第1楽章 第3節

文字数 4,991文字

 ビオラの()(ばん)と弓と肩当ては、何色だったろう。
 本体が濃い青をしていたことは間違いない。基本的に、指板と弓は同じ色をしていたような気がする。二台あるバイオリンの肩当ては、指板とは違う方の色だった。一台しかないビオラは——どうだったろう?
 記憶にないわけではないが、記憶に自信がない。気になり始めるとどうにも落ち着かなくて、悩んだ末に青葉は再び、日曜日の午前中に、今度は一人で、文化館を訪れた。姉に頼めば写真ぐらい送ってもらえそうだけれども——どうせなら、本物を見たい。
 そんなことのために勇気を振り絞る必要があるとは(こっ)(けい)な話かもしれなかったが、これでも大した進歩、だ。自分を励ましながら自動ドアをくぐる。ガラスの壁の左下で、二頭身のキャラクターが靴の泥を落とすよう促していた。ということに今さら目が留まったのは逃避だったかもしれない。
 中は静かだったが、先日よりは人気があるように感じた。あのときが少なかったのかもしれない、今日よりも早い時間に来ているから。そわそわした気持ちで、急ぎ足に二階へ向かったのだったが。
「……マジか」
 会場の入り口がなくなっていて、青葉は少々途方に暮れて壁の前に(たたず)んだ。
 一週間しかない、と姉が確かに言っていた。約一週間、という意味に無意識に(とら)えていたけれども、きっかり七日間だったらしい。そういえば先日見かけた公募展のポスターも今日は見当たらず、何か別の企画展の告知に差し替わっていた。
 空振り、というよりも空回りした気分だった。ここ数日、本気で、悩んだのに。……見られない、のか。
 一瞬良大が恨めしくなったものの、映画で潰れなかったとしても、昨日の午前中には来なかっただろう自覚がある。ぎりぎりまで、先延ばしにしただろう。
 ……この場で呆けていても仕方ない。我に返って、とりあえず(あと)退(ずさ)る。壁の前に立ち尽くしているわけにもいくまい。
 このまますごすご帰るのもあんまりだと、レンタルボックスの部屋を覗くことにした。レンタルボックスの中身は多くが油絵で、絵画教室か何か、同じグループに所属している人々の作品らしかった。発表会代わりなのかもしれない。手前の二つは陶器、次の二つは木彫りの鳥と染め物だった。どれも別に、自分が眺めていては変な目で見られるのではないか、と身構えるようなものではない。(もっと)も、フェルトのティーセットであろうと手縫いの(うさぎ)であろうと手編みの熊であろうと、身構えなければいけない理由など本当はないはずだけれど。
 その隣りは常設展示の部屋で、入り口付近に並べてある土器が外からでも見える。この地域で出土したものなのだろう。その先まで行ってみると急に時代が飛んで、地元の名産品を紹介していたり、お手玉やおはじき、あるいは双六(すごろく)といった「昔の」遊び道具が置いてあったりした。(ぜに)(ます)や天秤棒をみつけたときには、良大や力が一緒にいれば盛り上がれそうな気がしたけれど、一人ではせいぜい、手に取って終わりだ。何より、当てが外れた後だから、今一つ身が入らない。
 常設展示から出てきたところで、ぎくりと立ち止まった。母親ほどの年齢の女性が長椅子に腰かけて、手提げを抱えて目を閉じていたのだ。寝てる、と驚いたのが最初で、具合でも悪いのだろうかとそれから思いつく。そうだとしたら放っておいてはいけないという正義感が頭をもたげたものの、いつもの人見知りが覆い被さるように襲ってきて、結果、固まることになった。
 前にも後ろにも進めずにいるうち——手提げにぶら下がっている、薄いピンクの塊に気がついた。
 薄いピンクに、赤紫の——指板が、走っている——バイオリン。
 距離があるのに、凝視してしまった。記憶にあるものより、小さいが……こちらも赤紫の弓は、本体に縫いつけてあるようだが……いや、だが、細部は違えど、あれは。
 ごろごろと音がしたのにびくりと顔を上げれば、壁が開いて、段ボール箱を抱えた若い女性が出てくる。片手で壁を閉ざし、まっすぐ長椅子に歩み寄ったのは、姉の友人に違いなかった。気配を察して目を開けたのは、では、その母親——か。
