第2楽章 第1節

文字数 3,369文字

「青葉君。黄緑は好きですか?」
 ことさら両手を背中へ回して近づいてきた姉は、ソファに沈み込んだまま目だけを上げた弟の鼻先へそれをひょいと吊るした。
 半秒後、弟は泡を食って身を起こす。
「何、それ」
「遥がくれた。弟さんにって」
 今あるフェルトで作ったからこの色だって、と言い添える。
 姉が揺らしているのは、黄緑の本体に緑の()(ばん)を持つバイオリンだった。公募展に出ていたものと同じ大きさと思しいが、ストラップのように深緑の紐がついている。
 弟さんに。
 ——自分に?
「使わないならあたしが貰っていいって許可取ってあるけど」
「使うし」
 気持ちとしてはひったくりたいところだったが、それではバイオリンを傷めそうなので大人しく取り上げる。姉も特に意地悪をして紐を握ったままでいたりはしなかった。
「姉ちゃんにはティーセットがあるだろ」
「ティーセットもあるし、苺もパイナップルもあるけどね」
「あれもあの人なの?」
 鍵と定期券につけているストラップのことだ。そういえばあれらも、フェルトだった。
「くれすぎじゃね?」
「ねえ。お金取ってよさそうなレベルなのに」
「……お礼言っといて」
 はいよ、と満足げな姉をリビングに残して、青葉は自分の部屋へ上がった。どこにどう使おうかとは、一瞬たりとも迷わなかった。
 バイオリンケースに、下げよう。

