第1話

文字数 2,455文字

 シ・ジマルは自宅の庭に天体望遠鏡を据えて、接眼レンズを覗き込んでいた。対物レンズは弟星の、とある地方に向けてある。ジマルは都市の中心地からは、かなり外れた郊外に住んでおり、光量の少ない星々も見ようと思えば見えたが、彼がいつもレンズを向けるのはもっぱら弟星だった。

 弟星が見える夜は、弟星が明るすぎて他の天体観測には適さないということもあるのだが。

 夜になりかなり冷え込んできている。冬は寒さが厳しい地域だが空気は澄んでいて天体観測には良い季節だ。

 接岸レンズから目を離し、ジマルは肉眼で弟星を見上げた。

 まるで今にも落下してきそうな大きさで弟星アレクストンが見えた。肉眼でも大陸が緑に覆われ、海は青々としているのが見える。非常に美しい星だ。

 ジマルは子供のころから弟星を見るのが好きだった。当時は学校にある天体望遠鏡を使って、しばしば弟星の地表の様子を眺めたものだった。ジマルも、もう四十代の半ばとなった。最近は視力の衰え、歯茎の問題、腰の痛みなど、年齢の重なりを自覚することも増えてきている。かつては、空軍パイロットとして戦い、今は宇宙軍に属している。それなりの地位にあるので、子供の頃に使っていた天体望遠鏡とは比べ物にならない性能のものを自宅で保有できたりもしているのだが……。

 弟星の地表の様子はジマルが子供のころに見ていたものと変わりがなかった。こちら、兄星のほうは発展が著しい。ここ四十年間で人工衛星から確認できる地表の光量は二倍以上になり、人口も二倍になっているのだ。

 ジマルは再度接眼レンズを覗き込んだ。弟星の雲の切れ間に森林が見えた。川の流れも見える。川岸には人工的な建物の集まり、集落が見えた。弟星にも人がいるのだ。おそらく……人と呼べるような者たちであればと仮定すればだが。

 ジマルたち人間が暮らす惑星は、少しだけ小さいもう一つの惑星と互いに公転している。
 人間は太古の昔から自分たちが暮らす星と、ほぼ同じものを眺めながら暮らしてきた。否が応にも気になる存在であったはずだ。いつしかこちらが兄星、あちらが弟星として定め、共に同じ場所に生まれた者同士という感覚で気にかけてきた。

 兄星アレクスラールは科学文明を発達させてきた。その過程で弟星の観測も精度を増していった。弟星には人工的な建造物が存在し、ほぼ確実に人間と同様の知的生命体が暮らしていることが分かっている。

 ところが、兄の進歩にくらべて弟のそれは非常に緩やかに見えた。

 兄星アレクスラールは科学技術を急速に進歩させてきた。宇宙開発も進んでいる。ロケットを飛ばし、人工衛星を兄星周回軌道上に展開させ、様々な目的に使いはじめている。合衆国と連邦国の宇宙開発競争は熾烈を極め、当然ながら両国とも弟星を目指していた。

 兄星は、ここ百年間でそれほどの進歩を遂げてきたのだが、その間、弟星の、少なくとも地表を観測している限りでは何の進歩も見られなかった。

 弟星に通信を試みる電波送信が幾度となく行われて来たが、返信があったことは一度もなかった。

 近年になって無人探査機が弟星を間近で観測する試みが行われた。しかし、あまり有用な情報は持ち帰ってこなかった。確実に言えることは、時を経て同じ場所を観測しているプロジェクトの成果から言うと、確かに知的生命体の活動が見られるということだ。人工的な建造物が新たに現れたり、消失したりしているし、集落のようにそれらは集まって配置されていたから。

 そして遂に昨年。合衆国の有人探査機が弟星に向かった。

 ジマルは再度肉眼で弟星を見上げた。

 ユーレ。お前に一体何があったのだ……。

 ジマルは自分の元部下で、友人でもあるビ・ユーレのふてくされたような、いつも機嫌が悪そうにしていた顔を思い出した。

 彼はアレクストン有人探査計画に志願し、リーダーとして人類ではじめて弟星の大気圏に降下していった。そして何の通信も発せずに消息を絶った……。

 弟星の重力を離脱できるロケットは、今の技術では弟星に持ち込むことはできない。有人探査と聞こえはいいが、帰ることのできない片道切符だったのだ。

 それでも人類が数万年間疑問に思っていた弟星の様子について、報告を行う通信を期待していたのだ。我々の弟分であろう知的生命体の姿かたちについての報告も含めて。

 大統領は技術の進歩を楽観的に考慮して、十年後にはビ・ユーレの帰還作戦を実行すると彼に約束していた。大統領の任期は長くても八年。十年後には自分がその約束を守れる立場にいないことが確実なのだから、そんな空手形を出すことは容易だった。

 しかしジマルには分かっていた。ユーレにはそんな約束のことなど、どうでもよかったのだ。長年の人類の夢、自らの夢。弟星の本当の姿をはじめて見に行く。そんな大役を担えるのならこの身を捧げてもかまわないとユーレは思っていたはずだ。

 ジマルも、もしユーレという若く才能あふれる男がいなかったら、自分が有人探査担当として志願していただろう。志願すれば探査機に乗れる可能性が大いにある立場にもいた。だが、彼はユーレを確実に弟星まで届ける後方支援の役を買って出た。

 すべてうまく行っていたのだ。

 ユーレともう一人が乗る探査着陸機が弟星の大気圏に突入するまでは。

 計器にはなにも異常はなかった。

 何か異常が発生しても、鋭敏なユーレなら臨機応変にあらゆる状況に対応できたはずだ。そのための訓練を長い間行ってもきた。

 着陸に成功すれば、大気圏突入前に安全のためシャットダウンしていた機器を再起動して、まずは大気の状態や周りの映像を含めて、第一報を兄星に送信する手はずになっていた。人類史において歴史的な通信になるはずだった。

 その第一報すら来なかった。

 その後、ジマルは血眼になって着陸予定付近の弟星の地表に何かの痕跡がないか観測を続けた。

 何も見つからなかった。

 第一次アレクストン有人探査計画は、そうして何が起こったのか分からないまま、謎を残して終了してしまった。
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