第1話

文字数 1,648文字

 横田かほるは桜が好きではなかった。

 小学生の時分に桜の木に登っていたら、途中で枝が折れて落ちたことがあった。幸いながら大した怪我では無かったが、しばらくの間は桜を見るのが苦痛だった。

 中学の時、初恋の相手に思い切って告白して、見事に玉砕したのも桜の下だったし、高校受験に失敗したのも桜がほころびかける季節であった。その時流した涙は今でも忘れない。

 大学生になってボランティアに参加した。街の掃除や子供のための読み聞かせなどが主な活動で、それなりに充実したキャンパスライフを過ごしていた。
 そんなある時、慰問に訪れた老人ホームで一人の老婆と知り合った。
 彼女はとても礼儀正しく、その柔らかな微笑みは、二年前に亡くなった祖母と同じ匂いを感じた。親しみを憶えて、ボランティア以外の日でも一人で何度も訪問していたものだった。
 だが、その老婆が突然他界したと聞かされて、あまりのショックに一週間も食事が喉を通らなかった。その時はまだ八分咲きであったが、それでも施設の庭は桜色で覆われていた。

 恋愛には縁遠いかほるであったが、想いを寄せる人がいないでもない。
 隣に住む三つ年上のトラック運転手で、名前は桜山重次(さくらやま、しげつぐ)。彼もまた苗字が桜であり、小さい頃から近所のガキ大将として君臨し、かほるもいじめの対象となっていた。昔のキムタクを思わせるロン毛を自慢していたが、かほるは決して似合っているとは思っていない。大人になってからは殆ど交流もなく、たまに見かけては軽く挨拶を交わす程度だが、それが恋だと気づいたのは、ほんの一年前の事であった。

 それは二十代も後半に差し掛かった頃で、製薬会社でOLをしていたかほるには、当時、交際している男性がいた。同じ会社の同僚で二年近くの付き合いである。結婚も視野に入れていたのだが、彼氏の浮気が発覚して問いただすと、逆上した彼に別れを切り出された。この時も桜が満開を迎えており、ほとほと桜とは縁の切れないものだと自覚せざるを得なかった。

 失恋したその日の夜は居酒屋をはしごして、町はずれの大きな橋の欄干で泣き濡れていたところ、誰かが車を止めて駆け寄って来た。
 それは重次だった。
 どうやらかほるが自殺しようとしていたと勘違いしたらしく、「早まるな、生きていればきっといいことがあるぞ」と、必死で説得を始めた。その様子が何だかおかしくて、たまらず噴き出し、その後、二十四時間営業のファミレスで話を聞いてもらった。
 かほるはその彼氏に未練たらたらで、次から次へと愚痴がこぼれた。だが、とりとめのない、おそらく退屈であろう失恋話を重次は真剣な顔で聞いてくれた。
 次第にどうでもよくなって、最後の方は全く関係ない雑談に華を咲かせた。それまでただのいじめっ子だと思っていた重次だったが、よく見れば彼の笑顔はとても素敵に感じ、いつまでも一緒にいたいとさえ思えるようになっていった。
「また食事でもどう? もっといろんな話がしたいし……」
 さりげなく誘ってみた。恋人と別れたばかりだというのに、尻軽だと思われるかもしれない。だが、かほるは湧き出る気持ちをどうしても抑えることが出来ないでいた。
 しかし、重次の返事はつれないものだった。
 彼には他に恋人がいて、月に一度はデートをしているのだという。何でもスマートフォンの出会い系で知り合ったらしく、今は彼女に夢中だと自慢げに語っていた。
 それでも構わないとメールを公刊し、友達として何度か食事に誘った。それでも重次の気持ちが変わる事は無かった。

 日に日に重次への想いが募っていく。恋人がいるのだから諦めなければならないと何度も自分に言い聞かせ、似合わないと思ったはずのロン毛すらも愛おしく思え、眠れぬ夜を過ごすようになっていった。

 そんな思いを振り切るため、かほるは出会い系サイトに登録し、新しい恋を模索していく。
 友達や会社の仲間に合コンをセッティングしてもらい、足しげく通った。
 だが、食指の動く男性はついぞ現れなかった。
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