第2話

文字数 5,290文字

 またお明日(みょうにち)と帰ったあの日から10日、(たつみ)は姿を見せていなかった。同じく西澤も現れない。二人共に1週間以上の間が空くのは初めてのことだ。

 開店準備をしながら紲はなんとなく巽との出会いからこれまでを振り返っていた。

 BARトキツカゼは7階建てのビルの1階最奥に位置する。ビル入り口からまっすぐ伸びる通路の正面にある管理室の隣なのだが、管理室目前を右に折れ、更に突き当たってやっと店の入口がある。1階の案内図にも店舗名を表示していないため、一見さんの来店は稀である。

 巽が初めて来店したのは昨年の今頃、夏の手前。ちょうど客が途切れた24時過ぎ、雨が降り始めていた。ふらりと一人で入ってきた彼女は少し緊張しているように見える。白い丸首のシャツに黒のジャケットとパンツというシンプルな身なり。思い切りの良いショートカットのせいで顕わな耳元を飾る石はカウンター上の花器に生けた八仙花(はっせんか)と同じような少しくすんだ青色だった。

「こんばんは、まだ大丈夫ですか?」

 紲が「いらっしゃいませ」と声をかけると、巽は店内にそっと視線を這わせてからそう聞いてきた。

 紲はほんの一瞬迷ったものの、問題ないとカウンター席を勧めた。巽は遠慮気味に腰を下ろすと八仙花に目を留める。

「もうこんな季節なんですね」

 季節が夏に近づいていることを知らせてくれる八仙花は間もなく最盛期を迎えるだろう。雨がよく似合う花だ。

「そうですね、もう向日葵やアスターも出回ってますよ」

「それはさすがに先取り過ぎる気もしちゃうわね……初めてお邪魔したのだけど、何がおすすめかしら。お酒はなんでも好きなの。みなさんがよく頼まれるものとか、こちらでしかいただけないものとかあります?」

 向日葵やアスターは確かに盛夏をイメージさせる花である。先取りに過ぎる感じは否めない。紲は同感であることは言葉にせず、微笑んだ。

「ミヤツコギの花を浸漬したものや、ねずの実やシナノキを浸漬したものを注文される方が多いです」

 先日仕込んだばかりの保存瓶を見せながら説明すると「ミヤツコギ……?」と疑問顔を見せる。

「古い名前なんですよ。オーナーの意向で……ミヤツコギは、ハーブがお好きな方にはエルダーフラワーの方が聞き馴染みがあるかもしれませんね。マスカットのような爽やかさを含んだ甘い華やかな香りがあります」

「あまり甘いものは得意ではないのだけど、どう飲むのかしら?」

「甘さを楽しむのならレモンスライスを1枚入れてロックスタイルがお勧めですが、レモンジュースを加えて炭酸水で割るとスッキリした味わいです。今日みたいな湿気の多い日はいいかもしれません」

 少し考えてから「じゃあ、その炭酸水で割ったものをお願いします」とにっこり大きく笑む。紲はこの笑顔にダリアの印象が重なった。夏の日差しを感じたのだ。

 彼女は(たつみ)一華(いちか)と名乗った。このビルの1階にある『(もり)』という小料理屋をよく利用しているらしい。この日は杜を出たあと、なぜか気になって奥まで覗いてみたそうだ。時々、言葉の端に北の訛りが混ざる。杜の女将も北の出身だから気が合うのかもしれないと紲は話に頷きながら思った。

 この日以降、巽は多い時は週に2度ほど来店した。その頻度と、端的な物言いをすることがあるが誰に対しても大らかな態度で、気難しい人が少なくない常連たちにも忽ちに受け入れられる。半年も過ぎた頃には「今日は巽さん来てないんだ」とがっかりする客もいた。

 そんなことを思い返しながら氷を仕込んでいるうちに開店時間が過ぎてしまっていたことに気がつく。慌てて入り口の小さな掛行灯に火を入れた。

 この店には電話がない。SNSやネット媒体にも掲載していない。個人のSNSへの投稿は場所が分からないようにすることを条件としている。店の入り口まで行灯を確認しに来なければその日営業しているかどうかは誰にもわからない。これもオーナーの意向であった。

 店の奥に、ビルの隠し階段へ通じる裏口がある。保管している酒のために24時間エアコンはつけっぱなしになるし、窓もないため外の空気を入れたくて裏口を開いてみたが、むんと密度の高い空気が壁のようになって店の中に押し寄せてくる。あまりの湿気にすぐ閉めた。どんよりと分厚い雲は間もなく泣き始めることだろう。

