第2話
文字数 4,259文字
「パパもママも、えりかがいちばんかわいいよっていってたのに! 正孝が生まれてからは、正孝がいちばん。跡取りだからって、まるで宝物みたいに大事にして。世界でいちばんえりかが大事だよっていってたのに、正孝のせいで」
ひと息にそれだけの言葉を吐き出すと、えりかはベッドカバーの端をぎゅっと握りしめる。
「パパやママだけじゃない、涼介まであたしから奪うなんて絶対に許さない」
えりかの剣幕に気圧されながらも聞いていた御園は、雲行きが怪しくなってきたことに気付いて眉をひそめる。
「なんでそこにおれが出てくるんだ」
たまたま幼馴染みで身近にいたから名指しなのかもしれないが。
「涼介は正孝には優しいじゃない」
そうなじられて困惑する。たしかに、御園は正孝には甘い。なにより、正孝には借りがあるのだ。その一件以来、御園は年下の正孝に一目置いている。自分の感情優先でわがまま放題のえりかとは比べるべくもない。
えりかの言葉が本心ならば、自分から両親や友人の関心を奪った弟に対する僻みがすべての大本で。
生まれてくる妹に母親を取られまいと、必死に母親にまとわりついて気を引こうとする夏音の姿が重なった。
ほんとうに、えりかの精神は子どもなのだ。
今度こそ遠慮なく、御園は大きなため息をつく。
「もうやめよう。あんたに付き合うのは今日で終わりだ」
えりかが目を見開く。
「自分を大事にしてほしいなら、相手のことを大事にしろ。自分がしてもらうことばかりを考えていたら、だれだっていやになって離れていく」
かつての御園のように。
だが、えりかには御園の言葉は届かなかった。
「そんなこといっていいの? あの写真、ばらすわよ」
えりかはまだその切り札が有効だと信じて必死にそれにすがりつく。みじめな姿だと御園は憐れんだ。
「やりたければ勝手にやればいい。正孝はおれが守る」
最初からそう撥ね付けるべきだった。でも、えりかに付き合うことで正孝の名誉を守れるならと、えりかの脅迫に屈してしまった。
弟の正孝が逆らわないのをいいことに、えりかは彼を玩具のように扱っていた。たわむれに、正孝は女装をさせられ、その姿の写真を何枚も撮られた。
西園寺の血統を見事に受け継いだ姉と同様、正孝もまた端整な顔立ちをしている。本人は不本意きわまりない表情をしているが、女装しても様になっていた。
なにを血迷ったのか、えりかはその写真をインターネットで公開するといい出したのだ。世界じゅうの不特定多数の人間の目に触れる場所に、本人の意思でなく無理やり撮られた写真をあげるなど、嫌がらせの域を超えている。
正孝は、えりかのその愚行を知らない。
その写真を盾に、えりかは御園相手に自分と付き合うことを要求してきたのだ。正孝の写真を世界じゅうのネットユーザーのまえにばらまかれたくなければいうことを聞け、と。
御園はその要求を呑んだ。
正孝のために。
だが、狂言自殺までやらかすえりかの子どもじみた嫉妬に付き合っていたら際限がない。正孝へのあてつけにえりかが御園に執着するなら、御園はそれを拒絶するまでだ。
せめて写真は取り返したいが、えりかがおとなしく渡すとは考えられない。
背を向けて部屋を出ていこうとする御園に、えりかは叫んだ。
「待ちなさいよ! あんたに襲われたっていってやるから!」
「好きにしろ」
女には興味がない、といってやったらどんな顔をするだろう。そう思ったが、わざわざ余計な火種をまくことはない。
部屋を出ると、正孝が立っていた。
久保田に人払いを頼んでいたのに、と御園はいくぶん動揺した。いつからそこにいたのか。いくらドアが頑丈とはいえ完全防音ではない。えりかの声は筒抜けだったに違いない。
制服姿のままの正孝は、御園を見あげて微かに笑った。
「お疲れさま」
その表情に違和感を覚える。
「正孝」
「涼介、話がある。ぼくの部屋に来て」
そういうと、正孝は返事を待たずに歩き出す。御園は微かな違和感を抱いたままあとをついていく。
