園は冷静だった。えりかが自ら死を選ぶような人間ではないことはよく知っていたし、もし死んでもかまわないとさえ思っていた。
 えりかなどより、正孝のほうがよっぽど心配だった。正孝は紙のように白い顔をして黙りこくっている。衝撃を受けたのだろう。無理もない。正孝はまだ高校生で、女王様のごとく気ままに振る舞う姉に虐げられながらも、そんな姉を心底嫌いにはなれないようだった。
 えりかが御園と正孝、それぞれへのあてつけで自傷行為をしたのは明らかだ。だが正孝にはそうとわからないだろうし、それでいい。
 つまり、えりかは御園への嫌がらせを仕掛けてきたのだ。
 愚かな女だと思ってはいたが、ここまでくるともはや失笑を禁じ得ない。こんな狂言自殺を仕組んだところで御園は痛くも痒くもない。そんなこともわからないのだろうか。
 思わずふう、とため息をついてからはっとする。隣には正孝が座っていた。ぼんやりとした眼差しで御園を見ている。
 いけない。正孝を不安にさせるつもりはない。
 ふいに、冷たい手の感触がした。見ると、正孝が御園の手を掴んでいる。
「正孝、大丈夫か」
「うん。ぼくは平気」
 青白い顔で気丈に答える正孝がいじらしい。姉とは大違いだ。西園寺家の両親も理知的で立派な人格者である。甘やかされたとはいえ、なぜえりかのような性格の娘が育ったのか首を傾げるしかない。
「涼介は、大丈夫?」
「え?」
 真っ黒い澄んだ瞳が御園を見つめる。
「涼介、お姉ちゃんと付き合ってるんでしょ」

 *****

 当然というべきか、えりかは命に別状はなく、大事を取ってひと晩入院しただけですぐに帰宅した。
 御園の携帯端末にはおびただしい量の着信があった。着信拒否するのはたやすいが、そうするとあとが面倒だとわかっているのでそのままにしておいた。
 大学から帰ってくると、待ちかまえていたように母親が出迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「あの、」
 母親がなにかいいかけたところで、部屋の奥から飛び出してきた弟が母親の足に突進する。幼稚園児とはいえ、手加減を知らない子どもなので馬鹿にできない力で。
 その勢いによろめいた母親をとっさに抱き止める。父親譲りなのか御園は背が高く、母親は小柄なので胸にすっぽりと収まる。
「ご、ごめんなさい、ありがとう」
 あわてたように礼をいう母親から目を逸らして、足許の幼児を見下ろす。
「気を付けろ。転んだら大変なことになるんだぞ」
 子ども相手に少しも優しくない御園の口調に、小さな弟はびくっと身を竦めて母親のスカートにしがみつく。
「うえっ」
 怒られたと思ったのだろう。弟の目にはみるみるうちに涙があふれてきて声をあげて泣き出した。
「夏音、こんなことで泣かないの。もうすぐお兄ちゃんになるんだから」
 母親の腹は大きく膨らんでいる。
 御園の母親は後妻だった。目のまえで泣きわめいているのは異母兄弟である。
 カノンという、いかにも今風の名前を持つ子どもを宥めながら、思い出したように母親がいう。
「あ、そういえば、西園寺さんからお電話があったわよ」
母親のいう西園寺が正孝でないのはたしかだ。正孝なら端末に連絡してくるはずだし、あるいは直接家まで訪ねてくる。
 もちろん、母親は昨夜の事件のことを知らない。
「なんて」
「涼介さんが帰ってきたら連絡するよう伝えてほしいって」
 ため息をつく。
「わかった」
「涼介さん」
 踵を返しかけた御園を母親が引き留める。
「顔色がよくないわ。大丈夫?」
 昨晩はほとんど寝ていないのでしかたない。
「大丈夫」
 短く答えてふたたび玄関のドアを開ける。いくらか迷ってから、母親を振り返る。
「たぶん遅くなるから食事はいらない。戸締まりして先に休んで」
 御園の台詞に、母親は少し驚いたように目を見開いて、それから表情を和らげてうなずく。
「わかったわ。気を付けてね」
「うん」
 ドアを閉める。
 いまだにぎこちなさが残るが、こんなふうに御園が母親と口を利くようになったのはここ数年のことだ。
 父親が再婚した当時、御園は反抗期真っ盛りだった。成績こそ上位を維持していたものの、素行はまったく褒められたものでなく。家にも寄りつかず、悪い連中とつるんだり、行くあてもなくふらふらとさまよい歩いていた。
 そんな御園が、まっとうな生活を取り戻して大学に進学したのは、ひとえに正孝がいたからだ。