「回収してきたよ」
「ありがとう。ごめんね」
「暑いもの、今日は」
 娘は母親との間に段ボール箱を置いて、自分も長椅子に座った。箱の(ふち)には上も下もカラーガムテープが一周していて、シンプルながら華やかだった。
 こっそり深呼吸をしてから、青葉は踏み出した。
「あの……大丈夫ですか」
「あ、空の弟さん」
 同時にこちらを向いた顔の片方から、()(げん)な色がすぐさま消えたことにほっとする。バイオリンの子よ、ともう片方へ向けて補足するのには(おも)()ゆい心持ちになったが。
「ちょっと、暑さ負けしちゃって」
 休めば大丈夫、とその母親は手を振った。この人が、作者——あれの——五台の、フェルトの、弦楽器の。
 自己申告を疑うほど、声が(かす)れていたり青()めていたりするわけでもなかった。それは結構なことだったが、……次は、何を言おう。
「もう一回見ようかと思って来たんですけど。終わってて」
「昨日までだったのよ。今日は搬出に来たの」
 事実を告げただけなのに弁解をしているような気分になったが、そうした内面は伝わっていないだろう。一週間なんて短いわよね、などと眉を下げてみせながら、姉の友人は当たり前のように段ボール箱を開けた。色とりどりの弦楽器と弓が、組になって保存袋に収まっている。スタンドは五つ重ねて輪ゴムで留めてあった。
 第一バイオリンを手に取って、娘は母へちらと視線を投げる。渡してよいかという確認だったのだろう、それから袋を開けてにっこりと差し出してきた。頼む前から叶ったことに一瞬戸惑ったものの、見たくて来たのだと言ったのだから何の不思議もなかった。
 口の中でもごもごと礼を呟いて、受け取る。ぬいぐるみのように綿か何かを詰めてあるのだろう、手応えがしっかりとあった。縫い目は丁(ねい)だが、手縫いだとわかる程度ではある。くるくる巻いてある先端の渦巻きが、何だか可愛らしい。
 壊してしまわないかと思うと、あちこち触る気にはなれなかった。肩当てなどは外れないだろうが、ペグやブリッジといった細部は怖い。
「——あ……弦」
 気づくことがあって、目を上げる。手の中を指さして、言葉を探した。
「中のやつが、長いんですね」
 本物であれば弦の先がペグに巻きついているわけだが、そんな仕組みはフェルト中心の作品で再現するには向かないだろう。だからペグは四つのビーズが頭の部分を表しているだけで、軸の部分はない。
 が、上のペグに巻きついているはずの内側二本の弦は、上のペグに巻きついているはずであることを示すように、外側二本よりも少し上に長いのだ。
「あ、わかる?」
 作者の顔が輝いた。急に背筋が伸びたように見えた。つられるように頬を緩ませた青葉も、かといってそこから饒舌になれるわけでもなかったものの、緊張が幾分ほぐれたように感じた。
「あの、……写真、撮ってもいいですか」
 恥ずかしい、と作者は口を押さえて笑った。
 五台を順に借りて、一つ一つ、写真に収めた。水色にレモン色の第一バイオリン、水色にピンクの第二バイオリン、濃い青のビオラ、薄黄色のチェロ、薄緑のコントラバス。弓も五本まとめて最後に撮らせてもらった。
「ありがとうございます、すごい……よかったです」
 もう少し言うことはないのか。情けなくなってから、思い出して急いで付け足す。
「コントラバスのペグもちゃんとこっち向きで」
 母と娘は嬉しそうに顔を見合わせる。そっくり同じ表情をするのに、こちらの口元も(ほころ)んだ。言って——言えて——よかった。
「そういうのも、あるんですね」
「あ、これはこれだけ」
 手提げのストラップを示せばそうした返答で、何だか安堵してしまった。このサイズでもう一揃い、オーケストラが別にあると言われたらどうしようと思った。
「作ってみたんだけど、流石(さすが)に小さすぎて。バランスがよくないの」
「でも、その……ちゃんとしてて……ちゃんと、バイオリンで」
 小さい指板の間に弦が四本あって、その先にはペグが四個あって。バランスがよくないというのはその指板のことかもしれない、弦を四本入れるために太くなりすぎていると言えばそうかもしれないけれど。