部屋に入ると正孝はつかつかとベッドへ向かい、腰をおろした。
「涼介、こっちに来て」
呼ばれるままに近付く。正孝のまえに立つと、彼は静かに御園の手を取る。冷たい手だった。
はじめて正孝と手を繋いだときのことが蘇る。あのときも正孝の手は冷たかった。
*****
そのころの御園は荒れていた。
父親が再婚して家のなかに他人が入ってきて、おまけにもうすぐ弟が生まれるのだと知らされた。
御園が幼いときに母親は家を出た。その母親を恋しく思うほど子どもではなかったが、思春期特有の潔癖さが新しい母親を拒絶した。
家に寄りつかず、深夜になっても街を徘徊したり、声をかけてきた連中と一緒になって、未成年では禁止されているようなことをした。
どれだけ騒いだところで、翌朝になれば醒めて白けた気分になる。余計に虚しくなるばかりで。
満たされない。なにかが足りず、でもなにが足りないのかわからず、御園は自分に苛立っていた。
そんなある日。
煙草の煙とアルコールの臭いが充満する溜まり場に、やけに毛並みのいい場違いな小学生がやってきた。摘まみ出されそうになるのを器用に避けながら、小さな少年はまっすぐに御園のほうへと向かってきた。
「涼介」
あどけない子どもの声が御園の名を呼ぶ。
「おまえ、なんでこんなところに」
呆然としつつ、つぶやく御園に正孝はさも当然だというように告げた。
「迎えに来た。一緒に帰ろう」
そのとたん、周囲から笑いが起きた。
「お迎えだって。涼介、かわいい弟じゃねえの」
「弟じゃない。幼馴染みです」
頭を派手な色に染めた不良相手に臆することなく律儀に訂正すると、正孝はふたたび御園をうながす。
「帰ろう」
「ひとりで帰れよ。ここはおまえみたいなお坊ちゃんの来る場所じゃない」
素っ気なく撥ねつける御園に、正孝はいい返した。
「涼介もだよ。涼介の居場所はここじゃない」
きっぱりといわれて思わず返事に窮する。柄の悪い歳上の男たちに囲まれて、一歩も退くようすのない正孝にひそかに舌を巻く。
お互いにもっと小さなときには一緒に遊んだりしたが、御園が小学校を卒業してからは自然と疎遠になっていた。
それなのに、なぜ今ごろになって、わざわざ正孝が自分を探しにきたのか。
「まさか、うちの親になにかいわれて来たのか」
小学生を夜の街に送り込むような親ではないと思うが、それ以外に考えられない。
「違うよ。ぼくが、自分で迎えに来たの。涼介がいないと困るから」
「なんで」
「大事だから。涼介のことが」
凜とした声に、御園は息を呑む。御園だけではない。それまで笑ったり盛んに揶揄したりしていた周囲の声が、ぴたりとやんだ。やかましい音楽がなぜか急に場違いに思えるほど、正孝の言葉はその場の空気を一変させた。
「この子、夜道をひとりで迎えに来たんだろ。涼介、一緒に帰ってやれよ」
「そーだよ、ガキんちょひとりで出歩いてたらあぶねーよ」
さっきまで冷やかしていた連中がてのひらを返したように正孝の味方につく。
いったいなにが起きたのか。
「心配してくれるやつがいるなら帰れよ」
夜の街で最初に御園に声をかけてきた男が静かな口調でいう。
唖然とする御園の手を、正孝の小さな冷たい手が掴む。
「帰ろう」
振りほどくことができなかった。
結局、御園はそのまま西園寺家に連れていかれた。えりかは御園に対して文句をいいながら部屋に閉じこもってしまったが、正孝の両親はあたりまえのように御園を迎え入れ、一緒に食事をすることになった。
ふたりとも呑気に「涼介くんが来てくれるなんてひさしぶりね」などと話していたので、まさか正孝が繁華街まで御園を迎えにいったとは考えてもいないだろう。
ほんとうに、正孝が自分の意思で御園を探しに来たのだ。
それを理解した瞬間、御園のなかでなにかが弾けた。御園の目から雫がこぼれ落ちる。身体の奥から熱い塊が込みあげてくる。
「涼介」
隣に座っていた正孝が席を立ち、傍らに寄り添う気配がした。
