遺伝子

文字数 1,470文字

 俺の親父は、山岳救助隊員だった。だが、まだ俺が小学生の時に山で殉職した。弟はまだ小学校へも上がっていなかった。あれから母は、女手ひとつでどれだけ苦労して俺たち兄弟を育ててくれたことだろう。
 俺は山が嫌いだ。理由はもちろん、親父を奪ったからだ。
 ところが、なんと弟は親父の後を継ぎ、山岳救助隊員になった。幼すぎて親父の面影すら知らない弟は、その仕事の中に父親の姿を探したのだろうか? それとも親父の遺伝子がそうさせたのだろうか?
 ある日、その弟が遭難者の救助中に滑落したという知らせが届いた。まさか親子そろって……そんなことがあっていいのだろうか! 俺は母の気持ちを思うと胸が張り裂けそうだった。
 病院に駆けつけた俺の目に、そこに横たわる弟の姿が、幼い時に見た父親の姿と重なった。母親がすがりつくその光景もあの時と同じだ。
「父さんが守ってくれるから大丈夫だ、しっかりしろ!」
 俺は涙をこらえて叫ぶと、弟は力なく言った。
「兄さん、ごめん……母さんを頼む……」
 
 弟の一周忌が近づいた頃、母がどうしても慰霊登山に行きたいと言い出した。俺は山なんかには絶対に登らないし、年老いた母を連れていくことなどできるわけがない。ところが、その日を待たずに母は急死してしまった。そして最後の言葉は、
「山へ行く……」
だった。
 俺は仕方なく、弟の命日に母の遺影を胸に山に登った。
 弟が滑落した場所に着くと、そこには一人の若い女性がいた。墓標の前に手向けられた花は彼女の手によるものだろう。
 俺が兄だと名乗ると、その女性は深々と頭を下げた。俺はすぐに弟が助けた女性だとわかった。職務上のことなので弟の身元を教えてもらえなかったというその女性は、線香もあげられず、こうしてここへ来たと話した。
 一緒に下山する途中、山の天気が急変した。俺には登山の知識はないが、なぜか自然と適切な行動をとった。そして荒天の中、無事に女性を連れて麓までたどり着いた。今にも捜索に向かおうとしていた地元の人たちは、自力で下山した俺たちを見て驚いていた。
 弟が力を貸してくれたのだろうか? それとも、俺にも親父の遺伝子が伝わっているということだろうか……
 
 俺は、その後も、山には背を向け続けた。父ばかりか弟まで奪った山を許すことなど到底できない。ただ弟の命日だけには、必ず登った。そして、その墓標の前には、いつもあの女性の姿があった。
 一年に一度しか会うことのない女性を、一年に一度は必ず会う女性だと意識し始めたのは、初めて会ったあの日から十年の月日が流れた頃だった。十回も一緒に下山しながら、ただ黙々と歩くだけで名前すら聞いたことはない。この女性が悪いわけではないのはわかっていた。でも、この山と共犯だという思いがどこかにあったのだろう。
 十年目のその日、下山後に初めて話らしい話をした。そして、彼女は自分だけが幸せになるわけにはいかない、と思い詰めていることを知った。弟は立派な殉職で本人は本望だった、そういくら説いても駄目だった。山を愛する人はこんなにも純粋なのかと俺は驚いた。
 そう思えば、親父も弟も、そしてあんなに辛い思いをさせられたはずの母でさえ、山のことを一度も悪く言わなかった。みな純朴な人柄だった。俺にも同じ遺伝子が流れているはず、素直な目で今一度、山を見てみよう、そう思った。
 
 
 晩年の俺は、山登りで鍛えられた足腰のおかげで、健康に恵まれた。そして、今年もまた、弟の墓標に花を添えに来た、ここで出会った妻とともに。

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