「木管とかもあるって聞いて。……すごいなって」
 おもしろみのない単語ばかりを繰り返しているのに、二人は一々、心底嬉しそうにしていた。娘の方は半ば微笑ましげと言った方がよかったかもしれない——友人の弟に対してなのか、自身の母親に対してなのかは、(はか)りかねたが。

 ビオラの指板は白で、弓と肩当てが赤だった。他のとは違うんだな、と青葉は写真を行き来する。
 弓を白くしなかった理由は見当がつく。毛の部分が白いのだ。バイオリンもチェロもコントラバスもそれは同じで、毛に見立てた白く細いリボンがピンと張って——はおらず、流石にと言おうか、幾分たるんでいるが。
 弓に合わせて指板と緒止め板を赤くしなかったのは、色が濃くなりすぎるから、だろうか。四種類の中でビオラの青が一番濃いし、弓の赤もなかなか強烈だ。五種類の間で法則を統一することよりも、各々の見栄えの方が重要だろう。バイオリンとビオラの駒がf字孔と違う色をしているのも恐らくそういうことだ。肩当てがある分、パーツが一つ多く、パーツが多い分、色数が少ないと単調になる。
「降りないつもり?」
「え? ——あ」
 目の前で手を振られて、慌ててバイオリンをつかんで立ち上がる。もう着いたのか。
「あっぶね、サンキュ」
 乗り合わせていたかつての部活仲間は、肩を(すく)めただけでさっさとバスを降りた。何をそんなに夢中になっていたのかと問われれば、柄にもなく嬉々として説明しただろうけれども、そこまで都合のよいことにはならなかった。

 練習を終え、友人たちとの夕食を終え、駆け足でバスに収まった青葉は、スマートフォンを見て目を(みは)った。大量の楽器の写真が姉から届いていたのである。
『なにこれ』
『遥に貰った』
『そりゃそうだろうよ』
 こんなものを作る知人が他にもいるとは思われない。
『全部出して撮ってくれたみたい。何か言ったの?』
『木管もあるんですよねとは言ったけど』
 そちらも見たいとまでは言い出せなかった。
 文化館で遭遇したことは、この言いようからすると伝わっているだろう。
『フルオケってそういう意味?』
 短く返信して写真に戻る。木管楽器の集合写真、金管楽器の集合写真、ティンパニ、ドラム、シンバル、()()——。
『マリンバなんて聞いてないんだけど』
『打楽器はいっぱいあるって言ってたでしょ』
 そうは言っていなかった気がするが、つまり、マリンバ以外にもあるらしい。
『木管と金管のバラのやつもいる?』
『あんの?』
『一気に全部送ったら引かれると思って』
 既に十分すぎる量なのだが。
 手始めに一本だけのフルートのアップが送られてくる。コントラバスの弓と同じ色だろうか、薄ピンクのフェルトでできた本体に、オレンジのビーズと、スパンコールが縫いつけてあった。ああ、スパンコールはキーになるのか。
 それから次々と木管楽器が届き、金管楽器が届き、聞いていなかった楽器が届いた。下手をすると今度こそ乗り過ごしかねないと、バスが停まるたびに現在地に意識を向けていたのは金管楽器の途中までで、じきに画面から目を離せなくなった。
 姉が送ってくるわけで、その友人が送ってきたわけだ。これは、見たくなる。知らせたくなる。共有したくなる。
『これでラスト』
 最後の一枚に、青葉は仰向いて笑った。楽器ではない、指揮台なのだ。譜面台に開いた楽譜と指揮棒も添えてある。楽譜は流石に簡略化されていて、左のページにはト音記号が一つだけあり、右のページには水平線が五本並んでいた。五線譜、だ。
 この人、好きだわ。
 フェルトであることも、楽器であることも。第一バイオリンと第二バイオリンを作り分ける発想も、ペグの向きが正しくなっている完成度も。弦の長さを変える()密さも、オーケストラを全て揃える大胆さも。指揮台で締め(くく)るセンスも。
 姉の友人が(うらやま)ましくなった。一つ一つ楽器ができあがっていくのを、リアルタイムで一番先に見てきたのだ。そしてまた、一つ一つ作り上げていくのはどんなに楽しかったろうと——作者に対しても、(せん)望が湧いた。
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