「……ごめん」
押し殺した声で御園は謝る。
「涼介、お帰り」
あどけない声に、その冷たい手に、御園は救われたのだ。今ならわかる。
それ以来、御園は夜遊びをぴたりとやめて家に帰るようになった。
そうしてそれを境にふたたび西園寺家との行き来が復活した。
あのとき正孝が現れなかったら、御園はきっとあのまま堕落していたし、家族とも疎遠になっていただろう。正孝の勇気ある行動のおかげで道を踏み外さずに戻れたのだ。
自分を大事に思い、必要としてくれる存在がどれほど大きいものか、小さな正孝によって御園は教えられた。
*****
「馬鹿だね」
正孝の声に、御園ははっと我に返る。ベッドに腰かけた正孝は御園の手を掴んだまま、微かな笑みを浮かべて見あげてくる。
それは御園が知っている笑顔ではない。こんなふうに冷ややかな笑みを見せる正孝を、御園は知らない。
「正孝?」
「放っておけばそのうち勝手に自滅するとは思っていたけど、案外早かったね」
額にかかるさらりとした黒髪の下からこちらを見あげてくる瞳は、くっきりと冴えて御園をとらえる。
「ねえ、写真ってなんのこと?」
正孝の問いにぎくりとする。やはり先ほどの会話を聞いていたのだ。
「もしかして、ぼくの写真?」
御園は答えられない。だがその沈黙が答えだった。
「ぼくのために、涼介はえりかと付き合っていたの?」
えりか、と、正孝が姉を呼び捨てにするのをはじめて聞いた。
これまで、えりかからどんな無体な目に遭わされようとも反撃ひとつせず、黙って耐えつづけていた正孝。そんな正孝を少しでも守れたらと、御園は大学に進学しても家を出ずに実家に留まっていたのだ。
「そうだとしたら、えりかはほんとうに馬鹿だよね。あれで涼介を手に入れたつもりになって。ぼくの写真を盾に取って脅して、それで涼介がおとなしくいうことをきいていたのは、つまりはぼくのためだって、ちょっと考えればわかるのに」
「正孝、おまえ」
「なあに?」
立ち尽くす御園を首を傾げて見あげながら、正孝は無邪気に笑う。これは御園が知っている、いつもの正孝の表情だ。
「びっくりした?」
ひと息にそれだけの言葉を吐き出すと、えりかはベッドカバーの端をぎゅっと握りしめる。
「パパやママだけじゃない、涼介まであたしから奪うなんて絶対に許さない」
えりかの剣幕に気圧されながらも聞いていた御園は、雲行きが怪しくなってきたことに気付いて眉をひそめる。
「なんでそこにおれが出てくるんだ」
たまたま幼馴染みで身近にいたから名指しなのかもしれないが。
「涼介は正孝には優しいじゃない」
そうなじられて困惑する。たしかに、御園は正孝には甘い。なにより、正孝には借りがあるのだ。その一件以来、御園は年下の正孝に一目置いている。自分の感情優先でわがまま放題のえりかとは比べるべくもない。
えりかの言葉が本心ならば、自分から両親や友人の関心を奪った弟に対する僻みがすべての大本で。
生まれてくる妹に母親を取られまいと、必死に母親にまとわりついて気を引こうとする夏音の姿が重なった。
ほんとうに、えりかの精神は子どもなのだ。
今度こそ遠慮なく、御園は大きなため息をつく。
「もうやめよう。あんたに付き合うのは今日で終わりだ」
えりかが目を見開く。
「自分を大事にしてほしいなら、相手のことを大事にしろ。自分がしてもらうことばかりを考えていたら、だれだっていやになって離れていく」
かつての御園のように。
だが、えりかには御園の言葉は届かなかった。
「そんなこといっていいの? あの写真、ばらすわよ」
えりかはまだその切り札が有効だと信じて必死にそれにすがりつく。みじめな姿だと御園は憐れんだ。
「やりたければ勝手にやればいい。正孝はおれが守る」
最初からそう撥ね付けるべきだった。でも、えりかに付き合うことで正孝の名誉を守れるならと、えりかの脅迫に屈してしまった。
弟の正孝が逆らわないのをいいことに、えりかは彼を玩具のように扱っていた。たわむれに、正孝は女装をさせられ、その姿の写真を何枚も撮られた。