 西園寺家を訪ねると、くだんの気の毒な家政婦が取り次いでくれた。
「御園さん、昨夜はお世話になりました」
「いえ」
「あの、差し出がましいことと思いますが、どうぞお気を付けて」
 ひと晩でずいぶんやつれたように見える。えりかに手を焼いているのだろう。
「久保田さんも、災難でしたね。今から少しうるさくなるかもしれませんが、えりかの部屋にはだれも近付かないようにしてもらえますか」
 えりかの気性をいやというほど理解している久保田という名の家政婦は、心得たというふうに何度もうなずく。
「ええ、ええ、かしこまりました。ですが、もしなにかあったときにはお呼びくださいね」
「そうします」
 二階のいちばんいい部屋がえりかに与えられている。ドアをノックしたが返事がない。まさかまた同じ真似をすることはないだろうと思いながら、返事を待たずにドアを開ける。
 天蓋つきのお姫様のようなベッドのうえにえりかはいた。
「遅いじゃない!」
 開口いちばん怒鳴りつけられる。昨日死のうとした人間とは思えない元気さだ。
 白いひらひらしたレースのネグリジェを着た、姿形だけはお姫様のようなえりかは、上品とはとてもいいがたい鬼のような形相で御園を睨んでいる。
「あたしになにかいうことはないの」
 疑問形ではない。叩きつけるような台詞に、うんざりしながらも火に油を注ぐ。
「二日酔いにならなくてなによりだ」
「おかげさまでね」
「どういたしまして」
「厭味をいったのよ!」
 それくらいはわかる。歳上とは思えない幼稚さだ。御園の弟の夏音といい勝負かもしれない。
 えりかはじっと御園を見つめて言葉を待っている。だが、御園は元来無口なほうだし、ましてやえりかを相手に話すようなことなどなにもない。だいたい、御園がなにをいったところでえりかの神経を逆撫でするだけなのは目に見えている。
 沈黙を続ける御園に痺れを切らしたえりかが切り出す。
「恋人に自殺未遂なんかされて、気分はどう?」
 恋人、といわれてもピンとこない。殺伐としたこの関係にこれほど似つかわしくない言葉もない。
 そんなことを思いながら、御園はようやくえりかの意図に気付いた。
 どうやらほんとうに、ただのあてつけであんな茶番を演じたらしい、と。ほかになにか含みがあるのかもしれないという可能性も考えていたのだが、杞憂だったようだ。
 ばかばかしい、と呆れ果てる。
 ため息をつきそうになって、すんでのところで思いとどまる。自分のしでかした行為で御園にダメージを与えられると思い込んでいたらしいえりかは、期待していた反応が得られなかったことに、ますますへそを曲げた。
「なによ、あんたのせいで死のうとしたのよ? なんでなんにもいわないのよ!」
「あんた、そこまでしておれの気を引きたいのか」
 なにやら滑稽を通り越してだんだん憐れになってきた。御園の言葉に、かっと顔を赤くしてえりかが叫ぶ。
「だれがあんたなんか!」
「だよな」
 御園がうなずくと、えりかは一瞬ぽかんとした。そろそろこの茶番劇にけりをつけようと、御園は淡々といった。
「西園寺家のお嬢様が、素行の悪いおれみたいな男にちょっかいを出すわけないよな」
「あ、あたりまえじゃない」
「じゃあ、なんでおれを脅迫してまで付き合おうとしたんだ」
 えりかは顔を赤くしたまま言葉に詰まる。
 家が近所なので子どものころから知っているが、御園の記憶にある限り、えりかは常に喧嘩腰だった。顔を合わせればいちいち突っかかってくる。いくら彼女が素直でないとはいえ、終始そんな態度でつっけんどんに接してくる相手が自分を好いていると考えるほど、御園はおめでたい男ではない。
 だが、思い当たる節はある。
 えりかは自分がいちばんでないと気が済まない。いついかなるときも、誰よりも自分がちやほやされていないと機嫌を損ねる。
 当然、両親からも。
「あんたが、正孝には甘い顔をするからよ」
 吐き捨てるような口調でえりかはいった。
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