第2話

文字数 1,574文字

 風はごうごうと吹く。波が砕けてデッキに降る。船は揺れる。具合が悪くなり、胃の中のものをすっかり吐いてしまった。弱った顔で、すごい嵐だねと私が言うと、こんなのは嵐じゃないよと、山田さんは返す。南氷洋の暴風圏の凄さを話す。床が壁になり、壁が床になるほど船が傾くのだと、脅かす。遠洋漁業の船に乗っていた時、嵐の中、米を炊いたが釜の中でご飯が斜めに炊きあがっていたと、教えてくれた。どこまで本当か判らないが楽しい人だ。
 無事「嵐」を乗り切り、また穏やかな航海にもどる。あの苦しさに比べたら……暑さにはもう不平は言わない。夜にはデッキに寝転んで空を見るのが日課になる。周りに明かりが無いので、星が本当に綺麗に観える。ほかの乗客も夜空を楽しんでいる。
 最後の寄港地オーストラリアのパース郊外フリーマントルに入港する。ここでイギリス人など十五人と、南極のツアーガイド三人が乗船してきた。
 フリーマントルを後にして二日もすると、空気がひんやりと感じられるようになった。そして、いつの間にか星を観るのが困難になってきた。日が沈む時刻が遅くなってきたのだ。もっとも、時間もとれなくなっている。毎晩――日中もだが、ガイドによる南極についての説明会があるからだ。単なる物見雄山と違い、下手な行動は命にかかわるツアーなのだ。服装が半袖から長袖へ、そして冬服へと替わる。南極圏に入っているのが判る。星はよく観えないが、今度は白夜に感動する。上空は深い紺色、太陽のある水平線あたりは薄い水色から輝くような茜色と、うっとりするような変化を見せる。眠るのが惜しくなる美しさだ。
 心配した暴風圏にも出会わず、順調に航海が続く。食後談話室にいると、誰かが叫んだ。氷山だぞー。デッキに走る。遠くにゆるりとした島影のように見える。近づくにつれ青く、白く輝いている。お、大きい。とても浮かんでいるものには見えない。二、三キロも離れているだろうが、ミハイル号の何倍もあることが判る。海中にはこの七、八倍ほどが隠れているのか!
 ミハイル号は幾つもの氷山を見送って、今度は流氷帯を割いて進む。そしていよいよ海氷原へ突入。だがさほど難儀せずに、ノボラザレフスカヤ基地沖合へ着いた。基地への荷揚げは氷が厚くなる気温の低い日・時間帯に行われる。その数日を利用して、乗客は南極を楽しむ。全員一緒には行けない。ガイド三人、スノーモービル三台で動く。私はまず二日目の班だ。一日をじれったく待つ。
 順番が来た! 期待に胸を躍らせてスノーモービルに引かれる雪上ボート乗る。ゴムボートのようなもので六人乗れる。スノーモービルの操縦は基地の隊員だ。意外に平らな雪原を進む。ボートも楽しく、横へのスライドやジャンプで皆歓声を上げる。一時間ほど走るとペンギンの群れと出会った。ここで少しフリータイム。ペンギンは人を恐れず、近づいても逃げない。動作がとても可愛い。短い脚でよたよた歩く。でも脚力は強く数十センチくらいの高さの氷へはヒョイと跳ねて登る。スロープは腹で滑って下る。私は有頂天になりカメラを構えペンギンについていく。一羽のペンギンはカメラに興味を持ったのかしきりにレンズを覗いてくる。そのペンギンに集中してシャッターを切る。夢中で遊ぶ。
 あれ? 気が付くと、周りに誰もいない。
 マズイ、皆とはぐれた。
 こういうときは、歩き回らずその場で待つようにと、ガイドから教わった。不安だが待つことにした。
「……アマミサーン」
 呼ぶ声が聞こえる。
「あまみさーん」
 良かった、助かった!

「天海さん……。水割りのグラスを頬に付けて寝て、冷たいでしょ。――さあ、起きてちょうだい! もう店閉めるわよ」  【了】


この作品はフィクションです。私の想像です。
地名とロシアの南極基地は名前をお借りましたが、それ以外はすべて架空のものです。
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