西園寺の血統を見事に受け継いだ姉と同様、正孝もまた端整な顔立ちをしている。本人は不本意きわまりない表情をしているが、女装しても様になっていた。
なにを血迷ったのか、えりかはその写真をインターネットで公開するといい出したのだ。世界じゅうの不特定多数の人間の目に触れる場所に、本人の意思でなく無理やり撮られた写真をあげるなど、嫌がらせの域を超えている。
正孝は、えりかのその愚行を知らない。
その写真を盾に、えりかは御園相手に自分と付き合うことを要求してきたのだ。正孝の写真を世界じゅうのネットユーザーのまえにばらまかれたくなければいうことを聞け、と。
御園はその要求を呑んだ。
正孝のために。
だが、狂言自殺までやらかすえりかの子どもじみた嫉妬に付き合っていたら際限がない。正孝へのあてつけにえりかが御園に執着するなら、御園はそれを拒絶するまでだ。
せめて写真は取り返したいが、えりかがおとなしく渡すとは考えられない。
背を向けて部屋を出ていこうとする御園に、えりかは叫んだ。
「待ちなさいよ! あんたに襲われたっていってやるから!」
「好きにしろ」
女には興味がない、といってやったらどんな顔をするだろう。そう思ったが、わざわざ余計な火種をまくことはない。
部屋を出ると、正孝が立っていた。
久保田に人払いを頼んでいたのに、と御園はいくぶん動揺した。いつからそこにいたのか。いくらドアが頑丈とはいえ完全防音ではない。えりかの声は筒抜けだったに違いない。
制服姿のままの正孝は、御園を見あげて微かに笑った。
「お疲れさま」
その表情に違和感を覚える。
「正孝」
「涼介、話がある。ぼくの部屋に来て」
そういうと、正孝は返事を待たずに歩き出す。御園は微かな違和感を抱いたままあとをついていく。
部屋に入ると正孝はつかつかとベッドへ向かい、腰をおろした。
「涼介、こっちに来て」
呼ばれるままに近付く。正孝のまえに立つと、彼は静かに御園の手を取る。冷たい手だった。
はじめて正孝と手を繋いだときのことが蘇る。あのときも正孝の手は冷たかった。
*****
そのころの御園は荒れていた。
父親が再婚して家のなかに他人が入ってきて、おまけにもうすぐ弟が生まれるのだと知らされた。
御園が幼いときに母親は家を出た。その母親を恋しく思うほど子どもではなかったが、思春期特有の潔癖さが新しい母親を拒絶した。
家に寄りつかず、深夜になっても街を徘徊したり、声をかけてきた連中と一緒になって、未成年では禁止されているようなことをした。
どれだけ騒いだところで、翌朝になれば醒めて白けた気分になる。余計に虚しくなるばかりで。
満たされない。なにかが足りず、でもなにが足りないのかわからず、御園は自分に苛立っていた。
そんなある日。
煙草の煙とアルコールの臭いが充満する溜まり場に、やけに毛並みのいい場違いな小学生がやってきた。摘まみ出されそうになるのを器用に避けながら、小さな少年はまっすぐに御園のほうへと向かってきた。
「涼介」
あどけない子どもの声が御園の名を呼ぶ。
「おまえ、なんでこんなところに」
呆然としつつ、つぶやく御園に正孝はさも当然だというように告げた。
「迎えに来た。一緒に帰ろう」
そのとたん、周囲から笑いが起きた。
「お迎えだって。涼介、かわいい弟じゃねえの」
「弟じゃない。幼馴染みです」
頭を派手な色に染めた不良相手に臆することなく律儀に訂正すると、正孝はふたたび御園をうながす。
「帰ろう」
「ひとりで帰れよ。ここはおまえみたいなお坊ちゃんの来る場所じゃない」
素っ気なく撥ねつける御園に、正孝はいい返した。
「涼介もだよ。涼介の居場所はここじゃない」
きっぱりといわれて思わず返事に窮する。柄の悪い歳上の男たちに囲まれて、一歩も退くようすのない正孝にひそかに舌を巻く。
お互いにもっと小さなときには一緒に遊んだりしたが、御園が小学校を卒業してからは自然と疎遠になっていた。