 扉を閉めるのと同時にカラランと入り口の仕掛けが鳴った。管理室前を右に進む者がいるとカウンターの端にある鳩の置物が鈴のような音を立てる仕組みだ。

「ちょっと早かったかな、大丈夫?」

 間もなく入り口の引き戸が静かに開かれ顔を覗かせたのは、来店の頻度は高くないが常連の一人である一岐(いちき)(りょう)だった。

「いらっしゃいませ。珍しいですね、この時間帯に」

 紲にどうぞと促され、一岐はホッとしたような笑顔を見せると、ビールを注文しながら席につく。

「ここのところ立て込んでいて、やっと時間が取れたんだ。ずっと来たかったんだけど、なかなか……」

「大変なご活躍と伺っております」

「紲ちゃんは、相変わらずテレビなしの生活なのかな?」

 苦笑を返す一岐に紲は曖昧に微笑んだ。

「そうですね……なかなかゆっくりテレビを観ようというタイミングもなくてそのままになってます」

「まあ、夜型の生活だとそうなるよね。俺も基本的に観ないしね……って、俺がこんなこと言っちゃだめか」

 一岐は開店したばかりの頃から変わらず足を運んでくれている。当時、2年前はまだ駆け出しの役者だと言っていたが、この1年で押しも押されぬ若手の実力派俳優としてすっかり有名人になっていた。テレビを観ない紲も、本屋やコンビニでも彼の姿をよく見かけるようになったことで彼の活躍ぶりを知った。

「そうだ、巽さんって今日来るかな?」

「どうでしょう……もし、いらっしゃるとしても遅めの時間帯かもしれませんね」

「ああ、そうだよね。彼女も忙しそうな人だもんなあ。巽さんにも会いたかったんだよね」

 紲がフフッとこぼした笑いを一岐は見逃さない。

「ちょっと、紲ちゃん。またあの時のことで笑ったんでしょう」

 一岐が不満げな表情をする。紲より5つか6つ年上なのに、こういう表情は少年のようで可愛らしい。

「ごめんなさい。でも、あの時は……私もまだ巽さんのことあまりよく知らなかったからどうするべきか迷っちゃって」

「……でも、俺さ、最初は巽さんのこと、何だこの女って思ったけど……あの人バランスいいんだよね。けっこう辛辣に偏った意見を言うけど、飽く迄自分の意見であるという前提であって。実はいろんな方向から物事を観てるでしょう。俺と10歳くらいしか変わらないのに、俺10年後あの人と同じように多面的に物事を考えられるようになれるか自信ない」

 一岐のため息に紲も頷いた。

「そうですね、巽さん……素敵な方ですよね。私も憧れてるんです。私はあまり自分の意見を言うことが得意ではないので、巽さんのようにお話ができたらまた違う世界が広がるかもしれないと思うのですが、なかなか踏み出せなくて」

「まあ得手不得手はみんなあるから。欲張りすぎずに頑張ればいいんじゃないかな」

 一岐は巽との最初のやり取りを思い返した。たった1年ほど前のことなのにすでに懐かしく、そして恥ずかしい。思春期の頃を振り返っているような感覚になった。

「俺は良かれと思って言ったことだったけど、こうした方が格好いいだろうとか、優しくて頼りがいのある人に思われたいとか、たぶんそんなことを考えたんだよ。ほんと、巽さんに指摘された通り自己満足の行動だったんだ」

 あの時……一岐と巽が初対面を果たしたのは巽の初来店からそう日は過ぎていなかった。L字のカウンターの奥には綉、その対角状に巽がいた。そこに一岐が顔を出し、仕事場で起きたことについて話し始めたのだが……その内容を巽は痛烈に批判した。

 巽はその日、現場でちょっとしたトラブルがあり対応していた女性に変わってその場を収めた。そのことに対して「すみません」と言った女性に「こういうときはすみませんじゃなくて、ありがとうだよ」と伝えたら、ぎこちなく礼の言葉を返されたそうだ。その時の微妙な表情が気になっていると言う。

 居合わせた綉も紲も返す言葉に詰まった。巽は露骨に嫌そうな表情を浮かべていた。微妙な空気に一岐が怪訝な顔をする。

「はじめましての方に不躾とは思いますが……状況の詳細がわかりかねるので、一概に言えませんし、完全に私個人の感想です。こう思う人もいるんだな程度で聞き流してください」