「ちょっと日下何それー!?
 甲高い声が響いて青葉はどきりとしたが、
「わ、すっげえ。何でできてんの?」
と力の声がほとんど同じことを反復したから内心胸を()で下ろした。ここならきっと大丈夫だと踏んではいたものの、やはり、緊張はあったらしい。
「フェルト。あとテグスとビーズ」
「写真撮っていい?」
 尋ねる力はもうスマートフォンを構えている。許可の意を込めて頷いたものの、(むし)ろこちらから頼みたいぐらいだ。力の腕なら、自分よりもずっと見栄えよく撮れるだろう。
「アップしてOK?」
 SNSに、である。これにも頷く。
「あ、あたしもあたしも。い?」
「シグはよくてオミは駄目ってことはないよ」
 フェルトのバイオリンに最初に飛びついた(うお)()(まな)は、バイオリンでなくトランペットの奏者である。青葉とも、良大や力とも、一度は同じクラスになったことがあるから、同じバイオリンの団員たちよりもひょっとしたら近しい仲だと言えるかもしれなかった。
 つられるように他にも二、三人が覗き込んできた。
「え、どしたのこれ」
 今になってその質問が来る。
「姉ちゃん経由で貰った」
「経由って何よ」
「姉ちゃんの友達のお母さんから」
「あ、この間言ってた」
 三週間前の会話を覚えていたらしい。
「なんか思ってたのと全然違うんだけど。こういうの作ってんだ」
「ううん、それは特別。こっちがメイン」
 二人に見えるようにスマートフォンを差し出した。姉から届いた、弦楽器が五台並んでいる例の写真を表示して、先ほどから待機していたのだ。自分が撮った一台ずつの写真よりも、五台揃っていた方がインパクトがあるだろう。
 二人は期待に違わない歓声を上げた。
「弦五部じゃん! やーんカラフル」
「すげえ、ちゃんとどれがどれかわかる」
「コントラのペグだけこっち向きでな」
 力ならおもしろがってくれると思った。真っ先に愛に発見されるとは予想しなかったものの、これはありがたい誤算である。
 となれば、本番はここからだ。青葉は次の写真を開くと、気の()いた前置きも思いつかなかったので、黙ったまま、見せた。
 二人は——笑い出した。
「えっちょっと待ってえ」
「やっべえ、何、この」
 言葉がみつからない代わりにジェスチャーでの伝達を試みるかのように、力は片手をぐるぐると回した。
「すげえんだけど、すげえんだけどさ、数あるって、すげえ、笑える」
 的確な表現にこちらも笑った。要点がよくまとまっている。
 先ほど見せたのと同じ五種類の弦楽器が、画面いっぱい、所狭しと並んでいるのだ。初めて見たときの青葉は、笑うよりも(あっ)()に取られたのだったけれど。誰が思うものか。大量にある、なんて。
「売ってんの?」
 首を振る。自分も姉に同じことを訊いた。
「売ってないの!?
「え、売らないのにこれ? なんで?」
「俺がいないのに始めないでよ」
 唐突に横合いから良大が口を出した。姿が見えないとは思ったが、どうやらたった今来たらしい。
「公民館の手芸展に行くって話したろ」
「姉ちゃんとデートな」
「本当は文化館の手工芸展だったんだけど」
「はあ?」
「で、あったのがこれ」
 一枚目を見せれば、おお、と一言だけ返ってくる。大したリアクションではなかったから、舞い上がっていたのを現実に引きずり下ろされたような気が一瞬したけれど、と思うやスマートフォンがするりと手から抜けて、良大の手に収まった。貸せとも言わずに持っていった辺り、食いついてくれたらしい。
「ストバイとセコバイなわけ」
「だってさ」
「優遇されてんなーバイオリン」
「次も見てみ」
「——何やってんのこの人」
 目を円くしてから(そう)(ごう)を崩すのに、こちらも笑まれる、というよりも、にやける。姉が詳細を伏せたまま誘った気持ちがよくわかった。
 と、良大はふっと真顔になった。指を二本揃えて、画面の中を数え出す。
「ガチじゃん」
 そう呟いた声こそ真剣すぎたからだろう、青葉のバイオリンケースを指して後輩相手にきゃあきゃあ言っていた愛が、耳聡く振り返る。
「十二、十、八、六、四、っしょ?」
「そういうこと」
 得たり、とばかりに青葉は頷いた。流石(さすが)は良大、解説するまでもなかった。
 第一バイオリンが十二台、第二バイオリンが十台、ビオラが八台、チェロが六台、コントラバスが四台。この内訳は、十二型と呼ばれる編成だ。
 もっと言えば、要するに。この作者が作ったのは、五種類の弦楽器でもなく、大量の弦楽器でもなく。
 一つのオーケストラ、なのだ。
「ああーなるほどー!」
「よくわかったなリョウ。俺全っ然気づかなかったわ」
「君とは観察眼が違うんです」
「オケ全部あるから」
 なんであんたがドヤるのさ、と姉にやり返されそうだ。
 スマートフォンを取り返して、今度は木管楽器の一群を開いた。薄ピンクのフルート、藤色のピッコロ、空色のオーボエ、青緑のクラリネット、黄色のファゴット。
「続きあんの? え? 続くの?」
「金管見して金管」
「木管にも興味を持てよおまえは」
「オミはペットをこよなく愛してるからな」
 力の叱責と良大のフォローを聞き流しながら、愛のリクエストに応じるべくページをめくる。トランペットがあることを最初から知っていたなら、現にこの場にある青葉のバイオリンにも、愛はさして興味を示さなかっただろう。このオーケストラの全員とは言わぬまでも、同じ時期に管弦楽部にいた部員の間では周知のことだから、今の発言を木管の奏者が聞いていたとしても気を悪くしてはいまい。
「きゃーんペット! ペットー!」
「うん、よかったな。よかったのはわかったからこっちにも見せなさいオミ」
「日下これ写真ちょうだいこれ」
「後でな。ペット単独の写真もあるから——」
「どれ!?
「その辺にしなさい」
 ぴしゃりと(さえぎ)る声に、四人は揃ってそちらを見た。同学年がもう一人、腰に手を当ててこちらを睨んでいる。こちらも一度同じクラスになったことがある、(しら)(とり)()()だ。
「後にしなさいよ」
「知果も見せてもらいなよ。ホルンあるよ」
「あ・と」
 愛は引き下がりそうになかったが、青葉は素直にスマートフォンを引き取る。画面の右上を見れば、実際、そろそろ練習に取りかかるべき時間である。勿論(もちろん)、確かめるまでもなく、知果が口を挟んできたということは、もう本当に後がないということだ——口うるさいようでいて、雑談に横入りするのが不得意だから、余裕があるうちには言ってこない。
 ……フェルト製のホルンが実は気になっていたとしても、仲間に入れてと自分からは切り出せないだろう。
 愛を追い立てていく後ろ姿にちらと目をやる。願望混じりの心配をする必要は、多分、ないだろうけれど。

 休憩時間に案の定、愛が知果を引っ張ってきたから、青葉は金管楽器の集合写真を開いてから渡してやった。集合写真から三枚めくった、ホルンのアップが表示されただろうタイミングで、知果の頬に赤みが差したような気がしたけれども、それは思い成しだったろうか。
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