それなのに、なぜ今ごろになって、わざわざ正孝が自分を探しにきたのか。
「まさか、うちの親になにかいわれて来たのか」
小学生を夜の街に送り込むような親ではないと思うが、それ以外に考えられない。
「違うよ。ぼくが、自分で迎えに来たの。涼介がいないと困るから」
「なんで」
「大事だから。涼介のことが」
凜とした声に、御園は息を呑む。御園だけではない。それまで笑ったり盛んに揶揄したりしていた周囲の声が、ぴたりとやんだ。やかましい音楽がなぜか急に場違いに思えるほど、正孝の言葉はその場の空気を一変させた。
「この子、夜道をひとりで迎えに来たんだろ。涼介、一緒に帰ってやれよ」
「そーだよ、ガキんちょひとりで出歩いてたらあぶねーよ」
さっきまで冷やかしていた連中がてのひらを返したように正孝の味方につく。
いったいなにが起きたのか。
「心配してくれるやつがいるなら帰れよ」
夜の街で最初に御園に声をかけてきた男が静かな口調でいう。
唖然とする御園の手を、正孝の小さな冷たい手が掴む。
「帰ろう」
振りほどくことができなかった。
結局、御園はそのまま西園寺家に連れていかれた。えりかは御園に対して文句をいいながら部屋に閉じこもってしまったが、正孝の両親はあたりまえのように御園を迎え入れ、一緒に食事をすることになった。
ふたりとも呑気に「涼介くんが来てくれるなんてひさしぶりね」などと話していたので、まさか正孝が繁華街まで御園を迎えにいったとは考えてもいないだろう。
ほんとうに、正孝が自分の意思で御園を探しに来たのだ。
それを理解した瞬間、御園のなかでなにかが弾けた。御園の目から雫がこぼれ落ちる。身体の奥から熱い塊が込みあげてくる。
「涼介」
隣に座っていた正孝が席を立ち、傍らに寄り添う気配がした。
「……ごめん」
押し殺した声で御園は謝る。
「涼介、お帰り」
あどけない声に、その冷たい手に、御園は救われたのだ。今ならわかる。
それ以来、御園は夜遊びをぴたりとやめて家に帰るようになった。
そうしてそれを境にふたたび西園寺家との行き来が復活した。
あのとき正孝が現れなかったら、御園はきっとあのまま堕落していたし、家族とも疎遠になっていただろう。正孝の勇気ある行動のおかげで道を踏み外さずに戻れたのだ。
自分を大事に思い、必要としてくれる存在がどれほど大きいものか、小さな正孝によって御園は教えられた。
*****
「馬鹿だね」
正孝の声に、御園ははっと我に返る。ベッドに腰かけた正孝は御園の手を掴んだまま、微かな笑みを浮かべて見あげてくる。
それは御園が知っている笑顔ではない。こんなふうに冷ややかな笑みを見せる正孝を、御園は知らない。
「正孝?」
「放っておけばそのうち勝手に自滅するとは思っていたけど、案外早かったね」
額にかかるさらりとした黒髪の下からこちらを見あげてくる瞳は、くっきりと冴えて御園をとらえる。
「ねえ、写真ってなんのこと?」
正孝の問いにぎくりとする。やはり先ほどの会話を聞いていたのだ。
「もしかして、ぼくの写真?」
御園は答えられない。だがその沈黙が答えだった。
「ぼくのために、涼介はえりかと付き合っていたの?」
えりか、と、正孝が姉を呼び捨てにするのをはじめて聞いた。
これまで、えりかからどんな無体な目に遭わされようとも反撃ひとつせず、黙って耐えつづけていた正孝。そんな正孝を少しでも守れたらと、御園は大学に進学しても家を出ずに実家に留まっていたのだ。
「そうだとしたら、えりかはほんとうに馬鹿だよね。あれで涼介を手に入れたつもりになって。ぼくの写真を盾に取って脅して、それで涼介がおとなしくいうことをきいていたのは、つまりはぼくのためだって、ちょっと考えればわかるのに」
「正孝、おまえ」
「なあに?」
立ち尽くす御園を首を傾げて見あげながら、正孝は無邪気に笑う。これは御園が知っている、いつもの正孝の表情だ。
「びっくりした?」