 無言が続く中、巽が小さなため息を吐いてから話し始めた。

「すみませんという言葉は謝罪や感謝を表すと思うのですが。なのに、なぜ『ありがとう』と言い直させるのか全く意味が分からないの。まあ謝りグセがついていて適当にすみませんと言ってその場を流す人もいないわけではないけど……ただ最近よくある『すみませんじゃなくてありがとうって言おう』という風潮を私はあまり好ましく思っていないんです」

 手元の酒を一口含み、巽は少し考えてからまた口を開いた。

「状況がよく分からないから勝手な想像ですが……その女性は、自分の落ち度や至らなさを感じたから『すみません』と言ったのでは? 例えばその発生していたトラブルの対処くらい出来るようになるべきだと考えていたら? あなたはその機会を奪ったことにもなり得る。でも、彼女は場を収めてくれたあなたを立てて『すみません』と言った。本来なら自分がやるべきこと、やらなければいけないことであなたの時間や労力を使わせたことに対する謝罪と、場が収まった結果への感謝。両方の意味を込めて」

「でもっ! 誰だってすみませんって言われるよりありがとうって言われる方が嬉しくないですか?」

 一岐の反論に、巽が困ったように笑う。

「言ったでしょう、飽く迄私の個人的な感想だって。そして、すみませんじゃなくてありがとうって言われたいのは『あなたが』でしょう? すみませんという謝罪と感謝の言葉を受け入れず、自分にとって耳障りのいいありがとうという言葉へ変えさせるほど。別にいいのよ、あなたがどう思ってどうしようと。結局のところ人がすることなんて自己満足なんだから」

 一岐はムッとした表情を隠さなかった。

「親切を受けたら『ありがとう』と感謝するべきだと思いますけど」

「それは、親切を受けた側の心持ちの話よ。親切を施した側がそれを言ったら『感謝』という対価を求めているのと同じに感じるわ。もうそれは親切というより下心というか、商い? 自分の親切には感謝という対価が発生するという……ごめんなさいね、私もつい先日、ほとんど同じ言葉を言われて少し腹を立ててしまったものだから。やあね、すぐ短腹おこして。気にしないで、こんなことを言ったのも結局は私の自己満足なだけだから」

 巽がそう話を締めくくったため言葉にはしなかったが、一岐の不満は見て取れるほどに溢れている。

 その後、綉が何か別の話題を振ってくれ、気まずくなりかけた空気は持ち直した。不貞腐れていた一岐も時間とともに回復し、最終的には巽ともにこやかに言葉を交わすまでになっていた。

「巽さんってさ、自分は人嫌いだからって言うけど……」

 回想から戻った一岐は紲を見た瞬間、勢いよく立ち上がった。派手な音を立てて椅子が後ろへ転がる。

「え? ちょ、紲ちゃん? 大丈夫?」

 紲の顔はあり得ないほどに白く、激しい苦痛を堪えているような形相だった。一岐の問いにも答えられそうにない。そのまま目の前でズルズルとカウンターの中に沈んでいく。

「紲!!」

 バタンッと激しい音がして、突然どこからか人が現れた。

「え? な、どこから……あ、綉くん? なに、なんで?」

 紲が蹲るように倒れたことと、綉が突然現れたことに一岐はパニックになっていた。

「紲、聞こえるか? 紲、紲!」

 一岐を無視して、綉は躊躇いもなくカウンターの中に入り、紲を抱えた。そして、自分が現れた方向へ怒鳴った。

「コタ! だめだ、移動する!」

 音もなくもうひとり男が現れ、一岐はヒッと息を飲んだ。綉は紲を肩に担ぐように抱え上げると、一岐へ顔を向ける。

「一岐さん、今日のところはお引取りいただけますか。後ほど確認のために連絡差し上げると思います」

「あ、あの……綉、くん? 紲ちゃん、突然具合悪そうになって……」

「ああ、はい。予想はしていました。別にあなたが紲に何かしたとかそんなことは思っていませんよ。すみません、ちょっと急ぐので……あ、最近巽さんと会いましたか?」

 状況を飲み込めないままだったが、紲はきっとすぐ病院に連れて行ったほうがいいがろう。急ぐということに頷いた後、巽には会っていないと首を振った。

「もし巽さんを見かけたら連絡いただけますか? あと、あなたの周りで何かいつもと違うこと、何か変だなと思うようなことがあったときもすぐに連絡してください」

 一岐は追い出されるように店を後にした。何がなんだか分からず、呆然と店先で立ち竦んでいたが、ふとあることに気がついて呟いた。

「……連絡するって、どうやって?」






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